**さん(続き) 「あたりまえ般若」批判、進化論・ニューエイジ・仏教、他 2004,12,27,

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こんにちは。
年末で何かとお忙しいことでしょう。

私のほうこそ知ったかぶりをしてあれこれと思いつきを書き散らしています。
何を言いたいんだ、さっぱりわからん!とお思いでしょうが、しばらくおつき合いください。

「あたりまえのことを方便とする般若経」を読みました。
空についての説明以降の内容にどうも納得がいきません。
「すべての現象が、空の力から生まれる。」
これでは空がすべてを生み出す根源、すなわち梵のように思います。
「事物」「存在」ではなく「現象」だと言われるでしょうが。

そして、
「座る練習をきちんと続けていけば、自分と世界の境がなくなる経験をする。自分と世界がまるまるひとつになる。」
これは自分(我)と世界(梵)が一体化する神秘体験のように感じます。

また
「「もの」の無我を見る練習だ。」
とありますが、「無我を見る」とはどういうことでしょうか。
我(本質)がないことを見るということでしょうか。
そのあとの記述も、明晰な知性とは無縁な体験重視のように感じます。
無我は見るのではなく、知ることだと思います。
松本史朗は「仏教思想史からヨーガと禅定に関わる思想をとり除きさえすれば、正しい仏教は自ずから明らかになる」と言ってます。

> 「念処経」と訳されていますが、念住経という経名もよく目にします。
> 四念処(or 四念住)を説いています。
「クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える」に、四念処とは常に観察することだと書かれていますが、実際問題、それは不可能ではないでしょうか。
瞑想が釈尊の教えにおいてどういう位置を占めているのか、仏教において核心となるものなのか疑問です。
ということで、修行および執着をなくするということについては、やはり納得できません。

○宗教的なものと宗教について
宗教に入るには、知的好奇心から、もしくは宗教的なものから次第にの、どちらかという人がほとんどでしょう。
たとえば、初詣に家族そろって行くの習慣がある家庭で育った人は、そういうことをしない家庭の人よりも、宗教に関心を持ちやすいと思います。
あるいは、お子さんを亡くされた方が「死んだら子供に会えると思ったら、死ぬのが恐くなくなった」と言われました。
私は初詣には行きませんし、死後の世界があるとも思いませんが、こうしたことも大切かとも思います。

あるいは、「あたりまえのことを方便とする般若経」に
「今あなたの言った永遠不変の法身仏の考えや、たとえば、一切有情に如来の胎児が宿っているといった考えがそうだ。これらは、永遠を求める心の願望だ。縁起と無我に反する。これらは、仏説ではない。」
とあります。
真理は永遠不変だと私は思いますが、それを実体化するのは仏説ではないということには賛成です。
しかし、アウト・カーストの人にとって、人間以下とされてきた自分にも如来蔵=仏性、仏になる可能性があるということは、人間として認められたことであり、救いだろうと思います。、
日本でも「ほとけの子」という言い方があります。
ほとけの子だからどんな人も大切なんだ、ということを子供たちに伝えたいですね。
釈尊の教えを限定すると、仏教がやせ細ってしまうように思います。

だからといって、山頂への道はたくさんある、どの道を歩いても山頂からの眺めは一緒だというような、ミソもクソもみな仏教という考えや、梅原猛や中沢新一のように、日本教が仏教だなどという妄言を認めるつもりはありませんが。

○キリスト教について
私はキリスト教について特に勉強したわけではありませんが、プロテスタントの方が書かれた本(プロテスタントの人はパウロの重視しているそうですが)には、親鸞と共通するものを感じることがあります。
ところがブッシュや聖書根本主義者はプロテスタントです。
単純にはいきませんね。(笑)

○進化論について

> 極めて単純な生物を研究すれば、生命が、無常にして無我なる縁起の現象であり、いくつかのそのつどの反応の組み合わせであることがわかります。進化とは、反応の組み合わせが複雑精緻になっていくことであり、その道筋を考えれば、生命が、その 本質のまま、縁を受けて変化を重ねて複雑化し、人間と言う現象にまで至っているこ とが分かります。

> 「凡夫から仏への進化」とは、言いかえると、「無常=無我=縁起でありそのつどの反応である人間の反応パターンが、執着にもとづき苦を作るパターンから、執着のない慈悲に導かれた苦を減らす反応パターンに変化すること」ということです。

遺伝子を守る、そして伝えるということは単細胞生物でもしていることです。(利己的遺伝子ということですね)
それが執着でしょう。
そして、執着により苦が生じると気づくことができるのは人間だけです。
「凡夫から仏への進化」とは、執着に基づき苦を作るパターンから、苦を減らす反応パターンに変化することではなく、執着を執着と気づかない生き方から、執着を苦と感じる生き方へと変化するということではないでしょうか。

進化といいますと、どうも向上・進歩・発展・成長というふうに解されがちです。
つまりプラスの方向に進化しているということですね。
進化とはそうではなくて、変化であって、成長とか進歩とかではないでしょう。
そこを誤解すると、ある真宗大谷派寺院の住職さんの法話のように、六道輪廻と進化を結びつけたりします。
よろしければごらんになってください。
http://・・・・・・(第三者の方のサイトなので、一応伏せておきます。曽我)
法話の内容はニューエイジそのもので、真宗とは無関係です。

曽我さんは霊(我)を否定されているにしても、進化=成長という立場に立っておられるように感じます。
進化という言葉を宗教の中で使われると、私はどうも胡散臭さを感じてしまいます。

> 今、私達は、釈尊の時代にはなかった知識を持っています。釈尊の言葉のみならず、そういう知識も総動員して、釈尊の教えが正しいか検証し、正しければ正しいと 証明すべきだと思います。
> 散見したかぎりでは、新しい科学の成果は、使う用語は違っても、釈尊の教えに核心(無常=無我=縁起、一切皆苦など)において一致していると思います。
どうして科学によって仏教を権威付け、正当化する必要があるのでしょうか。
科学は客観的真理を求めますが、宗教は主観的真理です。
宗教は、私にとってはこうなんだ、としか語れません。

「クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える」を読みました。
私には難しくてよくわかりませんでした。
クオリア=自性、本質ということでしょうか。
花には花性、机には机性があり、「花」と言えば、それで相手にもわかるというようなものがクオリアということですか。

ですが、私を見ている私、というようなものでしょうか。
間違っていたらごめんなさい。
ホムンクルスがそういうものだとして、私(1)を見て、私(1)の執着をなくそうとする。
それは私(2)がいるわけです。
私(1)の執着はなくなっても、私(2)の執着はそのままです。
そこで私(2)を見る私(3)が出てきます。
(3)の次は(4)(5)(6)(7)・・・と、私をつかまえようとしても、タマネギの皮をむくようにきりがありません。
ヒンズー教ではその一番奥にあるのが我(アートマン・本質)だと説くそうですね。
これでしたら、我は本来清浄なわけですから、我に目覚めれば執着をなくすことになります。
しかし、タマネギの皮をむいていったら何もなくなるように、私というものはどこにもない、というのが仏教です。
執着をなくそうとしても、いつまでも私をつかまえることはできませんから、執着をなくすことはできないということになると思います。

> この文章からすると、**さんも、凡夫が仏になるという変化は認めておられると思います。
真宗では「変化」「変わる」とは言わず「転成」「転じる」と言います。
「360度の転回」と、ある先生は言われました。
180度だと、ぐるっと回って違う私になります。
しかし360度だと、元に戻る、しかし元のままではない、ということです。
変化というと、変身というイメージもあり、これまた違うなという感じです。
> 妙好人には、そのような努力の気配は感じられず、きわめて自然体に見えます。これが、「執着がすべて消えているのではないか」と私が思った理由ですが、そうではないのですね。
執着や煩悩がすべて消えているわけではないと思います。
執着や煩悩がなくなるのは死なないと無理ですから、「死んだら仏」ということもある意味では正しいわけです。
> 諦観がつきぬけると、あの屈託のない明るさが生まれるのでしょうか?
妙好人にもいろんな人がいるわけで、明るいだけではないと思います。

ニューエイジについて書きます。
島薗進「新霊性運動・ニューエイジ・精神世界」『新宗教時代』5 からの引用です。

新霊性運動とはニューエイジと精神世界を含めた、もう少し広い概念だそうです。
神霊主義、スピリッチュアリズムもその一部です。

「新霊性運動は「自己変容」を追求すると述べたが、多くの場合、それは「意識変容」と結びつけられている。個々人が瞑想やその他の修行、技術を用いて日常の醒めた意識とは異なるレベルの意識や心のレベルに気づき、そこに接近していくことに高い価値を置くのである。異なるレベルの意識や心とは、本来的な自己であり、魂とよばれるものに通じている。それは自分が生まれる前の世界や死んだ後の世界とつながっている可能性がある。また、個人の心や身体を超えて、宇宙や自然の力とつながっているにちがいない。意識や心の変化を進めることは、環境との調和的関係を促進することである。それによって自己の運命が変わるだけでなく、さらには世界や宇宙の変容にも寄与していくことになる。このように個人の醒めた合理的意識を超えて新しい考え方、感じ方を広めていくことによって、近代文明のゆきづまりを超えていくことができ、人類の進化の新しい段階を切り開くことになる。」
ニューエイジでは、科学的言説で自説を正当化しようとします。
しかし、ニューエイジの世界観は科学とは言えないしろもので、あくまでも主観的事実、宗教そのものですよね。

またまた長文になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
                         合掌


再び**さんから  2004,12,28,

こんにちは。
松本史朗「縁起と空」を今、読んでいる最中です。

執着をなくせるかどうかについてですが、
152ページから161ページまでを読みますと、
釈尊は無明を滅していないということですから、
執着をなくすことは不可能とまではいかなくとも、
釈尊すらできなかった、と言えるのではないでしょうか。

また、松本氏は涅槃と解脱は仏教ではないと言われています。
涅槃とは煩悩の炎が消えた状態ということですから、
煩悩がなくなるのはありえない、だから有余涅槃、無余涅槃というような ことが言われるようになったと思ってましたし、
解脱とは輪廻から解き放たれることですから、
輪廻を釈尊は認めていたのだろうかと思っていたわけです。
涅槃と解脱は仏教ではないとまでは認めたくはないですが、
この点からも執着をなくすことを目指すのは方向が違うと言えないでしょうか。

またまた思いつきで、ご批判をいただければ幸いです。
                               合掌


曽我から**さんへ  2004,1,6,

拝啓

 明けましておめでとうございます。お返事遅くなり申し訳ありません。年末年始、母やら娘やら家族が家に増えて、ばたばたしておりました。やっと本日(5日)からペースを取り戻そうかという状況です。

 「あたりまえ…般若経」につきましては、おっしゃるとおり空を対象化・実体視し、梵の替わりに据える間違った「仏教」の典型だと思っております。
 1997年に書き上げて、その時は多くの人に見てもらいたいという昂ぶった気持ちでホームページにしたのですが、たくさんの方からご意見ご批判を頂いたお蔭で、いろいろなことに気づき、私の仏教理解も随分変わって(深まって?)きました。
 間違った「仏教」なら削除すべきかもしれませんが、基本的に一度掲載したものはそのまま残すことにしており、多少の愛着もありますので、間違った空解釈の見本として、残しております。

 また、修行についての考え方にも、問題があったと思っています。当時は、無念無想であること、意識の指向性を停止することによって、言語化不能の宗教的体験をし、それによって全体(世界と自分)を一挙に知る般若知が達成されるものと考えていました。
 その理由は、**さんがメールで触れておられたような、見る自己と見られる自己の分裂の問題です。
 「自己を見ようとすれば、見る自己(ノエシス)と見られる自己(ノエマ自己)に分裂する。真に知るべきは、そのつど働いているノエシスだ。ノエシスを知るためにはどうすれば良いか? 知ろうとするものに指向性を向けるからノエシスとノエマが分裂する。いくらノエシスを捕まえようとしても、無限遡及に陥る。指向性を停止すること。なにものをも対象としないこと。そうすれば、ノエシスを含めた世界の全体が一挙に顕現するのではないか。」
 これが当時の考え方でした。しかし、この方法ではなかなか手応えを得ることができませんでした。また、「仏教」への関心が、禅からインド中観、釈尊へと移り変わってくると、無念無想ははたして仏教か、という疑問も湧いてきました。(松本史朗先生の影響も随分受けました。)
 その後、ヴィパッサナーを知り、「観察対象のある定」もあり得るのではないかと思い、そこに今は可能性を感じています。(ただ、世に言うヴィパッサナーにもいろいろあるようで、そこでまた足踏み状態ですが、、。)

 この点で、「あたりまえ…」の中でも「見つめる練習」だけは、まぐれあたり(?)ながら、いい所を突いていたのかも、と思っています。
 私達は、なにかに接すると、それを自分にとって変わらぬ「いつも」の価値・意味・用途をもったものとして認識します。そういった「いつも」の価値・意味・用途が、そのものの自性あるいは我として我々が認識しているものです。しかし、自性・我は、その対象への対応が円滑ですばやくなるという利点のために、我々という自動的反応が生み出しているものであり、我々の側の構想、我々の側の「いつも化」にすぎません。ものが自性・我を備えているのではない。ものは、本当は、無常にして無我なる縁起の現象なのですから。
 我々の日常におけるものへの接し方では、ものはあたかも「自性」あるいは「我」(「いつも」の価値・意味・用途)を備えたものとして、親しい容貌を見せています。しかし、それは我々がかぶせている仮面であり、「いつも」の仮面を引きはがせば、そこには、価値も意味も用途もない剥き出しのよそよそしい現象が起こっているだけです。
 そして、ここからは最近の思いつきですが、この「見つめる練習」を、自分を対象にして行うのが、ヴィパッサナー(観)ではないかと思っています。そのつどの自分にぴったりと密着して随観し、「いつも」自分にかぶせている仮面を突き抜けるところまで自分を見極める。「いつも」自分に与えている価値、持続的に存在すると思っている「自分」を突き破って、剥き出しのよそよそしい現象としての自分のありさまを見る。それが、自分の無常=無我=縁起を知ることではないかと思っています。残念ながら、まだ成功しておりませんが、、、。

 執着の反応をなくすことは、不可能なのかどうか、、。
 確かにきわめて困難であることは間違いありません。釈尊ご自身が説法躊躇の際、痛感しておられます。ただ、困難であるからと言って、直ちに不可能と結論を下すのは、早計ではないでしょうか。私如きのレベルですら、執着の反応はずいぶん弱められたと実感しています。まして釈尊の達成されたことですから、桁違いであると思います。
 「私(1)(2)(3)…」のお話で、(1)の執着をなくしても、(2)の執着が残る、…の問題提起を頂きましたが、やや形式的な論理ではないかと感じました。私自身の実際のこととして、「つまらないことで腹を立てている、意地を張っている」とリアルタイムで気づくことができれば、そういった苦を作る反応はたいてい消えてしまいます。まだその場の反応が止まるだけで、苦を生む反応の生産ラインそのものを根本的に改変できたわけではありませんが、それでも実際に苦の生産が減ったわけで、このことによって、「私(2)とか、私(n)とかに執着が先送りされ、そこで苦が作られる」とは考えられません。
 見る自己、見られる自己をたてて、両方を実在視すると、「私(∞)」まで無限遡及せざるを得ないのかもしれませんが、私とは、そのつどの現象です。自分が実体でないことに気付いて、反応が改まればいいのです。何かに気付いて反応が改まるというのは、例えば、今まで嫌な奴と思い込んでいたのが、実はいい奴だったと気付いて、つき合いがすっかり変わるとか、普通に経験していることだと思います。ただ、自分の無常=無我=縁起に気付くことは、なかなか難しいのですが、、。
 そこで釈尊の登場です。釈尊は、その方法を教えて下さいました。それが、仏教だと思います。四聖諦、八正道、戒定慧、、、。仏教の全体解釈は、HPの「総括」に書いたとおりですが、中でも胆の部分は、自分のこととして(戯論・聞法のレベルを超えて)無常=無我=縁起を腑に落ちて知ること。そのためには、「聞」だけに留まらず、自分をひたすらに「観」することが必要だと思います。無我や縁起は、それを自分のこととして知って執着の反応を改変するための教えです。自分が無常にして無我なるそのつどの縁起の現象であることを目の当たりに見て、執着の反応を繰り返してきたことがいかに愚かであったか痛感する。これが無我=縁起の教えの意味だと思います。
 もし執着の反応をなくすことを最初から諦めるなら、真宗においては、無我、縁起はどのような教えとして可能なのでしょうか?

……
 ご紹介の某御住職のニューエイジなサイト、ざっと拝見しました。幾度か、ゲゲッとか、ヒエーとか、擬音を呟いてしまい、確かに強い違和感を覚えました。同時に、私がお送りしたメールと形式的に似た表現もあり、谷川さんが私のメールに拒絶反応されたのも理解できます。
 どこが似ていて、どこが違うのか?
 似ているところは、進化論をはじめとする科学を方便にするところ。ただし、ニューエイジ(?)の方々の科学への言及は、たとえば輪廻転生などについて、広く承認されていない説を持ち出したり、「現代科学でも完全に否定されている訳ではない。(だから存在する)」といった強弁で、確かに私も強弁しているかもしれませんが、主張内容が随分違う。ニューエイジ(?) の方々は、霊魂、輪廻転生、そして現象を超越する背後世界を説きますが、私はそれらを否定しています。
 進化については、**さんも触れておられますが、価値的なベクトルを伴うかどうかに違いを感じます。ニューエイジ(?) の方々は、価値的な数直線 (or ステージ)があって、進化によってそれを登って行く、あるいは登って行くべきだ、と考えておられるようです。
 一方、私は、仏教には、苦への対処があるだけで、価値も目的もないと思っています。別の言い方をすると、絶対的な価値や目的を想定することは妄想への執着であり苦を増やすことだ、と考えます。
 生命が発生し、その本質である生き長らえ拡大しようとする性質に基づき、生命は、他よりうまく、より有利にそうできるように競争し進化してきた。その結果、人類(凡夫)は、他の生物に対して圧倒的に有利な立場を得たが、苦もまた巨大にしてしまった。巨大化された苦に対処するのが仏教であり、対処しおおせて苦をつくらなくなった人が仏だと思います。
 (利己的遺伝子に因んで言えば、仏教とは、生物個体の側からの、利己的遺伝子の支配に対する反乱なのかもしれません。)
 と、まぁ、弁解すればいろいろ言えますが、確かに表現上の類似点は私も感じましたし、類似を感じて気分が悪いのも事実です。今後は要らぬ誤解を受けないよう書き方を考えねばならないと思いました。御指摘、感謝致します。

 ただし、**さんは、「科学は客観的真理、宗教は主観的真理」とおっしゃっていますが、私は、他の宗教はいざ知らず、仏教(無常=無我=縁起)は客観的真理だと思います。仏教は、「私にとってはこう」であるだけではなく、「誰にとってもこう」であるはずです。もし仏教が客観的真理に反するなら、仏教は間違った教えということになります。
 正しい科学は客観的真理でしょうから、仏教を説明する方便、あるいは「仏教」を検証するテスターに使えます。仏教の正しさを理解していない人、あるいは仏教を主観的にとらえ誤解している人に対して、客観的真理である正しい仏教を説明する方便にできると思います。(例えば、小論で紹介している脳科学者ダマシオの説は、「私とは、無常=無我=縁起のそのつどの反応である」ということのまぎれもない科学的説明になっていると思います。)
 経典の主観的読みだけを根拠に主張しあっても埒はあきません。仏教の歴史的文献学的研究に加えて科学の方便も活用し、微力ながら、正しい仏教をミームとして広める一助になりたいと思います。たとえその結果が、正しい仏教を照らし出すための批判対象としてであっても。
 (勿論、科学イコール仏教と思っているわけではありません。科学は広範で詳細な客観的真理の体系、あるいはそれを目指す営為であり、一方の仏教は、客観的真理の核心部分(無常=無我=縁起)プラス苦からの救済です。)

 ご意見お聞かせ頂き、ありがとうございました。
 引き続き宜しくお願い申し上げます。
                           敬具
**様
   2005、1、6、
                          曽我逸郎

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