Libraさんから  3/23に頂いたメールへの曽我の返事(4/19)に   2001,5,10,

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 Libraです。返事が大変遅れてしまい、本当に申し訳ありませんでした。

> 例えば、「無我と輪廻は相容れない」、「脳から独立した心はありえない」といった点です。こういった主張は、日本における伝統的で世間的な普通の仏教の受け入れ方とは相容れません。(曽我)

 確かに一部の仏教学者を除けば、「輪廻転生」が仏教だと思われています。
 しかし、古典的なところでは和辻哲郎先生の『原始仏教の実践哲学』(岩波書店、1970年〔改版第一刷〕、pp. 273-293)、最近では、真宗の小川一乗先生、曹洞宗の角田康隆先生等が輪廻転生説を批判されていますね。

 肝心の松本先生に対する御批判に関しては、日本仏教のみならず中国仏教にも疎い私(他ならぬ駒大批判仏教グループの本と数冊の禅籍の知識のみ)には、力に余る内容でした。Libraさんの精密な読み方を理解できているか心もとないのですが、思った事を書いてみます。 (曽我)

 拙稿は非常に読みにくい形になっていましたので、今回新たに、色などをつけて読みやすくしてみました。

 「如来蔵思想批判」の批判的検討
  http://page.freett.com/Libra0000/ronbun01.html
  http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html (07,9,23, URLの記載を変更。)

>《1、(正因)仏性と空性・無自性とは、ニュアンスが異なるのでは?》
 語源的意味のみならず実際の言葉の使い方においても、「仏性」という言葉は、なにか実体的なイメージを喚起しがちだったと感じます。その点を松本先生は問題にしておられるのではないでしょうか?(曽我)

 松本先生の問題意識には共感致しますが、だからと言ってすべての仏性論を実体論と決め付けてしまうのは暴論だと思います。

> たとえば、Libraさんがホームページの論文の注4に引用しておられる『金光明経玄義』(この経は知らないので、前後の文脈も分からないまま書きますが、)の「土の内に金の蔵せるが如し」とか「人の能く金の蔵せる」「草穢を耘り除いて、金の蔵せるを掘出する」といった表現は、仏性を金という「もの」に喩えていると感じます。(曽我)

 確かに「黄金の譬喩」には危険性があります。しかし、それが必ず「自性清浄心」とか「心性本浄説」を含意するとも言えないと思います。

初期仏教の心論は「染浄和合説」(藤田正浩)
http://page.freett.com/Libra0000/051.htm
http://fallibilism.web.fc2.com/051.html (07,9,23, URLの記載を変更。)

> また「正因仏性」が「空性・無自性」と同じ意味内容だったとしても、「空性・無自性」とは違う新たな言葉が必要だったということは、「空性・無自性」ではニュアンス的に不十分な何かを言い表したかったからに違いありません。(曽我)

 逆もありえるのではないでしょうか。つまり、すでに実体論(非仏教)に転落してしまっている「仏性」という用語を、再び“仏教的に意味付けし直す”必要があったのではないかと。大乗『涅槃経』にも、部分的に見ればそういう意識があったんだと思います。その部分に注目して、非仏教的な仏性論を「開会」(止揚)しようと試みたのが天台の仏性論だったのだろうと思います。

  大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
  http://page.freett.com/Libra0000/047.htm
  http://fallibilism.web.fc2.com/047.html (07,9,23, URLの記載を変更。)

>《2、空性内在論には反対》
 仏性にせよ空性にせよ無自性にせよ、なにかが我々の中に内包されているという考え方には違和感を感じます。(曽我)

 ええ。私も「仏性というモノが我々の中に内在している」とは思っていませんし、そのような考えは仏教に反すると思っています。

「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
http://page.freett.com/Libra0000/019.html
http://fallibilism.web.fc2.com/019.html (07,9,23, URLの記載を変更。)

 そういう意味で、拙論でも以下のように述べたのでした。

 「内在的相即論」が「仏性内在論」であり「如来蔵思想」であることは明らかである。

 ここで言われている「内在的相即論」とは、松本氏の言葉で言えば「離辺中観説」ということになるだろう。つまり、本来は「属性論的関係論」であるところの空観(「空的相即論」)に、“空性(正因仏性)のモノ化(存在論的有形化)”という非仏教的・実在論的発想が持ち込まれ、ついに“「空性というモノ」が衆生に「内在」している”という観念(「内在的相即論」)が生じたのである。実に、「内在的相即論」とは「空観の実在論への転落」の“最初の第一歩”に他ならないのである。

>《3、空や無我や縁起を名詞として捉えることの危険性》
 空や無我や縁起を、名詞として考える事は危険ではないでしょうか。それは、空や無我や縁起を外部に対象化することにつながり、実体として妄想させることになりかねません。 (曽我)

 ええ。確かにその“危険性”は自覚されるべきだと私も思います。しかし、名詞として表現されたからと言って、それが直ちに実体になってしまうということもないと思います。松本先生は理法として表現されたら必ず“無内容”になってしまうかのように言われますが、それは言いすぎだと思います。松本先生ご自身も、以下のように言われています。

 ところで、この釈尊が発見したという理法が“縁起”の理法であるうちはまだしものことだ。この“縁起”の理法が、その内容が捨象されて、ただの理法になってしまえば、それがすぐに諸法の基体(dharmadha ̄tu 法界)、万物の永遠不変常住の根源となって、私のいう“dha ̄tu-va ̄da”が完成するのは、眼に見えている。
(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 48)

 問題の本質は「内容が捨象されて、ただの理法になってしまう」ということでしょう。

>できる限り「Aは空である」「Aは無我である」「Aは縁起する」という形で、述語として考えたいと思います。(曽我)

 私もできるだけそういう努力をしていきたいと思います。

>《4、空を不二で説明する事には反対》
 対立は、我々の概念で起こっていることです。より正確には、我々が、世界のある部分とある部分を対立させ対比させ、そういう仕方で世界を理解している。(対立概念だけではありません。犬を知るとは、犬を犬以外の物と対比し、犬と犬以外の物の間に区切り線を引く事です。) (曽我)

 そうですね。仰る通り、認識というのは「前景と背景の分離」でしょう。「不二」というのは、「いかなる概念もたまたま切り出された前景に過ぎない」「背景を伴わない前景などはありえない」「前景というものは何かを背景として沈めることによって前景として成立している」ということを自覚せしめるための論理だと考えます。不二というのは空の「説明」であって、空という事態そのものではありませんが、不二が空の説明として「間違っている」とは思いません。

> もうひとつ、もっと重大な問題は、空=不二では、対象として見られたものの空は考えられても、対立させて見ている自分は、空の外におかれることになる点です。(曽我)

 「自他不二」という言葉があります。自分というものは他者という背景の上に前景として成立しているに過ぎないという論理です。以下はある方へのメール及び掲示板で書いたものですが、このように、自分という現象が「関係の網目の中のひとつの結び目のような現象」であるということを了解するための論理として、「自他不二」という説明は有効だと私は考えています。

 例えば、ある人間が死ぬとします。そうしたら、その人の自意識とか精神活動とかいうものは完全に無くなります。しかし、残された人々とその人の“関係性”というものはその時点で全く無かったことになるわけではありません。「関係性」というと難しいかもしれませんが、“お互いに影響を与え合う”その関係性のことです。極端なことを言えば、その人が死んだという事実を知らされていない人にとっては、その事実を知らされる瞬間までは、現にその人は生きているのです。つまり、一人の人間の人格というものは、実はそういう関係の網目の中のひとつの結び目のような現象のことであって、そういう関係性から切り離して独立自存するような我(自己同一性)などはもともとないということです。仏教の縁起の考えに立つ限りそうなります。
 人間・釈尊は確かに死にましたが、釈尊の人格(精神・思想)は、“釈尊の言葉(経典)”という形で、現在も他者に語り掛けています。だから、仏弟子の心の中に釈尊は生き続けている。

日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜
http://page.freett.com/Libra0000/Beat_Me_301_400.html#343
http://page.freett.com/Libra0000/Beat_Me_301_400.html#344
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html#343
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html#344
  (07,9,23, URLの記載を変更。)

 以上のような私の仏教理解は、現在の創価学会の教学とは相容れません。むしろ、現在の創価学会は完全に密教(反仏教)の方に向かっているので、どうにかしてそれを阻止したいと私は考えております。このあたりの議論は以下の掲示板で最近かなり詳しく展開致しました。

「創価学会関連リンク集」掲示板
http://cgi2.bekkoame.ne.jp/cgi-bin/user/u33054/yybbs/yybbs.cgi
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_08.html (07,9,23, URLの記載を変更。)
※<[1615へのレス] 宇宙生命論は仏教にあらず 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/18(Sun) 16:11 >からの参加です。

 以上、果たしてお答えになっているかどうかあまり自信がありませんが、私からの返答とさせて頂きます。

               2001.05.18       Libra


Libraさんへの返事    

 すみません。まだお出しできていません。しばらくお時間を下さい。

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