**さん(続き) 執着をなくすことは不可能、梵我一如、アニミズム、妙好人 2004,12,18,
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ご返事いただき、まことにありがとうございます。
曽我さんのレベルには到底ついていけませんが、
思いつきであれこれと書いてみます。
○アニミズムについて
人間の有限性や生きることの意味や価値の問いに、アニミズムが答えられるとは思いません。宗教はアニミズムから多神教、そして一神教に進化してきた、という宗教進化論がありますが、曽我さんの論にもその傾向がうかがわれるように感じます。
@) アニミズム私は梅原猛や中沢新一は嫌いですが、しかし彼らのアニミズム礼賛の本を読むといいなあと思います。
ローカルな文化に留まり、普遍性を持ち得ない。文明による生活の変化に耐えられない。現世利益を超えた宗教的問いに答えられない。
もちろん、実際にそういう社会があったはずはなく、彼らの言っていることは理想というか、幻想なんですけど。
柳田国男の死後観、死んだら裏山から子孫を見守り、盆や正月には子孫と交流する、
そういう世界もいいなあと思います。
これまた、死後への恐れはあったわけだから、おそらくいいとこばっかり言っているんでしょうけど、だけども、私たちはそういう宗教観が血となり肉となっていますから
憧れるわけでしょうね。
阿満利麿は、宗教的なもの(習俗、伝統など)の上に宗教があると言ってます。
アニミズム、神道、梵我一如なども「宗教的なもの」という土台でないでしょうか。
それを切り捨てることは知識人の宗教になるだけのような気がします。
○超越的存在について
超越的存在を要請する思想には、二種類がありそうです。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教は神が世界を創造したとするわけですから、
ひとつは、超越的存在と人間とは、実は本来ひとつである、個物は、超越的存在から生まれ、それを分有している、という考えで、梵我一如型の思想です。
他方は、超越的存在と人間とは絶対的に異質であり断絶しているという考え。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教を考えています。
ユダヤ教その他が、はたして「人間はダメなもの」と考えているかどうか、
疑問だと思います。
信者は選民、エリートですからね、異教徒がそれこそ「ダメなもの」でしょう。
梵我一如型における超越的存在は無人格的ですが、ブラフマンが梵天となったように、ヒンズー教の神々は人格的だと思いますが。
断絶型は、阿弥陀信仰を別にすれば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教だけであり、始原を共有しており、ユニークな考え方なのであろうと思います。砂漠の思想ということがあるんじゃないでしょうか。
もっとユニークなのは、釈尊の教えです。超越的存在を要請しません。創造神話がない宗教は仏教ぐらいじゃないですか。
○ B) 梵我一如型思想の問題点について
本来的な「良き自分」が存在すると考え、その結果、さまざまな間違った生き方(主義)に導く。@やBだって、そんなわかりやすくはないですよ。
@ 「良き魂」を「悪しき肉体」から解放せんとする苦行主義・禁欲主義。
A はからい、努力、思考を停止すれば、「本来の良きもの」が働き出すとする無為自然・無念無想主義。
B 執着や欲望も梵から生まれた良きものであると肯定する全肯定主義。
>執着の滅に資することはないと思います。くどいですが、執着をなくすことは不可能です。
梵我一如を説いたバラモン教司祭は、最上位の恵まれた階級です。バラモン階級にある人がみな裕福な暮らしをしているわけでもないそうです。
今インドでは、不可触賎民と言われ、差別されている人たちが、ぞくぞくと仏教に改宗してい るそうです。ぞくぞくでもないんです。
○妙好人について
「梵我一如化した他力」
私があって、如来があって、そして私が如来を信じることで救われる、
という構造なら、まさにこの図のようになりますね。
妙好人は、そうではなくて、自分は全部ダメなままで、弥陀の慈悲に包まれている、そう考えているのではないかと思います。ダメというか、お手上げということです。
私のような、徹底的な悪人でもない、善人でもない、中途半端な悪人、たいていの人はそうだと思うのですが、親鸞の悪人観はこれとは違います。
どうしようもないとお手上げになった、おまかせするしかない、
これがそのままはからいを離れたということになるわけです。
「弥陀の慈悲に包まれる」というと、曽我さんの図で示されるように、
何か快い状態、たとえば母胎の中にいるようなイメージがありますが、
それは梵我一如的慈悲ですね。
慈悲に包まれて、救われたといっても、現実は変わらないわけです。
救われたとは、夢を見ることをやめて、その現実を生きることですから。
妙好人の残された言葉を散見すると、私に絶対的に欠けている対極として憧れを感じます。苦を生みだす執着が、ほとんど、あるいは完全になくなっているように思われます。それは誤解ですよ。
アングリマーラまで劇的ではなくとも、強欲だったり、意地悪だったりした人が、何かのきっかけを経て妙好人になった、というようなエピソードはあるのでしょうか? もしあれば、教えていただければありがたいです。妙好人については
さて、妙好人は政治的に利用されてきたという歴史があります。
あれこれとはからうことなく、阿弥陀様にそのままおまかせすればいいんだ、
ということで、体制に反抗せず、順応するような人間が信心のある人として、
持ち上げられてきたわけです。
ですから、とんでもない乱暴者が仏法を聞くようになってから、人が入れ替わったようになったとか、嫁をいびってばかりいた姑が、嫁の跡をつけて寺に行ったら、
説教を聞いて、という話はありますが、それをそのまま受け取るべきかどうか、
批判的に読むかという問題があると思います。
妙好人は悪人でなくなるというわけでもありませんし、自分よりももっとすごい悪人だって妙好人になったんだから、自分だって見込みがあると喜ぶのもおかしいわけです。
阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」ちくま新書 の最後のほうに回心について書かれています。
はっきりとした回心を経験する人もいれば、何となくという人もいます。
その問題をウイリアム・ジェームズ「宗教的経験の諸相」を引用して論じています。
それはともかく、劇的な回心がなければいけないということじゃないと思います。
戦争協力の問題です。どの本で読んだのか、具体的にどの妙好人がどの戦争にどう協力的だったのかは失念してしまっています。一切を弥陀の慈悲として捉え、すっかりそれにおまかせするという気持ちからすると、戦争などの大きな流れに 飲み込まれた時、妙好人は、それをも容認してしまいがちなのではないでしょうか。妙好人の戦争協力は知りませんが、本願寺教団全体が戦争協力したことは事実で、
いかに大きな動きであれ、苦を増やすことに対しては、きちんと批判的であることが、釈尊の仏教なら可能であるのに、絶対他力の考えでは、「それも弥陀の心」と受け入れてしまうことになるのではないかと危惧します。
○ 「執着は、生命であること自体に根ざし、仏教は、生命であること自体を克服せんとする。」という文章について
進化によって執着が生じたということですが、進化を持ってくる必要はないと思います。
執着するのが人間である、それだけのことです。、
「釈尊は、凡夫から仏へと、生命をさらに一段進化させた」とも言えるのではないでしょうか。これははっきりニューエイジ的発想と言えます。
この進化は、それまでの人間の自然なあり方(凡夫)の否定です。従来の生命のあり方を否定して、新たな生命のあり方(仏)を提示された。釈尊は、生命であること を革新されたのだと考えます
執着は、すっかり消えている筈です。釈尊の超人化、神格化だと思います。
自分のこととしてパアッと、仏教(無常=無我=縁起)を納得できる日が来るようにはあまり思えないのです。曽我さんは仏になるということを難しく考えすぎなのではないでしょうか。
**の集いについてお気遣いいただきありがとうございます。
***の会の真似事で始めたわけですが、新しい人が来ないとこういう会は継続が難しいですね。
東京だと、真宗会館や築地本願寺といったちゃんとした組織が死別者の会をすべきだと思いますが、動きませんよね。
またまた長文になりました。
無礼なことをずけずけと書いていますが、ご容赦ください。
合掌
**さんへの返事 2004,12,24,
拝啓
メールありがとうございます。
私がいろいろと書き散らかしてしまって、論点が増えすぎてしまいました。すみません。
○アニミズムについて
> 「アニミズムは未発達な社会の産物で、捨て去られるべきものであるというような。」
「捨て去られるべき」とは思っていません。
しかし、今の私がアニミズムを信仰しようと思っても、アニミズムの中に生まれ育った人のようにはなれません。また、今の私が抱えている問題、「価値や目的に束縛されず、逃げず、価値のない生を死ぬまでの間どう軽安にちゃんと生きるか」にアニミズムが答えてくれるとも思えません。今生きているアニミズムを撲滅しろ、などと思っているわけでは勿論ありませんが、今の私にとっては、本来のアニミズム(梵我一如化する前のアニミズム)は、残念なことに、すでに実質的に死んでしまったも同然で、過去のものになっています。
> 「血となり肉となっていますから憧れる」、「いいなあと思」う、
これは、言うなれば、自動的反応であり、執着だと思います。憧れていいなあと思うだけなら、さほど問題ではないかもしれませんが、気をつけないと、それによって釈尊の教えを曲げて理解することに発展しかねません。**さんがそうだと言っているのではなくて、世間の理解がその方向に一人歩きして行く可能性があり、警戒すべきだと思います。**さんは、「執着はなくせない」というお考えだと理解していますが、、。
> 「宗教的なもの(習俗、伝統など)の上に宗教がある」、「アニミズム、神道、梵我一如なども「宗教的なもの」という土台」、「それを切り捨てることは知識人の宗教になるだけ」
もし、宗教というものが、「習俗、伝統・・・などの宗教的なもの」の上にしか成り立たないのだとしたら、釈尊の教えは、宗教ではないのかもしれません。私は、釈尊の教えに学びたいと思っているだけなので、釈尊の教えが宗教一般のカテゴリーに収まるかどうかは、まったく問題ではありません。宗教ではない、とされても一向に構いません。ただ、私としては、土台があろうとなかろうと、生きることへの疑問や苦の問題に答えてくれるものが宗教だと思っていますので、釈尊の教えは宗教だと思っています。逆に、土台があり宗教と呼ばれていても、生きることの問いに答えず、苦を増やしているならば、宗教ではないと思います。例えば、土着の文化伝統に強固な土台を持ち、自分たちをカテゴリー化し、そのカテゴリーを対象化し、実体視し、不変の価値があると考え、それを守り拡大しようとする我執の反応に無批判に身をゆだね、戦争をして戦争で人を殺し自分も死ぬことを美化し肯定するような「宗教」団体もあります。
「立派な自分があると思ってそれを守り育てようと執着の反応を繰り返し、苦を作っている。その有り様をよく観察し、自分が無常であり苦を作っている無我にして縁起による現象であることをよく見よ。自分があると思うことの愚かさを知り、執着の反応を停止せよ。」・・・確かにこの教えは、自分のこととして腑に落ちて納得するのは、大変難しいと思います。なぜなら、40億年の進化の過程を経て培われた人間の自動的な反応に反することですから。「知識人」にも、そうでない人にも、等しく難しいことだと思います。
○超越的存在について
> 「ユダヤ教やキリスト教、イスラム教は神が世界を創造したとするわけですから、「個物は、超越的存在から生まれ」ているわけじゃないですか。」
イスラム教のことはほとんど知りませんが、旧約聖書に描かれる世界の創造は、「神が創る」であり、喩えれば、大工さんが家を建てるような感じで、家は大工さんの作品だけれど、家イコール大工さんではない。
それに対して、梵我一如型の場合は、「梵が成る」、いうなれば be made from、バターやチーズが牛乳からできるように、梵から世界、個物は生成する、と考える。それゆえに、「我は本来梵とひとつ」と言われるのだと思います。
両者のこの性格の違いが、人格神か、非人格神かの違いとしてあらわれるのかもしれません。
> 「ユダヤ教その他が、はたして「人間はダメなもの」と考えているかどうか、疑問だと思います。信者は選民、エリートですからね、異教徒がそれこそ「ダメなもの」でしょう。」
ただ、アダムとイブの原罪があり、キリスト教は神の子イエスが磔刑にならねばならなかったというのですから、やっぱり人間はダメなものとして規定されていると思います。人間一般を神の前でまったくダメなものと一旦規定した上で、そうした事情を「知っている」自分たちは、神によって選ばれた民であり、他の人間たちよりは一段高いところにいると考えているのではないかと想像します。(それは、「俺は俺の見た夢を知っているから偉い、他の奴らは俺の見た夢を知らないからダメだ」と言っているのに等しいように思えますが、、。)
> 「ヒンズー教の神々は人格的」
確かに。
ですが、ヒンドゥー教の大勢の人格神のさらに向こうに、分割できない、非人格的な、牛乳の如くに一切のものに転じる本源が想定されているのではないかと感じるのですが、、、。ただ、この方面もほとんど知りませんので、印象に過ぎません。
○進化論を方便に使うこと
> 「進化によって執着が生じたということですが、進化を持ってくる必要はないと思います。執着するのが人間である、それだけのことです。」
釈尊の教えを考えるにあたって、動物の進化を参照しようとする理由は、ふたつあります。
ひとつは、「<人間的はからい>をなくすことが仏教だ」といった主張に対して、では、犬猫牛豚、あるいは赤ちゃんのレベルに戻ることが仏教か、という疑問があり、その疑問を提起したかったからです。凡夫が持っている<人間的はからい>の部分を取り除きさえすれば、「なにかかつてあった理想の状態」に戻ることができ、それが仏である、といった主張にしばしば出会います。しかし、そんな理想状態などいまだかつてどこにもなかった。仏というあり方は、釈尊が発見された前代未聞のあり方です。
もうひとつは、人間が、我という実体ではなく、無常にして無我なる縁起の現象であるということを説明する方便としてです。
極めて単純な生物を研究すれば、生命が、無常にして無我なる縁起の現象であり、いくつかのそのつどの反応の組み合わせであることがわかります。進化とは、反応の組み合わせが複雑精緻になっていくことであり、その道筋を考えれば、生命が、その本質のまま、縁を受けて変化を重ねて複雑化し、人間と言う現象にまで至っていることが分かります。
そして、すべてがそのような現象であるにもかかわらず、人間が自分や執着の対象を不変の価値を持つ永続的実体として捉えるのはなぜか、という点についても考察のヒントを与えてくれます。進化の過程において、現象をカテゴリー化し対象化し実体視する反応もできあがってきた(縁起してきた)。執着という反応も、その一環です。(小論「クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える」参照下さい。)
「執着するのが人間、それだけのこと」、「執着をなくすことは不可能」と簡単に結論を出すのではなく、苦の原因は何か、執着の原因はなにか、可能な限り深く広く考えるべきではないでしょうか? 苦集滅道も縁起もそういう考え方だと思います。
今、私達は、釈尊の時代にはなかった知識を持っています。釈尊の言葉のみならず、そういう知識も総動員して、釈尊の教えが正しいか検証し、正しければ正しいと証明すべきだと思います。進化論のみならず、脳科学や、発達心理学や、動物の行動研究なども使えると思っていますが、なかなか十分に手を広げる能力がありません。しかし、散見したかぎりでは、新しい科学の成果は、使う用語は違っても、釈尊の教えに核心(無常=無我=縁起、一切皆苦など)において一致していると思います。
> 「これははっきりニューエイジ的発想と言えます。私はこういう考えは嫌いです。」
ニューエイジというものがどういうものか、ちゃんと理解できていないので、**さんのご批判を掴みかねています。
漠然と、神霊主義、スピリッチュアリズムのようなものとしてイメージしていますが、どうでしょうか? これらも勉強したわけではありませんが、なんどかこういう立場の方と意見交換したことがあり、そこから以下のように想像しています。
「絶対的に肯定すべき最高霊がいて、その下に、下等霊から上位霊まで、階層(ステージ?)をなして霊界がある。人間にも霊がある(あるいは、霊こそが人間の本体)。人間は、自らの霊を高めて、その階層を一段一段登って行くべきである。」
前回お送りした表をあてはめると、超越的存在として、人格的な最高霊を考えていると思います。一方の人間については、ダメな下等霊からよき高等霊まで階層をなしており、最高霊に近づくべく努めるべきと考えています。梵我一如型と断絶型の折衷形であろうかと思います。
この理解が正しいとすると、私としてはこれではないつもりなのですが、、、。神霊主義者の方からは、「唯物論的」と批判されましたし、、、。(自分では「唯現象論」と呼んで欲しい。)
おそらく、「凡夫から仏への進化」という表現が、「霊がステージを登って行く」という神霊主義(ニューエイジ?)を連想させたのではないかと思います。勿論、私は、「霊」といったものは否定しています。「凡夫から仏への進化」とは、言いかえると、「無常=無我=縁起でありそのつどの反応である人間の反応パターンが、執着にもとづき苦を作るパターンから、執着のない慈悲に導かれた苦を減らす反応パターンに変化すること」ということです。前の部分で進化論的記述をしたことを受けて、このような修辞をし、結果的に**さんに誤解を生じさせてしまったのだと思います。申し訳ありません。
> 曽我さんの言う釈尊は、普通の人が普通に悩んで、普通に目覚めて、普通に死んだ普通の人としての釈尊ではないでしょうか。
釈尊は、普通の人(凡夫)から仏になられたと思っています。凡夫も仏も、生物学的には人間、ホモサピエンスです。ただその反応のパターンが決定的に違うと考えています。
◆ 他力思想について
> 曽我さんは仏になるということを難しく考えすぎなのではないでしょうか。
> 苦や執着や煩悩がなくなることが仏になることだったら、仏になることは不可能です。
この文章からすると、**さんも、凡夫が仏になるという変化は認めておられると思います。やはり違いは、執着をどう捉えるか、ですね。
> 「釈尊は執着を離れなさいと説いたわけですけど、親鸞は執着を離れることは不可能だと言っています。」
もし釈尊と親鸞の見解が異なるなら、私としては、親鸞ではなく、釈尊に従わざるを得ないのですが、、、。
> 「執着はなくならないけど、執着に振り回されなくなるということだと思います。」
それが仏だ、ということでしょうか? 私の理解を私の言い方に直すと、「執着の反応は起こるけれど、それを早い段階で停止することができる。それが仏だ」ということでしょうか? だとすると、これは、私の考えでは戒にあたるのですが、、。
しかし、戒を守るためには、「いつも気をつけて」いなければならない筈ですが、妙好人には、そのような努力の気配は感じられず、きわめて自然体に見えます。これが、「執着がすべて消えているのではないか」と私が思った理由ですが、そうではないのですね。
> 「どうしようもないとお手上げになった、おまかせするしかない、これがそのままはからいを離れたということになるわけです。」
> 「慈悲に包まれて、救われたといっても、現実は変わらないわけです。救われたとは、夢を見ることをやめて、その現実を生きることですから。」
執着はあるけれど、それを諦めるということでしょうか? 諦観がつきぬけると、あの屈託のない明るさが生まれるのでしょうか?
ほとんどまったく勉強もしていないくせに、簡単に結論に飛びついてはいけませんね。大拙の「妙好人」は読んだ覚えがありますが、お薦めの本は読んでいません。釈尊とは違う方法で、執着は消えていないにしても、なんらかの対処が起こっていると思いますので、今後とも他力思想には関心を向けて勉強したいと思います。関心を引き起こして頂いたこと、感謝致します。
ご意見、ご批判、また是非お聞かせ下さいませ。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
敬具
**様
2004、12、24、
曽我逸郎
【追伸】
ひとつ前のメールで、「原始経典における修行の説明」について質問を頂いていたのを忘れていました。失礼しました。
他にもあるでしょうが、パーリ中部第118 Anapanasati Sutta や 同10 Satipatthana Sutta が、具体的な修行方法を説くものとして、一番読まれているのではないかと思います。
大蔵出版から片山一良訳のパーリ仏典のシリーズが出ています。後者は、「念処経」と訳されていますが、念住経という経名もよく目にします。四念処(or 四念住)を説いています。前者は、漢訳では「安般守意経」という名で有名です。(片山訳でのタイトルは、そこまで買い揃えられていないので不明。)呼吸の観察を説いており、中国や日本の禅宗でも重視されています。また、後者は、はやりのヴィパッサナーの解説でよく引き合いに出されます。ただ、両者がどれくらい「原始」なのかは、私にはよく分かりません。