Libraさんから  「批判仏教」について   2001,3,23,

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 はじめまして,曽我様.

 本日曽我様のHPを発見し,大変興味を持ちました.

 私は創価学会員で,日蓮法華宗の人間ですが,「創価学会は仏教ではない」と考えており,そういう立場からHPを立ち上げています.

 私は基本的に松本・袴谷両先生の「批判仏教」の立場を支持する者ですが,両氏の主張には従いにくいところも少なからずあります.以前,松本先生の主張について書いた拙文がありますのでご批判頂ければ幸いです.

  「如来蔵思想批判」の批判的検討
  http://page.freett.com/Libra0000/ronbun01.html
  http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html (07,9,23, URLの記載を変更。)

 今回はとりあえずご挨拶まで.


Libraさんへの返事    2001、4、19、

拝啓

 メール頂きました。ありがとうございます。返事が遅くなって申し訳ありません。ホームページ拝見させて頂きました。

 私は、創価学会のことは、ほとんど何も知りません。日蓮のことも日本史の教科書で読んだ程度です。Libraさんと私のバックグラウンドは、ずいぶん違うのに、仏教理解は非常に近いと感じました。例えば、「無我と輪廻は相容れない」、「脳から独立した心はありえない」といった点です。こういった主張は、日本における伝統的で世間的な普通の仏教の受け入れ方とは相容れません。「我」の強い私は、世間とは違っていても自分の理解は間違っていないはずだと考えてはいるのですが、不安はあるので、同じ考えの方がここにもおられるということに勇気付けられました。

 肝心の松本先生に対する御批判に関しては、日本仏教のみならず中国仏教にも疎い私(他ならぬ駒大批判仏教グループの本と数冊の禅籍の知識のみ)には、力に余る内容でした。Libraさんの精密な読み方を理解できているか心もとないのですが、思った事を書いてみます。

《1、(正因)仏性と空性・無自性とは、ニュアンスが異なるのでは?》
 漢字で表された「仏性」を、文字通り「ホトケのサガ」として、「もの」ではなく、「こと」として考えるべきだという主張は理解できます。「仏性」が、仏のサガ、仏となる属性であるなら、確かに「もの」ではなく「こと」です。
 ですが、松本先生の主張は、仏性と漢訳される元になった原語は、buddha-dha^tuであり、dha^tuの原義は「置く場所」「基体」を意味し、発生論的根源、本来的的実在を含意するというものだったと思います。(大蔵出版「縁起と空」一)
 サンスクリット語学習初級放棄の私としては、語源的な論議に立ち入る資格はありません。しかし、語源的意味のみならず実際の言葉の使い方においても、「仏性」という言葉は、なにか実体的なイメージを喚起しがちだったと感じます。その点を松本先生は問題にしておられるのではないでしょうか?
 たとえば、Libraさんがホームページの論文の注4に引用しておられる『金光明経玄義』(この経は知らないので、前後の文脈も分からないまま書きますが、)の「土の内に金の蔵せるが如し」とか「人の能く金の蔵せる」「草穢を耘り除いて、金の蔵せるを掘出する」といった表現は、仏性を金という「もの」に喩えていると感じます。「天魔外道も壊すこと能わざる」、「破壊すべからざる」という形容も仏性が「もの」的に理解されていたことを示す表現だと思います。
 また「正因仏性」が「空性・無自性」と同じ意味内容だったとしても、「空性・無自性」とは違う新たな言葉が必要だったということは、「空性・無自性」ではニュアンス的に不十分な何かを言い表したかったからに違いありません。「空性・無自性」の否定性だけでは飽き足らない気持ちが、「仏性」という肯定的言い回しを生み出したのではないでしょうか。それは、空性・無自性という、他者との関係において変化する現象としてすべてを捉えるという釈尊の発見を、再び人間的自然(執着)の側へ引き戻すものだったと思います。

《2、空性内在論には反対》
 もう一点、『金光明経玄義』から思った事を書きます。
 仏性にせよ空性にせよ無自性にせよ、なにかが我々の中に内包されているという考え方には違和感を感じます。我々には、内核も外殻もない。眠り、食い、怒り、悩み、苦しみ、笑う私。禅風にいうなら、小便をたれ、糞をこき、その他、その時々の私。それがそのまま、丸のまま、空であり、無我であり、縁起している。そういうふうに見なければ、その時その時働いているわたし(ノエシス)の空・無我・縁起を知ることはできないのではないかと思います。

《3、空や無我や縁起を名詞として捉えることの危険性》
 空や無我や縁起を、名詞として考える事は危険ではないでしょうか。それは、空や無我や縁起を外部に対象化することにつながり、実体として妄想させることになりかねません。
 空も無我も縁起も、本来述語であるし、述語にとどめるべきだと思います。できる限り「Aは空である」「Aは無我である」「Aは縁起する」という形で、述語として考えたいと思います。空とは、無我とは、縁起とは、と対象化して考える時でも、空であること、無我であること、縁起することと、せめて動名詞として意識するようにしています。
 (「あたりまえ、、」の空の説明は、まさに名詞として対象化しており、実体的で問題があると、実は自分でも感じています。)

《4、空を不二で説明する事には反対》
 「相対立するものが、実は、互いに他をよりどころとして成り立っている、片方だけでは自存できない。だから空だ。」乱暴に要約すれば、これが空を不二で説明する仕方だと思います。ですが、この説明は、間違ってはいないでしょうが、部分的で、これだけでは重要な事を見落としてしまう不充分な説明だと思います。
 対立は、我々の概念で起こっていることです。より正確には、我々が、世界のある部分とある部分を対立させ対比させ、そういう仕方で世界を理解している。(対立概念だけではありません。犬を知るとは、犬を犬以外の物と対比し、犬と犬以外の物の間に区切り線を引く事です。)
 不二で空を説明すると、概念において認識対象を対立させている人間がいなければ、不二も空も成り立たないことになるのではないでしょうか。あるいは、空は、概念の中だけのことになってしまうのではないでしょうか? 認識する人間がいようがいまいが、世界は変わりなく空であり無我であり縁起しています。すべては、縁によって始まり、縁によって変化し、縁によって終わる現象です。持続的な実体などどこにもない。世界は、物理的に空なのです。

 もうひとつ、もっと重大な問題は、空=不二では、対象として見られたものの空は考えられても、対立させて見ている自分は、空の外におかれることになる点です。この見方では、ノエシスが空であり無我であり縁起する現象である事は、いつまでたっても見えてこないのではないでしょうか。唯識が阿頼耶識という持続的「自我」をどこまでもひきずる結果になってしまった背景も、同様であったと思います。ノエシスの無我(であること)・縁起(していること)・空(であること)を知るためには、物理学のレベルも含むさまざまなレベルで、自分を現象として分別知で分析すること、さらにあわせて、定による意識の指向性消失体験が必要だと考えています。

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 Libraさんの文章の全体の流れを読むのではなく、部分に過剰に反応し、とりとめのない感想になってしまいました。「意見交換」といいながら、せっかく頂いたメールを受けるのではなく、日頃の自分の考えをただ主張しただけに終わってしまったようです。
 どうかご寛恕の上、是非またご意見賜れば幸いです。
                          敬具

Libra様

    2001、4、19、             曽我逸郎

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