sadato12さん 頓悟・漸悟、ノエシス 、刹那滅、言葉 2016,10,2,

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曽我逸郎様
14.8.12 にメール交換をしていただいた sadato12です。またお聞きしたいことがあってメールさせて頂きました。よろしくお願い致します。
16.10.2
sadato12

ニューロンネットワークの上に新たな回路を構築するというお考えは、自分なりに理解できるところがありました。
苦を減らすという癖をつけていくというお考えも書いておられます。それはシナプスの可塑性を高めてその電気信号を通り易くしたり、また、癖をつけていくという努力の流れの中で、その癖の方向に同一の縁の集まりが増えてくる結果、シナプスの可塑性と同じように、癖の流れが強化され、さらに同一の縁が増して、苦を減らし、心が安寧となるのだと自分なりの理解をしました。
曽我さんは、苦を減らし心を安寧に保つというこのことを涅槃といっておられます。そして悟りについては「私は暫悟である」といっておられます。悟りが何かまだ私には分かりませんが、上記のプロセスによって心が安寧であるということは一つの到達点(悟り?)のように思いますし、少しづつシナプスの通りをよくし、癖の流れを努力して強化していくことは曽我さんがいわれているように暫悟と呼ぶのに叶っていると思えます。
そこでお尋ねします。「百尺の竿頭一歩を出よ」というのが般若知であると説明されています。この一歩は屯悟ではないでしょうか。あらゆる現象はすぐ隣の現象にしか縁起できないという説明もされておられますが、それでは竿先のさらなる一歩だけは、例外的に隣り合った現象の頭を飛び越して、飛躍するのでしょうか。
分別知(日常生活に叶った言葉や考え)だけでは、主体の自己(ノエシス)を捉えることはできない、との説明がありました。ノエシスは非宣言記憶としての作用をする自己と理解しています。無心のままに疾走するマラソンランナーは距離が長いこともあって、身体に記憶させた努力の結晶である走法を無心に維持することはたいへんだろうなと想像されますが、ほとんど不可能、いくら努力してもややもすればノエマ自己が顔を出し、その度にピッチを乱します。マラソンランナーとはちらちら顔を出すノエマ自己にフックで応戦しつつ、懸命に無心の走法に集中するという、そういう意味でも過酷なスポーツだと思います。
ノエシスの自己の作用を意識化(対象化)はできません。意識化(対象化)すればそれはノエマ自己になってしまいます。ではノエシスの作用は無意識のまま、作用のままに任せればいいのでしょうか。ここまで書いて来て、二つのノエシスの作用を思い付きました。
一つは、普通に私たちの日常の行動では、暑い寒いにつけての反応や、雑用の片づけに右往左往して、ほとんどは我が欲のためにノエシスの作用を忙しく働かせています。無自覚、無意識、自動的に縁に反応する現象として、執着し、苦を作ります。
二つ目は、マラソンランナーのように厳しい練習の上に積み上げた、走者として自覚された、ノエシスとしての作用というものがあります。
私は、「マラソンランナーのノエシスのように、自覚して、できるかぎりの集中力によって作りあげた走法を、できるかぎりの注意をしながら実現していく」という方法の中に、ノエシスを意識化するのではなく、ノエシスの中で、角を矯めることのないギリギリのところで注意深く見守っているノエシス自身というのがあるのではないかと思います。いわばピッチを乱れさせる悪い自意識ではなく、良い自意識のようなもの。それはペース配分を何度も何度も叩き込んだ身体を、走行中も懸命に点検して回るホムンクルスのようなしくみとしての自意識。心配性のコーチのような。おわりはなにか怪しくなってしまいました。曽我さんがノエシスがノエマへ意識化することなくノエシス自身を指向すると説明されたことが念頭にありました。詳しくお聞きできれば幸いです。

文中引用箇所を特定せずに、記憶だけで書いてしまいました。正確に欠けるところは訂正していただけるとありがたいです。

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sadato12さんから、再信 2016,10,23,

曽我逸郎様
16/10/2 にメールを送らせていただいた sadato12です。また考えましたこととお聞きしたいことがあってメールさせて頂きました。よろしくお願い致します。
16.10.23
sadato12

 意識についての私の混迷はなお続いておりますが、さらなる迷妄として、私の意識が働いている状態とは、受動意識の考えに当てはめるとどうなるのかということを考えてみました。
 今は眠っていないし気絶もしていないので、自分の意識は働いているということを確認できます。この意識は実はニューロンネットワーク(ホムンクルス-両者は捉え方によって異なるかもしれませんが、ここでは仮に同じ意味とします)によって、私の心身の無数の行為を0.5秒遅れで知らされ、さらに自分で決定したという錯覚を仕組みとして与えられた、脳内の一つの機能です。
 したがってこの意識には意識としての何かがあるわけではないので、意識が独自に独創的に何かを始めるということは本来無いということになります。私は私(意識)として何かをするような器ではありません(たいへん控えめな態度です)。
 意識があるとおぼしき辺り?をちょっと探ってみますと、そこには重層的に畳まれた心身の様々な動作に対する意志決定のようなものが、次々に開いてはたちまち消えていきます(行為として)。超スローモーションで撮影された花びらの開花の様子に似ていますが、(この花びらは曽我さんからの拝借です。すみません)この花びらは花の形に開いていくということはなく、無数の花びらとして、刹那滅としてただ開き、消えていきます(上向きにした蛇口から噴きあがる水飛沫の喩えと同じです)。それが私のあり方であり、私はその時、無意識、無自覚、自動的な作用です(意識があるとおぼしき辺りと書きましたが、意識はどのような辺りにもないということになります)。そうして縁起に反応する現象として私という花びらが次々に刹那滅として開いては消えていきます。
 しかし実際の私は錯覚によってではありますが、「私は自分の意志で連続して持続的に開き消えていく」と思っています。どうやら私にはどうしても自分の意志でものごとを決定しなければならないわけがあるようです。なぜニューロンネットワーク(ホムンクルス)の働きによって、私が錯覚という仕組みを与えられているのかの答もそこにあるのではないかと思います。
 人が生存を続け、拡大していくのは本能に根ざした欲求があるからですが、その欲求を実現させるための動力となり、エネルギーとなるのは対象への執着であり、感情です。執着と感情は対象化という進化の新たな一歩を踏み出すことで生まれました。無意識、無自覚、自動的な作用である人は他の動物たちと同じように、進化の中で世界から対象を切り出し、選択や差別化を獲得していきました。そして人のみが最終的に実現したのが自己の対象化でした(霊長類の中には自己意識的なものを持っているケースもあるということですが、人の自己意識とはやはり全く異なると思います)。この自己の対象化によって人の執着は桁違いに高度なものになったということです。
 人が対象化したこの自己意識について、最近読んだ現象学をテキストにして考えてみます。ここには「私」(ノエシス)と<私>(ノエマ自己)という二つの私が出てきます。それぞれに「」と<>をつけて区別しました。
 日常の日々で私たちは無意識に、無自覚に、自動的に様々な執着の実現に懸命になっています。これが「私」です。そして時折、ほっとして自分の中を手探ると<私>に出会います(これはどんな状態かというと、「私」という意識が刹那滅に<私>を指向している意識である状態です。そしてシミュレーションをしたり、反省をしたりするわけです)。「私」はいつも<私>をずっと意識しているわけではありません。それでも<私>はいつも「私」が意識するところに必ずいます。だから「私」は<私>がずっと前からそこにいるとどうしても思ってしまいます。その<私>の今の瞬間から幼児だった頃迄のいろんな記憶とその記憶に貼り付いた感情は、ちょっと思い出しただけでも洪水のように「私」の胸に溢れてきます。そのように<私>はずっと以前からそこに居て、これから先もずっとそこにいることの一見の確かさで「私」に実体視させます。「私」は<私>を実体視することで<私>に附随する世界についても実体視します。この「私」の<私>への実体視が、対象への執着ゃ感情をリアルなものにさせ、欲求の主体にさせます。しかし、「私」が<私>を意識しない時は<私>はいないのです。なぜなら、<私>とは<私>についての意識=「私」だからです。
 私は日常生活の中である意味では「実感生活」をしています。五感をフルに働かせ、それで例のリンゴの赤い色も鮮明に感じています。繰り返すことになりますが、そういう状態で「私」が<私>を意識するとそれが時々であっても、ありありと実体として感じてしまいます。そしてこの<私>の実体感、実体視が<私>に附随する世界のあらゆるものごとの実体感と実体視を保証するのです。これが「私は自分の意志で連続して持続的に開き消えていく」と思ってしまう仕組みの内容であり、ニューロンネットワーク(ホムンクルス)による錯覚という仕組みが実現された理由の一つです 川下理論では意識はニューロンネットワーク(ホムンクルス)の働きの川下にいて、軽いメモリー容量で現場監督として主体的に(と思っているだけの)処理を行っています。やはりどうしても私には主語がなければならない。それが錯覚であっても。主語が立てば対象が立ちます(本当は対象が立ち、主語がゆっくりと育っていくのだと知りましたー幼児の母親体験))。そして最終的に自己意識をたてること。この自己の対象化によって人の執着は桁違いに高度なものになり、なにより大きな進化は言葉が生まれたことです。ものごとの対象化だけでは言葉は生まれません。また無意識、無自覚、自動的な作用であるノエシス的自己だけでも言葉は生まれません。これがニューロンネットワーク(ホムンクルス)が私に錯覚という仕組みを付与した二つ目の理由だと思います。
 ここで考えられるのは、ニューロンネットワーク(ホムンクルス)の働きにおいて、私が錯覚によって主体であるということは(私は本当は縁起への反応の現象であります)、精妙な、そしてたぶん必要不可欠の仕組みなのではないかということです。ちょうど盲点(これは少し横着な仕組みー進化にはこのようなやっつけ仕事とかフライングとかが結構得点を稼いでいるようだということも知りました)が必要不可欠?の仕組みであるのと同じように。

 ここでお尋ねします。
 花びらの話は、私が刹那ごとに生じ刹那ごとに滅していること(これは縁起のことをいっています)の喩えですが、刹那という言葉は、久遠などの言葉をセットとしてすぐに思い浮かべてしまいます。刹那は、仏教の用語だと思いますが、この言葉のミクロイメージは=久遠とかのマクロイメージと対になっていたのではないかと思ってしまいました。「そんなに細かいところまで考えが向かうなら、巨きなところにも向かったのだろう」つまり同じ発想というわけです。宗教的、哲学的にはミクロとマクロは通底しているというのはポピュラーな考えだと思います。久遠というと凡我一如といわれますが、刹那の使い方にも同じような危険はないのでしょうか。もし刹那でなく一瞬(刹那よりはずっと曖昧になってしまいますが)を使うとすると、新幹線から、横を走っている在来線の各駅停車に乗り換えるようなものでしょうか。ずいぶんとゆっくりした、窓も開いて風なんかも入ってくる一瞬になりそうです。
 あるいは刹那滅は比喩なのでしょうか。では久遠も比喩なのでしょうか。凡我一如も比喩になるのでしょうか(もちろん言葉に依っている以上すべては方便になるのでしょうが)。
 自性であるなら不生不滅、私という現象は生じ滅するので自性はない。あらゆる物質も生じ滅するので自性はない。物質の生滅の速度は測定可能だと思いますが(たとえ電子や陽子の生滅でも)、その単位に刹那は使わない。物質の中でも生命のあるものは刹那という単位を使うのでしょうか。(マクロイメージの仏教的な表現はあると思いますが、単位として決められたものはあるのでしょうか?)人も含めた物質を突き詰めていくとものではなく波の揺らぎである(揺らぎという時それは物質の生滅も含んでいる。故に揺らぐわけだから)と記されています。刹那という単位で示されている私たちの生命とその生滅は、物質としてのゆらぎよりもさらに先にある何かなのでしょうか。印象として刹那という言葉に何か馴染みが薄いのを感じるので、違和感を述べただけかもしれませんが、よろしくお願い申し上げます。

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sadato12さんから、再信 2016,10,27,

曽我逸郎様
  16.10.27
                                 sadato12

 16.10.23 にメールを送らせていただきました sadato12です。
 メールの返信を頂き、ありがとうございました。お忙しい中、お読みいただくということすら申し訳なく思っておりますので、お気づかいは全くご無用でございます。
 ニューロンネットワーク(ホムンクルス)が私に錯覚という仕組みを付与した理由の二つ目として「言葉」をあげましたが、その言葉の説明をしておりませんでしたので、以下に追記させていただきました。よろしくお願い申し上げます。
 追記「言葉」について考えてみます。
 HPには、意識は言葉よりもかなり前に発生していたと記されています。言葉の登場は意識よりずっと後というこれにはたいへんびっくりしました。なぜなら私は聖書の「はじめに言葉ありき」という句を「ああそうなんだ」と普通に思っていたものですから(私の知識はそんなレベルです)。
 意識とDNAを並べてネットで調べると何も出てきません。実は何か出てくるだろうと思っていたのですが、スピリチュアルな解説しか見当たりません。そこでハードじゃないんだから当然かと気づきました。しかし意識というソフトは本来ハードを基盤にして実現するものだと思いますが、この容器は意識を入れるものですと元々決まっているのならば(意識は決定論的に実現します)、そのようにDNAに(ポテンシャル的に?)書き込まれているはずで、その意味では意識は広義にDNAに基づいてあるといえるのではないかという思い付きが消せません。
 人の意識を乳児の場合で考えてみます。生まれたての乳児にはもちろん意識があります。言葉はまだありませんが、乳児の意識にはやがて発生してくるであろう言葉の萌芽が織り込み済みになっていると思います。それは最初期の人の意識の場合も同じだと思います。両者の違いは、乳児が個体発生のなかで言葉を獲得していくのに対して、最初期の人は系統発生の中で何代にも渡ってしだいに言葉を獲得していったということだと思います。
 乳児の意識の状態と状況はどんなものかというと、まさに揺籃期であり、マグマ溜まりのような熱いカオス状態です。母親を介して様々な対象とその対象を名指す言葉の芽(あるいは発芽前の種の状態でしょうか)が苗床のようにびっしりと植わっていますが、まだ何も形にも言葉にも記号にもなっていません。しかしある時期に至ると、それまでばらばらに入力され、取り込まれ、蓄積されていた情報の欠片が、ニューロンネットワークを超高速で駆け回り、意味として繋がっていきます。乳児はある年令で爆発的に話し始めるということをテレビで聞いたことがあります。ニューロンネットワークのカオスが最大に高まった果てに一気に言葉化、意味化が実現するということでしょうか。
 ではなぜ言葉が発生してくるのでしょうか。
 「名色」にはいろいろな捉え方があると思いますが、私は名<名称(言葉=意味)>色<形態=形>という捉え方をしています。そしてここでは言葉の問題として「名」を考えたいと思います(色については改めて考えたいと思いますが、名とはコインの裏表の関係になるのではないかと思います)。乳児が向き合っているものは、対象の、まだカオス状態(母親の声や匂いは五感によっては感受されているが、まだ言葉化されていない)にあるいわば「前言葉」です。そして乳児は、やがてこの揺籃期を経て「言葉」の世界、「意味」の世界に意識として実現していくと考えます(映画マトリックスと同じになってしまいましたが)。先の聖書の句ではありませんが、言葉の実現によって世界は始まったという言い方を仮にすると、この世界は言葉と意味の世界であり、宗教的には方便の世界です。そしてこの世界では剥き出しのありのままの現象というものはであるか、あるいは言葉では語れないものということになります。なお、最初期の人の言葉の実現は、現代の乳児に現れる言葉の実現とは異なって、何世代にも渡って交わされた様々の発声音とボディランゲージだったのではないかと貧しい想像力ではそう思うしかありません。
 言葉と意味のバーチャルリアリティの世界に生きている乳児に比べて、最初期の人の意識には進化の記憶として、言葉以前の剥き出しの現象の感覚が長い間残っていたのかもしれません。先進国が長い歴史の中で積み上げて来た基礎研究の上に先端技術の結果を実現していくのに比べ、発展途上国が当初からいきなり先端技術の結果を実現してしまうという状況がありますが、乳児が揺籃期を経て獲得するバーチャルリアリティの世界は、この基礎研究抜きで手に入れた先端技術の結果と同じです。現代(韓国の企業のことではありません)乳児の意識の中に、やがて現れてくるものは全て決定論的に最新式の言葉の完成品です。ホモサピエンスは、基礎研究に勤しんでいた頃のアナログ世界を経験することはありません。そして決して触れることのない、生々しく息づく剥き出しの現象に対する、狂おしいまでの執着を、今でも時折衣の下の鎧のようにちらちらと見せているのです。
 系統発生では言葉は何世代にも渡って一見意識の中で構築されていくので、その言葉世界で逆に意識が生じているということは理解が難しいのですが、個体発生では明瞭です。乳児がまず気づく対象があり(母親の声とか匂いとか)、その対象に気づく、注意する、もしくは縁を受けて感受することが「意識」です。そのようにして言葉世界が出来上がっていきつつある中で、意識も主体もが育っていきます。主体でない意識は対象を捉えることがないので育ちません。意識はここでも錯覚しつつ主体的に対象を指向します。
 このようにして言葉の実現がホモサピエンスに、錯覚しつつ主体であることをもたらし、世界からの対象の切り出しを実現させたのです。このことの功罪は合い半ばです。人が主体であることは科学的に錯覚であり「無我」に反します。同時に対象化の実現がなければ、人は一ミリたりとも歩けません。
 よろしくお願い申し上げます。

 

曽我から sadato12さんへ 2016,11,2,

前略

 返事が大変遅くなり申し訳ありません。

 三通のメールを頂き、たくさんの問題提起を頂戴しました。私自身、他のかかわりが増えしまい、釈尊の教えについてじっくり考えることから遠ざかっておりました。少し引き戻していただいたことに感謝いたします。同時に、かつての自分の考えを手繰り寄せねばならず、我ながらつじつまの合わない点があるかもしれません。お許しください。

 まず、頓悟、漸悟について。
 釈尊が我々に教えてくれた修行のカリキュラムは、戒、定、慧の三学です。戒は、自分が苦を作っていないか、いつも気を付けていて、苦を作る反応をしなくなるよう、自分に癖をつけていくことです。定は、縁のまま、刺激のままに、損だ得だ、悔しい、うれしい、腹が立つ、、と激しく反応してしまう自分に、落ち着いた平穏な状態に居つづけるよう癖をつけていき、反応をミニマムにしていく訓練です。ですので、戒も定も、時間をかけて意識して努力を重ねて徐々に達成していくものです。「悟」の文字にこだわると話がややこしくなりますが、明らかに「漸」であります。
 慧は、定における自己観察によって、無常=無我=縁起を自分のこととして確認、納得する訓練です。自分を対象に、粗雑な反応の観察から始めて、だんだんと繊細な反応へと対象を深めていきますので、やはり「漸」ですが、最後にどこかで、ぱあっと判る、いろいろが一挙に繋がって納得されて、「あっ、なあんだ、確かに俺は無常で無我で縁起の、そのときそのときの反応だ。最初から分かり切った当たり前のことじゃないか。なのに、自分があると考えて執着してきた。無駄な努力に必死になっていた。なんて愚かだったんだ!」と、すとんと腹に落ちる。そういう瞬間があります。これはまさしく「頓悟」だと思います。
 まとめると、戒・定・慧の努力を重ねて、自分という反応をだんだんと整えて見極めていった先に、ぱあっと繋がって腹に落ちて納得される時がくる、漸悟を重ねていった先に頓悟が起こる、という事だと思います。

 ノエシス、ノエマについて。
 この言葉は最近使っていなかったので、正直なところ懐かしく思い出しました。当時書いていたことと矛盾するこを書くかもしれません。また、専門用語としても見当違いな使い方をしているだろうと思います。
 (ところが、今ネットを検索してみると、「ノエシス・ノエマの画像」で示される一覧の中に、私がパワーポイントでつくった稚拙なイメージ図がいくつも混ざっていてびっくりしました。誇らしくもあり、冷や汗ものでもあります。)
 当時、ノエシスとノエマ自己というふたつの概念で「自分」について考えていました。ノエマ自己は対象として捉えられた自分であり、それに対して、ノエシスはそのつどそのつど縁によって起こされる反応です。「ノエシス」とか「反応」と呼んでしまうとそれはもうすでにひとつの「ノエマ自己」になってしまうのでややこしいのですが、そこに拘ると言葉で議論できなくなるので、ノエシスは「対象にされていない純粋な反応」という緩い定義でご寛恕下さい。
 ノエシスは、「わたし」の色身(肉体)という場所において縁によって起こされる反応のすべてです。その中には、ノエマ自己を立てて、自分を対象として観る、という反応も含まれます。
 ですから、先ほどの話をノエシスとノエマ自己で説明しなおすと、戒・定は、ノエシスがノエマ自己を対象として立てて、それを観察することによって、自分の反応の仕方を反省し、自分という反応をよい反応パターンで反応するものに修正していこうとする努力です。その時その時の反応は、過去の反応の積み重ねによって形成されているその時の反応パターンに従いますが、反省によって以後の反応パターンに、わずかな、時には大きな変化を与えることができます。
 (私を例にすると、私はほぼ毎晩お酒を飲んでしまい、思い通りに仕事がはかどらないことがしょっちゅうありました。仕事柄まったく飲まないというのは難しいので、せめて一人で飲むのは止めようと何度も思いましたが、なかなか守れない。ところが、先月インド、ナグプールに行って、仏教への集団改宗運動60周年の式典に参加した際、ことの成り行きでインドの人たちといっしょに佐々井秀嶺師から仏教徒の戒律を授けられてしまいました。この中には不飲酒戒も含まれます。しまった、どうしようか、と思いましたが、自分なりに条件を緩めて、一人では飲まないことにしました。三週間ほど経ちますが、なぜか今回はさほどの苦労もなく、今のところ守れています。)
 慧と「頓悟」についても、自分を対象としてノエマ自己を立て、それをリアルタイム、クローズアップで子細に肉薄して見つめ続けることで、自分の無常=無我=縁起を腑に落ちて納得し、執着の愚かさが痛感され、それ以降の反応パターンが画期的に変わる、ということだと思います。
 ですから、釈尊は、ノエマ自己をきちんと上手に使うことを教えています。
 それに対して、「仏教」で時々見聞きする無念無想を目指す立場は、一切のノエマのないノエシスだけの在り方を目指す考えです。ノエマのないノエシスはあり得ないと思いますが、ノエマもノエシスもない状態は、短時間であればあり得ます。例えば、全身麻酔とか「深すぎる定」です。ブッダダーサ比丘がいうとおり、それは苦の滅には何の役に立ちません(小論参照下さい)。そもそも、ノエマのない純粋ノエシスが可能だと考えるのは、アートマン(sadato12さんの言うホムンクルス?)の存在を信じる考え方であって、釈尊の無我の教えと相容れません。

 二通目に関して。
 自分という現象、自分という反応について、大変深く考えておられると感じ入りました。新たな発見があれば、是非私にも教えてください。
 さて、刹那、久遠、一瞬に関してですが、「刹那」は、無常ということを先鋭化して言い表した表現だと思います。諸行無常というとおり確かに一切は現象であり無常でありますが、「一切」の方向に視線を向けると、たやすく梵我一如思想にはまってしまいます。釈尊の教えに従って苦の滅を目指すなら、あくまで「わたし」の無常を見つめなければなりません。時にははしゃぎ、時には落ち込み、その他さまざまに縁によって脈絡なく始まっては終息する反応の断続だということを自覚することが大切です。「刹那滅」という表現は、「わたし」というそのつどの反応の目まぐるしく変わる様を強調して言い表そうとしたものだろうと思います。
 ベンジャミン・リベットは、私たちの反応の仕組みを研究し、一秒の何分の一かの時間を計測しています(小論参照)。おっしゃるとおり、「刹那」という言い方で極端に短い時間を強調することは、誇張に走りすぎているのではないかと感じます。
 また、自分という反応を離れて、時間そのものについて考えることは、「一切」を考えることと同じく、梵我一如の壮麗な架空の神殿に迷い込むことになりかねません。
 二通目の前半で書いておられるように、あくまでも自分という反応について考えること、そして、考えるだけではなく観察することが大切だと思います。

 三通目、言葉について。
 言葉、意識の誕生について、系統発生、個体発生の視点から考えておられるのは鋭いと感じました。私も、発達心理学といった領域を少し勉強しようと思って一、二冊買いましたが、読み通さないまま放り出しています。
 意識については、しっかりと定義をした上で、それこそ言葉としてカバーする範囲を明確にしないとわけのわからない議論になるので、ここでは深く踏み込まないことにさせて下さい。意識が段階を追って発生してくる仕組みについては、アントニオ・ダマシオが本を書いており、触発されて考えたことを小論にまとめています。多分既に読んでいただいているかと思いますが、まだでしたらご一読いただけると幸甚です。
 さて、系統発生というか、進化するにつれて動物の行動がどのように巧妙にその時々の縁(刺激、条件)に対応したものなっていくかを考えてみると、私は、条件反射という仕組みがとても重要なステップだと考えています。
 条件反射は、自分にとって好ましい、または嫌な事象のカテゴリーを、すばやく感知する仕組みです。個別・具体の事象に反応するのではなく、自分の利害にかかわる事象がカテゴリーで捉えられ、それにふさわしい反応が立ち上がります。
 この、個別具体の事象ではなくカテゴリーで捉える機能によって、そのつどの現象が「いつも化」されて恒常的存在として把握されるようになります。そのトップは「おかあさん」でありましょう。そのつどそのつど違う表情、違う機嫌、違う服装で現れては消えるこの上なく好ましい現象が、カテゴリーで捉えられ「いつものおかあさん」になります。
 「わたし」(ノエマ自己)も、「この色身」という場所で起こる様々な反応が、カテゴリーで把握され、「いつも化」されて実体視され、「わたし」が恒常的実在として妄想されるに至るのだと思います。
 このようにそのつどの現象がカテゴリー機能によって「いつも化」されて言葉(名詞)が生まれます。言葉(名詞)は、輪郭線によってカテゴリーの内と外とを分けるだけで、カテゴリーの中の個別の事象の区別には関与しません。もしカテゴリーの内側にある差異を語ろうとすれば、別な言葉のカテゴリーを重ね合わせるわけですが、どこまでそれを繰り返しても、個別具体の事象そのもの(物自体というより現象自体)に行き着くことはできません。
 名詞が獲得されるより前に、「不快だ」とか「空腹だ」とか「心地よい」といった述語的な感覚があると思いますが、言葉は、なぜか名詞の支配が強力で、主語となるなにかをまず設定して、そこに述語がくっつくという構造になっています。言葉のこの構造が、そのつどの現象に対するそのつどの欲望を、構造的で持続的で執念深い執着にランクアップさせることに一役買っていると思います。
 名色については、sadato12さんの問題意識との関連は薄いかもしれませんが、小論に論じたものがあります。
 HP扉ページの、グーグルによるサイト内検索が文字化けになってうまく作動しなくなっていますが、文字化けを消して、キイワードを入れ直すと、関連ページを拾い出してくれます。

 触発されて、自分の考えばかり書いてしまいました。頂いたご質問への返事になっていなければ申し訳ありません。
 またご意見お聞かせいただければ幸甚です。
                          草々
sadato12様
      2016年11月2日            曽我逸郎
 

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