日下 九さん 感想2題 続き 2016,2,3,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   曽我さまへ         日下 九  2016-02-03
 ご丁寧なご回答、誠実な対応ありがとうございます。
 改めてご質問があったことを含め若干の意見を申しあげます。

◎社会活動について
 概ね想定内のご回答です。何故外に向かって発言しなければならないか、今少し突っ込みが足りない感じがあります。釈迦の教えはあくまでも内向きの思想であることはおっしゃる通りです。しかし、”殺すな”、”盗むな”、”嘘つくな”といういくつかの単純な戒が、何故あるのか。ただ単に自分に向けたものではなく、他と協調、共存するための皆の共通の倫理としてある。外に向かって発言をしなければならないのは、この倫理を思いださせることが目的であるはずです。内にこもるだけが釈迦の教えではありません。陰でごそごそつぶやくのではなく、大いに主体性を持って発言していいのです。
 話は変わりますが、曽我様のご立派な修行と学習のご体験、ただただ敬服申し上げるばかりです。
 余分なことかも知れませんが、私の立ち位置を説明する意味で、少しだけ自己紹介させてください。
 私は、貧しい時代の貧しい家庭に育ちlました。家の周りにはいくばくかの糧を得るための畑が広がり、雨が降らない限りは外でそれぞれの役割に応じて無限の仕事が待ち構えていました。私はまだ少年でしたが、それなりの仕事が割り当てられており、時折座り込んでもの思いにふけっていたりすると、「うつつを抜かして呆けてばかりいないで仕事をしなさい」と親から叱声が飛びました。このような少年時代の野人田夫の体験が現在の私の思想を作り上げているのだろうと思います。折節に粗雑な言辞が飛び出すのはそのせいです。どうぞご容赦のほどを。いま往き先いくばくもないこの期に及んで釈迦の教えをかじりかけておりますが、その明快さの論理ゆえに非常に魅力を感じています。仏教には禅がつきものということで、ときどき禅定にも挑戦しています。しかし、禅定に入って間もなく「うつつを抜かして呆ける」という言葉が鮮明に蘇り、中途で投げ出すことが多いのです。何回か禅行を繰り返すうちに気のついたことがあります。それは、「縁起による現象」という非現実的な想念は禅定の中から生まれたものだろうということです。

◎存在について *「生身の人間」とは?
 私は前コメで「死から逃れるためのあがき、それが生きることであり自己主張である。」と申し上げました。自己主張とは自我の主張のことです。自覚するしないにかかわらず人間は生き続ける限り自我にとりすがって生きています。生きて、もがいて、やがて死んでいく、そのようなはかない命ではあるけれども、生きている限り確かにこの世に存在し続けるありのままの人間のことを「生身の人間」と名付けてみました。村長さんが住民登録や、出生届で村内に存在する生きている村民の数を確認することと同じ意味です。頭の中で考える無我なる人間や現象のことではありません。
 人間は思想する生物です。思想することができるのは人間が生きて存在するからです。隣人と話をすることができるのも、哲学や宗教を思想することができるのも、人間が我という自我を持って存在するからです。現に生きて思索している人間を「無我なのだ」、「自己などないのだ」と言ってみても意味のないことです。自我があるから生き続け、思索するのです。「自我」があるとか、ないとか考えだすのは老境に達した人間の幻想にすぎません。我を持たない人間つまり命を持たない人間が思想するということは現実にあり得ないことですが、曽我様の考えでは無我なる現象が思想する、ということになるのでしょう。そういう意味のない倒錯した考え方は、とうてい共感できません。
 以下の意見で”壊法”という言葉を使います。この言葉は釈迦のずっと後代に無常を表現する言葉として使われ出したのでしょうが、ひとの出生から終滅までを表す言葉として実感がありますので、この言葉を使います。
いくつかの曽我様の言動について私の意見を添えると次のようなります。
*----そして、「凡夫」=「有情」=「生身の人間」は、無我です。----私は生身の人間が無我だなどとは言っていません。釈迦は壊法の中に命(人間)が存在すると言っているのです。勝手に無我にしないでください。
*----しっかりと「自分」をリアルタイムで徹底して観察して、私とは縁によるそのつどの反応であることを見極めて----「「我」そんなものなどない。わたしたちは(無我)であることに気づきなさい」、と一方で言いながらここでは、自分を観察しなさい、という。自分を観察するのはだれなのだ?
*---- 「無我であることに気付きなさい」----誰がそれに気付くのか?”我”自身ではないのか。
* あなたが私と意見交換することも、彼らと意思疎通することも、銭のやりとりをするのも、生理的な欲求を満たすのも、社会活動で意見を述べることも、反対運動のピケに参加することもみなあなたの自己主張そのものです。常にそこには外に向かって働きかける主格のあなた自身があります。あなたは気づかないふりをしていますが、無我縁起現象論を展開するこのHPも、あなたの自己主張、我執そのものです。つまりあなたは常にそこに在り続け、自分の存在を拠りどころとして発言をしているということです。
 あなたは矛盾なく自説を語っているつもりでしょうが、自分を見つめる我がおり、自分が主体となって外に話しかけているのに、まるでそれに気づかないふりをして「自己などないと思え」と言っています。しゃべりまくっているのは一体誰なのでしょう。やはりそれは無我なる現象でしょうか。傍から見ると不思議な光景です。

 私が釈迦の思想を学ぶために参照しているのは、いわゆる原始仏典と言われるごく狭い範囲の経典に過ぎませんが、表現が素朴で後代の教条的な解釈があまり入っておらず、釈迦思想の核心に迫るためには最適なものと考えております。この範囲で理解する限り、釈迦は無我も縁起も現象にも言及していません。一方的な解釈で「それは釈迦が言ったことです」と何もかも釈迦が言ったことにするのが、大乗仏教の常套手段ですが、曽我様の説明もやや強引さがあります。
 釈迦は、五蘊の説明で”我ではない(非我)”と言いましたが、”無我”とは一度も言っていません。
 釈迦は、意識の中における前後の因果関係については詳しく述べています。しかし、一般的な因縁生起については触れておりません。
 釈迦は、人間の存在がはかないものであることは述べていますが、それが現象に由来するものであるなどとは述べておりません。
 このように私が理解している釈迦の発言と、「無我であり縁によっておこされる現象」は釈迦の教えだとする曽我様の意見とはあまりにも認識に違いがあり過ぎます。

 もう一つ気になることは、曽我様は、「釈尊は凡夫を仏にしようとした」と説明されています。私の理解では、釈迦は神や仏のような恒常不変なる存在を否定し、弟子たちに対し、「おのれを灯とし己を依り所として修行せよ」と説諭しています。涅槃を得るということと仏になるということとは全く違うことです。これも大乗思想の一方的な解釈だと思います。
 私自身幼いころから大乗仏教の慣習の中で育ってきたので、大乗仏教にはそれなりの親しみを感じております。これは理屈ではなく、感性の世界です。「仏教の神髄は理屈ではなく体得しなければわからない」とよく言われるようにそれなりの蓋然性があると思います。しかしながら、大乗仏教は明らかな虚構の上に成り立つ壮大な雲上楼閣です。実証的な釈迦思想を学ぶにつけ、次第に大乗思想を冷めた目で見るようになりました。このたび曽我様のご意見を伺って思想の根底が違うらしいことをあらためて感じております。 あなたがおっしゃる現象世界も、私が主張する生身の人間の世界も、全く同じことをしているのだとしたら、何か共通の理解はできないのかなと考えてみましたが、やはり”無我”と”生身”は決定的な認識の違いです。繰り返すようですが、なぜせっかく生まれ出た人間の命(生身の人間)を無我呼ばわりしなければならないのか、そのことがよく理解できません。村長さんは新しい出生届を受けたとき、「やあおめでとう。お前は無我だよ」というのでしょうね。前項で述べたとおり私なりに考えてみて、無我・現象の思想は禅行のうつつを抜けた夢幻の世界に由来するものであると想像しております。

 これ以上議論しても何か解決策が見えるというものでもなさそうです。これでこの議論は終わりにさせてください。
 私なりにもう少し勉強させてもらいます。

 ご丁寧な回答ありがとうございました。 ご健勝を祈って。      草々

* * 再度、日下さんから * *

     曽我様         日下 九    2016/02/09
 体当たりの沖縄行脚まことにご苦労様でした。心から敬服申し上げます。
 早速ですがお願いを申しあげます。
 曽我様の「生身の人間と無我との関係」のご質問に答え、先週お届けした私の意見が、ひょっとしてHPの意見交換の場に掲載されないのではないかという懸念を持っております。
 私の意見は、あまりにも率直過ぎて曽我様にとっては多分に不本意、不都合なものであり、HP主宰者としては公開には及ばないものであると判断されているかもしれません。
 私の気持ちとしては、せっかくの公開の議論の中で、曽我様の質問に確かにお答えしたという事実を第三者の目にも明らかにしておきたい思いがあります。
 もし私の原文がそのまま掲載しにくいのであれば、私がお答えをしたという事実をコメントの形で書き添えてくださってもよいと思っています。
 以上まことに勝手なお願いですが、ご配慮賜れば幸いと存じ折り入ってお願い申し上げる次第です。
        草々

 

曽我から 日下さんへ 2016,2,20,

前略

 返事が遅くなり、申し訳ありません。やるべきこと、やらねばならないことが次々と現れて、やりたいことはなかなか思うに任せぬ日々です。

 さて、頂いたメールを読み返して返事を書こうとしていますが、実のところ、少し困惑しています。日下さんは、私のHPをある程度読んで下さったようですが、思い込みで解釈しておられるようで、先のメールにも書いたとおり、心当たりのないことに関して釈明を求められているように感じています。

 とは言え、仏教に縁を得て関心を持って下さっているのですから、せっかくの縁を生かして頂きたく、再度トライしてみます。

 自分自身を徹底的にリアルタイム、クローズアップで突き詰めて観察することに取り組まなければ、どのようにして釈尊の教えを自分のこととして知ることができるでしょう。釈尊の教えは、執着の反応を鎮め、新たな苦の生産を止めるものですが、前代未聞の発見であり、たとえ釈尊から直接それを聞いたとしても、ほとんどの凡夫には理解しがたいものです。マッジマ・ニカーヤ第38『大愛尽経』には、「識は流転し、輪廻し、同一不変である」という間違った見解に固執するサーティという比丘を、釈尊が「縁がなければ識の生起はない」と叱責した、という話が語られています。「識」とか「我」とか「自我」とか「主体」とか、いろいろな呼び方をされる「私の本体」が一貫して存在している、というのは、凡夫にとって極めて自然な所与の認識の枠組みです。釈尊から直接教えを受けてもなお、その枠組みを超えられない出家修行者もいたのですから、現代の我々がいくら高僧の話を聞き、本を読んでも、おいそれと無我を納得することはできません。まず第一に正見、正しい見解を学び、その上で自分を静謐に整え、自分自身を観察対象にして徹底的に観察し、釈尊の教えが事実であることを自分自身においてまのあたりに見ることが絶対的に必要です。「うつつを抜かして呆ける」というような日常的世俗的な道徳でそれを頭から否定していれば、釈尊の教えに近づいていくことさえできないでしょう。

 無我について、日下さんは、最初のメールの前半ではかなり妥当な見解を書いておられました。今回のメールでは、あれはどこへいってしまったのでしょうか。今回のメールは、前のとは矛盾しています。日下さんは、「私は生身の人間が無我だなどとは言っていません」と書いておられます。それでは最早、釈尊の教えではありません。
 「釈尊は、五蘊は我ではないとして非我を説いたのであって、無我を説いたのではない」というのは、しばしば出会う「非我説」です。「五蘊は、アートマンではない。真のアートマンは他にある。」このような主張は、真のアートマンを求めて、宇宙原理ブラフマン(梵)とアートマン(我)とが一つであることを体得しようとしたバラモン思想と変わるところがありません。このような考えは、アートマンを追求することの無益さを発見してバラモン思想を乗り越え、無我=アナートマンを説いた釈尊を、アートマンの存在を前提とするインド伝統の梵我一如思想の中に再び塗り込めてしまうものです。残念ながら、仏教の歴史、特に大乗仏教のほとんどは、せっかくの釈尊の教えを元の木阿弥の梵我一如思想に押し戻してしまうものでした。無常=無我=縁起という釈尊の前代未聞の気づきを、塗り込められた梵我一如思想からなんとかして掘り出さねばなりません。「釈尊は無我ではなく非我を説いた」という主張は、釈尊の教えを真逆にしてしまうものであり、けして容認することはできません。
 日下さんは、「我を持たない人間つまり命を持たない人間」と書いておられます。ということは、<我=命>と考えておられるのでしょうか。そうだとすると、「無我とは生身の人間をヌケガラ扱いすること」と言っておられる意味がなんとなく想像できます。おそらく<凡夫を無我だということは、生きている人間をゾンビ扱いすることだ>と考えておられるのでしょう。しかし、無我なる縁起の反応は、時には強い憎しみであったり、燃えるような愛であったり、激しく揺れ動くのであって、けしてヌケガラ的なものではありません。
 無我はアナートマン、anAtmanであり、Atmanの否定です。無我という考えを理解するためには、インドの人々が釈尊以前から追求してきたアートマンという概念を知って、それを前提にして無我を考える必要があります。
 アートマンとは「単一常住で一貫して私を主宰する真の我」です。かつてインドの人々は、そういう真我が存在すると想定して、それが自由に働きだすよう、肉体など様々な制約から解放しようと試行錯誤を繰り返しました。このような想定は、インドだけでなく、人類に広くみられるものでしょう。釈尊も、初めはそうした考えの元で、先達を尋ね、激しい苦行を続けました。しかし、苦行は無益だと分かって放擲します。それはつまり、苦行によってアートマンが自由になるどころか、変調をきたしたり、様々に影響されることを知ったからです。独立自存の主体である真我は存在せず、そのつどそのつどの条件、刺激、すなわち縁によってそのつど引き起こされる脈絡なき反応が、そのつどそのつどの私であることに気づいたのです。アートマンなどなかったと分かったとき、それまでの執着も悩みも溶解し、晴れ晴れとした気持ちになったと思います。気づきの瞬間は、当然まだ言語化も体系化もされていません。苦行放擲=無我の気づきの後、釈尊は、再度じっくりと瞑想に入り、自分の気づきをさまざまな角度から時間を掛けて検証します。そして、間違いないと確信しますが、無我という発見は、人々の自然なものの見方からあまりにかけ離れているため、とても他の人と共有することはできないと考え、一旦は説法を諦めかけます。しかし、一部には理解できる人もいるだろうと思い直し、説法を決意する、というのが梵天勧請のエピソードです。

 「自分を観察するのはだれなのだ?----誰がそれに気付くのか?」と日下さんは書いておられます。これこそがまさしく典型的な、人類共通の自然なものの見方です。なにか主語になるものがまずあって、それが何かをする、どうにかなる、と考える。主語が先にあって、述語がそれにくっつくというのが、人類にどっぷりと染みついたものの見方の枠組みです。これのせいで、自分がいる、と考えるし、さまざまな欲望・執着の対象も存在する、と考えます。しかし、自分のものにしたつもりで握りしめているものも、変質、消失するし、絶やしたはずのものもまた沸いて出てくるのです。主語は、現象に後からかぶされているのであって、あらかじめあるのではありません。仰るとおり、自分があると考え、いくら自分に執着し、自分を守り育てようとしても、自分はそのつどの反応であり、その反応のパターンは次第に老いさらばえ、病に冒され、やがて死ぬ(=もはや反応がおこらなくなくなる)のです。一貫して存在するものは存在せず、実際は、なにもかもがぶつかり合い縁起しあい、さまざまな現象がざわめいているのが世界です。その中から、利害に関わる現象をカテゴリーのふるいに掛け、いち早く反応しているのですが、人類においては、カテゴリーを実態視して、ものが一貫して存在すると思いなし、執着の反応が始まったのです。なんとか得をしようとし、うまく生きようとして、様々に算段をするのは、執着の反応です。しかしながら、自分自身もまた、一貫した存在ではなく、縁によるそのつどの反応であり、現象です。そのことに気づくことができれば、握りしめていた拳の力がふうっと抜け、執着の反応は鎮まり、苦をつくって自分や人を苦しめることはなくなります。

 読み返してみて、日下さんに伝えることはできていないだろうと、無力感を感じています。それはひとえに、私に方便力が欠けるためです。しかし、いつかこの縁に何かの縁が重なって、思い返して頂けることがあるかもしれません。また、このやりとりを見てくれた他の人が、なにかを感じてくれるかもしれません。そんなことを期待して、返信します。

 日下さんの取り組みが良い方向に進展することを祈ります。

                              草々
日下 九様
     2018年2月20日                 曽我逸郎

【 追伸 】
 上の話の流れに乗せられなかった部分を書きます。
 仏は恒常不変なる存在ではありません。前にも書いたかも知れませんが、仏も人です。自分の無常=無我=縁起に気づき、執着が鎮まり、自分も周囲の人も苦しめなくなった人が仏です。釈尊は、晩年背中の痛みに苦しんでおられましたし、最期は食事にあたってなくなりました。神様のような永遠の超越的存在ではありません。
 私は大乗的ではないと自認しています。上に書いたとおり、大乗仏教の大半は、梵我一如化してしまっていると思います。ある一点で上座部とは一致できないところもありますが、それ以外については、上座部の考えの方に近いつもりです。
 

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ