ネルケ無方さん 苦について 2005,2,20,

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曽我逸郎様

《一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症》の論を興味深く拝読させていただきました。

一切皆苦は一時的な苦をも、一時的な快をも含むという分析は見事にあっていると思います。また、「アロスタシス」に対するご意見、私も同感ですが、涅槃を「苦の滅」と解釈しているのは原始仏教に即した解釈でしょうが、私にはそこが分かりません。下手をすれば、我々の脳が絶えず求めている「快」の状態を今度「涅槃」というものに託してしまうということになりかねません。「一時的快」を無限に膨張させ、「永遠の幸福」などを求めたりして・・・

つまり、「一切皆苦」であればこそ、「涅槃」もその「一切皆苦」の中に含まれるはずですし、強いて言えば、「涅槃」そのものが「一切皆苦」を真正面から受け入れた状態ではないかと思います。苦の中に落ち着くことこそ「涅槃」だと思います。そもそも、この時の「苦」は「快」に対しての「不快さ」ではなく、「一切」(あらゆる物事)の真相であるからです(諸法実相)。

「一切皆苦」も「諸行無常」も「諸法無我」も「涅槃寂静」も、極めれば同義であると思います。

もともとDUKKHA(苦)の意味に諸説ありますが、「苦しみ」ではなく、「物足りなさ」と言った方が正確ではないでしょうか。そうならば、仏教的に言えば、この「物足りない現状」において「足を知る」ことこそ涅槃ですが、これは「苦の滅」というより、苦を受け入れ、苦に沿って生きることだと思います。

私の苦についての考え方は
http://www.antaiji.dogen.de/kimyou/ruten/6.html
に詳しい。

兵庫県安泰寺住職
ネルケ無方

ホームページ
http://www.antaiji.dogen.de


ネルケ無方さんへ  2005,2,20,

拝啓

 メール拝受致しました。ありがとうございます。私にとって良い刺激になりそうな予感がします。

 特に、
>「一切皆苦」であればこそ、「涅槃」もその「一切皆苦」の中に含まれるはずですし、強いて言えば、「涅槃」そのものが「一切皆苦」を真正面から受け入れた状態ではないか
 とおっしゃっている点は、ホームページも拝読した上で、よく考えてみたいと思います。

 しかし、・・(一部略)・・、しばらくじっくりと考えるゆとりがありません。あらためてお返事を差し上げますので、しばし御猶予を下さい。

                              敬具
ネルケ無方様
        2005、2、20、
                          曽我逸郎


ネルケ無方さんから、再び  2005,2,21,

曽我様

ご返信、ありがとうございました。
実は、先日のメールを差し上げた際には、《一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症》という曽我様の一番新しい論しか拝読していなかったのです(Googleで「皆苦」を検索したら、そのページが二番目に出ていましたので)、そのあとにウェブサイト全体を拝見し、曽我様の思想的背景もすこし知るようになりました。

私自身は今37歳のドイツ人ですが、小学生の頃から生きる意味に悩み(母とは7歳の時に死別)、16歳の時に全く偶然坐禅とであい、「これだけは一生やり続けたい」と思うようになり、以降、高校生の頃は地元の図書館にあった初期仏教の経典のドイツ語訳(20世紀の初めのもの)を読みあさり、大学では日本学、哲学、物理学を勉強し、やがて道元禅師の教えに出会い、一年留年して日本に渡り今いる安泰寺に参禅し、そして修士課程でようやく大学を離れ雲水となったものです。

ですから、私は大乗仏教者であると自分で思っています。が、仏教を一字で表すなら、私は「苦」の一字だと思っています。そういう意味では、私の出発点は初期仏教にも近いような気がいたします。また、育ちは教会裏の牧師の家(祖父が牧師)でしたので、キリスト教的な考え方も多分にもっていると思います(意識していなくても)。

私の周りには、大乗仏教の教えに対して疑問を持ち始め、ビパッサナに興味を持ち始めたり、タイやミャンマーで出家し直したりする日本の先輩は何人もいますが、私自身はむしろ初期仏教の経典が入り口だったのですから、どうも思考の発展の方向が逆なようです。曽我様の緒論はまだ充分参究しておりませんが、ひょっとしたら、私の先輩たちのように、最初に大乗仏教に求めていた答えを、大乗仏教の形而上学的なところ、実践を伴っていない屁理屈、ひどい場合は嘘と詐欺に絶望し、上座仏教に新しい風のようなものを感じているのではないかと思います。私自身はアジアでは日本と韓国しか知りませんが、安泰寺を通過している旅人たちの話を聞くと、いわゆる上座仏教でも、大乗と同じく、実践者は少なく、教えは理屈でとどまり、出家は一種の逃げ道(家庭のトラブル、社会に適応できない、仕事がしたくない)であることが多いようです。ですから、大乗とテラヴァーダの違いこそあれ、仏教は基本的には自身の「苦」を見つめることに終始しているような気がいたします。

私もこれからもっともっと曽我様の考えを勉強したいと思います。

興味がありましたら、「苦」に関する安泰寺サイトのいくつかのページを紹介いたします。

http://www.antaiji.dogen.de/kimyou/ruten/3.html (四苦八苦について)
http://www.antaiji.dogen.de/kimyou/ruten/1.html (坐禅をして、何になるか・・・これは4年前に師匠の元を離れ、しばらく大阪城公園のブルーテントで過ごしたときに最初に書いた坐禅についての考えです。まあ、曹洞宗で言えば非常に常識的な事しか言っていませんが)
http://www.antaiji.dogen.de/kimyou/ruten/4.html (悟りについての話)
http://www.antaiji.dogen.de/kimyou/2002/0211.html (苦と四聖諦について・・・ここは曽我様と私の考えの似ている点と違っている点がよく現れているような気がいたしますので、全文をこのメールの下に貼ってみます)
http://www.antaiji.dogen.de/kimyou/2003/0310.html (物足りなさについて・・・問題は自分の「苦」を自分で作り、それに苦しむ自分と、その「苦」からの解脱を求め、苦の中にこそ(あるいはその外側、「苦が滅した」状態に)涅槃を見いだそうとしている自分との関係です。この辺が非常にややこしいが、曽我様のご意見が聞きたいところです。つまり、凡夫と仏の関係です。私には仏が完成された人間、超人だ、という意見にはあまり賛成できず、むしろ凡夫と仏とはハッキリと違うが、同居している、という立場です。)
http://www.antaiji.dogen.de/bun2003/1.html
http://www.antaiji.dogen.de/bun2004/1.html (この二つの文章の中にもちょっと凡夫と仏の問題に触れています)

(一部略)

合掌
無方

以下は「苦」という文章です。2002年秋のものです。

 仏教を一言で表すならば「苦」だと思います。
 お釈迦様は生老病死の四苦に気づき出家し、悟り、そして説法も「一切皆苦」という第一の聖諦(しょうたい・聖なる真理)から始まります。また、死ぬ直前、苦・執・滅・道という四聖諦(ししょうたい)の理解を弟子たちに確認し、苦の元であるこの身体を喜んで捨てて死んで行ったと伝えられています。

 まず、四聖諦とはなにか?
 その第一番が「苦」ですが、「苦」とは「苦しみ」というよりも「ものたりなさ」です。生きていれば、どうしても「ものたりない」という思いがついてきます。
 第二番はその「苦」の原因である「執着」です。「ものたりない」と思うのは、そもそも「ものたりよう(楽になりたい)」という思いがあるからです。「ものたりよう」という思いさえなければ、人生もそれほど「ものたりなく」なくなります。
 ここに第三番目の「滅」の聖諦が成立します。「ものたりよう」という思いを手放せば、「ものたりない」という思いも自然に消えてしまいます。
 しかし、これは単なる理屈ではなく、我々が毎日生きている、この24時間の生活のなかで実践していかなければならないというのは第四番の「道」です。
 省略すれば、人間はみな「ものたりよう・楽になりたい」と頑張っているからこそ、「ものたりない」気持ちになります。そうではなく、人間の頑張りを止め、実生活の中で思いの手放しの道を歩むことは、そのまま仏の道を歩むことです。

 というのは、四聖諦の分かりやすい説明ではないかと思います。

 ところが、ここに大きな落とし穴があります。
 「仏の道を歩んで、『楽になりたい』という思いを手放しさえすれば、人生の『苦』は消え、毎日楽しく暮らしていけるはずだ」という思いです。つまり、「楽になりたい」という思いを手放せば、本当に「楽」になれるというのですが、やはり「楽になるため」に思いを手放そうとしているのですから、これはもうはや「思いの手放し」ではなく、執着にほかなりません。思いを手放すというのは、楽になるためにするものではありません。「楽になろう」という思いを手放すこと自体が「思いの手放し」ですから。

 一番最初に「仏教を一言でいえば『苦』だ」といったのも、そのためです。
 仏教でいう「解脱」などは、「苦」から離れることではなく、むしろ「苦」に限りなく親しんで行き、「苦」そのものになることです。「苦・執・滅・道」はみな「苦」に終始しています。ですから、「ものたりよう・楽になりたい」という思いを手放すことは、つまり「苦・ものたりない」現実を抱き、「苦」の方からも抱かれることです。そうすれば「苦しい」という「わたし」もなくなれば、この架空の「わたし」を苦しめていた対象などもなくなります。あるのは「苦」だけ、現実だけです。


曽我から ネルケ無方さんへ  2005,2,28,

拝啓

 返事遅くなり申し訳ありません。

 メールで紹介頂いた安泰寺HPの各ページ、拝読致しました。

1) まず、苦について。

 無方さんは、苦を「物足りなさ」として捉えておられますが、正しいと思います。もう少しおどろおどろしく言いかえれば「渇愛」でしょうか。「これじゃない、もっと他のもの、もっともっとたくさん」という渇望的欲求。

 私の渇望的欲求は、「意味」でした。自分の生きる意味、目的、価値。なんのために生きるのか、、。本当の価値を求め、見つけられないまま、目先の雑事に追いたてられる毎日。
 そういう生活をしながら思いついたのは、「絶対的な価値とか究極の目的などはない。人は、そのことをうすうす感じているからこそ、お互いに雑事を作りあい、追いたてあって、価値の欠如に目を向ける暇を作らせないようにしあっている。それが社会だ。」という考えでした。

 意味や目的を持たないだけではなく、人(生物)は、受精の瞬間に死にはじめ、この瞬間に来るかもしれない死の完成に向けて、刻々と死につつあります。「生きる」とは、死を完成させていくことです。
 意味も目的もないまま、ただ刻々と死につつある私。このような生を、死を完成するまでの間、意味をでっちあげてそこに逃げることなく、如何に軽安に生きるか。それが、私のテーマです。

 私のこのテーマは、おそらくは無方さんにも共通するもので、それを無方さんは次のような言葉で表しておられると推察します。
> 「涅槃」そのものが「一切皆苦」を真正面から受け入れた状態
> 苦を受け入れ、苦に沿って生きること

 意味も目的もなく、刻々と死につつあることを、真正面から受け入れて納得し、軽安に生きられること。それが涅槃だと思います。無方さんが仰るように「苦の滅」という言い方に誤解を生む恐れがあるなら、「苦の中に落ち着くこと」と言い換えても構いません。言わんとすることは同じではないかと思います。

2) 二種類の苦

 ただ、私は、苦には二種類があると思います。「避けられない苦、受け入れるしかない苦」(第一の矢)と、「私達が作り出して人と自分に与えている苦」(第二の矢)です。第一の矢は、釈尊といえど受けておられます。例えば、晩年、背中の痛みに苦しんでおられたように、、。また、上に書いた「意味・目的のないまま刻々と死につつあること」も、第一の矢でしょう。
 しかし、一方で人は、怒りや妬みや猜疑心や恨みや欲やその他様々の悪い反応を自動的に繰り返すことで、多くの無用の苦(第二の矢)を作りだし、人と自分を苦しめています。世の中の苦しみは、圧倒的に第二の矢の方が多い。

 第二の矢を作り出しているのは、執着、特に「守り育てるべき自分がある」とする我執です。自分が無常にして無我なる縁起の現象であることをつぶさに観察し、腹に落ちるところまで納得して、「守り育てるべき自分など無かったのだ」(無我)と了解して、我執による自動的反応が停止すれば、無用な苦(第二の矢)を作り出すことはなくなる。これが釈尊の教えであり、このようになれた人が「仏」だと思います。仏とは、「第一の矢を真正面から受けとめ、人にも自分にも第二の矢を放つことのない人」のことです。「第一の矢」は滅することができないけれど、「第二の矢(人が作り出す無用の苦)」は、滅することができると考えます。

3) 凡夫と仏

 「執着の反応を完全になくすことなど不可能だ」と仰る方がいます。私自身、そんなレベルには遠く及ばない凡夫ですから、自信を持って「なくせる!」と断言できるわけではありませんが、釈尊はそう言っておられると思うので、それを信じたいと思います。

 自分の反応に気をつけて、執着による悪い反応をしていると気付けば、そのつどそれを停止し、自分の反応パターンをなるべく整えていくこと(戒)。定において自分という反応・現象を観察すること。それらによって、自分が無常にして無我なる縁起の現象であることを腹に落ちて納得(慧)したいと思っています。(現実には、だらだらと「ものうさ」の自動的反応を繰り返しているのですが、、)

 そんな自分を棚に上げて言うなら、凡夫では、執着の反応を繰り返す反応のシステムが根強く残っているので、たまに慈悲の反応をすることがあっても、すぐまた執着の自動的反応を繰り返し、何度も苦を作り出してしまう。戒によって、そのつどの執着の反応にそのつど繰り返し対処していかねばならない。しかし、仏の場合は、執着の自動的反応のシステムが抜本的に改変され、執着の反応はもはや起こらず、自動的反応は慈悲に導かれたものになるのだろうと期待しています。つまり、凡夫と仏は、質的にまったく異なると思っています。凡夫は、時々慈悲の反応をして仏的になることはあるけれど、仏には凡夫的反応は起こらない、と想像しています。

4) 禅宗への疑問

 私は、無常=無我=縁起こそが、釈尊の教えのユニークな点だと思っています。
 しかし、漠然とした印象に過ぎませんが、禅宗では縁起ということがあまり重視されていないように感じています。安泰寺のHPでも、「縁起」という言葉はほとんど登場していないのではないでしょうか?

 「無我」も、禅宗では「利己心のないこと」、「賢しらな計らいをやめること」、「求めることのないこと」といった意味に矮小化してしまい、無我の状態になった我(小我を捨てた大我?)の存在が前提されており、それが修行の目標になっているのではないかと感じます。無方さんがホームページのどこかで触れておられた禅僧侶の「傲慢さ」の原因は、自分を大我として全面的に肯定してしまうという過ちに陥りやすいという点にあるのかもしれません。もしそうであるならば、それはやはり梵我一如型の思想であり、釈尊の教えとは異なるのではないかと感じますが、如何でしょうか?

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 禅宗については僅かしか知らず、特に曹洞宗については、沢木興道も内山興正もなにも知らないまま、失礼なことを書きました。きちんと座ることもままならないのに、年間1800時間坐っておられる方に偉そうな事を言える身ではないことは重々自覚しております。私の仏教理解の仮説には、見えていないところや間違いがたくさんあると思いますので、ご意見・ご批判を頂きたく、そのために敢えてぶしつけな書き方をした次第です。宜しく御指導下さい。

 雪はまだしっかりと残っているのでしょうね。今あるスクーターをトレール・バイクに替えて、いつか伺ってみたいと感じています。

 今後とも宜しくお願い申し上げます。
                            敬具
ネルケ無方様
         2005、2、28、
                          曽我逸郎

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