**さん(匿名) 梵我一如、聞法vs修行、(妙好人) 2004,12,11,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは。突然のメールですが、お許し下さい。
私は真宗の僧侶です。
袴谷憲昭「批判仏教」「本覚思想批判」を読み、
親鸞、真宗はどうなんだろうかと思ったわけです。
それで梵我一如について検索すると、
曽我さんのHPにたどり着きました。

04,4,24,和バアさんへのメールに書かれていた梵我一如の説明には、
つくづく感心いたしました。
納得です。
私のブログの文章の中でリンクさせていただけないでしょうか。
http://…(略)
どうぞよろしくお願いいたします。

真宗は仏教ですから梵我一如を否定しているはずですが、
絶対への帰一みたいなことを言ったり、
先験的に本願があるという前提のもとに論をすすめたりしますから、
梵我一如的なものに落ち込みかねないところもあるように思います。
どうも梵我一如的思考というのは、私たちの血となり肉となっているんではないでしょうか。

曽我さんにはいろいろお尋ねしたいこともあるんですが、
一つだけお聞きします。
それは初転法輪に関することです。
釈尊が五比丘に説法します。
そして五比丘はさとりを開きます。
行によってではなくて、教えを聞くことによってさとりを開いています。
ですから、仏教では聞法が大切であって、
修行というものは必要ないのではないか、
というふうに私は考えています。
八正道も修行項目というよりは、生活、生活習慣でしょ。
正定がありますが、戒定慧ですから、慧が問題です。
シュリーパンタカは掃除をしながら智慧を得ました。
いかがでしょうか。

私は曹洞宗寺院の早朝坐禅会にたま〜に行きますが、
雑念が次々と浮かぶだけで、どこがいいのかさっぱりわかりません。
座禅が向いている人もいるでしょうが、多くの人には聞法のほうが良いように思います。

怠け者の感想です。

お忙しいでしょうが、よろしければお答えいただければ幸いです。
「あたりまえのことを方便とする般若経」をプリントアウトしました。
ゆっくり読ませていただきます。
なお、万が一このメールを意見交換のページに掲載される場合、匿名でお願いします。

                       合掌


**さんへの返事  2004,12,12,

拝啓

 メール頂戴しありがとうございます。

 私は、真宗も他力思想もほとんど勉強したことがないくせに、上っ面の印象だけで生意気なことを書いているおります。ホームページに掲載しておられるような妙好人の言葉に触れるたび、自分にはけして行きつけない世界だと感じます。私には見えていないものがあるということだけは感じているのですが、そのあたり是非また御教授頂下さい。

 梵我一如型の思想については、人類のあらゆる文化に共通する、非常に根強いもので、自然に陥ってしまう発想だと思います。おそらく、人類共通の我執によって、人は、世界と自分を「よきもの」として定位したくなるのでしょう。薬物や宗教儀礼、過度の修行などによるトランス状態、没我の至福感も、「自分と世界はひとつ」という考えの形成に一役買っているような気がします。それから、なぜだか分からない言葉に対する不信感、憎悪もあって、不合理ながら意味ありげな梵我一如型思想を支えていると思います。
 仏教がいくら梵とか我とかいう言葉を拒絶しても、いつのまにか別の言葉がそれに置き換わってしまっており、「仏教」は梵我一如型に変容しています。空や真如は、本来は現象に現象が縁起する様を表す言葉だった筈ですが、いつのまにか対象化され、梵の役割をしているケースがほとんどです。如来蔵、仏性、自性清浄心、心といった言葉も、大抵はアートマンの代わりになっていると思います。

 今、読み返して思ったのですが、梵我一如型の思想は、表向きは言葉を否定しながら、実は言葉によって延命してきたのではないでしょうか。言葉の意味をすりかえることによって、、。意味不明な言葉を、意味ありげに使うのが梵我一如型思想です。梵我一如型思想は、言葉の虚構性の中にのみ成立する虚像だと思います。本当に言葉を全否定すれば、つまり「離言」という言葉や、「言葉を超えたなにか」といった表現まで禁止すれば、梵我一如型思想は、霧消する他ないと思います。梵我一如型思想は、自分が不合理だと自覚しているから、言葉を憎むのでしょう。

 対して、釈尊においては、梵の如き絶対的によきものも、逆に絶対的に悪しきものも、ありません。釈尊の尺度は、ただ「苦を作るかどうか」だけ。苦を作ることは悪いことで、苦の生産停止に資することはよいこと。そのような間接的な仕方で、善悪は評価される。
 無常にして無我なる現象は他の現象に縁起して、時間の中にしばらくの間発生します。我々もまた然り。しかし、進化の結果身につけた、我々という反応の反応パターンは、執着に縛られており、反応する度にほとんどいつも苦を作っている。無常=無我=縁起を自分のこととして腹に落ちて納得し、執着をなくせば、自動的反応を苦を作らぬものに変えられる。これが釈尊の教えだと思っています。

 で、聞法と修行についてですが、HPの総括にも書きましたとおり、両方必要だと思っています。(我ながら、つまらない返事ですね。)
 正しく聞いて、よく考え、正しい見解を持つ。それがまず一番大切です。しかし、その見解を、本当に自分のことだと身に沁みて納得するためには、いつも自分に気をつけて行いを整えること(戒)、そのために時間をとってする精神集中(定)と定における自己観察、それによって達成されるであろう「なるほど自分はそうだった、愚かだった」という気付き・納得(慧)というプロセスが必要だと思っています。

 今回メールを頂いて、妙好人の執着のなさは、どのようにして到達されるのか? 釈尊が説かれたものと同じなのか? そういった問題意識にいきあたりました。
 今の私からすると、妙好人にはどうしてもなれないと感じます。絶対他力なのですから、なろうとすればするほど遠ざかる。易行どころか、難行中の難行。正直に申し上げると、残された言葉を読むと、妙好人とは、類い稀なよい気質を持つ極一部の例外的な人にだけ可能な特別なあり方なのではないかという気がしてきます。私のようなひねくれ者(悪人?)には、絶対不可能。それに比べると、自力の方が、さぼりながらでも、遅い歩みでも、少しずつ進んで行けそうですし、万人向けなのではないかと感じますが、如何でしょうか。

 禅についてもえらそうなことが言える程知っているわけではありませんが、やはり梵我一如化の傾向が結構あるように感じます。道元(曹洞宗)については、それこそなんにも知りませんが、考えを突き詰めすぎて、凡夫には分かりにくくなっているのではないかと思います。坐るのも、どうしてなんのために坐るのか、教えてくれない。「黙って坐ればそれでよい」そんなことしか言えなくなっているように感じます。

 聞いて正見として得た無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得するためには、修行が必要だと思います。それは南方上座部系の伝統のどこかに埋まっているような気がしていますが、そこでも様々な流派、諸説が紛糾しており、私自身一挙に霧が晴れたような状態ではありません。上座部系にも梵我一如型が入り込んでいるように思えますし、、。
 ただ、おそらく間違いないのは、息の観察から初めて、定を養い、リアルタイムの自己観察を先鋭化することであろうと思っています。
 言葉で聞いたことを、耳学問で終らせず、自分において自分のこととして確認することが必要で、そのために自己観察するのだと思います。五比丘もシュリーパンタカも、釈尊から聞いた話を、自分のこととして反省し突き詰めて、ついに気付きを得たのだろうと推測します。

 「・・の集い」(**さんが主宰しておられる、身近な人を失った方の集い)のページ、拝見しました。いろいろな方により添い、向き合っておられるのだと、ある意味うらやましく感じました。無常だとか無我だとかいう「屁理屈」が通用しない、「宗教」が求められる世界だと思います。キサーゴータミ―の故事を思い出して、釈尊は、理屈の部分だけでなく、人間的な力もすごかったのだと改めて思いました。谷川さんも、そういった最前線で活動しておられるのだと思い、頭が下がります。

 今後ともお感じの点、ご指摘下さいますよう宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・
 ブログで取り上げていただけるなら、大変あり難いことです。宜しくお願い申し上げます。
 頂いたメール、掲載させていただきたいと存じます。「匿名で」とありますが、ブログのURLはそのまま出しても構わないでしょうか?
 「・・の集い」も、名前を出せば検索ですぐに分かってしまいますが、差し障りありますか? たくさんの方に是非知ってもらいたいと思いますが、、、
 ご指示下さいませ。

                            敬具
**様
    2004、12、12、
                          曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  続きのメールへ