**さん(続き) 梵我一如とアニミズム、聞法vs修行、妙好人 2004,12,11,

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ご返事いただき、まことにありがとうございます。
HPまで見ていただいたようで、申し訳ございません。
またブログの文章の中で紹介させていただく件、ありがとうございます。

梵我一如型思想については全くおっしゃるとおりだと思います。
私はニューエイジに興味があるんですが、 ニューエイジも梵我一如型思想と言えるんじゃないかと
曽我さんの説明で気づきました。
ニューエイジはグノーシス主義だと、ヨハネ・パウロ二世は書いてますが、
グノーシス主義も梵我一如型思想と共通点があるように思います。
袴谷憲昭は、土着思想は普遍的だと書いていますが、まさにそうですね。

で、疑問が起きるわけです。
土着思想が普遍的だとして、だったらどうして土着思想に問題があるのか、です。
私はHPにニューエイジ批判を書きたいと思っているんですが、
じゃ、どこがいけないのか、となると、うまく説得できる考えを思いつけません。
曽我さんの梵我一如型思想批判にもそれを感じます。
苦の解決にはならないどころか、苦を再生産すると言われますが、
梵我一如型思想はわかりやすいし、魅力的だし、どうしてそれがいけないのか。
結局のところ、どういう立場を私は選ぶか、ということなのかと思います。

> 意味不明な言葉を、意味ありげに使うのが梵我一如型思想です。
老荘の道とは「荘子」によれば、
「夫れ道は、情有り信有るも、為すこと無く形無し」
ということだそうです。(袴谷本からの引用)
ところが親鸞の「唯信抄文意」に、
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」
という文章があり、「荘子」に似てますね。
まさに意味不明な言葉を意味ありげに使ってます。
どう考えるべきなんでしょうね。

和バアさんのメールにもありましたが、
「仏の慈悲の中に生かされている」というような言い方、
これは縁起を表していると言えるし、梵我一如とも言えます。
言葉が意味不明というより、その言葉を使う人がよくわからないことをわからないまま、いかにも意味ありげに使っていることに問題があるんじゃないでしょうか。

>釈尊の尺度は、ただ「苦を作るかどうか」だけ。
>苦を作ることは悪いことで、苦の生産停止に資することはよいこと。
>無常にして無我なる現象は他の現象に縁起して、
>時間の中にしばらくの間発生します。我々もまた然り。
>しかし、進化の結果身につけた、我々という反応の反応パターンは、
>執着に縛られており、反応する度にほとんどいつも苦を作っている。
>無常=無我=縁起を自分のこととして腹に落ちて納得し、執着をなくせば、
>自動的反応を苦を作らぬものに変えられる。
>これが釈尊の教えだと思っています。
ここのところです。
曽我さんの「現時点における私の仏教理解」を読みまして、疑問に思った点です。
無明や執着はなんによって生じるのか。
「生命であることそれ自体が自分という反応を維持し拡大しようとする反応であり、
我々の苦、執着、無明は元々そこに由来している。であるなら、
生命であることそれ自体が、根本無明であり、原我執であるということもできる。」
と言われていますね。
となると、無明・執着をなくすことは不可能ではないでしょうか。
人間存在自体が無明・執着を抱えているわけです。(つまり悪人)
それは、人間はかならず死ぬ存在であるにもかかわらず、
死なないようにしようと不死を求めることと同じではないでしょうか。

> で、聞法と修行についてですが、HPの総括にも書きましたとおり、
>両方必要だと思っています。
> 聞いて正見として得た無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得するためには、
>修行が必要だと思います。
修行とは何か、ということになると思うんですが、一般的に修行とされているものは
すべて苦行じゃないかと私は思っております。
提婆達多が五つの要求をしてますね、釈尊は甘い、もっと厳しくしなくてはと。
それを苦行主義といわれているわけですが、
提婆の要求はいわゆる修行とは違います。生活そのものを厳しく、ということです。
それすら釈尊は拒んだということは、
修行そのものの必要性を認めていないように思います。
不勉強なのですが、原始経典にどういう修行をすべきか、
その具体的な説明はなされていないのではないでしょうか。

曽我さんの言われる修行とは、思考することであって、いわゆる修行ではないですね。

だったら、定という形にこだわる必要はないように思います。

>  妙好人の執着のなさは、どのようにして到達されるのか?
昔の人は、「念仏を称えたら阿弥陀さんに救われる」という教えをそのまま信じれた、

つまり、阿弥陀の物語を素直に信じることができたわけです。
しかし、今の人は阿弥陀の物語をそのまま受け取ることができないわけです。
あれこれと理屈をつけて解釈するわけで、それじゃはからいそのものですね。

> 釈尊が説かれたものと同じなのか?
曽我さんのイメージする釈尊はいささか厳しすぎるように思いますよ。(笑)
自然に対する感覚とか、生かされているありがたさということとか。
まあ、いいじゃないですか。

> 妙好人とは、類い稀なよい気質を持つ極一部の例外的な人にだけ私のよう
> 可能な特別なあり方なのではないかという気がしてきます。
例外的な人だけが救われるのだったら、仏教とは特殊な人のための教えに
なるわけですから、タテマエから言ったら、そうではない、と断言します。
本音から言うと、気質というか感覚というか、本質をつかむ人がいるように思います。

それと、その感覚を言葉で表現する才能も妙好人の特色です。

真継信彦が書いていますけど、宗教的偉人は絶望の天才だと。
老人や葬式を見て、落ち込むのはわかりますけど、出家しようとは思いませんよね。
親鸞の自己を見つめる厳しさにしろ、どうしてそこまで考えるのかと思います。
能力といったらまずいけど、そういうものがあるような気もします。

> 道元(曹洞宗)については、それこそなんにも知りませんが、
知らないと言う人に質問をするのはおかしいですが、
嫡嫡相承(字が違うかもしれませんが)という言葉がありますね。
道元は中国禅を否定したわけですが、となると師資相承も否定したことになります。
それじゃまずいように思うのですが。

> 上座部系にも梵我一如型が入り込んでいるように思えますし、、。
タイの仏教はヒンズー教の影響が大でしょう。
とうぜん梵我一如的要素は否定できないと思いますよ。

> 頂いたメール、掲載させていただきたいと存じます。「匿名で」とありますが、
> ブログのURLはそのまま出しても構わないでしょうか?
何となく恥ずかしいんですよ。
ということで、私の質問メールは要約だけにしていただけたらと思います。
曽我さんの返事も、適当に省略していただけたらありがたいです。

・・の集いというのは2年ちょっとやってますが、参加者が減っていて、
いつつぶれるかわからない状態です。
曽我さんが**近辺にお住まいなら、ぜひ出席していただきたいとこです。

やたら長文になりました。
おまけに下手な文章で理解しにくいでしょう。
ごめんなさい。

                      合掌


**さんへの返事  2004,12,12,

拝啓

 お返事ありがとうございます。

 他力思想、特に妙好人といわれる方々について考える機会を与えてくださったこと、感謝致しております。

◎1 アニミズム、超越的存在を立てる思想(梵我一如型、断絶型)と釈尊の教え

 メールを拝読して、原初のアニミズムと梵我一如型思想とは、区別をした方がいいかもしれない、と思いました。

 人間の有限性や生きることの意味や価値の問いに、アニミズムが答えられるとは思いません。アニミズムにおいては、生きんとすることは自明の前提であり、過酷な自然の中でいかに災いを避け、豊作・豊漁を得るか、アニミズムの守備範囲は、いってしまえば現世利益だったと思います。しかし、その望むところの利益は、大それたものではなく、自然への畏敬もあって、真に大自然の中に縁起するものとして、人々の生活は営まれていたのだろうと想像します。
 また、原初のアニミズムでは、神は、必ずしも良きものではなく、「気まぐれなもの」という性格のほうが強く、人間は、それに翻弄される弱きものだったと想像します。だからこそ、人々は、神をもてなし機嫌をとって味方にしようとした。一方、発達した梵我一如では、梵は絶対的に良きものであり、我もまたなにか本来良きものとして位置付けられています。この点に重大な相違があるわけで、原初のアニミズムを梵我一如型に放り込むのは、少し乱暴かもしれません。

 しかし、そのような純粋なアニミズムは、文明によって人々の生活が自然から乖離してくると、本来の形を保てなくなります。文明によって、人々は(一部の支配階級だけかもしれませんが)、自然の脅威に晒される度合いが低くなり、自然の恵みをより容易く手に入れるようになります。生活にゆとりが生まれると、生の意味や目的や、人間の有限性などといった、現世利益を超えた(贅沢な?)問いも浮上します。こういった問いに答えるために考え出されたのが、絶対的に肯定すべき超越的存在を要請し、それによって説明の体系をたてることだったと想像します。

 超越的存在を要請する思想には、二種類がありそうです。
 ひとつは、超越的存在と人間とは、実は本来ひとつである、個物は、超越的存在から生まれ、それを分有している、という考えで、梵我一如型の思想です。万物は、人間を含めて、「本来良きもの」とされます。アニミズムとの連続性が高く、アニミズムの発展型と言えるでしょう。
 他方は、超越的存在と人間とは絶対的に異質であり断絶しているという考え。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教を考えています。人間は、「ダメなもの」であり、原罪ある罪人とか悪人として規定されます。阿弥陀信仰も、ここに入るのではないかと思います。
 梵我一如型における超越的存在は無人格的ですが、断絶型では人格的で、ここにもなにか掘り下げるべきことが隠れているのかもしれません。
 梵我一如型は、インドの他、中国の老荘思想など、世界各地で並列的に発生したようですが、断絶型は、阿弥陀信仰を別にすれば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教だけであり、始原を共有しており、ユニークな考え方なのであろうと思います。(阿弥陀信仰も、そこからの影響を受けている?)

 しかし、もっとユニークなのは、釈尊の教えです。超越的存在を要請しません。あくまでも現実に立脚し、現実を徹底的に観察・分析することで、我々が本当は無常にして無我なる縁起の現象であることを発見されました。我々は、そのような現象であるにもかかわらず、現象を変わらぬ価値を持って存在し続ける実体として捉え執着しており、そのために苦を生み出している、そう教えて下さったのです。ここには、超越的な存在もなければ、「よきもの」とか「だめなもの」とか、あらかじめ価値の決まったものもありません。

超越的存在 人間
アニミズム 自然(気まぐれ) 翻弄される弱きもの
超越的存在
を立てる。
梵我一如型
バラモン教,老荘思想,神秘主義,「仏教」
絶対善
非人格的
本来よきもの
超越的存在と本来ひとつ
断絶型
ユダヤ教,キリスト教,イスラム教,阿弥陀信仰?
絶対善
人格的
ダメなもの
原罪ある罪人、悪人
超越的存在
を立てない。
釈尊の教え そのつどの縁への反応
善悪は定まっていない。
凡夫は苦を作る反応を繰り返す。

 (本当は、こういうことはきちんと実証的な調査をして言うべきことだと思います。私にはそのゆとりも能力もないので、漠然とした想像で言っているに過ぎません。)

◎2 それぞれの問題点

@) アニミズム
 ローカルな文化に留まり、普遍性を持ち得ない。文明による生活の変化に耐えられない。現世利益を超えた宗教的問いに答えられない。

A) 超越的存在を立てる思想
 存在して欲しいという要請に過ぎないのに、存在しない超越的存在を存在すると考えている。
 (この批判が超越的存在を信じる人にはまるで有効でないことは、自覚しています。)

B) 梵我一如型思想
 本来的な「良き自分」が存在すると考え、その結果、さまざまな間違った生き方(主義)に導く。
 @ 「良き魂」を「悪しき肉体」から解放せんとする苦行主義・禁欲主義。
 A はからい、努力、思考を停止すれば、「本来の良きもの」が働き出すとする無為自然・無念無想主義。
 B 執着や欲望も梵から生まれた良きものであると肯定する全肯定主義。

 @とBは、比較的分かりやすく「なんか変だ」と気づくことができますが、Aは深遠な印象を与えます。
 「あーした方が得か、こーしたら損か、そんなことばかり考えておるから人間はダメじゃ。鳥を見てみい。日が出れば唄い、実をついばみ、季節とともに生きておる。いらんことはなんも考えておらん。それで万事うまくいっておる。見習わねばいかん。自然はうまくできておる。ありがたいことじゃ。」
 型に嵌まった見方で外からぼーっと見ればそう見えても、鳥だって寒さに震え天敵に追われながら懸命に生きています。最期は誰かに食われるか、病気で死ぬか、多分悲惨なものでしょう。そのことを指摘すれば、おそらくは「それもまた摂理(=鳥は苦しみながら死ねばよい)」などという答えが返ってきます。時に応じて、AとB、時には@も、が使い分けられています。
 梵我一如型の思想から導き出される生き方(主義)は、恵まれた環境にいれば自己満足に浸らせてくれるかもしれませんが、執着の滅に資することはないと思います。

 梵我一如を説いたバラモン教司祭は、最上位の恵まれた階級です。一方、今インドでは、不可触賎民と言われ、差別されている人たちが、ぞくぞくと仏教に改宗しているそうです。梵我一如は、現実にある苦を肯定する思想であり、他者の苦を座視できる恵まれた者の思想だと思います。(この発言は、仏教改宗運動を先導したアンベードカルの思想に梵我一如的傾向がないことを確認した上で言うべきかもしれませんが。)

C) 梵我一如型「仏教」
 Bに加えて、釈尊の教えではないことを、釈尊の教えと称する事で、人々を真の釈尊の教えから遠ざけています。罪が重い。

D) 断絶型の超越的存在を想定する思想
 身に余る問題です。上記A以上のことは、まだ書けません。一般論としては、自分たちの信じる超越的存在を共有しない人びとに対して、攻撃性が他よりも強い、という傾向はあるかもしれません。それにはおそらく、超越的存在が人格神であることが関係していると思います。

 (ブッシュ大統領の場合、原理主義的なキリスト教の影響が強いそうだが、自分をまったくダメなものとは考えておらず、明らかに増上慢が見られる。どう捉えるべきか? 選民意識? 神に対して自分たちはまったくダメだが、自分たちの下に、もっとダメな連中がいる、と考えているのだろうか・・・?)

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◎3 次に、妙好人について考えます。


 図を添付します。和バアさんへのメールで作った「梵我一如化した他力」の図とは、少し変えました。前の図では、饅頭の外側が「ダメな自分」で、その中に弥陀の慈悲が働きだすと考えました。そうすると、それが自己肯定の芽となる可能性があります。妙好人は、そうではなくて、自分は全部ダメなままで、弥陀の慈悲に包まれている、そう考えているのではないかと思います。
 原初的アニミズムも、ただもう大自然の神様にお願いするしかないという考えで、増上慢がなく、それ故、梵我一如型思想の孕んでいる問題点が顕在化しないのかもしれません。だとすると、梵我一如型思想の問題は、「自分は本来良きものである」という増上慢を内包していることにあるのかもしれません。
 自分を本来良きものと捉える梵我一如型思想に対して、妙好人は、自分をまったくダメなものとして見ているので、この点に大きな違いがあります。

 妙好人の残された言葉を散見すると、私に絶対的に欠けている対極として憧れを感じます。苦を生みだす執着が、ほとんど、あるいは完全になくなっているように思われます。
 ですが、二、三、疑問点もあります。けして難癖をつけているのではありません。学びたいが故の自問自答で逢着した疑問です。御立腹なさらず、お気づきの点、ご示唆頂ければ幸甚です。

 ひとつは、先回のメールでも書いた、元々類い稀な素直なよい資質をもった人が妙好人になるのではないか、という思いです。私のような、徹底的な悪人でもない、善人でもない、中途半端な悪人、たいていの人はそうだと思うのですが、そういう我々にとっては、まったく異質な、つまりお手本にしにくい人のように思えます。
 私が読んだ妙好人の記録は、たまたまなのか妙好人になった後のものばかりでした。アングリマーラまで劇的ではなくとも、強欲だったり、意地悪だったりした人が、何かのきっかけを経て妙好人になった、というようなエピソードはあるのでしょうか? もしあれば、教えていただければありがたいです。

 もうひとつは、以前何かの本で読んだことが、歯に挟まっているように未消化なまま頭の隅にひっかかっているのですが、戦争協力の問題です。どの本で読んだのか、具体的にどの妙好人がどの戦争にどう協力的だったのかは失念してしまっています。ひょっとすると、私の勘違いかもしれません。ですが、一切を弥陀の慈悲として捉え、すっかりそれにおまかせするという気持ちからすると、戦争などの大きな流れに飲み込まれた時、妙好人は、それをも容認してしまいがちなのではないでしょうか。
 いかに大きな動きであれ、苦を増やすことに対しては、きちんと批判的であることが、釈尊の仏教なら可能であるのに、絶対他力の考えでは、「それも弥陀の心」と受け入れてしまうことになるのではないかと危惧します。

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◎4 「執着は、生命であること自体に根ざし、仏教は、生命であること自体を克服せんとする。」

 生命は、相互補完的な反応の組み合わせであり、置かれた状況によって、ある反応が起動し、それによって反応の組み合わせが維持発展する、そういう反応の組み合わせだと思います。(例えば、人間でも、暑ければ汗をかいて、体温の上昇を防ぐ。)
 その反応の組み合わせ(生物)は、遺伝子によって増殖し、しかも、時々遺伝子には複写ミスが起こる。稀に複写ミスによる奇形の方がよりうまく状況に反応することがあり、これによって生物は進化してきました。(人間が進化の頂点に立っているなら、人間は、奇形の最大の蓄積だということになります。)
 進化の過程において、現象を、自分にとって同じ価値を持つカテゴリー(餌、天敵など)として捉え、欲望(or 恐怖、嫌悪 etc.)することが始まりました。さらに、記憶の仕組みによって、さまざまのカテゴリーに属する現象を常住の存在として対象化し、さまざまにシミュレートしてそれを獲得(or 破壊、回避 etc.)しようとすることが始まりました。(執着)

 執着は、生命の本質である「自分という反応を維持し拡大しようとする原我執」に根ざし、その延長線上に進化によって生み出された反応の仕組みです。しかし、それは、いわば過剰適応で、かえって苦を生みだしています。

 釈尊は、「現象を現象としてそのままにみる」という、それまでのどの生物もなし得なかったことを成し遂げられ、それによって執着することの愚かさに気づかれました。自分が実在ではなく、そのつどの反応であることを見て、執着によるところの、自分を守り育てようとする自動的反応が改変されたのです。そして、苦を作らず、軽安に、くつろいで穏やかに、縁に応じて現象することが可能になりました。

 このことは、おかしな擬人化をしますが、このように見ることも可能ではないでしょうか。
 よりうまくいきようとする原我執が、進化の今の段階で採用している執着という仕組みに対して、「これは本当にうまく生きる仕組みか? かえって苦を作っているのではないか? 本当によい生き方は、別の生き方ではないか?」と疑問を抱き、ついに新しい生き方を発見した、という風に。
 つまり、「釈尊は、凡夫から仏へと、生命をさらに一段進化させた」とも言えるのではないでしょうか。
 この進化は、それまでの人間の自然なあり方(凡夫)の否定です。従来の生命のあり方を否定して、新たな生命のあり方(仏)を提示された。釈尊は、生命であることを革新されたのだと考えます。(「克服」より「革新」の方が適切な言葉だったと思い至りました。)

 とはいえ、実際のところ、仏というあり方が、従来の凡夫のあり方のうち、どの反応を維持し、どの反応を革新しているのか、私には厳密には分かりません。釈尊とて、暑いときには汗をかかれた筈です。でも、怒りや恐怖には、なんらかの変化があると想像します。執着は、すっかり消えている筈です。

 もっとも凡夫の反応ですらまだほとんど解明されていないのですから、仏の反応まで解明されるのは、いつのことだか分かりませんね。まず、研究対象になる仏を用意する必要がありますし、、。(笑) そんな日は来るのでしょうか。

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◎5 聞法と修行、思考と定について

 私は、残され翻訳された経典の一部を読んだり、いろいろな人の考えを読んだり聞いたりして、それを材料にあれこれ考えている訳ですが、これをいくら続けても、自分のこととしてパアッと、仏教(無常=無我=縁起)を納得できる日が来るようにはあまり思えないのです。

 そのための方法として釈尊が教えて下さったのが、定における自己観察ではないかと思っています。それを修行と呼んでも、一種の思考と呼んでも、定義の問題ですから、どちらでもいいのですが、やるべき効果のあることだろうと思います。経典に登場する戒や定、自己観察は、後世まぎれ込んだものではなく、やはり釈尊が弟子たちに教えられたことではないでしょうか。

 必ずしも定の最中でなくとも、雲を見上げた瞬間とか、歯を磨いている時とかに突然分かるというような、そういう、宗教的体験とまでは言わなくとも、なんらかの非連続な瞬間があるのだろうと想像しています。定における自己観察は、それを起こりやすくしてくれる筈と期待しています。
 (それとも、仏教は、連続的な大きなカーブを描いて徐々に実現されるのでしょうか? ゆっくりと良い方向に、私は、ハンドルを切っている? そうだといいのですが、、、。でも、この場合でも、定における自己観察は、良い効果をもたらしてくれるという気がします。)

 とはいえ、拘っているつもりはなく、他にも有効な方法があれば、是非学びたいと思っています。他力思想による方法で、これこそがそれだ、というものがあれば、是非ご紹介下さい。

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 「・・の集い」、事情を知らぬ者の無責任な発言ですが、是非続けて頂きたいと思います。私の周りでも、何人か、事故や自殺で突然お子さんを失った人を知っています。気持ちの整理をつけられず、傍目にも苦しんでおられた方もおられるし、外からは落ち着いて見えるような人もいます。それぞれどんな葛藤があるだろうと思うと、屁理屈だけで仏教を考えている私には、声をかけることもできません。
 ちょっと遠方ですが、機会があればいつか私もお話を聞かせていただきたい気持ちです。

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 掲載の御了解、ありがとうございます。なるべく勝手な要約はせず、不都合なところはすべて伏字にして掲載させて頂きます。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
                            敬具
**様
       2004、12、17、
                          曽我逸郎

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