**さん 「総括」ページに関して 梵我一如ほか 2004,11,27,

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曽我 様
こんにちは、**です。
<一部略>

時々、曽我さんのホームページ見させてもらっています。
最近書かれた「現時点の私の仏教理解の総括」のページも見ました。
共感したところが多かったですが、「梵我一如」のところは難しいです。
以下感想をまとめてみますが、曽我さんのように上手く書けませんので、
文章の下手さは勘弁してください。<一部略>

◎共感したところ(「」は曽我さんの言葉より引用)
・「涅槃」、を筆頭に置き簡潔に書かれていてわかりやすくて良いですね。
 「涅槃」について私自身としては、良く理解できていないと思いますが、今までの仏教イメージとは違い本来の釈尊の意図が含まれたものと思います。
・執着に関して、「釈尊成道直後の説明、、、「この人人は執着によって楽しみ、執着において楽しみ、執着においてよく喜んでいる。」」 そう思います。
・「釈尊の教えは、生命であること自体を革新し、新しい生命のあり方を提案するものではないかと思う。」
進化論的に見ると 現在進行形で私たち自身が、その方法を模索し続けなければならないときなのかもしれない、と思います。
・「苦の大半は人が作っている。」私も、そうです。
・苦を滅する方法=「執着をなくすことである。」そう思います。
・「八正道は、「第一にまず正しい見解を持て」と教えているのである。」
 如実知見という言い方でもいいんでしょうか。?
・「聞いた教えを自分で考えることである。」聞いた教えを自分自身のこととして考え、理解すること、と思います。
・「執着」の反対の行為が「慈悲」に相当するという考え方は、今回初めて、知りました。
 その通りだと思います。
・「自分という反応によい癖をつけて整えていく。それが戒だと思う。」そう思います。
・「方便としての科学」大いに利用して、仏教をより多くの人に知ってもらいたいと思います。

◎理解が難しかった内容(「」は曽我さんの言葉より引用)
・「梵我一如」この言葉の意味がよく理解できません。
 「無常=無我=縁起」もある意味で「梵我一如」の考え方に通じませんか。
 「無常=無我=縁起」を絶対視する考え方です。
・私自身、アニミズムの意味がよくわかっていませんが、
 アニミズム的考え方は、日本で仏教が受け入れられた要因として挙げられるべき考え方のように感じます。仏教理解には、このような考え方も必要と思います。
 アニミズムには、"霊魂"という意味が含まれているようですが、霊魂という言葉でなく"眼に見えない何かの力関係を直感的に理解する" という意味にしてみたいと思います。

 仏教総括のページは、私の仏教理解に大変参考になりました。
 ありがとうございます。

  それでは、どうも失礼します。    17:47 2004/11/27


**さんへの返事  2004,12,2,

拝啓

 返事遅くなり申し訳ありません。
 ご感想お聞かせ頂き、ありがとうございます。このところメールが頂けず、一体どう思われているのか分からずに、不安に感じていますので、勇気付けられました。

 二、三、、、。

 正見は如実知見か、という点に関しては、このように考えます。
 如実知見とは、無常=無我=縁起を自分のこととして、戯論としてではなく、腹に落ちて、腑に落ちて知ること。ですから、修行としては、最後の完成の段階であろうかと思います。
 それに対して、正見(正しい見解)は、修行の最初の段階、まだ聞いて考えただけの戯論のレベル。「え、無常=無我=縁起?・・・一切皆苦、四聖諦、、、。確かにそうなのかもしれないな。八正道、戒定慧か、、、。ウン、どうも、この教えは確からしい。」そんな段階だと思います。

 慈悲については、パーリ経典を散見すると、修行者に対しては、苦しんでいる人を助けることというよりも、「怒り」や「他を害すること」などの自分の悪しき反応を制止する努力として説かれています。詳しくは、小論 《慈悲は仏教によって生み出されるのではない?》 をご覧下さると助かります。

 「梵我一如型の思想」と「無常=無我=縁起」については、舌足らずであったかもしれません。確かに「梵我一如型思想」と「無常=無我=縁起」を連結することは可能ですし、実際世間でいわれる「仏教」も、大抵はそのような思想になっていると思います。
 梵我一如型思想は、無常=無我=縁起なる現象の背後に、なにか超越的・本源的で常住なるものを構想する思想です。インドでは、その「なにか」はブラフマン(梵)と名づけられました。<無常=無我=縁起の現象は、その「なにか」を分有しているから、あるいは、その「なにか」と本当はひとつであるから、そのことを直感・体得することによって、無常=無我=縁起という有限性を超越し、無限定性・永遠性を獲得できる。>梵我一如型思想はこのように考えます。
 超越的「なにか」に対して、個物は無常=無我=縁起であり有限であるのだけれど、同時に実はその「なにか」と一つなのだから、本当は無限定なのだ、という支離滅裂な主張がなされます。そのため、梵我一如の思想は、「言葉を超えている」「離言だ」「戯論の届かない」「自分で直接体得する他はない」などと言われます。
 (如実知見に話しをもどすと、梵我一如型「仏教」では、自分の無常=無我=縁起ではなく、このような超越的「なにか」を直感することが、如実知見だ、と主張されます。)
 それに対して、釈尊の教えは、そのような「なにか」を導入しません。初期経典に、人格のある梵天(男性名詞のブラフマン)は、釈尊を称えるため、あるいは狂言回しとしてしばしば登場しますが、中性名詞のブラフマン(超越的・本源的で常住なるもの)の存在を主張する文言は、まだ見たことがありません。
 釈尊の教えには、梵的なものはないのです。我々は、自分の無常=無我=縁起をしっかりと見極めることによって、無常=無我=縁起の有限性のまま、苦を滅し、涅槃に生きることができる。それが、釈尊の教えだと思います。
 梵的なものを導入して、「自分は本当は永遠の無限定なものとひとつなのだ」と思おうとするのは、我執だと思います。また、梵的なものの導入によって、自分の無常=無我=縁起をしっかりと見極めることが妨げられてしまいます。
 梵我一如型の「仏教」は世にあふれていますが、それらは釈尊の教えではありません。

 アニミズムについては、霊魂云々というより、「大自然の力・大自然の生命」を「超越的・本源的で常住なるもの」として想定する思想と考えています。
 「アニミズム的考え方は、日本で仏教が受け入れられた要因」とおっしゃるのは、そのとおりだと思います。ただし、その「仏教」は、インドの梵我一如思想や、中国の老荘思想・道家の思想などによって変質した「仏教」でした。ペルシャなど西域の影響もあったかもしれません。日本においては、いや、日本のみならず他のどの場所でも、釈尊の教えがそのままに受け取られたことは、非常に稀だったと思います。

 また是非、ご意見・ご批判をお聞かせ下さい。
 宜しくお願い致します。
                             敬具
**様
      2004、12、2、             曽我逸郎


**さんから曽我へ  2004,12,3,

曽我 さま
返事をいただきありがとうございます。
<一部略>

梵我一如の説明に関して、私にとっては少し難しい文章で何度も読み返してみましたが、今ひとつ理解が難しいので、少し書かせてもらいます。
超越的「なにか」を認めるか認めないかということで、いいのでしょうか。
(超越的「なにか」は、アニミズムとも密接にかかわってくると思いますが)

梵我一如の場合:
   超越的「なにか」を理由にして、「無常=無我=縁起」を導き出す。

釈尊の教え:
   ただひたすら、自分のこととして、「無常=無我=縁起」を実感する。

このような考え方でよろしいのでしょうか。

「ただひたすら、自分のこととして、「無常=無我=縁起」を実感する。」という考え方には、賛成ですが、超越的「なにか」に固執することなく、超越的「なにか」も同時平行的考え方として存在していてもいいと思います。

超越的「なにか」が存在するかどうかは、わかりませんが、
神仏の信仰においては、必然的に用いられてしまう傾向にあると思います。
もしかしたら、超越的「なにか」は存在するのかもしれません。?

 では、失礼します。


曽我から**さんへ  2004,12,7,

拝啓

 返事遅くてすみません。遅い上に、薄い中身になりそうで恐縮です。

> 梵我一如の場合:
>  超越的「なにか」を理由にして、「無常=無我=縁起」を導き出す。

 そのとおりだと思います。ただし、超越的「なにか」に由来する、「なにか良き本来の自分」といったものを想定しがちであり、「無我」がうやむやになっていく傾向があります。

> 釈尊の教え:
>  ただひたすら、自分のこととして、「無常=無我=縁起」を実感する。

 おっしゃるとおりです。そして、超越的「なにか」を想定しませんから、縁をもらうのは、無常=無我=縁起の現象からであり、観察の結果実感するのは、さまざまな現象を縁とする反応である自分という現象であって、それは真に「無常=無我=縁起」だと思います。

> 超越的「なにか」が存在するかどうかは、わかりませんが、
> 神仏の信仰においては、必然的に用いられてしまう傾向にあると思います。

 確かに、さまざまな宗教において、「仏教」においても、超越的「なにか」は必然的に用いられてしまう傾向にあります。しかしながら、釈尊の教えにおいては、用いられていません。同時代の主流派たるバラモン達の考えが、超越的「なにか」(=梵)を中心に据えてさかんに用いていたのに対比すると、明らかな違いがあります。
 超越的「なにか」が存在するかどうかは、わかりませんが、少なくとも、釈尊は、それを想定してはおられなかったと思います。

 メール頂戴し、ありがとうございました。
 今後ともご意見お聞かせ頂きたく、宜しくお願い申し上げます。

                               敬具
**様
    2004、12、7、
                             曽我逸郎

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