高橋哲夫さん 「梵我一如は仏教ではありません」 2005,1,1,
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新年あけましておめでとうございます。今年もまた訳の分からないことを書いて送りますのでよろしくお願いいたします。
真宗の方のメールが続いておりますが、真宗では絶対他力を目指し、「極楽に往生しよう」とか「阿弥陀様に救って貰おう」等と願って念仏を唱えることは自分でどうにかしようという心(我)が残って自力修行になると聞いております。全ての自己の「はからい」を捨てて、ただ念仏を唱えられるようになれば妙好人と言われるのではないでしょうか。念仏を一心に唱えることで釈尊の言う「無我」の境地に近づける、このことを確か法然は「念仏不思議」と言っていたような気がします。また一遍は
称ふれば 仏も我も なかりけりと詠んで、念仏を称えることにより「我」と言うモノが無くなると伝えてます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
また一見正反対に見える禅宗においても、座禅により悟ろうとする間は「我」が働いていてただ一心に座禅する(只菅打座)ことが大切と説いた道元の教えにも通じるところがあります。
先のメールにおいて
私(1)を見て、私(1)の執着をなくそうとする。と言うような現象は「私(我)」と言うモノが存在すると考えることから起こります。これに対して釈尊はそのような「我」が存在すると考えることを否定して「無我」の思想を打ち出しました。
それは私(2)がいるわけです。
私(1)の執着はなくなっても、私(2)の執着はそのままです。
そこで私(2)を見る私(3)が出てきます。
(3)の次は(4)(5)(6)(7)・・・と、私をつかまえようとしても、
タマネギの皮をむくようにきりがありません。
このように「我」があると考えることを否定する仏教の教えにおいては、「我」が存在することを前提とする「梵我一如」の思想は成立しません。
すべての生きとし生きるモノにとって今年も幸せなよい年でありますように。
曽我逸郎様
2005年元旦
高橋哲夫
高橋哲夫さんへ 2005,1,7,
明けましておめでとうございます。返事遅くなり申し訳ありません。
昨年は、違和感を覚える「仏教」を概観して、梵我一如という視点で整理することができ、私にとってはひとつの収穫でした。そのような視点を得るきっかけのひとつを与えてくださったのが高橋さんでした。ありがとうございます。
今回も梵我一如についてご意見を頂きました。
>「我」があると考えることを否定する仏教の教えにおいては、「我」が存在することを前提とする「梵我一如」の思想は成立しません。まったく仰るとおりです。しかし、なのにどうして「仏教」には、こんなに梵我一如型の考えが蔓延っているんでしょう。困ったものですね。できる範囲で問題提起していく他ないと思います。
ただ、高橋さんのメールを拝読して、少しだけ気になることもありました。「はからい」をなくすこと、「一心」であることを、無我として考えておられるようにも読めたからです。おそらく、賢しらな自分頼みのはからいや雑念のない、現今の状況への無心の集中こそが無我であるとお考えなのではないでしょうか?
梵我一如型思想は実に狡猾で、梵我一如型思想もしばしば「我」を否定します。
04,6,24, の和バアさんとの意見交換にある図を見て頂きたいのですが、梵我一如型思想は、「我」を饅頭のように餡と皮の二層構造で考えています。大抵の梵我一如型思想は、外側の皮の部分を、「小我」とか「はからい」とか「利己心」とか「客塵」などと呼んで否定します。ですが、それは、餡の部分の「真我」を想定し、(それをなんと呼ぼうと、あるいはその存在を明言しない場合ですら、)その働きを妨げないためであり、「真我」の存在を前提としているのです。
大抵の梵我一如型思想は、「小我」を否定して、「真我」を肯定します。「我」を否定しているからといってそれだけで承認してしまうと、梵我一如型思想まで承認してしまいかねず、注意する必要があると思います。
無我をはからいの停止や無心として捉えると、やがては「真我」や「梵」といったニュアンスの侵入を揺るす許す隙になってしまう可能性があるのではないかと危惧します。
無我は、「利己心、賢しらなはからい、自分頼みの増上慢を否定すること」といった修身道徳的な教えでも、「無心、一心不乱、雑念のなさ」といった現今の状況への集中の教えでもないと思います。もしそうだとすると、そうである時だけ、無我で、そうでない時は無我でないことになります。そうではなくて、欲の塊である時も、煩悩にさまよっている時も、一心に座禅している時も、いつも私達は無我です。無我は、我々の内面の状態ではなく、客観的事実だと思います。
「我々は、そのつどそのつど縁によって起こる無常なる現象である。恒常的自立的実体的主宰者(我)などは、存在しない。」
これが無我の意味だと考えます。にもかかわらず、我々は、そのような恒常的自立的実体的主宰者があると妄想し、それを守り育てるために自動的反応を繰り返し、苦を作っています。
「自分が無常にして無我なる縁起の現象であって、守り育てようとするようなものでないことをしっかりと観よ。」
これが釈尊の教えだと思います。
またご意見お聞かせ下さい。
敬具
高橋哲夫様
2005、1、7、
曽我逸郎
再び高橋哲夫さんから 2005,1,13,
返事が遅れてすみません。梵我一如の思想を否定するからには、仏教の縁起=無我の世界を示さなければならないのですが、それをどう言い表そうかいろいろ考えていました。
基本的には去年5月の望月正晴さんがメールで書かれている不可分一体の世界なのです。
Libraさん宛の投稿で蘇我さんは、空を不二で説明する事には反対しておられましたが、これは認識する二つの対象をそれぞれ独立したモノと見ているからだと思います。不二と言う言葉はこのように二つのモノを想定していまいますので、それぞれが分けられるモノではないと言うことで不可分という言葉を使いたいと思います。縁起の説明で二つの葦束が互いに寄り添って立てられている状態がありますが、片方をとるともう一方が倒れると言うことでこの二つは分けられないことを意味すると解釈しています。
釈尊は無我を説いたのに、なぜ私があると考えてしまうのか、謎解きをしてみます。
(いま)私は(メールを)書いています。メールを書くために
私は(いろいろ)考えています。その他に
私は(椅子に)座っています。このように私というモノがあって、それがいろいろな動作を行っていると考えるわけです。
私は(キーボードを)打っています。
私は(モニターを)見ています。
デカルトはこれを
我思う、ゆえに我ありと表現しました。本当にそうでしょうか。この言葉を縁起の法則に当てはめてみます。
「思う」行為があることにより、「我」がある。つまり私があると考えている私は、つねに「考えている私」「見ている私」・・・・「〜している私」で私というモノが単独で存在しているわけではないのです。
「思う」行為が生ずることにより、「我」が生ずる。
「思う」行為がないとき、「我」が無い。
「思う」行為が滅するとき、「我」が滅する。
また「歩く」と言う動作にしても
私が歩く。これらの共通する「歩く」と言う動作があると思っているが、実は「歩く」と言う動作そのものは実在しない。いつも「〜が歩く」と言うように何者かが、歩くのです。
あなたが歩く
犬が歩く。
・・・が歩く。
私というモノは、私の行っている行動や状態によって存在しているのであり、逆に私の行っている行動や私の居る状態は私というモノがあることによって、はじめて存在している。このようにお互いに依存し、依存しあうことによって存在している世界を不二、全一、不可分と呼びこれが仏教で説いている縁起で作られた世界観なのです。
蘇我さんも総括で
空(シューンヤ)は名詞ではなく形容詞であり、そもそもの意味は empty とか void である。仏教的には、「自立的持続的自性に欠けるを意味する。真如(タタター)は、「そのようであること」であり、「無常であり無我であり縁によって現象していること」を意味した筈だ。であるのに、いつのまにか、空も真如も、名詞として対象化してとらえられ、実体視されるようになり、内実は「梵」と等しいものに変質してしまった。こうして、梵我一如は、仏教のふりをして本来の釈尊の教えを追いやり、「仏教」を名乗るようになった。と述べられている様に、本当はモノには実体がないのに、言葉によって実体があると思いこんでしまうところに問題があるのです。蘇我さんがこのようにしっかり理解しているのに、今一歩腑に落ちないのは使っている言葉が「無記」に近い抽象的な概念を表す言葉のせいではないでしょうか。本来釈尊の教えは「来たれ見よ」と言うように、その人の感覚で感じとれるモノ、経験や知識で捕らえられるモノであるはずです。早く言えば「あっ、なるほど」と実感でき、納得できるモノです。ですから釈尊の教えを聞いて人々はすぐに理解できたのです。
もちろん私という存在は、このような一対一の関係で成り立っているわけではなく、考えられないくらい多くの縁で出来ていることは分かると思います。日本語ではこのことを言い表すのに「おかげさま」と言う言葉を使ってきました。過去や現在の多くの人々やモノのおかげで、今、私が生きていることが出来る。決して私が一人で生きているのではない。ごく当たり前のことです。釈尊はこの当たり前のことを、説いたのです。
私の好きな言葉に
あたりまえのことを、あたりまえに説くお釈迦様があります。いつ聞いたのですかね〜。子供の時、花祭りでお釈迦様の像に甘茶をかけた時でしょうか。それとも修学旅行で京都や奈良のお寺に行ったときでしょうか。
曽我逸郎様
2005.1.13
高橋哲夫