こんにちは。
お久しぶりです。

先日はメールをお読みいただいたようで、ありがとうございます。
この間のメールは、ちょっと言いすぎたかな、と思いますけど。
少し反省しています。
ただ、基本路線は変わりません。

大学生のころ、心理学の被験者として、
真っ暗闇の中にいたことがありました。
そこで、自分の意識で動かせる身体を、
一切動かさずにいたのです。
そうしたら、自分の体の一部を感じなくなりました。
本来ならそこにあるべき手があることじたい、
信じられなかったんです。
実は、これがぼくの仏教の原体験です。

自分が感じられないものは存在しない。
自分が感じられるもののみが存在する。

壁の向こうには、今は何もない。
自分が壁の向こうに行ったときだけ、壁の向こうの「モノ」は存在する。

そのように考えたとき、自分が知覚できたときだけ存在するモノに、
果たして実体なんてあるんだろうか?

そして、それは自分も一緒なんじゃないか。
コンピューターのライフゲームのようなものなのじゃないか。

その疑問がぼくと仏教の出会いを作ってくれました。

ただ、ここから、所謂無我とのギャップに戸惑った日々が続き、
それはいまだに解決できていないんですが、
今なりの考えはなんとなくあります。
正解だとは思っていませんが。

それはぼくの考えのうちのひとつです。
もし、上にかかせていただいたようなことが事実だとすれば、
この世は自分が作り出している、
もちろん物質としてではなく、情報としてですが。
実体ではなく、感じられるものとして。
そしてそれは自分も含めて。

そう考えると(意見交換の場ということなので、敢えて他の方の意見にも自分の意見を述べてみたいと思います)リュウさんの意見、

僕は自分がかわいいし、人間はこの世で終わりだとすれば死ぬのが怖いんです。
自分が居なくなった後の世の中なんてないのと同じで意味がありません。
自分がいなくなるのなら、人や社会のことなんかどうでもよく思います。

というのは、少なくともぼくの意見とは違っています。
自分がかわいいのは事実だけれど、この世で終わりだから死ぬのが怖いとは、
思っていません。
自分がいなくなった後の世の中なんてないんです。
自分が作り出した世界に生きているんだから、人や社会のことが大切なんです。

これは仏教とはかけ離れた考えに見えるかもしれませんが、
自分の中ではそうでもないんです。
そして、これはある種の、それこそ「方便」かも知れませんが(笑)。

自分の作った世の中だから、思いが強ければ、願望は通じるはずです。
自分の願いが通じないのは、願い方が弱いから、だと思います。
ただ、その「願い」はお祈りとか神頼み、仏頼みではありません。
なるようになるんです。なるようにしかならないんです。
そしてその責任は自分にあります。
そして、その「自分」というのは、
「自我」ではなくて、仏教用語で言う「法」だと思うんです。
だから、世の中に文句を言うのではなく、
あるがままを受け止めて、それに素直に生きていく。

この間のメールの「コトバ」は、その現実と思われながら実はバーチャルな「この世」を実体化してしまうA級戦犯だと思うのです。

共感いただけない方も多々いると思いますが、
それが今のぼくの世界観・仏教観(の一部)です。

そがさんはどのようにお考えになるのでしょうか?
へそ曲がりなやつの、へそ曲がりなメールですみません。

またメールします。


猫熊 PANDA さんへの返事

    2001、2、3、

 メールありがとうございます。

 一通目に返事を出せないうちに2通目を頂いてしまいました。すみません。

 まず、言葉の問題については、いってんさんとの意見交換でかなり突っ込んだ議論を重ねています。(99年8月から)
 言葉というより、論理をテーマとしていますが、なにがしか必ずお感じになることがある筈ですので、ご一読頂いて、ご感想・ご批判を是非お聞かせ下さい。

 2通目ではユニークな世界観を書いておられます。

 この世は自分が作り出している、
もちろん物質としてではなく、情報としてですが。
実体ではなく、感じられるものとして。
そしてそれは自分も含めて。

 唯識的という表現をしてもいいのでしょうか? 
 以前、谷さんとの意見交換で、「唯識には、実験室の球形のガラス容器の中で生暖かい生理食塩水に浸ってまどろみながら電気刺激を受けて夢見る脳髄、といったイメージを抱く」と書いたことがありました。唯識については薄っぺらい知識しかないので、本当は語る資格がありませんが、正直なところ、今回同じような連想をしました。

 私たちは縁起の世界におり、ほんの些細な偶然・巡り合わせで、死んでしまいます。
 思考実験というほどではありませんが、仮に、夜家に向かって猫熊さんが歩道を歩いている時、たまたま通りかかった車が凍結した水溜まりでスリップして、猫熊さんをはねてしまったとします。この場合、猫熊さんが情報として作り出した車が、猫熊さんを終わらせるとお考えでしょうか? 猫熊さんは、自分の死を作り出し、それが実現した瞬間世界は消える? あるいは、作り出された猫熊さんの死を作り出すもう一つ奥の猫熊さんがいる?

 私の考える無我・縁起は、あらゆる「もの」が等しく無我であり、等しく縁起しあうことです。私が石を蹴っ飛ばすこともあるし、石に蹴躓いて打ち所が悪くて私の肉体が安定を維持できなくなり、肉体に縁起する私の意識が終わることもある。過去の歴史は、今の私が想像して作ったのではなく、現実におこってきたことだと思います。その縁起の連なりの流れの中で、たまたま私という現象も起こった。石も虫も雲も私も、等しい関係で、特別な存在はなく、誰が誰を創造し支配している訳でもない。私は、無数の現象とともに世界の中に縁起し、世界の中に開かれている。そしてここに仏教の救済が見出されるであろうと考えています。

 またご意見・ご批判下さい。

猫熊PANDA様

            曽我逸郎

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