日下 九さん 感想二題 社会活動・人間の存在 2016,1,25,

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 前略 さっそく本題に入らせていただきます。
◎感想その1 社会活動を支える仏教の教え
 地方自治体の首長さんとして行政に携わり、村民に対する日ごろの民生全般にとどまらず、ご自分の仕事の範疇以外のことがらに対しても、広く、常に積極的に発言、行動されていることに対し、敬意を表します。広く社会全体のことがらについて積極的なご発言をされるのは、ただ単にそのことに関心があるということだけではなく、人間の存在や社会のあり方について、帰依する仏教に根差す深いお考えがあってのことと拝察しておりました。そこで、あなた様の日常職務の遂行及び社会活動への参加が、仏教の教えとどのようにかかわっているのか是非ご指導をいただきたいと思っておりました。
 同様の趣旨の質問がすでに何回か出されており、質問に対するお答えもされているようです。
 お答えを拝見して意外に思われることは、さぞかし人間の存在や生活について尊厳や、愛情の念をお持ちなのだろうと思いきや、さに非ず。ほとんど日常の生活についての生活感が感じられません。社会活動の根拠についての最近の質問(田行さん)に対して次のように答えておられます。
*---釈尊の問題意識は、苦をどう解消するか、であったと考えています。それを突き詰めていった結果、ほとんどの苦は、我々凡夫(=普通の人)が生みだしたもので、その原因は、我々自身の執着である、と見極められたのだと思います。
*--- 釈尊の教えの眼目は、この我執が執着する対象、すなわちそれは「我」でありますが、そんなものなどない。わたしたちは(無我)であることに気づきなさい、ということです。
*--- 釈尊の教えを自分のこととして腑に落ちて了解し、我執が鎮火し、苦を作らず、みずから苦しまず、人を苦しめない人を増やすこと。これが究極の目的です。しかし、それは一朝一夕には不可能です。ですから、同時にその一方で、現今の様々な具体的問題において、短絡的で粗雑な考えではなく、熟慮した考えで、苦を作ることの少ない考えが広まるように努力することも必要だと思います。
 今の私においては、このふたつをうまく関連づけることができていません。本当は、両方に一体的に取り組めれば、他の人から見ても分かりやすいのかもしれません。しかし、なかなか難しい。大きな課題です。今後も模索してまいります。
 この答え方を見て意外に思うことは、あれほど熱心に体制批判や民主主義を語り、村民一人ひとりの生活と福祉にこころを砕いている曽我様と、仏教とが全くといってよいほど脈略がないらしいことです。おっしゃっていることにまったく生活感がありません。一般に、哲学や宗教に帰依するということは、日常の生活に臨んでなにがしかの思行のよすがを得たいがためであると思います。せっかく行動の規範とすべき立派な哲学をお持ちでも、それはうつつを抜け出した別世界の空想の世界のことで、現実の行動に役立つほどのものではない。ということなのでしょうか。
 日ごろ尊敬申し上げる曽我様の行動の規範となるべき釈迦の教えとはどのようなものか、それを実生活に即してご指導いただきたかったのですが、残念ながら期待外れです。すっきりした説明を期待したのですが、どうやら現時点ではこれ以上の説明を期待するのは無理のようなので諦めます。

◎感想その2 人間の存在と無我
 現代の私たちが、釈迦の教えを正確に読み取ることは、現実には不可能に近いことでしょう。何世代にもわたり口伝されたものを、何人ともしれない多くの解釈によって文字に記録されたものを読み解くことは、まさに各人各様の解釈が成り立つことです。こう考えると、釈迦の教えはこれこそが正しい、と言い切れるものなどなく、人それぞれでいいのだとも思います。そのような前提の上で、私はこう思う、ということを述べてみます。
 まず、私たちがこの世を生きるということがどういうことか、を確認しておきます。
 生きものは、生まれた瞬間から死を背負っています。死から逃れるためにあがき続けること、これが生きるということです。ひとつの命として生きるためのあがき、それが自己主張です。砂利道に根を下ろすタンポポの生きざまも、立派な自己主張です。
 以上の基本認識の上で釈迦の教えを解釈してみます。
 釈迦の教えをまとめた三法印があります。この法印も釈迦自らがまとめたものではなく、後の世のものが解釈、編纂したものですが、一応通説となっていることなのでこれに従って考えてみます。
先ず諸行無常。 ----諸々のことは移ろい変わり、壊法である。この表現はただ移ろい変わるという意味だけではなく、恒常不変のものなどない、という意味を含む釈迦の教えの中で最も基本となるものです。
次に一切皆苦。----喜怒哀楽というように必ずしも苦ばかりではない人の世が、なにゆえの皆苦なのか。これは釈迦から教えられるまでもなく、前述したように、生きるということは死から逃れるための絶え間のないあがきである、それが生老病死を貫く根源的な苦であると認識することができます。すべての執着、煩悩、欲望はここに端を発します。
そして諸法無我。----これは諸行無常と一体をなすもので、存在の本体とされてきた恒常不変の人格(アートマン)は存在しない、というダメ押しのような一節です。
 釈迦は無常を悟る段階で同時に恒常不変なものの存在を否定しています。釈迦の教えはあくまでも目の前にいる生身の人間の苦の滅終が主眼です。したがって恒常不変のアートマンは否定しましたが、生身の人間(私、あなた、彼ら)を否定しているわけではありません。生身の人間を否定してしまうと苦の滅終も意味がなくなります。
 スッパニパータをざっと読み返してみても、釈迦は自分のことを「私」と言いながら教説をし、さらには「自己を洲とし」、あるいは「おのれを灯として」と言い、「サイの角のごとく歩め」とも言いながら、目の前の生身の人間に語りかけています。
 ところが諸法無我の解釈に際し、私、あなた、彼らなどの生身の人間を全部無我にしてしまう解釈が公然と行われています。大乗仏教がそうですが、曽我様もその一人です。
 生身の人間を無我にするということは、まさに生きている人間をヌケガラ扱いにしてしまうということです。このヌケガラに、生きた生身の人間風の存在感を与えようとするのが曽我様の縁起現象論のようです。ヌケガラに命を吹き込むために生物発生、動物進化、現象学、意識分析、発達心理学、脳科学などなど、多彩な知見を総動員してノエシス、ノエマ、クオリア、刹那滅を説明し、「すべては縁起によるその都度その都度の反応である」と結論し、最後に「腹に落として納得せよ」と述べております。本来の教えであるはずの苦の滅終がどこかへ行ってしまったようです。
 「壊法だから無我なのだ」と、曽我様はどこかで述べておられます。この言い方は、「壊法でないものがどこかにある」と思っていることにつながります。しかし、釈迦の教えを正確に読み解けば、「壊法でないもの(恒常不変なもの)」を否定しているのが釈迦の思想です。壊法であって当たり前であって、「壊法だから無我」という論理は成り立たないのです。
 冒頭に申し上げたとおり、鰯の頭も信心からで何をどのように解釈してもそれでよいのですが、凡人にとっては曽我様の教説はなかなか腑に落ちない難解なものです。生きた人間をヌケガラ扱いにしてしまうのが一番の難点です。
 以上2点、さぞかしお気に障りのことと存じますが、率直に申し上げました。これも信心です。
 ますますのご健勝を祈って。          草々

 

曽我から 日下さんへ 2015,2,1,

前略

 ご意見お聞かせ頂き、ありがとうございます。また、私のHPもかなり読んで下さったようで、そのことにも御礼申し上げます。

 一読して、日下さんのお考えは私と近い部分があると感じました。ただ、日下さんと私では言い方が異なっている点があったり、また私にはぴんとこないことを私の考えとして批判しておられる部分もあって、その結果、日下さんのお気に召すことができなかったのだと思います。

 期待しておられないとのことですが、せっかくのご縁ですし、今伝わらなくても、いつか思い返して頂けることもあるかもしれません。また、疑問に思える点もありますので、お返事申し上げます。

◎その1 社会活動を支える仏教の教え

 東南アジアのテーラワーダでは、エンゲージド・ブディズムと呼ばれる、貧困とか環境など実社会の問題に積極的に関与しようとする新しい仏教運動が生まれています。日本でも、特に日蓮系には、政治に関わろうとする傾向が戦前・戦後をつうじて顕著です。
 それに対して、釈尊は、悩み苦しむひとりひとりを数多く教え導きましたが、社会の仕組みを変えようとはなさらなかったと思います。ひとりひとりが自分を徹底的に突き詰めて観察し、無常であり、無我であり、縁によって起こされる現象であることを認識し、その結果、執着の反応が鎮まり、苦をつくらなくなる、自分もまわりの人も苦しめなくなる。生涯をそのことに費やされました。
 ただ、釈尊は、人類のすべてをそうできるとは考えておられなかったのではないか、と想像します。それを裏付けるのが、田行さんへのメールでも触れた梵天勧請のエピソードです。

 しかし、そうなると、釈尊の教えに沿って修行する人以外のほとんどの人々を苦の中に置き去りにしておいてよいのか、という思いも生じます。慈悲の気持ちからすれば当然のことでしょう。そういう問題意識から、エンゲージド・ブディズムも、日蓮系の政治運動も生まれたと想像します。
 ところが、敗戦に至る時代の日蓮系の政治運動の場合は、国家主義、軍国主義と結びつき、苦の滅どころか、かえっておびただしい苦を生み出すことになりました。その理由を考えると、法華経の特徴があるのではないか、と思います。法華経は、「法華経に触れ得たものは、前世において既に修行を重ねた菩薩である。だから、今法華経を読んでいる汝は菩薩なのだ。衆生のために自らを犠牲にして働け」と教えます。しかし、現実には皆しょせん凡夫なのですから、凡夫が「俺は菩薩だ」と舞い上がり思い上がって頑張っても、逆に大きな間違いをしでかし、その結果、おびただしい人々に大変な苦を負わせる結果になったのだと思います。

 ですから、凡夫たちが凡夫のままで、凡夫の巨大な集まりである社会を苦の少ないものにしていくことは、尋常なことではありません。それにまた、釈尊が努力されたこと、すなわち、凡夫を仏にすることとも異なる取り組みです。
 ただし、社会の苦を減らすことに釈尊の教えがまったく無縁で役に立たないわけではありません。我々凡夫は執着のままに自動的に苦をつくる反応を繰り返しているという釈尊の指摘を自覚し、いつも気をつけていること(=戒、つまり三学の第一)が大切です。反対に、我々の執着の反応を巧妙に利用し、我々を操ろうとするのがプロパガンダです。ですから、我々は、自分が自動的に起こされてしまう執着の反応であること、すなわち凡夫であることを自覚し、報道などにもいつも気をつけて見聞きし、いつも気をつけて振る舞い発言する必要があります。そして、執着の反応が社会を覆い、苦を生む反応に社会が走ろうとするとき、それは苦を広げる執着の反応ではないか、異なる見方がより深く正しいのではないかと、疑義を提出することが決定的に重要です。これこそが民主主義であり、凡夫が凡夫のままで社会の苦を減らそうとする努力だと考えます。

 以上、凡夫を仏にしようとする釈尊の教えと、凡夫が凡夫のままで社会を苦の少ないものにしようとする取り組みとは、趣を異にすること。しかしながら、後者の取り組みには前者が役に立つこと、を述べました。
 私のHPは、釈尊の教えについて、凡夫が仏になるとはどういうことかを模索する試みです。一方、様々な社会問題に関する発言は、社会全般に広がる、執着のままの、苦を広げかねない反応に対して、気をつけて見れば違う見え方をするのではないか、という問題提起です。両者は、一見関わりがないように思われるかも知れませんが、私の中では、上に書いたとおり、通底しています。

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 その1について、以上でお答えしたつもりではあります。しかし、日下さんが<生活感>とか<日常の生活に臨んでなにがしかの思行のよすがを得たいがため>と書いておられるのが気になります。ひょっとすると上の説明はピント外れだったかもしれません。私の個人的な問題意識を問うておられるのでしょうか。念のため、そのことにも簡単に触れておきます。

 何度かあちこちに書いていますが、私は、若い頃、何をすべきか、の問いに七転八倒していました。誰しもが若いときに悩む問題でしょう。ポスト全共闘世代であることも一因だったかもしれません。いかなる目的にも価値を見いだせなかったのです。今から振り返れば、自分をなにか「たいしたもの」であるはずだと思い込み、そういう自分にふさわしい立派な仕事を求めていました。言い換えれば、立派な仕事をして自分を立派にしたかったのでしょう。要するに、我執です。
当然のことながら、いくら自問自答しても納得できる価値ある目的は見いだせません。そこで、次には何もないところに主体的に自ら価値を生み出すことに憧れ、禅寺に通い始めました。禅には殺仏殺祖という言葉があります。当時の私は、禅によってあらゆる権威を否定して自ら働き出す絶対的主体性、絶対自由を目指しているつもりでした。しかし、それも成果を上げられぬまま疲れ果て、とりあえず就職し、それでも仏教の勉強は続けました。禅からだんだんと仏教の歴史を遡っていき、会社を辞めた後はテーラワーダ系の瞑想会にも何度か参加しました。その中で、自分は「たいしたもの」でも「もの」でもない、そのつどそのつど縁によって生み出される反応、現象ではないか、ということに気づいたのです。
 その後、たまたまのものの弾み、偶然が積み重なって村長になり、釈尊の教えを考えることよりも世の中の諸々への関わりが深くなりました。世の中の苦のほとんどは我々自身が構造的に作り出していると感じるにつけ、凡夫が凡夫のままで社会による苦の生産を減らすにはどうすればいいのか、考える度合いが増えていったというのが、個人的なあらましです。

◎その2 人間の存在と無我

 日下さんの三法印の解釈には、概ね賛同します。ただ、私としては、「もろもろの事象は」とか「もろもろの存在は」というように一般化、抽象化するのではなく、「この私」のこととして突き詰めていくことが、決定的に重要だと思っています。

 無我については、私の考えではないことを私の考えだとしてご立腹の様子で、戸惑っております。また、日下さんのご主張によく理解できないところもあるので、教えて頂ければ幸いです。

 日下さんは、<生身の人間を全部無我にしてしまう解釈が公然と行われています>と批判しておられます。
 日下さんが重視しておられる「生身の人間」というのは、私の表現では、凡夫ということかと思います。執着のままに苦をつくっている側面に注目する時は「凡夫」と呼びますし、悲しんだり苦しんだり喜んだりしている側面からは「有情」とも呼びます。私の言う「凡夫」も「有情」も、日下さんの「生身の人間」も、同じものを指していると考えます。
 そして、「凡夫」=「有情」=「生身の人間」は、無我です。凡夫だけでなく、仏も無我です。無我であるのに、「我がある」と思い込んでいるのが凡夫であり、「我などなかったのだ」と気づいたのが仏です。
 日下さんは、<生身の人間を無我にするということは、まさに生きている人間をヌケガラ扱いにしてしまうということ>と書いておられます。「ヌケガラ」と仰るのがどういう意味なのか、よく分かりませんが、何の反応もしない存在、という意味だとしたら、まったく的外れな理解です。「凡夫」=「有情」は、そのつどの縁に応じて、時には悲しみ、時にははしゃぎ、時には怒り、憎しみ、嫉み、うろたえ、恥じ入り、様々な反応となります。差別をしたり搾取をしたり戦争をしたりするのも凡夫ですし、それに苦しめられるのも凡夫です。おかしな表現になりますが、厳密な言い方をすれば、そのつどの縁への、そのような多様なそのつどの一貫性のない反応の断続こそが、「凡夫」=「有情」なのです。

 よく分からないのは、日下さんは、「生身の人間」は無我ではない、と考えておられるのでしょうか。日下さんは、諸法無我の解釈として、<存在の本体とされてきた恒常不変の人格(アートマン)は存在しない>と書いておられます。諸法には「恒常不変の人格(アートマン)」はないけれど、「生身の人間」にはあるのでしょうか。「生身の人間」と無我の関係を教えて頂ければと存じます。日下さんの「無我」とはどういうことなのでしょう。そこが私とは違うのかもしれません。

 「苦の滅終がどこかへ行ってしまったようです」というご批判もありますので、再度私の考えの全体の概略を説明しておきます。

 苦のほとんどは凡夫が執着によって生み出している。執着は、立派な守り育てるべき自分(=我、アートマン)があるという思い込みから生じる。そのような自分は存在しない。しっかりと「自分」をリアルタイムで徹底して観察して、私とは縁によるそのつどの反応であることを見極めて、無常=無我=縁起が自分のこととして腑に落ちて納得されれば、執着は沈静化し、いたずらに苦をつくることはなくなる。
 以上が、考え方の全体です。
 ですから、苦をつくることを止めることが目的であり、そのための眼目が、無常=無我=縁起を納得することです。
 無常=無我=縁起は、分かってしまえばとてもシンプルなことです。しかし、我々がどっぷりとはまっている普通のものの見方とはあまりに異なっているので、なかなか理解できません。特に、言葉は「普通のものの見方」に根ざしているので、言葉で無常=無我=縁起を説明するのは至難です。無理矢理説明しようとすれば、厳密にやろうとするほど、言葉として不自然なものになっていきます。
 無常=無我=縁起を納得するためには、釈尊の残してくれたカリキュラム(三学)にそって、日常生活を整えたり、自分を徹底的に観察したりといった様々な実践が必要です。私のホームページを読んだくらいで理解できるはずはありません。身をもって修行することが必要です。しかし、まず何よりも、正見、つまり八正道の第一、「正しい見解を持つこと」が重要です。<人それぞれでいい>とか<鰯の頭も信心からで何をどのように解釈してもそれでよい>という考え方は間違っています。正見を問いかけるために、無常=無我=縁起をなんとか言葉で問題提起するために、使えるすべてを方便として利用しています。そのことはまた、自分の考えを検証することにもなっています。
 進化論などの科学も、使える方便のひとつです。私が脳科学や認知科学に関心を持つのは、我々がそのつどの縁への反応であって、主宰者(アートマン)が存在してそれがとりはかって行動を起こしているのではないこと、すなわち無我であることを実証してくれるからであり(例えば、ベンジャミン・リベット)、どのようにして我(=アートマン)が妄想されるに至るか、執着という高度で複雑な反応がどのようにして可能になるか、などといった問題を考えるヒントを与えてくれるからです。

 <「壊法でないものがどこかにある」と思っている>というご批判も、心当たりがありません。「壊法」という言い方は、私はあまり使いません。それに相当する言葉でよく使うのは、「無常」です。すべては無常であり無我であり縁起する現象です。無常、無我、縁起は、同じ一つのことを三つの異なる角度から説明した言葉です。それゆえ、無常=無我=縁起というように等号で一体化して表現しています。無常=無我=縁起でない存在を想定する考えを、私は梵我一如思想として一貫して批判してきました。この点では日下さんと同じ考えですので、ご安心下さい。

 以上、私なりの返答を書きました。

 「生身の人間」と無我の関係をどう考えるかは、大変重要なポイントだと思います。お考えをお聞かせ頂ければ幸甚です。

                              草々
日下九様
     2016年2月1日                    曽我逸郎
 

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