##さん 他力信仰 仏教と在家大衆 2005,1,26,

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曽我逸郎さま

こんにちは。
##と申します。
以前より仏教には興味がありましたが
昨年1月に友人よりテーラワーダ(協会)
を紹介され、時々合宿に参加
(熱海ではありませんが)したりしています。

そんなわけで?曽我さまのサイトを発見&拝見し、
学ばせて頂いております。
特にアーチャン・プッタタートには
非常に心をひかれ、いまでは彼に師事していた
日本人比丘の方とお手紙のやり取りをしています。
先般頂いたお便りの中では、
プッタタートは、仏像も作らず、寺も建てず、
弟子が自分に礼拝するのも止めたとあり、
理屈抜きでじ〜んとしています。

また、パンニャディカさまとのやりとりには
(一部略)
衝撃に近いものを感じました。
初心者のころに、きちんとした事を知ることが出来
感謝しております。

さて、このたびメールを差し上げましたのは
この2月にパオのセヤレーご来日の日程を、
曽我様ならご存じなのでは・・・?と
思ったからです。
サイトは時々チェックし、管理人のかたにも
メールは差し上げていますが
いまだに日程がはっきりしません。

直接存じ上げない方に、このようなことをお尋ねするのは
失礼ではございますが、もし、ご存じでしたら
お手数ですがご連絡を頂けますと嬉しいです。
勿論お忙しければ、ご連絡は遠慮致します。

これだけで終わるのは、なんですので、
以下に少し付け足します。
(一部略)
私は阿弥陀仏への帰依は我執から離れる方便のひとつだと思っていますし、
衆生の帰依という点については、そもそもテーラワーダは
在家の帰依というか在家への依存無くしてはなりたたない
宗教だと思っております。
(一部略)
いつか、サイト上にお返事という形ででも
曽我様のご意見をうかがえれば幸いでございます。

以上、長々と失礼致しました。
寒さ厳しき折、なにとぞお身体にはお気をつけてお過ごし下さいませ。


##さんへ曽我から  2005,1,27,

拝啓

 メール頂戴致しました。ありがとうございます。

> 特にアーチャン・プッタタートには
> 非常に心をひかれ、いまでは彼に師事していた
> 日本人比丘の方とお手紙のやり取りをしています。

 そういう方がいらっしゃるのですか? ホームページとかは開いておられないのでしょうか? 今、日本におられるのですか?

> さて、このたびメールを差し上げましたのは
> この2月にパオのセヤレーご来日の日程を、
> 曽我様ならご存じなのでは・・・?と
> 思ったからです。

 残念ながら存じ上げません。私はパンニャディカさんからしかパオのことは聞いていませんでしたので、パンニャディカさんがミャンマーに出立された今は、特別なパイプはまったく持っていません。
 思いつくのは、山下良道さんのサイト「ビルマ森林僧院滞在記」くらいですが、掲示板を見ても、##さんがご存知のこと以上は書いていませんね。おそらく、##さんがチェックしておられるのもこのサイトではないかと思います。お役にたてず、申し訳ありません。

 ヴィパッサナーについては、様々な流派(?)があるようで、それぞれ微妙な違いがあり、またその微妙な違いが重要な点だとそれぞれが主張しています。
 私は、世に言うヴィパッサナーかどうかは分かりませんが、定における自己観察が必要だと考えています。「価値ある自分が存在する」という思い込みを破って、「私とは縁起によるところの無常にして無我なる現象である」と見極めるための方法として。
 今のところは、あまり細かなことは気にせず、こういう大づかみに留めておいて、ブッダダーサ比丘(プッタタートと言う方がいいのでしょうか?)のおっしゃっている方法をもう少し勉強してみようと思っています。言っておられることの全体が釈尊の教えに一番近いように思えるので。

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 他力思想については、釈尊の教えからは随分異質な思想だと思っています。
 ペルシャかそのあたりに人格的唯一神をあがめる宗教のルーツがあって、それが仏教に流入して阿弥陀信仰が生まれたというような説を、昔なにかで読んだような気がします。(まったくのうろ覚えなので、当てにしないで下さいませ。)
 ともかく、思想的には釈尊から遠く隔たっていると思うのですが、他力思想から生まれてくる妙好人というあり方には、特別な印象を感じています。それが無常=無我の血肉化なのか、あるいは弥陀による浄土での永遠の救いを信じるゆえの現世への執着のなさにすぎないのか、まだよく分からないのですが、非常に宗教的に(仏教的かどうかは分からないけれど、、)高いものがありそうです。
 真宗僧侶で匿名希望の**さんによると、妙好人は、権力によって作り上げられた一面もあるとのこと。そこまで考えると複雑過ぎて判断できなくなりますが、**さん御推薦の本なども読んで、妙好人についても勉強したいと思っています。私にとって、他力思想は、今後の課題です。

・・・・・・
 仏教と在家の関係については、「出家してサンガにいないと仏教的な生き方はできない」と考えるなら、おっしゃるとおり、仏教は在家に依存しなければ成立しません。

 私としては、こう考えます。
 凡夫が釈尊の教えを自分の事として本当に納得できるまで分かるためには、世俗的なかかわりはできるかぎり切り捨てた方がいい。凡夫が、世俗の雑事にせっつかれながら、定における自己観察を極めることは困難です。ですから、サンガには存在意義があると思います。(但し、正しいサンガでなければなりません。間違った「サンガ」は、おそろしい洗脳の閉鎖空間です。それをいかにして見分けるべきか、、。)
 しかし、仏になれれば、執着を離れたまま雑事もこなすことができると思います。実際、釈尊は、弟子たちの指導にあたってさまざまな出来事に適切に対処され、細かな心配りをなさったのですから。仏は、積極的に世俗に出て雑事にまみれて衆生のために働くことができます。
 そういう仏をサンガが大量に送り出せればいいのですが、現実にはほとんど不可能ですね。であるなら、仏教は在家の大衆になにができるのか?
 現世利益のおまじないで大衆の執着心におもねることであってはなりません。
 先日アンベードカルの『ブッダとそのダンマ』を読んだのですが、アンベードカルは、個人個人が無常=無我=縁起を見極めて仏になることよりも、慈悲と戒(自分の行いを整えること)=道徳が社会に広まることを重視しています。仏教の意義は、仏といういわばエリートを輩出すること以上に、社会全体が執着に操られる度合いを低くして行くこと、社会全体をよりよいものに底上げしていくこと、社会全体の苦を減らすことにある、と考えているようです。
 アンベードカルは、パーリ語の経典を学んだようで、大乗経典への言及は気付いたかぎりではありませんでしたが、ある意味非常に大乗的な考えを打ち出しているわけです。
 私自身自分の無常=無我=縁起を見ることばかり考えていたので、アンベードカルのこのような考えには、目を見開かれた思いです。
 少し話がずれてしまいました。仏教が社会を苦を生むことの少ない場所にわずかなりとも変えていくことができるなら、それは、在家の衆生への大きな貢献になると思います。仏教は、そういう仏教でなければならないと思います。

 あまり的を射たお返事ではなかったかもしれませんが、お許し下さい。

 今後ともご意見ご批判などお聞かせ頂けますようお願い申し上げます。

                               敬具
##様
       2005、1、27、             曽我逸郎


##さんから  2005,1,28,

曽我様

こんにちは。##です。
早速のリプライ、誠にありがとうございます。

セヤレーご来日に関しましては、サイト管理人の元にも情報が届かないとのことで、なかなかスリリングな展開になってまいりました。

> > 日本人比丘の方とお手紙のやり取りをしています。
>
> そういう方がいらっしゃるのですか? ホームページとかは開いておられないのでしょうか? 今、日本におられるのですか?
確かに日本にいらっしゃいます。
ただ、ご高齢(78歳)ということもあり、サイト運営はなさっていません。

前回さしあげたメールでちょっとミスをしました。
彼からのお手紙にはプッタタートは「仏像をあがめることも寺を建立することも」せず、
「代わりに修行林を設け」、比丘達が「師に三拝するのを」断り
「弟子はおかず、すべてを友人として迎えていました」とありました。
失礼致しました。

>ブッダダーサ比丘(プッタタートと言う方がいいのでしょうか?)
よくは分かりませんが、どちらでもよろしいのではないでしょうか?
彼をとりあげた近年の論文では、管見の限りでは”プッタタート”と表記されています。
論者がタイ語に堪能なためでしょうが、私はそれに従っているだけです。

ちなみにVen.の呼称について、ですが、ダライラマご来日のDVDに伊勢神宮の神職の方がVen.呼称で紹介されていました。
(勿論、東大寺・薬師寺の僧侶にも。管長クラスはRev.でした)
本当に自由な敬称のようです。

さて、このたびは他力思想や在家の問題について、ご丁寧なコメントをお寄せ下さり、有り難うございます。真摯に学んでいらっしゃるお姿をふくめ、
大変勉強になりました。

他力についてはご指摘のことや「自分の思いからではない念仏である」というような定義?しか知りませんが、私のスタンスとしましては、教えが存在する以上、
うまくエゴを減らすようにもっていけばいいのでは・・・位のレヴェルです。
具体的に申し上げれば、
”地球の引力が全てのものに平等に働くが故に、私たちも落ち着いていられる”
”空気もただで頂いているし、空気は生かしてやっていると主張しない”
”命令しなくても内蔵は働き身体を生かすようにしている”
といった自然の働き、或いは個人的な思いを離れた形ではつかめないモノ(=無量無辺)を、かりに阿弥陀と呼んでいるに過ぎないといったことをよく耳にします。
阿弥陀仏をそう捉え、それに気づき、自己の卑小さ(貪愼痴)に気づきエゴを減らすことは、十分可能ではないかしらんと思う次第です。
また、あれほど真理を求め学行の両輪生活をされた
(原始仏教やクリシュナムルティなども)
玉城康四郎氏が最終的に浄土に落ち着いたのは、
それなりの意義があるからでは??とも拝察致します。

アンベードカルのご著書は未読でして、今後の課題・・・ですが
(ご紹介、感謝致します!)
エリートをうむことで社会が良くなるという考え方はあまりなさっていないようなのは、確かに面白いですね。
著者がパーリ経典を学ばれる前の思想的土台も気になるところです。

今回お書き下さった”仏教的な生き方”・”世俗”・”雑事”
という言葉をどのレヴェルで捉えるか、という問題もちょっと気になりました。
福島真人氏がどこかでコメントされていましたが
”出家してサンガにいないと真の意味での仏教的な生き方(悟りへ向かう生活)はできない”
というのが上座(原始?)仏教ではないでしょうか?
したがって、在家信者の立場は、少なくとも上座部でははっきりせず、結局、功徳を積むしかない(福島氏はたしか、在家が瞑想することへの仏教学上の正当性について疑問視されていました)のですが、プッタタートはそこをついて、涅槃・輪廻といった概念を心理的に捉え、悟りを現世で確立可能なものとした点できわめてラディカルだといえます。
というか、在家に希望の光を与えたとも言えるのではないかと存じます。
もうひとつ、最近クリシュナムルティを読んでいるのですが
”真のものを模索する人や、それが既に自分の元に訪れた人は暴力的な組織と関係することは可能でしょうか?(=不可能)”
とおっしゃっており、かんがえさせられました。
K自身の生涯も、一般的な意味での世俗や雑事とは一線を画していたように見えます。

・・・なんだか、パンニャディカさまのご意見から、それから曽我様のご意見からも、はずれきった事ばかりを申し上げ、恐縮ですのでこのあたりでおしまいにします。

ただ、プッタタートの下で学ばれた方も、
”100人の仏教徒がいれば100通りの仏教があると考えていますがそういう自分も100人のうちのひとりなのだから、正しいなどとは申せません”
とおっしゃっておいでです。
そういう視点で、そして慈悲のお心でお読み下さいましたら幸いでございます。

これから寒さが厳しくなるようです。
どうぞお身体にはお気をつけて、またセヤドーご来日の折にでもお元気なお姿にお目にかかれますのを楽しみに致しております。

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