はじめまして。ナガイと申します。

大変な労作お疲れ様です。量が多いので、気になるところを拾い読みした程度で全容が理解できたとは言いがたいのですが、「空」や「縁起」の解釈に異存はありません。その上で気になった点がありますので浅学を省みずお便りをさせて頂きます。

●「あたりまえのことを方便とする般若経」の「霊魂と輪廻の否定」について

仏教の無我は五蘊のなかの我を否定しているに過ぎません。
輪廻の主体とされている我は五感で捕らえられない真の我ですから仏教の立場では無記によって対応すべきものに思われます。
曽我様のように輪廻を実体的に否定するのは断見ではないでしょうか。
輪廻を否定も肯定もしないのが中道で、輪廻の有無に思い煩わないのが仏教的な輪廻からの解脱に思われます。

●《釈尊成道の過程》の(98年12月12日加筆)の個所

 なにより経典の釈尊成道の際の記述に、「自然がそれまでとまったく違う素晴らしさで現れた」というような表現があってしかるべきではないか。
 もし、釈尊成道の際、すべてが今までとまったく違うみずみずしさで立ち現れたのでないなら、私の仏教理解は、釈尊の仏教とは全然別物ということになってしまう。

「すべてが今までとまったく違うみずみずしさで立ち現れ」ることと「自然がそれまでとまったく違う素晴らしさで現れ」ることは決して直結しないのではないでしょうか。
私の考えでは成道の際には「自然を含むすべてがありのままに見えた」だけではないかと思います。
そこには「素晴らしい」という分別はないのではないでしょうか。
さらには「みずみずしさ」というのでさえ分別に思われます。
仮に「素晴らしい」と思ったとしても「素晴らしくない」ものも如実に知れたと思います。上記の文に曽我様のなかの自然に対する無批判な賛美を感じます。

以上、批判めいてしまいましたが、TOPページの

「全部読んでいただけなかった方も、批判・感想をいただければ感激です」
というお言葉に甘えて意見を述べさせていただきます。
曽我様のお考えをお聞かせ頂けると嬉しく思います。


ナガイさんへの返事

拝啓

 メールを頂いたまま、返事が遅くなってしまいました。すみません。

 ご指摘頂いた2点、順に私の考えを述べます。

【1】曽我の考えは断見ではないか?

 頂いたメールから私なりに、ナガイさんのご意見を要約しておきます。間違っていたらご指摘下さい。

・釈尊のana^tmanの教えは、非我であって、無我ではない。釈尊は、五蘊その他、世間で我として想定されそうなものをすべて、真の我ではない、と否定されたけれど、真の我そのものの存在まで否定された訳ではない。
・死後も存在するかしないかという問いに、釈尊は答えられなかった。このような問題に対しては、有無を定めず、無記のままにして突き詰めないことが正しい態度である。
・輪廻を否定するのは断見である。輪廻を否定も肯定もしないことが中道であり、輪廻の有無に思い煩わないのが輪廻からの解脱である。

 私自身の考えを述べます。

 私は、無我と縁起こそが釈尊の教えの核心であると考えます。これに矛盾するものは、伝統的に仏教とされてきた教えであっても、「仏教」の中の反仏教として削ぎ落とすべきだと考えています。
 無我とは、例外なくすべてに「独立自存の実体はないこと」です。縁起は、同じ事を別の角度で説いています。すなわち、例外なくすべては、「他を縁として起こる」。よって無我=縁起です。そして、無我=縁起と、「真の我」という考え方とは、両立し得ないクリティカルな関係です。無我=縁起であるなら真の我はない。真の我があるなら無我=縁起ではない。勿論私は、前者の立場です。

 輪廻については、真の我ほど明快に否定しきる自信がありません。釈尊も、当時の常識である輪廻説を当然の前提として受け入れておられたのではないか? 経典に様々な形で残されたおびただしい数の輪廻の記述を虚心に読むと、そういう感想を抱かざるを得ません。
 しかし、経典を素直に読み従うだけの態度から、犀の角として一人考えの歩みを進めると、無我=縁起はやはり輪廻ともクリティカルであり、つきつめれば両者は両立不能であるとの結論に至らざるを得ません。

 (あえて私の考えに反する経典をあげておきます。「あたりまえ、、、」注7の終盤にも書きましたが、パーリ・ニカーヤ中部第四経では、釈尊の解脱とは、御自身の多くの過去生を思い出すこと(宿命随念智)と、業に応じて有情が輪廻しているさまを見ること(死生智)、四聖諦(漏尽智)であったと記されています。しかし、私には、輪廻が仏教の核心であったとは考えられないのです。もしそうなら、バラモン教やら様々な外道の説があるなかで、仏教は仏教と呼ばれ得る独自性を保てたでしょうか? 無我=縁起こそ、釈尊の画期的な発見であり、仏教が仏教である所以だと考えます。)

 釈尊は、輪廻は終わらせることができるといわれました。であるなら、それまで何度死と再生を繰り返そうと、眠って目覚める毎日と本質において変わりはありません。それならば、おっしゃるとおり輪廻を思い煩うことなく、ただ一途に、この生を、この一日を、この今を、無我を知り縁起を知り執着を吹き消すべく努めるだけです。
 ただし、輪廻の有無に思い煩わない事がそれだけで解脱だとは思いません。輪廻の有無にかかずらわず、ただひたすら努めて無我を知り、縁起を知り、執着を吹き消し、無用な苦を自ら苦しまず、無用な苦で他を苦しめないようになること。これが解脱です。無我を知り、縁起を知り、輪廻の主体となるような実体はないと分かれば、輪廻はないと分かります。輪廻はないと分かることは、目的ではなく、解脱に付随するオマケのようなものと思います。

 マールンキヤが、「世界は時間的・空間的に有限か無限か、如来は死後もあるかないか」と詰問した時、釈尊は、毒矢の比喩を述べ、答えを拒絶されます(パーリ・ニカーヤ中部第六三経)。ご存知のとおり、無記の最も有名な記述です。佐倉さん(リンクのページでHPを紹介)は、無記を、経験的思考の及ぶ範囲とその先の神秘的形而上学とを明確に区別する態度として高く評価しておられますが、私としては、無記よりも、無我=縁起こそが重要です。釈尊が答えを拒否されたのは、マールンキヤの質問へのいかなる答えも梵行他の修行や涅槃に資することがないからであって、分からない、知らないと言っておられる訳ではありません。
 同じくパーリ・ニカーヤ中部の第七二経では、釈尊はヴァッチャゴッタの同様の質問に「火のたとえ」で答えておられます。「火は何によって燃えるか?」「薪によって」「火が消えたら、その火はどこへ去ったのか?」「薪が燃え尽き加えられなければ、火はただ消えるのみ。どこへ行くのでも行かないのでもない。」 この話の終盤は、如来は色受想行識それぞれが断たれている(=薪が尽きている)から、根幹を断たれた樹のように未来に生起しない、という内容で、如来に限定した話かもしれません。しかし、ともかく、後生の明白な否定ではないでしょうか。火、炎は、「あたりまえ、、、」本文にも書きましたが、無我=縁起を説明するもっとも分かりやすい事例だと思います。

(ここに引いた三つの経典については、大蔵出版 パーリ仏典 中部(マッジマ・ニカーヤ) 片山一良訳 を参考に、乱暴な要約をしました。)

 中道については、もともとは、「いたずらに苦行する事」と「欲望のままに引き立てられている事」の両極端を避けよ、という教えだったかと思います。後世拡大解釈されて、有無の両辺を離れた道も意味するようになります。即ち、「ものや自分が、<自立的実体のある持続的な存在>である」と考えるのでもなく、「ものや自分は<まったく存在しない>」と考えるのでもない中間の道、「あるのでもなく、ないのでもない中道」とは、すなわち、無我にして縁起であること、私なりの言葉を補えば<現象として起こっている>ことだと考えています。

 では、何故釈尊は後生について無記をもって臨まれたのか。その理由は経典には記されていません。以下は私の想像です。

 1)当時は輪廻が常識であり、通常の社会規範、人生観は輪廻を前提としていた。そのため、無我・縁起を知らぬうちに、輪廻・後生の否定だけを聞けば、断見、虚無主義など短絡的な悪しき解釈に陥るから。
 2)輪廻・無我を真に知ることは、戒定慧によって心的現象を散らせず騒がせず保ち、意識の指向性停止体験によって自己を含む一切が無我・縁起であることを知ることであるが、輪廻・後生の有無について語る事は、必ず議論を引き起こし、そこに巻き込まれれば、戒定慧は不可能となるから。

 釈尊の時代、輪廻が常識であったから、釈尊は無記で臨まれました。現代、輪廻が常識ではない時代において、ことさらに輪廻を説いて人を脅し反仏教を説く「仏教」団体が多いと感じるので、反仏教への落とし穴をふさぐため、あえて輪廻はないと明言したいと思います。

 taka kudouさん、リュウさんとも同様のテーマで議論しています。意見交換のページでご覧になってください。

【2】「自然に対する無批判な賛美」について

 無空さんという方からナガイさんのメールに関連してご意見を頂いています(意見交換のページ御参照下さい)。
 無空さんのおっしゃるとおり、私は、「すべて」と「自然」を明確に区別せずに使っておりました。「自然」を「すべて」に読み替えてください。

 そうすると、問題は以下の三点となります。
 a)成道の時、すべてはそれまでと違った「みずみずしさ」で現れたか?
 b)成道の時、すべてはそれまでと違った「すばらしさ」で現れたか?
 c)成道の時、すべては「ありのままに」現れたか?

 まず、a)とc)は、私は同じことだと思います。その理由は以下のとおりです。
 日常生活において、我々は「いつも化」によって現象をパターン化して捉えています。出会う現象すべてをありふれた既知の「もの」に振り分けて処理・対応しています。型にはめて世界を見ている。そこでは善悪美醜その他の価値づけも、あらかじめ決まっています。「Aはすばらしい」「Bは汚らわしい」「Cは偉い」「Dはかっこいい」「Eはくだらない」、、、。現象は、実体視され、「もの」化され、価値付けられ、執着が生まれます。(憎悪や差別もこうして生まれます。)世界を見る枠組みは、その枠組みで対応しきれない新しい事態が発生しない限り、無自覚な我々の見方を同じ仕方で規制しつづけ、結果、日常生活は退屈なものになります。
 一方成道の瞬間には、意識の指向性が停止すると考えます。その時、世界から個物を切り出す事(対象化)は停止しており、対象化する主体(ノエシス)は、世界の中で直接裸で全方向で世界に接し世界に開かれた状態になる。そこから戻ってきて意識の指向性が回復した時、ひとつひとつの現象は、「いつも化」を抜け出し、本来の(ありのままの)一度きりの(みずみずしい)現象として現れるはずだと思います。(私が「みずみずしい」という言葉で言おうとしたのは、「いつも化」を逃れてすべてが本来の一回限りの現象として現れる事であって、日常生活で言う「古ぼけた」とか「しなびた」に相対する言葉ではありません。)

 禅の解脱と釈尊の成道とは同じだったのか、難しい問題ですが、一応近しい出来事と仮定して論を進めさせてください。
 禅では解脱の境地をしばしば「柳は緑、花は紅」といった表現で言い表してきました。「当たり前のことをもったいぶって言うな」と私もはじめは思いました。しかし、日常生活では必ずしも「柳は緑、花は紅」の当たり前に、我々は行き着いていないのではないでしょうか。
 一月ほど前の私自身の電車での会話です。
「あ、桜、もう満開ですね。花見はされましたか?」
「いやいや、ばたばたしてなかなか行けません。日を決めて夜桜にでも行かないと、今年もまた、、」
「私はどうも夜桜に行くと決まって風邪を引くのですよ」
「へえ、そうですか。酔っ払ってうたた寝でも、、、?」
「いえいえ、そういう訳ではないのですが、、、」
 退屈なやりとりです。花も柳も上っ面をなでるだけで通り過ぎていく。きちんと見ていない。
 それに対して「柳は緑、花は紅」は、ただ当たり前の言葉を繰り返しているのではなく、柳の緑、花の紅を見ているのだろうと思います。風にそよいで色を変える紅、緑、照る光、空の青さ、雲、水面におどる日差し、それぞれがその時限りの輝きを見せている。そして、花にも柳にも開かれて、花や柳と等しく縁起している今っきりの自分。自分もまたみずみずしい。そこまでの意味が「柳は緑、花は紅」にはこめられていると思います。

 書いているうちに、ありのままのみずみずしさのはずが、b)の「すばらしさ」まで含意してしまっています。ありのままでみずみずしい世界は、すばらしいのでしょうか?
 おそらくすばらしいのだと推察します。日常性の「いつも化」を脱した世界は、小さな子供が初めて野原に出た時のようにきらきらしたワクワクする世界だと思います。
 もちろんここでいう「すばらしさ」とは、日常生活のいつも化された「すばらしさ」とは別のものです。日常生活のすばらしいものも、ありふれたつまらないものも、同じように一度限りのきらめく現象として立ち現れる。
 釈尊は、成道後七日間解脱の喜びを味わわれたといいます。その喜びがどんなものだったのか経典に見つけられないのですが、おそらく、それは、「ついに解脱した」という単なる達成感ではなく、あらゆる現象が縁起しあって変化していき、自分もまた共に縁起するそのうちのひとつの無我なる現象だと感じ取った喜びであったろうと想像します。
 生々流転。それを外からながめるのではなく、ともに生まれ、流れ、去っていく。

 しかし、ありのままの世界のみずみずしさは、悲しみもまた、たとえるならば噴き出す血の如く、鮮烈なものにします。縁起によってあらゆる現象と等しくつながっていることを感じながら、有情の苦しみが赤裸々に見えれば、強い慈悲が起こるはずです。

 ところが、慈悲を起こさない無我・縁起の立場もあるようです。ひとつひとつの現象の背後に超越的実体を想定し、個々の現象を捨象する立場です。たとえば「ざわめく波(個々の現象)に目を奪われず、その下に広がる大きく深い海を体得せよ。これこそが真の実在である。」というような考え方です。有情の苦しみへの感覚を失い、一人自己満足の「悟りの境地」に陥ってしまいます。
 常に身の回りの具体的な有情を離れることなく、真如とか法界とかの抽象化した単数名詞は極力使わないようにしたい。世界というありふれた言葉でさえ危ない。「あたりまえ、、」の空の説明は、まさに背後超越的実体であって、まずいと感じ始めています。

 答えになったでしょうか。どうも書いているうちに、自分にむけて書いてしまっているようで、要領を得ない部分があれば、なんなりとまたご質問をお送り下さい。ご批判も期待しています。

 ところで、ナガイさんは、「五感で捕らえられない真の我」があるとお考えですか?
 お時間ありましたら、ご意見お聞かせ下されば幸いです。
                                   敬具

ナガイ様

2001、5、6、             曽我逸郎

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