石阪さんより 感想、心のハンドル 2001,2,5,

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初めまして、石阪と申します。
「初夏の集まり」をよまさせていただきました。
大変面白く、興味深かったので
一気に読みきってしまいました。
このようなすばらしい物語をよまさせていただいたことに
深く感謝いたします。
私も仏教を独学ではありますが勉強しているもので
ぜひ、私のホームページ「心のハンドル」を見て
アドバイスいただければとメールいたしました。
「心のハンドル」は、「初転法輪」であるとも考えています。
心の思う方向、右に左に自在に回る「心のハンドル」は、
実は、回っているのではなく2枚の絵が生滅しているのです。
もしそのように感想できたなら
あの物語の中の街からきた娘が、菩薩大志になつたように
私もその心境に、少し近ずけるのではないかと思いました。

http://homepage2.nifty.com/32036/index.html


石阪さんへの返事

2001,7,26,

 返事が遅くて申し訳ありません。
 「あたりまえ、、」の曽我です。

 心のハンドル、拝見いたしました。ちっちゃな子供がおもちゃの運転席で遊ぶように、右へ左へハンドルを回しました。
 頂いたメールに書いておられるように、二枚の角度の違う車輪の絵が、入れ替わっているだけなのに、くるくる回って見えるのは不思議です。それも、右と思えば右、左なら左に回せる。

 両義性の図の新しい形だと思います。
 直方体の透視図も両義的です。ご存知だと思いますが、添付の図を見て下さい。ひとつの二次元の線画が、置き方の違う二種類の立体に見えます。

 もう一つ有名なのは、にたっと笑っている婆さん/柔らかな頬の娘の横顔。(ごめんなさい。紹介しようと手近な本を探しましたが、見つけられませんでした。これも有名な図なので、多分御記憶にあると思います。)ひとつの線画が、老婆と娘のどちらにも見える絵です。こういった様々な両義性の図の中にあって、石阪さんの「心のハンドル」は、動きの両義性を実現している点で、大変にユニークだと思います。

 両義性の図でおもしろいのは、二つの意味が、けして同時には見えないことです。くるくる入れ替えられるけれど、けして一度に両方を見ることはできない。特に老婆+娘の絵は、印象の転換の鮮やかさに、自分で唖然としてしまいます。
 本当はただの点と線なのです。にもかかわらず、わたしたちは、そこに若い娘の頬の柔らかさと、老婆の見透かすような眼差しと不気味な笑みを見てしまう。
 つまり、私たちは意味を補って見ているのです。角度を変えて入れ替わっている二枚の車輪の図に連続的な回転という意味を補足をしてしまう。両義性の図だけではなく、日々刻々日常において、無意識のうちに、意識に昇る前処理として、網膜に映るまま(鼓膜に響くまま、etc.)の上に油絵具のように意味や価値を塗り重ねているのだと思います。
 この前意識における意味や価値の上塗りに規定されて、我々は、型に嵌まった見方を繰り返し(=いつも化)、退屈し、モノに執着し、皆で同じ価値を幻想し、奪い合っています。前意識の価値規定に基づく差別に導かれて、一定の対象を毛嫌いし、憎しみ、拒絶し、破壊しようとする。つまり前意識における意味や価値の上塗りに導かれることによって、我々は苦を創り出しているわけです。

 しかし、意味や価値の上塗りは、悪であるばかりではありません。日常生活がスムーズに(悪く言えば惰性的ですけれど)運んだり、人とのコミュニケーションが取れるのは、意味や価値の塗り重ねのおかげでしょう。前意識における意味・価値の塗り重ねがなければ、ささいなことの対応・処理にも非常に苦労するでしょうし、言葉も不可能になります。(言葉の意味は、前意識の意味・価値に基づいています。)前意識における意味・価値の付加にほころびができたり、通常とずれた付加がなされるようになると、たとえば精神分裂病といわれるような「病的な」状態に陥ってしまうのだと思います。健康な世俗生活のためには、前意識における適切な意味・価値の塗り重ねが必要なのです。

 というわけで、執着を絶つためには前意識における意味・価値の塗り重ねを単純に根絶すればいいという訳では、どうやらなさそうです。釈尊は巧みな方便を用いて、世俗の人に分かりやすく教えを説かれました。人々の前意識における意味・価値の塗り重ねを釈尊も理解し共有しておられたに違いありません。
 世俗の前意識的意味・価値の上塗りを正しく利用しつつ、それに踊らされて執着や差別を生み出すようなことのないあり方。それが如来ではないでしょうか。
 そのためには、我々はどうあればよいのか。おそらくは、無我を知り、縁起を知ることだと思います。対象化されたものの無我や縁起のみならず、対象ではない主体の自分の無我・縁起を知ること。つまり、自分(勿論対象ではなく主体の自分=ノエシス)が生まれ変化し終わる現象であると知ること。世界の中で、世界のあらゆる現象と対等に、ともに生々し変化し縁起しあう現象であると知ることだと思います。

 心のハンドルを回しながら、いろいろなことを考えました。
 また御意見頂ければ幸甚です。宜しくお願いします。

石阪様
                             曽我逸郎

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