良知 昇さんから  2/3の曽我のメールに 2001,2,4,

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曽我 様
メールの返事をいただきどうもありがとうございます。
私は、仏教に関心があり、曽我さんのHPを拝見し、メールを書かせてもらいましたが仏教に関しては、全くの素人ですし、もっぱら書籍を頼りにして理解を深めているだけの愚か者です。
ですから間違って理解している処もあると思いますが、仏教を独自に理解するのも楽しみの一つです。

このような愚かな私にメールをいただき感謝します。

中論の最初に書かれている「すばらしさ」についての問題点ですが確かに曽我さんの言われる通りだと思います。この世の中はすばらしさだけではありません。むしろ苦しみの方が多いですよね。
曽我さんのHPにもありますが、私を含めた殆どの人間は、「あたりまえ」を覆い隠しているので、苦しみが生まれるのだと思います。

「幻に惑わされてはいけない、目を開き、見える通りに世界を見なさい。
そのときあなた達は、苦に転じることの無い喜び透き通った悲しみの混じった大いなる喜びを知るであろう。」 ・・・・曽我さんのHPより

私は毎月、自分のHPに般若心経を一言づつ日本語に訳しています。
そして、曽我さんよりメールをいただき、問題点について考えていましたら何となく、このように感じました。曽我さんはもうご存じでしょうが。

心と現実の現象界とは、(密接な関係はあるが)全く別の世界であるのではないかと思いました。
般若心経の空は、我々の心である認識や思いや五感までも無に等しいと言っています。それとは別に、今ここに現実に起こっている現象世界[地球や生物]は瞬間、瞬間で移り変わっていく、真実の時空間での現象です。一瞬足りともとどまることなく変化しています。しかし心の世界は、それとは違うと思いました。

曽我さんのような仏教に関心のある方が、いると言うことは、私にとって、とてもうれしいことです。
仏教のイメージというと、どうしても暗いイメージしかありませんが、釈尊の説かれた教えは決して、そのようなイメージとは、かけ離れたすばらしい教えだと信じております。


良知 昇さんへの返事

                    2001、6、1、
 前略

 またすごく遅い返事になってしましました。申し訳ありません。

>私は、仏教に関心があり、曽我さんのHPを拝見し、メールを書かせてもらいましたが仏教に関しては、全くの素人ですし、もっぱら書籍を頼りにして理解を深めているだけの愚か者です。
ですから間違って理解している処もあると思いますが、仏教を独自に理解するのも楽しみの一つです。

 私もまったく同じです。皆さんにいろいろなご意見ご批判を頂き、それを考えることによって、僅かずつながら私の仏教理解は深まっているとは感じるものの、深まった分よりも新しく見えてくる問題の方が多くて、どんどんゴールが遠ざかるような心境です。たとえば、釈尊にとって、世界はすばらしかったのでしょうか、厭うべきものだったのでしょうか。世界は浄だったのでしょうか、不浄だったのでしょうか、、、これによって仏教の性格は大きくかわってくると思うのですが、判断をつけかねています。

 また、心と現実の現象界との関係について言及しておられますが、これは私にとっても課題です。

 無我なる縁起の現象である私たちが、どのように「自分」という「存在」を意識するのか? それに執着するのは何故か? 心は外界をどのように認知しているのか? ありのままに見ることは可能か? ひとりひとりの個性はどのようにして現れるのか? 発心とは、禅定とは、どういう現象か? 無我なる縁起の現象である私たちに、なぜ努力が可能か? 戒を守り定を保つことは、心という現象にどのように影響を与えるのか?

 こういった問題を、魂や阿頼耶識といったモノ的なものを導入することなく、あくまで縁起の現象として説明できなければ、無我説は戯論として完成されないと思っています。そして、認知科学や脳科学が、そのためのヒントを与えてくれると思っています。幾冊かその方面の本を読んで、すこし霧がうすれてぼんやり方向性が見えてきたような気もして、とりあえずのラフな思い付きをまとめてみようとしましたが、まだまだ未成熟で頓挫してしまっています。小論集「人無我を説く方便の試み 1、2、」にご意見ご批判を頂けるとうれしいです。

                             草々
良知 昇 様
                             曽我逸郎

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