こんにちは、水野です。「合理的客観的に審査した結果の苦」について回答いただき、ありがとうございました。
最後にご質問させていただいてから早半年が過ぎましたが、その間わたしなりに仏教について学んできました。相変わらず無明の徒ではありますが、以前よりは、おぼろげながらも仏教の外観が見えてきた気がしています。そのせいか、曽我さんのご回答にも、無理なく納得することができました。
「世界には究極的には目的も価値も無い。万人にあてはまる普遍的価値はない。」
これが、私の言う「合理的客観的に審査した結果」の「判断」です。これは、ひとつの判断に過ぎず、直ちに苦である訳ではありません。
上記の「判断」ではなく、我執こそが私の苦の本当の原因だったのです。
確かに、そのとおりだ、と思いました。「苦」とは、「客観的」なものではなく、客観的事実に拒否反応を示す「主観的」な感情にこそ存在するんですよね。つまり、自分の外にではなく、自分の中にあるものなのだ、と思います。
「愛別離苦」にしても、愛する者との死そのものが「悲苦」として独立してあるわけではなく、愛する人を失いたくない、と執着する自分の心こそが「悲苦」なのでしょう。
愛する者の死は逃れられない現実であり、それに伴う「嘆き悲しみ」は人間としてごく自然なものなのに、・・・
と以前わたしは何の疑いもなく書きましたが、「自然」だとして肯定しがちな悲しみなどの感情を、「執着」であるとして否定したのが、仏教ということでしょうか。
それは決して、別離を全く悲しまず平然としておれ、という非情な教えではないことも分かってきました。愛弟子サーリプッタが死んだときには、ブッダもまた悲しんだとか。
「嘆き悲しみを捨て去れ」とは、悲しみが自分の外側にある、手の届かないものではなく、自分の内側にあるものだ、と気付いて、悲しみを制御するようにしなさい、という意味かな、などと理解していますが、違うでしょうか。
天国や極楽などという架空の存在を安直に信じてしまえば、手っ取り早く「死」を乗りこえることができるんだろうな、と思いますが、そういう形而上の存在に対して沈黙し、ひたすら現実を直視したブッダを、なんと強く、孤独な人だろう、と思います。
とまあ、こんな感じのわたしですが、仏教については、これからもマイペースで勉強していきたい、と思っています。また、何か質問させていただくことがあるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします。引き続きホームページ作成にがんばられてください。では、失礼します。
水野 直樹
水野 直樹 さんへの返事
お出しできていません。
水野さんは、犀の角になられたのだと思います。
どっしりとした着実な歩みで、仏教についての新しい視点、問題意識など見出されたら、是非私にも教えて下さい。
お元気で。