Pannyadhikaさん 「念仏しているのは誰か? 念仏の背後にある公案」2005,1,9,

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 【若干の説明】(曽我)
 Pannyadhikaさんとは、一時の活発な意見交換の後も、東京で実際にお会いしたり、公開しないお約束でやりとりを続けていました。仏教の先輩として、私の狭量な仏教理解を御心配頂いているのだと思います。このメールも「非公開で」ということでしたが、無理にお願いして掲載させてもらいました。
 Pannyadhikaさんは、数日の内に本格的修行のためミャンマーへ出発されます。実り多い修行をされて、その成果を分かち合って頂ける様、お祈り致します。

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曽我さま

雪景色のご自宅のmailをいただき、ありがとうございました。そして、明けましておめでとうございます。

曽我さんのHPが更新されるのを楽しみに、ちょくちょく覗いているのですが、さっき、更新されているのを 見つけて、さっそく読ませていただきました。
私の台湾での経験を書きます。

台湾では座禅会は、「打七」と言います。七日間座るからか、それとも、座禅することによって、七番目の意識、すなわち阿頼耶識を抉り出すからか、その語源の、どちらが正しいのか、今の私には、よくわかりません。そして台湾には、座禅会といっても、寝てもさめても「南無阿弥陀仏」を唱え続ける「念仏会」というのも、あります。これは「仏七」と言いますから、台湾では、瞑想座禅したい場合は「打七」に、念仏修行したい場合は「仏七」に参加することになります。

で、前置きはこれくらいにして、実は私は、長い間、念仏修行に対しては、
「南無阿弥陀仏を唱えて、うっとりとなって、それで梵我一如だなんてのは、仏教ではないぞ」と警戒し、馬鹿にしていたのです。 ところが、台湾では、念仏修行には「念仏を称えているのは誰か?」という公案が背後に隠れている、ということが分かりました。すなわち、「南無阿弥陀仏を唱えに唱えて、自分自身が声だけになりきり、 妄想が浮かばなくなった時点で、その覚醒した意識の下で、念仏を称えているのは誰か? と、自分に問う・・・」という、公案的な修行システムになっていることに気がついたのです。これを中国語で簡潔に書けば、「念仏是誰?」となります。

念仏修行の本来の形は、南無弥陀仏を唱えるのが目的ではなくて、「誰が称えているのか? (発声とは誰がするのか?)」という問いを、覚醒した意識下に自問していく、その作業なのでは ないでしょうか?その原型が台湾には残っており、日本には残っていない。
(「誰が称えているのか?」の答えは、もちろん、「仏も我もなかりけり・・・」ということは、もうお分かりでしょう。喉からの発声もまた、たんなる「心と肉体の相互影響的な自動反応の連鎖に過ぎない」と分かれば、我はない・・・ことになる・・)

こうやってみると、もともとは、念仏修行も、無我を知るための、ある種の「方便」であったかも知れません。いろいろ勉強してみると、仏教(宗教一般も・・)は奥が深く、他の宗派を簡単に否定したり、賛成するのが、かえって怖くなるほどです。

いつの日か、テーラワーダも、大乗も、チベット仏教も仲良く受け入れられている台湾で、大局的な視点から見た、修行方法の変遷史などを、学んでみたいと思っています。

Pannyadhika

<注記> 台湾は現在、テーラワーダ、大乗、チベット仏教ともに盛んだが、大乗は禅宗、浄土宗に分化しておらず、一宗派制で、ほとんどの寺院が臨済宗である。上記の「仏七」は、禅宗の寺院で行われる。
Pannyadhika

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