無空さんから 件名 : ナガイ氏のメールに 2001,3,17,
   <引用箇所、元の発言者名を( )で入れました。>

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ナガイ氏のメールに興味を覚えましたので僭越ですが感じるところを述べさせて下さい。


●「あたりまえのことを方便とする般若経」の「霊魂と輪廻の否定」について

仏教の無我は五蘊のなかの我を否定しているに過ぎません。
輪廻の主体とされている我は五感で捕らえられない真の我ですから仏教の立場では無記によって対応すべきものに思われます。(ナガイさん)

 そうですね。
 私もブッダは輪廻については応えない立場をとったと感じます。
 どの様に応えても誤解を与えてしまうものだからです。
 敢えていえば、我(未覚の者)が想像しうるような輪廻はない、と言うことになるのではないでしょうか。

曽我様のように輪廻を実体的に否定するのは断見ではないでしょうか。
輪廻を否定も肯定もしないのが中道で、輪廻の有無に思い煩わないのが仏教的な輪廻からの解脱に思われます。(ナガイさん)

凄く鋭い指摘だと思います。
特に、「輪廻の有無に思い煩わないのが仏教的な輪廻からの解脱」というのはすてきな表現だと感じます。


●《釈尊成道の過程》の(98年12月12日加筆)の個所

 なにより経典の釈尊成道の際の記述に、「自然がそれまでとまったく違う素晴らしさで現れた」というような表現があってしかるべきではないか。(曽我)

 「」は、自然が、とあるのは、全てが、の誤記でしょうか?でないと次の文と続かないように思われます。

 「もし、釈尊成道の際、すべてが今までとまったく違うみずみずしさで立ち現れたのでないなら、私の仏教理解は、釈尊の仏教とは全然別物ということになってしまう。」(曽我)

 「すべてが今までとまったく違うみずみずしさで立ち現れ」ることと「自然がそれまでとまったく違う素晴らしさで現れ」ることは決して直結しないのではないでしょうか。私の考えでは成道の際には「自然を含むすべてがありのままに見えた」だけではないかと思います。
 そこには「素晴らしい」という分別はないのではないでしょうか。
 さらには「みずみずしさ」というのでさえ分別に思われます。
 仮に「素晴らしい」と思ったとしても「素晴らしくない」ものも如実に知れたと思います。上記の文に曽我様のなかの自然に対する無批判な賛美を感じます。(ナガイさん)

 体験と認識の問題かと思います。
 成道(悟り)とは何かという難しい問題になろうかと思いますが、
 真実を悟ったとしても、それまでの分別が消えてしまうわけではないと思います。
 従って、従前の我に囚われた(外界)認識との比較も可能であり、それ故に成道という体験後の「素晴らしい」という認識も成り立つと感じます。

 そして、それがブッダが成道の世界を説き続けた原動力となったと思います。

 即ち、成道後のあまりにも素晴らしい存在のあり方に対し、我に囚われた認識しかできない衆生に対する哀れみから慈悲心を起こし、非常な困難を感じつつも、最後まで説法を続けられたと思うのです。
 ちなみに、我と無我というのも分別であり、ブッダにとってはこのような区別自体囚われと感じられたことでしょう。
 ブッダにとっては煩わしいことに他なからなかったと思います。沈黙を守った方が遙かに楽であったに違いありません。
 しかし、ブッダその人にとってはとらわれと知りつつ、我々のために分別の代表である言葉を使ってそれを超えた何かを伝えようと生涯努力されたことに感謝と無限の尊さを感じずにはおられません。


                                                              無  空


無空さんへの返事

                       2001、10、2、
拝啓

 返事本当に遅くなりました。どうか御許し下さい。

 実は、無空さんからメールを頂いた後、ナガイさんにお返事をお送りしています。もう読んで頂いたかもしれませんが、輪廻について、世界のすばらしさについては、無空さんのご指摘も踏まえてそちらにまとめましたので、御一読頂ければ幸いです。「あたりまえ、、」HPの意見交換でご覧になって下さい。

 今回は、仏教学について、思うところを書いてみます。

(無空さん)
 何時しかブッダの生き方は人々の記憶から消え去り、言葉の解釈に走りました。解釈という行為自体がその人の考え(=エゴ)の入り込んだものであり、ブッダの実現しようとした無エゴと反することです。我々が学ぶべき、そして伝えるべきはブッダの態度そのものであり、一部の人にしか理解されない学問では無いと感じます。勿論、仏教学そのものを好きでやる分には問題はないでしょうが、普通の生活をする人にとっては画餅のようなものでしょう。何時の時代でも変わらずに求められているのはブッダのような誠実性につきると思います。

 確かに、我々が釈尊のお側にいられたのなら、仏教学は必要なかったと思います。ですが、釈尊は、2500年も前に亡くなってしまわれた。もはや、我々は、釈尊の態度も誠実性も、直接には知り得ないのです。
 今、日本の我々に伝わっている仏教は、残念ながら釈尊の言葉・態度そのままではありません。釈尊のお言葉は、釈尊の言われたままではなく、聞き手の印象に残った形を元に口伝され、変形され、何度かの結集のたびに整理され、さらにいくつか異なった仕方で別々に展開・体系化され(いわゆる小乗仏教各派)、それを批判・拒絶する形で大乗仏教各派が生まれ、多様に展開・体系化され、中国で学ばれた大乗は道教などの影響を受けてさらに様々に展開し、それを学んだ日本仏教の祖師方によって持ち帰られ、さらに日本で展開していきました。仏教そのものが、まさしく縁起の現象として様々な縁を受け、枝分かれし変化してきたのです。
 2500年の間の仏教の変化は、おそらく釈尊御自身も驚かれるようなものでした。例えば、太陽神(=ビルシャナ)のような西アジア的唯一神や、東アジア的祖先崇拝、、、。
 あるいは、ひょっとすると釈尊は、さほど驚かれなかったかもしれません。
「私が予想し心配したとおり、私の教えは、永遠なる実体を求める執着におもねる形に様々にねじまげられて展開変化したね」と。
 すみません、「・・・」で書いた釈尊の言葉は、私が勝手に理解する仏教観に基づく、私の勝手な想像です。わたしの狭量な仏教理解から世間で広く「仏教」と言われているものを批判的に見渡した言葉です。
 ですが、おそらく同じ事は無空さんにも当てはまるのではないでしょうか。無空さんが、無エゴと誠実性を重視され、解釈を批判されるのも、私と同様に世間の広い「仏教」の中から私とは別の一部分を選び取り、それに矛盾する「仏教」を批判しておられるのだと思います。
 これは無空さんや私の罪ではありません。「仏教」の側に問題があるのです。つまり、世間で十把一絡げに「仏教」とよばれているものの中には、互いに矛盾しあう教えや考えがごちゃ混ぜにされています。たとえば、さかしらに矛盾にこだわることを捨てて「仏教」と呼び習わされることをすべて仏教として認めようとする態度でさえ、「仏教」の中から正しい仏教だけを選び取ろうとする態度と対立することになる訳です。
 このように私たちは「仏教」の中から自分なりの仏教を選び取っており、そうする他ない訳ですが、どういう経緯で選んでいるのでしょう?
 自分の育った共同体・家庭の仏教をいつのまにか自然に身につけて、、。
 たまたま出会った仏教に大きな影響を受けて、、。
 どちらにせよ、偶然的な縁によるところは非常に大きいのですが、それだけに任せていいのでしょうか? 仏教を装う反仏教は、伝統仏教・新興仏教の別なく数多く、たやすくそれらの罠に落ちることは、正しい仏教を貶めるのみならず、危険でもあると思います。
 では、仏教学は、正しい仏教を選び出すことができるのか? おそらくNoでしょう。篩に喩えれば粗い網、よほどはっきりした反仏教でないと選別できない。では、何ができるのかというと、仏教の様々な展開・発展(・逸脱)の経過を明らかにすることです。仏教が内部から発展し、外からの影響を受け、内外で反発し合い、仏教外の思想が紛れ込み、今では様々な矛盾し合う考えが同じ仏教の名のもとに自分を主張し合っている。それぞれの展開の過程をたどりみずから批判的に検討することで、どれが正しい仏教の流れか、どれが反仏教かもやがて見えてくると思います。
 勿論、私自身が研究している訳ではなく、研究者の方々の成果をつまみ食いしているだけですが、それでいいと思っています。仏教を学ぼうとするなら、敬意を払った上で積極的に仏教学の成果もつまみ食いすべきだと思います。
 よく、月と指の比喩を聞きます。「指(言葉)は月(本当の仏教)を指差しているにすぎず、指ばかりにこだわっていても、肝腎の月は見えてこない」と。でも今では、何本も指が立っていて、てんでんに違う方向を指しているように思えます。ちょうど旅行雑誌などで見かける、沢山の都市名が打ち付けられた道標のように。そして、全部の矢印に「正しい仏教はこちら」と書かれているのです。
 確かに仏教学は指の研究にすぎません。主体的実存的に修行に取り組むことなく仏教学だけで仏教(月)を知ることはできないでしょう。でも、まずは仏教学を参照しつつ注意深く「欺く指」を取り除くべきではないでしょうか。さもなければ、明星や北極星や水銀灯や、最悪の場合いかがわしいネオンサイン(「**クラブ満月」みたいな)を月と間違えて修行する破目に陥りかねないのですから。

 「考えること」についても簡単に私見を書きます。「考えること」を否定し「こだわるな」と説く傾向は、大乗仏教が起こってしばらくしてから始まったのではないかと思います。中観の副作用なのかもしれません。五蘊とか十八界とか、それ以前の仏教は、非常に分析的です。釈尊も、けっして自分で考えることを否定された訳ではなく、瞑想と同時に自分で合理的に思考することも奨励されたと思います。わたしにとって仏教はまったく合理的な教えで、あらゆる合理的な批判に耐えうるものだと思っています。だからといって理性だけで仏教が極められる訳ではなく、自分の無我・縁起を知るためには、分別知を超えた般若の智慧が必要だとは思っていますが。

 偉そうに書きましたが、本当の私は、まったく修行に取り組めていません。座ることさえない毎日です。
 私の現状は、たくさんある矢印のなかから、ひとつに目星をつけ、他の確認できていない指と比較・対照しつつ、自分の選んだ指が間違っていないか検証しているレベルです。同時平行で、せめて僅かずつでも毎日座ることくらいは、と時々思うものの、全然果たせていません。
 先日会社の後輩に「仏教を教えて」といわれて、一緒に酒を飲んだものの、何も伝えることができず、自分の方便力の無さを思い知らされました。
 分別・戯論を極めて、いつか、一人よがりでない間違いのない宗教体験(意識の指向性停止体験?)で自分の無我・縁起を知り、それを世俗の言葉(分別・戯論)で共有できるようになれれば、、、、。
 でも、これって如来のレベルですね。
 いやいや、如来という言葉に恐れず、卑下せず、あせらず、ゆっくり、着実に、行ける所まで歩いていきたいと思います。
 (実際の私を知っている人がこれを読んだら、唖然としているだろうなあ、、)

 またご意見お聞かせ下さい。

                                敬具
無空さま
                                曽我逸郎

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