信濃大門さん アンベードカルは、その後読みましたか? 2004,12,11,
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勝手ながらご質問をさせていただきます。
私は、「一夜賢者の偈(中部経典)」と正受禅師の「一大事とは今日只のことなり」の詩に出会い「瞬間、瞬間」の意識の重要性を痛感し、これまで「意識の拡大」「意識の進化」を趣味的研究で心理学的な方面を追求から思考を修正することになりました。
仏教学に思考を向けてHPを見ると非常に興味を持たされました。
そんな折に曽我さんのHPに出会い「総括部」の「輪廻転生あるいは死後生及び注:7(輪廻と霊魂の否定)」、「あたりまえのことを方便とする般若経」「意見交換」を読ませていただいて今のところ私の思考に否定の気持ちが起きないどころか共感いたしました。
世の中には似た考えの方がおられるものだと思うとともに大変勉強になります。
そこで一つ伺いたいことがありますのでよろしくお願いいたします。
12月9日の夕刊(信濃毎日)にインドでの仏教徒の記念式典の記事が掲載されていて、人口の1パーセントで多く見て1億人の仏教信者になりつつある状況が紹介されていました。
ご存知のとおりアンベードカルにはじまる不可触民のヒンズー教からの大量改宗ですが、曽我さんの意見交換の中に「アンベードカルの著書」の話がありました。
その中で曽我さんはその著書をまだ読んでおられないようでありましたが、その後いかがですか。
彼の著書の中に「ブッダとそのダンマ」山際素男訳(光文社新書)という書籍があります。この中で、彼は輪廻転生についてはブッダの無記の姿勢を流伝しており、「魂の輪廻転生信仰」を否定しています。
カースト制度からの脱却という民族的な恥部、古代権力者の異民族に対する支配制度からの解放に、その否定の意味するところは大きいものがあります。
アンベードカルの思想・仏教は、釈迦族の王子から仏陀に至る「輪廻転生からの最終解脱」の事実が仏陀の輪廻転生の肯定の証と考える者からすればは批判の対象であり、またヒンズー教からの迫害、攻撃を受けているわけでです。
そのような現状の中でのインドにおける仏教の再興は大変なものであります。
それだけアンベードカルの思想・仏教には知っておくべきところがあると思い、以前から最近のインド仏教に関心を持っています。
「ブッダとそのダンマ」の中には「転生のない再生」の話があります。
私は釈尊の最終解脱、仏陀に至った時点を初転法輪の段階と考えていますのでこの「再生」の意味に共感を覚えました。
この再生の意味するところは、ご存知の故増谷文雄氏や佐倉哲さんの与謝野晶子の短歌中の「黄金の釘一つうつ」の意味するところと思います。
そこで曽我さんが「ブッダとそのダンマ」をもし読まれておられるならその点いついてお話を聞かせてください。
勝手な話で申し訳ありません。
2004.12.11
信濃大門
信濃大門さんへの返事 2004,12,13,
拝啓
メール頂きありがとうございます。
アンベードカルの「ブッダとそのダンマ」、実はまだ読めていません。前に他の方から紹介して頂いた時は、三一書房のしかなくて、絶版だったか、在庫切れだったかで買えなかったのですが、光文社新書で出ているんですね。教えて下さりありがとうございます。購入して読みます。
信濃毎日新聞にそんな記事がありましたか。実は、私もとっているのですが、夕刊のない田舎なもので、知りませんでした。インドの仏教復興運動は、佐々井秀嶺という方が、とてつもない大活躍をしておられると聞いていますが、こちらもまだちゃんと全体的には把握できていません。部分的に知ったことから推察すると、型破りで非常に魅力的な方のようですね。
輪廻転生については、私は釈尊の教え、無常=無我=縁起に反すると考えますが、輪廻転生を信じる人は、案外多いようです。先日、上座部系の仏教を学ぶ方々とお話をして、よい刺激を頂きましたが、私以外の三人は輪廻転生肯定派で、「瞑想中に過去生の自分を見た」とか「弟は過去生を覚えている」とか言い出して盛り上がってしまい、困りました。二、三日前の新聞に、「小中高生の五人に一人は、『死んでもまた生き返る』と考えている」という調査結果が載っていました。
「転生のない再生」というのは、我々はそのつどの現象である、ということでしょうか? 瞬間瞬間、縁を受けるそのつどに、我々はそれへの反応として現象しており、そのつどの反応が、周囲とその後の自分の反応のし方とに縁を与えて行く。タイのブッダダーサ比丘も、転生ではないそのつどのサンサーラを説いておられました。
あまり早合点せず、「ブッダとそのダンマ」を読んでからじっくり考えます。
タイのブッダダーサ比丘のお寺とインドのナグプールへ、行ってみたくなりました。
今後ともまた情報やコメントを頂戴できますよう、宜しくお願い致します。
敬具
信濃大門様
2004、12、13、
曽我逸郎
再び、信濃大門さんから 2004,12,14,
拝啓
早速のご返事を頂きありがとうございます。
> 「転生のない再生」というのは、我々はそのつどの現象である、ということでしょうか?
この点については、
ギリシャ人のミリンダ王は尋ねた。「ブッダは再生を信じたのか?」と書かれています。
ナーガセーナは然りと答えた。
「それは矛盾していないか?」否、とナーガセーナはいった。
「魂がなくても再生があるのか?」「もちろんです」「どうしてあうるのか?」
「たとえば王よ、灯火から灯火に日を移せば転生というでしょうか?」
「そんなことはもちろんいわない」「霊魂のない再生とはそういうものです」
「もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ」
「子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ」「記憶しているとも」
「その詩句は教師から転生したものですか?」「もちろんそうではない」
「転生のない再生とはそのようなものです、王よ」
以上「ブッダとそのダンマ」山際素男訳(光文社新書)から
> 瞬間瞬間、縁を受けるそのつどに、我々はそれへの反応として現象しており、そのつどの反応が、周囲とその後の自分の反応のし方とに縁を与えて行く。タイのブッダダーサ比丘も、転生ではないそのつどのサンサーラを説いておられました。
「転生ではないそのつどのサンサーラ」について勉強したいと思います。
今後もよろしくお願いします。
敬具
曽我逸郎様
2004、12、14、
信濃大門
曽我から、信濃大門さんへ 2005,1,22,
拝啓
お返事遅くなって申し訳ございません。ようやく『不可触民と現代インド』(山際素男、光文社新書)と『ブッダとそのダンマ』(B・R・アンベードカル、山際素男訳、同新書)を読みました。
現代インドの不可触民(指定カースト)が如何にひどい差別を受けているかについては、例えば井戸も使わせてもらえないことなど、前から聞き知っていましたが、ブラーミン、クシャトリア、ヴァイシャを足しても、15%にしかならず、残りの85%が不可触民その他の被抑圧先住民ダリットであるという比率には驚きました。勝手に30%かせいぜい40%くらいだろうと想像していたのです。これではまるで、かつての南アフリカです。
このような境遇において、不可触民であるアンベードカルが、弁護士になり、ガンジーと対立しながら民族運動を展開し、法科大学学長になり、労働大臣になり、法務大臣になり、憲法起草委員会委員長として憲法を起草し、ついにはカースト制度の元凶はヒンドゥー教にあるとして、数十万人を引きつれて仏教へ集団改宗したというのは、実に驚くべきことです。大きな志のために、どれほどの努力をしたことでしょうか。単に自分が出世しただけではなく、85%の被差別大衆のために彼がなした努力を思うと、「菩薩」と呼ばれていることも納得できます。
「ブッダとそのダンマ」を読む前は、アンベードカルの生まれや育ち、背負っているものが、私とはまったく違いますから、仏教への向かい方も異なり、私の仏教理解とは相容れない部分が多いのではないかと想像していました。しかし、読んでみると、異質どころがほとんどすべて共感を覚えることばかりでした。まったく違う立場からまったく違うアプローチをしている筈であるのに、非常に近い解釈に達しているということは、この仏教理解も結構正しいものなのかもしれないと、自分の仏教理解に少し自信を深めさせてくれました。
僅かなりとも気にかかったのは、三点しかありません。
ひとつは、後の解説でも触れていましたが、釈尊の出家の動機が、水争いという世俗的政治的な理由だったという部分です。この話は聞いたことがありません。
もうひとつは、「心」という言葉の使い方です。カバー折り返しに本文の一部が切り出されています。そのまた一部を抜書きします。
「”心”は物事に先んじ、支配し造り出す。・・・ ”心”は総ての働きを導くものであり、主人であり、・・・」
本文全体の流れの中で読めば(P80)、今引用したほど実体的な印象ではありませんが、しかし、気をつけないと、「心」は容易くアートマンの新しい呼び名になり、釈尊が否定されたアートマンを呼び込むことに発展しかねません。自分という反応の反応パターンを対象化して「心」(citta)と呼ぶことは、アンベードカルだけではなく、「仏教」においてひろく行われていますが、この対象化は、やがて実体視につながり得る危険がありるのではないかと感じ、警戒しています。
三つ目は、P161の「”空”は広がりも長さもないが内容のある点のようなものである。」という一文です。空は、述語としてか、あるいはせめて動名詞として捉えるべきで、名詞として対象化してはいけないと思います。この箇所のすぐ前では、「人間は常に変化し常に生成する。」とそのつどのサンカーラを正しく捉えているので、この一文は、言葉の文に過ぎないだろうと思いますが、、。
ともあれ、これらは些細な点です。その他は、納得のいくことばかりです。信濃大門さんが取り上げておられた、霊魂や転生の否定も、私としては援軍を得たようで大変心強く感じました。無記についても、釈尊は単に分からないことを分からないとおっしゃっただけではなく、時を惜しむべきいつ死ぬか分からぬ身だから、「そのような馬鹿げた問いに関わり合うな、ほうっておけ、シカトしろ」とおっしゃったと思っていますが、アンベードカルも同じ理解だったと思います。
また、仏教は大変合理的なものであるとする点、正しい努力が必要だとする点、自分(という反応)を整えよ、という主張などにも多いに共感しました。
このようにほとんど同じ考えと言ってもいいのですが、それでも違いはあり、それは釈尊の教えのどこに重心を置いているかという点です。
ホームページ「総括」の◆9で、仏弟子のなすべきことを順番に挙げましたが、アンベードカルは、◎3と4 慈悲と戒のあたりを特に重視していると感じました。社会の中で人と関わる関わり方を、人を苦しめないように整えることが大切であると説いています。アンベードカルの仏教は、社会性・道徳性が顕著です。個人的救済よりも理想社会の建設を目指している点が特徴だと思います。
「ダンマのそれ(目的)は世界の改革である。」P210
「道徳がダンマであり、ダンマが道徳である。」P211
勿論そればかりを説いているのではなく、瞑想とか感官の制御というような個人的修行も説かれているし、四諦、無常・縁起なども、(その言葉を出さない場合でも)考え方として説いています。仏教の全体的理解はほとんど同じ構造ですが、アンベードカルは社会全体で仏教を実現しようとしています。タイのブッダダーサ比丘にしても、私にはその理論的な部分しか紹介出来ていませんが、一般的には、仏教理論よりも農村などにむけての社会的活動の方が広く知られ評価されているようです。
それらに比して、私の仏教理解は、個人の実存的な問題にシュリンクしてしまっており、狭量だと反省しました。仏教の立場から社会を良くしていくために、一体自分に何ができるのか、すぐには思いつきませんが、問題意識だけは持ち続けていたいと思います。
良い縁を与えていただいたこと、感謝致します。
今後とも宜しくご意見ご批判お聞かせ下さい。
敬具
信濃大門様
2005、1、22、
曽我逸郎