自民党新憲法草案前文では、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」と謳われ、第九条の二は、「わが国の平和と独立ならびに国及び国民の安全を確保するため・・・自衛軍を保持する。」とある。
しかし、本当のところ、「支え守られ、確保されようとしているもの」(以下Xとする)は何なのだろうか? 国民であろうか? そう思いたいが、本当にそうか?
かつての日本においては、Xは「国体」であって、民ではなかった。民は一億玉砕しても「国体」は護持されるべきものであった。現実に、兵士は命を抛ち、満州でも沖縄でも、「臣民」は見捨てられてきた。
では、今の日本では、何がXか?
防衛庁作成のミサイル防衛運用構想では、防衛上の「最重要対象」として首相官邸、皇居、国会、中央省庁などを定め、「重要対象」に七大都市圏、原発、在日米軍司令部、自衛隊司令部などを指定しているそうだ。だとすれば、とりあえずは、これらがXということになろう。そして、そうでない地域に住む人々は、必然的にそれらほど重要ではないということになる。それらを守る「責務」はあるのだが、、。
「いや違う。これらは国民全体を守るために必要なのであって、これらによって国民全体が守られるのだ。」そんな反論が聞こえてくる。つまり「国民全体」がXであるという主張だ。
飛躍していると言われるかもしれないが、米国を考えてみよう。先のハリケーン災害の対応を見ると、米国政府にとって、貧しい市民は、イラクの人々と同じように、実はどうでもよい存在なのではないか? そして、イラク戦争最前線で2000人を超える戦死者を出している米軍兵士も、貧しい人たちだ。つまり米国政府にとって、市民、少なくとも貧しい市民(=「負け組」)は、Xではない。
では、日本でもし現実にことが起こったら、ことの火中に残された国民はどうなるのだろう? 必要となれば、上記の重要防衛対象を守るために、戦略的判断によって見捨てられるのではないだろうか? かつての満蒙開拓団や沖縄のように。
「国民全体」を守るために、火中の国民を、「一部に過ぎない」と切り捨てる。部分を切り捨てて守るべき全体とは何か? それは、空疎な惹句、あるいは幻想に過ぎないのではないか?
冒頭に引いたとおり、自民党新憲法草案前文には「日本国民にはXを守る責務がある」と主張されている。踏み込んで言い換えれば、「Xのために国民は犠牲を厭うな」ということだ。そして現実に、沖縄の米軍基地問題では、Xのために、住民は我慢を強要されようとしている。
「Xのためだから、沖縄の人は我慢すればいいじゃないの・・」
無邪気にそう言う人も、いつかXのための犠牲になる時がくるかもしれない。その時になって後悔しても遅い。
アブグレイブ刑務所虐待拷問事件で罪を問われている女性兵士も、軽率ではあったが、犠牲者だと思う。彼女がドラマ「私は貝になりたい」を見たら、おそらく共感するのではないか。
彼女の誤りは、おだてられて、弱い立場の人を攻め、自分が「勝ち組の側にいる」とはしゃいだことだ。
そして、近頃の日本には、同じように軽率に、攻められている人を尻馬に乗って苛め、「勝ち組」の快感を味わおうとする風潮があるように感じる。しかし、本人は「勝ち組」の気分でも、より「勝ち組」から見れば、実はどうでもよい存在なのだ。自分では「勝ち組」のつもりでも、守られるべきXの側ではなく、Xのために犠牲にされる側の存在かもしれない。日本国とて、グローバル・ゲームの「勝ち組」にとっては、利用価値がなくなれば、どうでもよい存在であろう。
「では現実にことが起こったらどうするのか。お前の言うことは平和ボケだ!」
しかし、「いつ攻められるか分からないから、しっかりと軍(武器)を備えておく」というのは、やくざの組事務所の論理ではないか。武器を用意して身構えているのは、結局のところ、安全を高めるどころか、疑心暗鬼を募らせ、かえってことが起こる危険性を高めていると思う。
そしてことが起こって、やくざの「鉄砲玉」のように捨て駒にされるのは誰か? 美化された言葉に騙されず、冷静に観察してみよう。イラクの米軍を見れば分かる。戦争とは、「負け組」を戦わせて「勝ち組」の利権を守ろうとすることだ。
前にも書いたように、筋の通った正しい論理、情報を収集し分析する力、それらに裏打ちされた現実の行動、外交力、国際世論を味方にする広報力、それらによって日本は、世界の枠組みに新たな力を持ち込み、富の偏在の少ない世界の実現を目指し、自らと「全世界の国民がひとしく有する、恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存する権利」を守り、世界に貢献すべきだと思う。他に道はない。
簡単なことでないことは分かっている。知恵と工夫を総動員して、必死で取り組まねば実現できない。だが、その理想にむけて努力をすると誓ったのではないのか?
それなのに、なにもしないまま、「どーせ無理さ」と理想を捨てて、最強とおぼしき組事務所の盃をもらおうとしている。そして、いつまでも戦争を続ける「現実論者」の仲間入りをするのだ。
突き詰めていけば、Xに実体はない。Xは、現実の国民ではなく、シンボル化され妄想され実体視された日本国のアートマンだ。しかし、諸法は無我であり、日本国とて例外ではない。無我である。
自民党新憲法草案は、ありもしないアートマンに執着する我執の反応だ。アートマンを守ろうとして、人は執着の反応を繰り返し、自分と人とに苦を振り撒きつづける。これが釈尊の教えて下さったことだ。
軽率に自動的反応のままに執着の反応を続けていれば、いずれ我々もまた「私は貝になりたい」と悔やむ破目に陥る。
それを避けるためには、よく観察し、よく考え、発言すべきときに発言すべきことを恐れずに発言し、批判しあい、耳を傾けあっていかねばならないと思う。
sincekeさんから、村政についてのご質問を、阪口圭一さんからアドラー心理学に関連するご意見を、lyrical_gacktさんから、歌手のGackt氏の『noesis』という曲を縁にしてメールを頂戴した。
ニックネームさん、たかはしさんと続きのやり取り。sincekeさん、S.I.さんから、メールを拝受。すべて意見交換のページです。
sincekeさんから、前野隆司「受動意識仮説」について、さらに妹尾義郎について、2通のメールを拝受。特に後者は、今の私に時を得た縁となるかもしれない。
##さんから返事を頂戴した。
「更新情報」がずいぶん溜まってしまったので、2003年末までの分を別ファイルに分けた。
##さんからメールを拝受。
真宗僧侶の**さんから返事を拝受。Pannyadhikaさんからは、台湾における念仏を紹介頂いた。日本ではあまり聞かない捉え方だと思う。
真宗僧侶の**さんへ返事を書いた。高橋哲夫さんからもメール拝受。
津波被害への救援は、各国思った以上に迅速だ。それぞれにいろいろ思惑があってのことだろうが、それでも構わない。どんな思惑であれ、すばやく苦を抜く対応がされるように祈る。
犠牲になった方には申し訳ないが、今回の津波がせめてよい機会となって、人の苦を助けることの方が、自国の利益にもなるという考えが世界に広がって欲しい。欲を出しても、疑心暗鬼で脅えて戦争の準備をしても、得をするのはそこにつけこんで税金を掠め取って行く連中だけで、国民の利益にはならない。へたをすれば、とてつもない悲惨な苦が待っている。
パウエル国務長官は「貧困がテロの温床」と言っている。まさにそのとおりだと思う。貧困対策が最善のテロ対策だ。しかし、4日の新聞(信毎)によれば、米国のODAは、GNP比0.13%ほどに過ぎず、先進22カ国中最下位だ。国連総会採択の目標0.7%を達成しているのは、約0.9%のノルウェーを筆頭に、デンマーク、オランダ、ルクセンブルグ、スウェーデンの五カ国のみ。(オックスファムによるまとめ。数字は、紙面の棒グラフを読んだだけなので、誤差があるかも)
では、日本はどうか? 金を出しているつもりかもしれないが、0.2%程度で、22カ国中19位でしかない。
曽我逸郎