**さん(続き) 「執着はやはり停止不能。仏教は客観的事実ではない。」 2005,1,9,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは。
お正月、にぎやかで結構ですね。
我が家は大家族ですが、一人暮らしの方がお正月といっても目出度くも何ともないと言われてました。
静かなのがいいと愚痴が出るのは幸せなんだろうと思います。

> 「あたりまえ…般若経」につきましては、おっしゃるとおり空を対象化・実体視し、梵の替わりに据える間違った「仏教」の典型だと思っております。間違った「仏教」なら削除すべきかもしれませんが、基本的に一度掲載したものはそのまま残すことにしており、
曽我さんも「「あたりまえ、、」をどしどし引用、批判、加筆・改作して下さい。」と書かれているじゃないですか。
空の説明について問題があると、注にはそのことを書かれていますが、本文の最後に書かれたほうが曽我さんのHP愛読者が混乱しなくてすむように思いますが。
> (「いつも」の価値・意味・用途)を備えたものとして、親しい容貌を見せています。しかし、それは我々がかぶせている仮面であり、「いつも」の仮面を引きはがせば、そこには、価値も意味も用途もない剥き出しのよそよそしい現象が起こっている だけです。
井筒俊彦「意識と本質」を読まれましたか。
その本では、こういう現象を「のっぺらぼう」という言い方をしています。
自分を対象にして同じことができたとしても、それはのっぺらぼうな自分が見えるだけではないでしょうか。
自分の本質をつかもうとするには、それは有効であるような気もします。
しかし、本質(我)を否定している者にとって、タマネギの皮をむいていくのと同じことだと思います。
> 「私(1)(2)(3)…」のお話で、(1)の執着をなくしても、(2)の執着が残る、…の問題提起を頂きましたが、やや形式的な論理ではないかと感じました。
たしかに、私(3)か私(4)程度ぐらいは考えますが、それ以上は面倒ですから、
とてもじゃないけど、「私(∞)」まで無限遡及はしませんよね。
けれども、これは曽我さんのおっしゃるノエシスとノエマの問題でしょう。
認識する主体は認識する対象になりえないわけです。
(宮元啓一「インド哲学七つの難問」に書いてありました)
その主体を我(アートマン)として立てれば、我は本来清浄なわけですから、
我を覆っている汚れをとるか、我を直接観じるかすれば、執着はなくなる(はず)です。

だけど、仏教では我を否定しますから、タマネギの皮むきに終わってしまうわけです。

> 私自身の実際のこととして、「つまらないことで腹を立てている、意地を張っている」とリアルタイムで気づくことができれば、そういった苦を作る反応はたいてい消えてしまいます。
だからといって、腹が立たなくなるわけではないでしょう。
人生、同じ失敗をしては後悔をすることの連続だと思っています。
人類も同じです。

私の場合だと、公園に子供を連れて行った時、いい父親の演技をしています。
そのことに気づいて、偽善者だと思うし、そして、演技をしていることに気がついているのは自分を見る目を持っているからだと思ったり、さらにそのことに・・・ということを考えます。
自分の行為に対して執着し、思いを持ち、その思いにすらまた執着してしまうわけで、まさにお手上げです。

私とは何かというと、仏教では我を否定しますから、執着している私しかいないと思います。
たとえば近親者をなくした悲痛というのは、死者に対する執着から生じる苦ですね。
死者に対する執着がなくなれば、苦もなくなる。
しかし死別の悲痛がなくなることがいいことなのか。
 西田幾多郎が14歳の娘さんを亡くされた時にこういう随筆を書いています。
「あきらめなさいよ、忘れなさいよ、といってくれる人がいるが、これは親にとって堪えがたいことである。せめて自分だけは一生思い出してやりたいというのが親の心である。この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、しかし親は苦痛のなくなるのを望まない」
この文章を読みますと、執着がなくなることが救いではなく、執着が転じていくことが大切なように感じます。

> 何かに気付いて反応が改まるというのは、例えば、今まで嫌な奴と思い込んでいたのが、実はいい奴だったと気付いて、つき合いがすっかり変わるとか、
これはたとえとしては悪いと思います。
単に自分の都合がよくなったから、こいつはいい奴だったと思うだけで、都合が悪くなると、手のひらを返して、こんな奴とは思わなかったと言うのも普通に経験していることです。

> 執着の反応を改変するための教えです。
これには賛成できませんが、

> 執着の反応を繰り返してきたことがいかに愚かであったか痛感する。
こちらは大賛成です。

> もし執着の反応をなくすことを最初から諦めるなら、真宗においては、無我、縁起はどのような教えとして可能なのでしょうか?
「可能」という意味がよくわかりませんが、「いかに愚かであったかを痛感する」ことが、縁起の道理に目覚めることだと思います。
「最初から諦める」ということ、これは真宗批判としてよく耳にします。
真宗の人は何もしないくせに、すぐにできないと言う、と私も言われました。
だけど、別にことさら行をしなくても、日常生活の中でもどうにもならない我が身というのは痛感できると思うのですけどね。

> ご紹介の某御住職のニューエイジなサイト、ざっと拝見しました。幾度か、ゲゲッとか、ヒエーとか、擬音を呟いてしまい、確かに強い違和感を覚えました。
ホッとしました。(笑)

万一、曽我さんがはまってしまったらと考えてましたから。
実は私はこのご住職に嫉妬しております。
私のHPは反応がほとんどゼロですが、XX寺さんのHPには未知の方からのメールがあるようで、どうしてかいな、こんな真宗とは全然違う話をいいと言う人がいるとは、と嫉妬したり、落ち込んだり。(笑)

> もし仏教が客観的真理に反するなら、仏教は間違った教えということになります。
私も仏教は客観的真理だと言いたいですけど、やはり違うと思います。
理由1
我(アートマン)があるか(非我)、ないか(無我)、という基本的なところでも、仏教内部で意見の相違があるわけですから、客観的とは言えないでしょう。
理由2
ある先生が話されてたことです。
釈尊は縁起をさとった。
では縁起とは何か。
縁起とは相依相関であるということも大切な意味ではあるが、しかし、それだけでは単なる事実を言っているにすぎないから、宗教とは言えない。
十二支縁起、つまり苦の因は無明であるということが釈尊の悟りの内容である。
そういうような意味の話をされました。
宗教というからには、その立場を私は選ぶという選びが大切だと思います。
私にとっては釈尊は苦の因は無明であると悟られた、その教えを信じる、というように。

苦の因として、先祖が迷っているからとか、カルマの法則だとか説く宗教もあります。

それらの宗教もやはり客観的真理だと主張するでしょう。
そういう他因ではなく、自因、すなわち私の無明によって苦が生じるという立場を選んだのが仏教徒だと思います。

科学についてですが、ものの考え方や発想について、参考になります。
思いもかけない視点から新しい見方を教えてくれます。
そして「仏教を説明する方便」にもなると思います。
しかしそれはあくまでも方便、手だて、さらに言うとたとえとしてです。
ですから、ニューエイジみたいに強引に科学を持ってきて、自己の正当性を主張することは、逆に宗教を科学の下に置くことになります。
科学によって仏説の正しさを証明することはできないし、すべきではないと思います。

またまた長文、書く方は楽しいのですが、読まれる曽我さんとしてはご迷惑でしょう。

私としては感謝です。
                              合掌


**さんへ  2005,1,11,

拝啓

 実は、正月には、もう一人増えていました。上の娘が、ベトナムからの留学生を連れてきていたのです。大晦日、スキーに行ったのですが、上の娘は自分の下手なボードの練習で精一杯だし、下の娘はひとりでどんどん滑っていくし、私一人、はじめて雪を見たというベトナムのお嬢さんにつきっきりで、斜滑降とボーゲンを教えておりました。若い女性とゲレンデにふたりなんて、随分久しぶりですが、執着の反応の少なくなったワタクシは、振りかえってみると、浮かれることもなく、ただ淡々と指導をしておりました。単に歳を取って枯れただけかもしれませんが、、。

 冗談はさておき、、。

> 空の説明について問題があると、注にはそのことを書かれていますが、本文の最後に書かれたほうが曽我さんのHP愛読者が混乱しなくてすむように思いますが。
 「あたりまえ、、般若経」は、ホームページの中で、当初より随分位置を下げ、また自己批判も、「総括」のページはじめ、あちこちに何度も書いたつもりだったのですが、確かに「、、経」の本文には書いていませんね。どうするか考えます。

・・・・・・・・・・・・・・・

> 井筒俊彦「意識と本質」を読まれましたか。
その本では、こういう現象を「のっぺらぼう」という言い方をしています。
自分を対象にして同じことができたとしても、それはのっぺらぼうな自分が見えるだけではないでしょうか。
 「意識と本質」は、もう二十年近く前に読みました。井筒俊彦には最初ハマッテ、おもしろく読みましたが、四冊目あたりから、その梵我一如的傾向に不満を感じるようになり、遠ざかってしまいました。
 「のっぺらぼう」という言葉が「意識と本質」のどこにあったか、パラパラ探しましたが見つけられなかったので、勝手な想像で書きます。井筒俊彦は、梵我一如系というか、現象の向こうに超越的実在を想定しておられ、それは「絶対無分節」であると考えておられたと思います。絶対無分節な超越的実在を「のっぺらぼう」と表現しているのではないでしょうか。
 であれば、その「のっぺらぼう」は、まぎれもなくアートマンでありましょうし、釈尊が無我の教えで否定されたものです。

 井筒俊彦は、超越的実在を想定していますが、**さんの「タマネギ」のイメージも、若干実体的、そう言って悪ければ少なくとも固定的ではないかと感じます。自分をそのつどの無常なる現象とは捉えておられない。
 私は修行初心者で、「違う!分かっとらん!」と言う人もおられるでしょうが、自己観察を突き詰めて行っても、なにもない「無」には行きつかないように思います。「ほら見ろ! 本性を現したな! やっぱりのっぺらぼうに会うんだ!」と思われたかもしれませんが、残念ながらそうではありません。タマネギの皮は、我々が生きているかぎり、中からどんどん湧いてくるのです。
 (【HP掲載にあたって加筆】 完全に無念無想の深すぎる定、全身麻酔下、昏睡状態、熟睡状態では、肉体的には生きていても、「私」という反応は停止しており、タマネギも消えている。まったく「私」のない状態だ。しかし、この状態では、観察することも停止しており、無我に気付くための役には立たない。)
 牡丹でも八重桜でもいいのですが、花びらが幾重にも重なった花が開く様を早回しした映像をイメージしてください。新しい花びらが次々と現れてきます。ただし、真ん中には、めしべものっぺらぼうもありません。ただ花びらだけが次々に現れる。(これもまた実体的ですが、喩えですから御容赦を。)ひとつひとつの花びらは、そのつどの反応です。縁に応じて新しい反応が次々と現れては消えていく(散るのではなく)。
 「無我を観る」のは、タマネギの皮を剥いていって、最後に何もない「無」を見つけるのではなく、自分がそのつどの現象・反応であることを観察することだと思います。言いかえると、タマネギの芯を探すのではなく、その時その時のタマネギの皮を観察するのです。芯ではなく皮が重要です。タマネギの皮が、実体ではなく、縁に応じて生じては消えるそのつどの反応であり、次々に新しい反応が生じているそれが私だと知ること、それが自分の無我を知ることだと思います。
 「金ぴかののっぺらぼうがいる」と思い込んでいるうちは、そのつどの反応は、苦を作る執着の自動的反応です。「のっぺらぼうなんてない。ただ反応が起こっている。」と気づくことができれば、その後に生じてくるそのつどの反応は執着に導かれない、苦を作らない、慈悲の自動的反応になるのだと思います。

> 私とは何かというと、仏教では我を否定しますから、執着している私しかいないと思います。
 私もまったく同意見です。凡夫においては、次々に現れる執着の反応の連鎖、それが私です。凡夫は、無常=無我=縁起を知らず、守り育てるべき自分があると考えるから、自動的な執着の反応の繰り返しである。無常=無我=縁起を知って、守り育てるべき自分などないと知れば、繰り返される自動的反応は執着に導かれないパターンになる。それが仏だと思います。

 親しい人の死については、執着の反応がなくなっても、残念なことに、あるいは、ありがたいことに、悲しくなくなることはないと思います。「第一の矢、第二の矢」です。逆に、無常=無我=縁起を知り、執着の反応がなくなれば、悲しみを怒りや恨みに転ずることなく、純粋な悲しみのまま、100%きちんと受け止めることができるようになるだろうと想像します。

・・・・・・・・・・・・・

> 人生、同じ失敗をしては後悔をすることの連続だと思っています。

> > 執着の反応を改変するための教えです。
  これには賛成できませんが、
  > 執着の反応を繰り返してきたことがいかに愚かであったか痛感する。
  こちらは大賛成です

 「執着の反応を繰り返す愚かさを痛感しながら、それでも執着の反応を後悔しながら繰り返し続ける。」それが仏弟子の姿でしょうか? 仏弟子でなくても、大抵の人はそうだと思いますが、、。そういうことを釈尊は説きつづけられたのでしょうか?
> この文章を読みますと、執着がなくなることが救いではなく、執着が転じていくことが大切なように感じます。
 「執着が転じていく」とはどういうことでしょうか? なにに転じるのでしょうか? 転じたら、執着は執着でなくなるのでしょうか?
> 「可能」という意味がよくわかりませんが、「いかに愚かであったかを痛感する」ことが、縁起の道理に目覚めることだと思います。
 「可能か」という問いは、「真宗の教えの体系の全体の中で、無我と縁起の教えが、他の部分との整合性・必然性をもって、どこにどう位置を占めることができるのだろうか」という疑問です。
 私にとっては、無我=縁起は、それを自分のこととして納得することによって執着の反応が停止し、苦の生産が止まるための教えですから、もし執着の反応がなくならないのなら、無我=縁起は教えの意味を失ってしまいます。
 また、「いかに愚かであったかを痛感すること」と「縁起の道理に目覚めること」をイコールで結んでおられますが、私には、両者を頭の中で直接に結びつけることができません。間をもう少し埋めて頂ければ幸いです。
 「縁起の道理に目覚め」、「いかに愚かであったかを痛感」したら、何かが変わるのでしょうか? それとも、なにも変わらないのでしょうか?

・・・・・・・・・・・・

> 我(アートマン)があるか(非我)、ないか(無我)、という基本的なところでも、仏教内部で意見の相違があるわけですから、客観的とは言えないでしょう。
 科学と似非科学があり、仏教と似非仏教があります。両者を区別するのは、主観的選択ではなく、客観的合理性です。それ自身の中に整合性があり、外部に対しても矛盾のないものには、説得力があり、ミームとして増殖します。アメリカで不安を抱えた人々が一時的にキリスト教原理主義にすがりつくとしても、結局は進化論が勝利します。進化論を曲解悪用して霊を説くニューエイジ(?)が信者を集めても、一部の人だけです。釈尊の仏教と霊魂を説く「仏教」とを相対的に捉え、自分の主観でどちらでも好きな方を選べばよいなどとは、けっして言えません。間違った「仏教」は、間違った「仏教」として否定するべきだと思います。確かに間違った「仏教」も「自分こそ正しい」と主張するでしょう。その時は、教えの内部において、また歴史学・文献学の領域において、さらには科学に対しても、客観性、合理性、整合性、無矛盾性を保てるものが残る筈です。それは、釈尊の仏教だと思います。

 もう一度私の考える釈尊の教えを書きます。
 「凡夫は、そのつどの縁への無常にして無我なる反応であるにもかかわらず、守り育てるべき自分があるとの思い込みに縛られ、執着の自動的反応を繰り返し、苦を作っている。自分が無常にして無我なるそのつどの縁起の反応であることをよく観て、守り育てるべき自分などなかったと納得し、苦の生産を止めよ。」

 私には、この釈尊の教えは、まったく明白な客観的事実だと思えます。肉体的にも、精神的にも、感情の上でも、感覚の面でも、我々はこのようなそのつどの現象であり、反応です。

 しかし、にもかかわらず、問題は、私にとってこれが客観的事実に留まり、主観的事実になっていないことです。たとえるなら、すべての観測結果に合致するという理由だけで採用されている物理学の方程式のように、ドスンと腹に落ちていない。だから、執着の反応を抜本的に解消することができません。釈尊が生涯をかけて説きつづけられたことが、今の私のような状態のことであるはずはなく、自分が無常にして無我なるそのつどの縁起の反応であることを、「ああ、なるほどそうだ、確かにそうだ」と実感できるところまで知りたいと思います。そのためには、「聞」だけではなく、「観」が必要だと思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・
 ご意見お聞かせ下さい。
                          敬具
**様
    2005、1、11、
                          曽我逸郎


再び**さんから  2005,1,15,

寒いですね。
**でも雪がちらつきました。
やはり暖冬のほうがいいなどと、自分勝手なことを考えています。

さて、先日の私のメールを読み返すと、何を言っているのかわかりませんね。
おまけに「意識と本質」には「のっぺらぼう」という言葉はありませんでした。
ごめんなさい。
きちんと調べればよかったですね。
最初のほう(文庫本の10ページ)にこういう記述があります。
「原初的本質把握もなしに、ただやみくもに外に出て行けば、たちまちあの「ねばねばした」目も鼻もない不気味な「存在」の混沌の泥沼の中にのめり込んで、「嘔吐」を催すほかないだろう。そして、そうなればもう、「・・・の意識」など影も形もなくなってしまうだろう」

この文章と、「あたりまえ、、般若経」の中にあります、

「「もの」の無我を見る練習だ。これは、少しつらいかもしれない。(略)
 細部を見つめるあなたたちの目は、慣れ親しんだ「もの」に被せられた厚い皮をはがす。見つめるうちに、あなたたちは驚くだろう。あなたたちの見たことのない異様な姿が、突然現われる。もはやそれをなんと呼んでいいか分からない。茶碗が茶碗でなくなる。自分の手が、手ではなくなる。決まった使い道も、名前もない。これがむきだしの「もの」の姿だ。現象の一つの形としての、ありのままの姿だ。表情のない見知らぬ顔だ。あなたたちは恐ろしくなるだろう。」
という部分、似ていると思いませんか。

無我を見つめて、「むきだしの」「よそよそしい」姿が見えてくるということでしたら、無我を見つめることは大したことでもないと思います。
宗教とは「自己とは何ぞや」ということですから、自分を見つめていくこと、内観が大切です。
それでは「自分とは何か」、すなわちタマネギのようなものだ、ということです。

タマネギのたとえ、これまた説明不足でごめんなさい。
タマネギの皮とは「私1」「私2・・」、執着や欲望、心の汚れなどなどといったものです。
皮をむいていくことによって実(本質)を取り出そうとするわけです。
だけども、むいてもむいても皮はなくならないし、実は出てきません。

「金剛石も磨かずば」という歌があるでしょう。
自分の中に金剛石のような光り輝くものがあるけれども、さまざまなものによって覆われ、汚されている、だから心を磨いていかないといけないという歌です。
曽我さんの場合は、タマネギの実、もしくは金剛石があることは認めないわけですから、私と同じ立場です。

では、タマネギの皮をむくようにして、執着がなくせるかというと、

> タマネギの皮は、我々が生きているかぎり、中からどんどん湧いてくるのです。
ということですから、執着をなくす試みが終わる時はなく、執着をなくすことはできません。
> 親しい人の死については、執着の反応がなくなっても、残念なことに、あるいは、ありがたいことに、悲しくなくなることはないと思います。
「死別の悲しみ」は愛別離苦です。
つまり四苦八苦はなくならないということではないでしょうか。
> 無常=無我=縁起を知り、執着の反応がなくなれば、悲しみを怒りや恨みに転ずることなく、純粋な悲しみのまま、100%きちんと受け止めることができるようになるだろうと想像します。
受け止めることができたら苦はなくなるというわけでもないと思います。
転じることはあります。
たとえば、自分と同じ苦しみをしている人の話を聞こうとするようになるなど。
> 「執着の反応を繰り返す愚かさを痛感しながら、それでも執着の反応を後悔しながら繰り返し続ける。」それが仏弟子の姿でしょうか?
それが自分なんだと開き直り、平然としているのでしたら、仏弟子とは言えないでしょうね。
そうではなくて、愚かな我が身を恥じ、自分の思いを中心にするのではなく、仏の教えに従おうとするところに仏弟子ということがあると思います。
仏弟子だといっても、仏に背き続ける私なわけですが。
> 「いかに愚かであったかを痛感すること」と「縁起の道理に目覚めること」 をイコールで結んでおられますが、私には、両者を頭の中で直接に結びつけることができません。
釈尊がさとったのは縁起であり、それは相依相関という意味の縁起ではなく、十二支縁起だとある先生が言われてまして、なるほどと思いました。
すべての存在は関係し合って存在しているということは事実ですが、老死(苦)の因は無明(愚か)ということは宗教的と言えますね。
ということで、縁起の道理に目覚めるとは、自分の愚かさゆえに苦を自分で作り、自分で苦しんでいたんだと痛感することだと思います。

だったら、愚者から賢者に変わるようにすればいいということになります。
悪人でもそうですね。
悪人だと自覚したら、善人になるようにしなさい、となります。
しかし、人間は老いる身、死ぬべき身を生きています。
だったら老いないように、死なないようにすべきかというと、不老不死なんて迷いですよね。
老いる身、死ぬべき身は事実です。
人間とは愚かな存在である、悪を作らなければ生きていけない、これも事実です。
事実を変えるわけにはいきません。

> 「真宗の教えの体系の全体の中で、無我と縁起の教えが、他の部分との整合性・必然性をもって、どこにどう位置を占めることができるのだろうか」
執着・我執と煩悩・欲望をごっちゃにしてはいけないかもしれませんが、執着や煩悩とは縁、条件によって生じたり、生じなくなったりするわけでしょう。
私はスキーを20年以上していませんから、以前はともかくスキーに関しては執着はありません。
しかし女性となるとね。(笑)
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」ということです。
> 「縁起の道理に目覚め」、「いかに愚かであったかを痛感」したら、何かが変わるのでしょうか? それとも、なにも変わらないのでしょうか?
前にも書きましたが、「変わる」ということは「変身する」「別の私になる」という感じがしまして、ふさわしくないように思います。
で、私自身は変わりませんが、では何が変わるか、転じるかというと、「自分中心から如来中心へ」とか「世間中心から仏法中心へ」というふうに変わるんだと思います。
たとえばものの見方、考え方が違ってきます。
自分の力で生きてきた、悪いことをしていない、人には迷惑をかけていない、そういうふうに思っていたのが、おかげさま(縁起ということですね)なんだと気づく。
あるいは、二つの選択肢のうちどちらかを選ばないといけない時、仏法に従えばこっちだ、しかし世間の中ではそうはできない、ということがあります。
たとえば、戦争に行くというようなことです。
そんな時、仕方がないんだと居直るのは自分中心です。
仏法に背いている我が身の罪を思い知らされるのが仏法中心といえるんじゃないかと思います。
これは一例です。
> 科学と似非科学があり、仏教と似非仏教があります。両者を区別するのは、主観的選択ではなく、客観的合理性です。
これも前に書きましたが、我(本質)が実在するかどうか、あるいは輪廻を認めるかどうか、このことについて釈尊在世当時から意見の違いがあり、2500年たってもやはり論争があるわけです。
この違いは大切だと思います。
釈尊の教えはインド思想の伝統の中にあるか、インド思想の異端か、ということですから。
しかしながら、我が実在するかどうか、輪廻はあるかどうか、客観的には判断できないということでしょう。
> 釈尊の仏教と霊魂を説く「仏教」とを相対的に捉え、自分の主観でどちらでも好きな方を選べばよいなどとは、けっして言えません。
選ぶといっても、自分の思いで適当に選ぶということではなく、私はこの立場に立つんだという主体的な選びです。
> しかし、にもかかわらず、問題は、私にとってこれが客観的事実に留まり、主観的事実になっていないことです。執着の反応を抜本的に解消することができません。釈尊が生涯をかけて説きつづけられたことが、今の私のような状態のことであるはずはなく、
執着をなくすことは不可能であると、曽我さん自らが証明されたように感じますよ。

私はうつ病まではいきませんが、うつの傾向があり、ちょっとしたことで自己嫌悪に陥り、自分はダメなんだと落ち込んでしまいます。
変わることができれば楽になっていいとは思いますよ。
だけども、変わること、変えることはできないでしょう。
私はこういう性格なんだ、このしんどさと一生つき合っていかなくてはいけないんだというところに立つ以外はないと思っています。

                                合掌

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ