〜森 正夫の山歩き記録〜
余話 ―父と山の思い出―

 父はひと昔前の山男であったのだろう。 5人兄弟の末子であった私は、お正月を父と共に過ごした記憶がない。母の話によれば、父はいつも長男を連れて山の仲間たちと共にどこかの雪山にこもっていたらしい。これは例年のことで、自営業を営む父が正月に家に居ないというのは母にとって相当大変だったようだ。年末・年始のあいさつ、年賀の来客など全ては母にまかせきりであった。母の晩年の口ぐせは「太鼓持ちなど連れて山歩きばかりしていなければ、もう少しひとかどの人物になれたのに・・・」であった。これは、登山道などが十分に整備されていない時代に、木こりや猟師を道案内として、各地の山々を歩いたことを指しているのだろう。

 末子で母親に甘えて育てられた私は、子供の頃は何となく父をよそよそしく感じていた。しかし、毎年やってくる夏休みのキャンプだけは嬉しかった。これは、私が物心つく前から行われていたことらしい。奥多摩の秋川渓谷に盆堀川という支流がある。その渓流の途中に比較的大きな砂防ダムがあり、水遊びにはもってこいで、魚も釣れた。子供たちの夏には最適の環境であった。父はこのダムの上の盛り地に1ヶ月近く幾張りものテントを常設して過ごしていた。今思えば、家族や従業員家族の避暑と慰安のための仮設別荘といったものだったかもしれない。そこには、入れ替わり立ち代わりいろいろな人がやってきた。私は夏休みのほとんどをそこで過ごし、最後の数日間を宿題に泣くことが常だった。

 その後、父との付き合いは山歩きを通して15〜16才頃まで続いていたが、受験勉強や大学進学、就職、結婚、子育てと続く私のライフサイクルの変化の中でだんだん遠ざかり、年に数回顔を合わせるくらいになってしまっていた。
 
 そんな父と、気持ちの上で再会したのが、私が30代後半にさしかかった頃である。子育ても一段落し、自身の体を20kg以上太らせてしまった私は、その醜い身体を元に戻そうと、ウエイトトレーニング、ランニング、水泳、片道16kmの自転車通勤に孤軍奮闘し、トライアスロンに挑戦するまでになっていた。そんな折、たまたま兄の家で父と出会い、山の話に花が咲いた。

 父は70才をすぎ、両膝の痛みから山歩きどころではなく、昔の思い出にひたるのみであった。そんな父の話から、南アルプスの赤石岳が父にとって記念の山であることを知った。現在の様子を気にかける父と話しているうちに、「それなら今度私が登って来ましょうか」と応じてしまった。喜ぶ父の顔にウソはつけない。当時、体力には生涯で一番自信のあった私は実行を決めた。

 1ヶ月後、飯田で父と会い、父が持参し、赤鉛筆で要所要所を示し説明してくれた古い地図をたよりに、伊那側から大聖寺平へ直登するコースを選んだ。朝3時発、小渋川沿いに行けるところまでトライアルバイクで入り、広川原を経て大聖寺平へつき上げ1泊2日で帰ってきた。私の話に頬を赤くして聞き入る父の姿が「かわいらしくも美しい・・・」と思えた。

 これが父との新たな付き合いと、私の本格的な山歩き再開のきっかけになった。これ以降、父との月1回デートは父が亡くなるまで続いた。場所はいつも浅草。すき焼きか天ぷらを食べる。その間、私は一杯やりながら、その月に歩いた山の報告をする。父は話を嬉しそうに聞き、時々相槌を入れて、次に行ってほしい山の話をする。酒をたしなまぬ父は、かなりの健啖家で、揚げたての天ぷらを一人前以上食べた後で、うな重をペロリと平らげた。父が83才でポックリ逝く前の晩には、焼き肉をたっぷりと食べ床についたとの話であった。

 今ではまわりから私が一番父に似ているとよく言われる。私自身も、朝顔を洗う時に鏡を覗いて、父が居るのではないかと錯覚することが時々ある。不思議なものだ。つい最近、最も仲良くしている従兄弟から1枚の写真をもらった。それは、かつてひざの痛みで長い歩きが難しくなった父の希望で、スクーターに乗って(それぞれ別々の50ccスクーター)南信州を2泊3日で旅したときのものである。私の知らぬ間に、林道を走る私の姿を写したものだ。この写真には、妻が父の愛を感じると言って額縁を買い、私の部屋に飾ってくれた。

手作りのアイゼン 父が愛用したピッケル 昔ながらのかんじき(和かん)


 私の知る限り、父の山歩きは家族や気の合った山の仲間たち、もしくは単独行で、山岳会などに属した過去はないようだ。これは私も同じである。元来、私は身体を動かすことが大好きで、少しは落ち着いていられないのか・・・とよく母に叱られた。しかし、小学校に入った頃の記憶では、野球やサッカーなどの集団スポーツは好まなかったが、駆け足はいつも1番、クラスのリレー選手に外れたことはなかった。これは中学校に入るまで続いた。小粒な私は、それ以上は無理だったのだろう。

 多分、父も私も個人的なスポーツを好んだのだと思う。父の時代と私のそれでは環境の違いに大きな差があったろう。父は山登りひとすじだったが、私はサイクリング、ランニング、バイク(ロード、モトクロス、トライアル)などなど、ついにトライアスロンにまで手をつけ、最後は山登りに落ち着いた。

 父の死後、デートの折、父がよくつぶやいていたことを思い出した。「自分の遺骨を、かつて歩いた日本の山々へ・・・」という願いだ。その時は曖昧に応じていたが、いざその時が来るとどうしても実現したくなった。

 子供たちが独立し余裕が生じて、妻と2人の山歩きが増した私は、父の希望を叶えてきた。北は利尻岳から南は宮之浦岳に至る。それは今も続いている。父が登ったこともない山頂まで。
 
 父の83才までにはまだ余裕があるが、私もあと1年で70才に至る。どこまで現在の暮らしを続けられるか知れないが、とりあえず今を元気に歩くだけだ。
 
 最後にひと言。長い間、父が使い続けてきた鼈甲光りしたピッケルや、父の友人でもあった北海道の鍛冶屋さんが手作りしたアイゼンは、今も私の宝物として現役で働いている。





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