無記名さん 涅槃(それに近い心境)に到達できたのでしょうか? 2014,2,10,

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はじめまして。ホームページを見させていただき、メールさせていただきました。

小池龍之介さんの著書を読み、そして最近脳科学の本を読みあさっている者(48歳・男 ただの会社員)です。

HPを見させていただいた正直な感想ですが、同意見、共感できる部分が沢山ありました。そして参考・勉強になった箇所(縁起の解釈など)も結構ありました。

そこでHPにかかれていなかったことを、一つ聞かせてください。

こうして仏教を勉強され、研究されている曽我さんは、涅槃(それに近い心境)に到達できたのでしょうか?

私も仏教(といっても小池さんの本ぐらいですが)と、それをフォローする現代脳科学の本を読んで情報収集しているのでありますが(なので曽我さんのHPを見つけた次第です)、学ぶ目的はあくまでも平穏な日々をおくることであります。

いっくら哲学的なことを勉強して知識がついたとしても、眉間に皺を寄せていつも難しいことをかんがえているようでは、まったく意味が無いと思っております。

少しずつですが、自分の感情の起こりを観察し抑止できるよう訓練(修行?)しており、ちょっとは平穏に過ごせる瞬間が増えてきたかなぁ〜と感じられるようになってきたところですが、知識が増えると、もっと知りたい、誰かに教えたい、何か新しいことを発見できるのでは?(理系人間なもので)という欲(新しいことやりたい依存症(すなわち執着でしょうか))が出てきて、行ったり来たりしております。今思えば仏道を知ったことで、昔からこの執着に苦しんでいたことに気がついたのですが。。。

曽我さんのご経験とご意見と、そして今の心境を聞かせて頂ければ幸いです。

(無記名で失礼します)

 

曽我から 無記名さんへ 2015,2,15,

はじめまして。

 メールを頂きありがとうございます。返事が遅くてすみません。

 涅槃、もしくはそれに近い心境にいるのか、との質問を頂きました。

 涅槃にいるのでないことは確かです。
 提起頂いた問題を互いに深め合えるように考えるには、本当はまず涅槃を共有できる形で定義しておく必要があるのでしょう。でも、メールのやりとりではそれも大変なので、涅槃という言葉を離れて、私がそうなりたい状況を説明すると、無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得し、執着の反応が鎮静化し、苦をつくらなくなる状態です。そういう状態が、ある時突然それまでとは全く違う状況として実現するのではないかという期待も持っていますが、そういうものではないのかもしれない、とも考えています。
 禅の世界では、頓悟と漸悟という対立した考えがありました。頓悟は、修行の中でもがき続けるうちに、突然一挙に迷いが晴れる、とする考えです。漸悟は、だんだんと迷いが晴れてやがて覚りに至る、とするものです。禅の歴史においては、頓悟派が優勢になったようで、日本に入ってきたのもそちらだと思います。
 これにならって私の状況を説明すると、いつか無常=無我=縁起がどすんと腹に落ちて分かって、それまでと全く違う世界の見え方があり、自分の反応の仕方も一変するようなことがあるかもしれないと期待もしつつ、戒定慧の教えに従って、今の自分の反応を整え観察している、というのが現状です。今の自分の反応を整えようとすることで、未来の自分の反応パターンがすこしずつ整い、だんだんと苦をつくることが減っていくと考えています。実際に、現在の私は、かつてのように自分の生に意味のないことにいらだつこともなくなりましたし、他の人に比べれば腹を立てることも少ないと思います。(カミさんに言わせれば、まったく違う意見でしょうが、それは私にはカミさんに甘えがあるからついついわがままになってしまうからでしょう。)仕事柄、住民の皆さんや議会からいろいろな意見、評価をもらいますが、それを変に気にすることもあまりないと思います。眉間にしわを寄せて難しいことばかり考えている訳ではなく、たとえば、堅苦しい会議をなごませようと、開会挨拶でうけを狙った冗談を言って、すべってしまうこともしばしばあります。
 要するに、頓悟にあこがれつつ、漸悟の努力を細々と続けているというのが正直な現況です。
 頓悟について、脳科学に関連してよけいなことを書くと、ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』は興味深い本でした。(2013年6月31日の小論を参照ください。)神経解剖学者であるジルの左脳で脳卒中が起こり、言語中枢他にダメージを受けた際の経験を記しています。おそらく仏教徒ではない彼女が、ニルバーナ(まさに涅槃)と表現する状況は、カテゴリー化とそれによって輪郭線を引いて個々の対象を切り出す機能が停止し、世界の全体が溶け合いながら流れ交わっていて、自他の区別がなく、静かで平和で解放された安らぎと思いやりの境地だったと書いています。頓悟の際には、こういう状況になるのかもしれません。彼女の左脳のどこが機能を停止したのか、もし正確にわかって、そこに安全に麻酔を施せるのであれば、やってもらって、彼女の「ニルバーナ」を追体験してみたいとも思います。しかし、それは、オウム真理教などと同じ神秘体験を重視する危険な願望でありましょう。

 釈尊の教えを学ぼうと努力することも執着ではないか、という問題提起も頂きました。なるほど確かに、釈尊の教えを学ぼうとする精進も、欲望を実現しようとする執着も、努力という点では同じかもしれません。動機が異なるだけで、努力という点では同じなのかもしれません。目先の欲得を得ようと努力することが執着で、執着が苦をつくることに気づきその反応を止めようと努力することが精進なのでしょうか。努力としては変わりがないのか、少し時間をかけて検討したいと思います。
 思いついたことを書き添えると、執着と精進だけではなく、努力にはもう一種類あるのかもしれません。それは慈悲です。人々が苦をつくる執着の反応となっている状況をなんとか変えようと努力するのが慈悲です。特に昨今は、自分大事の執着が追い詰められて、他の人を憎むことで自分の尊厳を維持しようとしたり、自分のために他の人への暴力や他の人を犠牲にすることを容認したりする風潮が目立ちます。人々がそういう反応に走るのを止めるにはどうすればいいかと考え、そういう方向に人々を操り導こうとする人々にどう対抗するかを考えねばなりません。
 執着を吹き消そうとする精進と、人々が苦をつくらないようになるよう努力する慈悲と、釈尊は両方の努力を教えて下さいました。それは間違いのないことだと思います。

 頂いたメールで思ったことをとりとめなく書きました。
 またご意見お聞かせください。
                          草々
無記名様
      2015年2月15日            曽我逸郎

 

 

山宮さんから 2015,2,15,

曽我様

この度はメールありがとうございました。

山宮と申します。

曽我さんは、以前に比べれば心落ち着いた境地にいられるのとの事でしょうか。

その言葉を聞いて勇気づけられました。ありがとうございます。

私も勉強しながら、精進したいと思います。

当初私は、瞑想修行をすることである日突然悟りの世界がパッと開け、幸せが訪れるものだと思っておりました。

しかし色々と本をよんでみると、今に集中する力(定でよろしいでしょうか)を養うことで、心が落ち着く時間が増え、すなわち平穏が訪れる、ということではないかと思いそちらの方法でやっている状況であります。

すなわち漸悟を目指しているということでしょうか。

偶然ですが、昨日ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』という本があることを知りました。近々読もうと思っております。

そして、2013年6月31日の小論も読ませていただきました。

瞑想にて神秘体験を惹起する脳内メカニズムなのかもしれませんね。日経サイエンス2015年1月号にも近い内容が書かれておりました。臨死体験とも関係してそうです。

曽我さんもご指摘のとおり、この体験にこだわってしまっては危険だと私も思いました。

話は飛びますが、慈悲というものは執着が減ることで自然と増えてくるものという曽我さんの説に賛成です。

うまく説明できませんが、執着が減ることで自分の心の許容範囲が広がり、寛容な目で他者を見ることができるようになる、そんな感じではないかと思っておりました。

そして因果と縁起についても、本当の所はどうなんだ?と考えていたところでもありました。

確かに良い悪いは1対1対応の時もあるが、そうでないことも多い。運が良いとはただの偶然だけで無い気もする。良いことをしているから運が良い(運が良くなると思いたい)のかもしれない、果たしてどうなんだろう、と。

この点についても、曽我さんの説に賛成です。

良い行いをしていれば、良い結果そして良い縁に結びつく確率・可能性が高まる、そういうことではないか、そんな風に解釈いたしましたがいかがでしょうか。

曽我さんのHPのどこかに書かれていたかと思いますが、仏教の教えを知ることができてとてもよかったと思っております。

無我である、ということを理解したとき不思議な安堵感を覚えました。

そして認識する世界ががらりと変わりました。それだけで、心が少し楽になりました。

また勉強させていただきます。

質問などでまたメールさせていただくかもしれませんが、その節はよろしくお願いいたします。

山宮

 

曽我から 山宮さんへ 2015,2,24,

前略

 あんまり細かいことなので、こだわらなくてもいいようにも思いつつ、山宮さんが真摯に正しく頑張っておられるので、余計なことかもしれませんが、一点感じたことを書きます。

 良いことをしていれば運が良くなるか。良い行いをしていれば、良い結果や良い縁に結びつくか。

 結論から言ってしまうと、すごくそうなるわけではない、と思います。

 「良い行い」と言っておられるのを、戒、すなわち、自分やまわりの人に苦しみを作らないように気を付けてふるまうこと、として考えました。いつもそのように気を付けていれば、例えば車の運転も穏やかで丁寧になるでしょうから、交通事故に遭う確率はかなり低くなるでしょう。人とのつきあいも穏やかになりますから、嫌われることも少なくなります。しかしそれでも、もらい事故や機械の故障、道路の異常による事故の確率には、変わりがないでしょう。人づきあいでも、みんな凡夫なのですから、自分のふるまいをいくら整えても、恨まれたり憎まれたりすることはあります。分かりやすく例えれば、釈尊の教えに学んで修行しても、宝くじが当たる確率は上がらないし、雷が落ちて打たれる確率も下がらない。どんなにいい人であっても、大衆が執着を操られて戦争を望み、召集されて前線に送られれば、鉄砲で狙われることになります。縁は、誰にも同じように降ってくる。

 では、なにが変わるのか。私は、まだ漸悟の道をのそのそ歩いているレベルなので、「なにがあっても、どんな不運であっても」と言い切る自信はありませんが、おそらく、たいていのことには、「ならばよし。そうなったのならそれで構わない」と思えるようになると思います。執着がなくなるということは、選り好みせず、どんな状況になっても平常心で受けとめる、ということです。そして、そんな自分と同じようにさまざまな幸運や不運が押し寄せてくる中に翻弄されている周囲の人や虫や鳥が幸せであれと願うことが、自分の幸せになるのではないかと思います。
 IS(私のイニシャルと同じ)のテロリストに対しても、「許せん!地上から抹殺する!」と息巻いてさらに苦を増やすのではなく、それが生まれてきた因縁を考えることができれば、冷静に解決策を考えることができるでしょう。それが慈悲だと思います。

 未消化な感想を書きました。的確な答えは返せていないかもしれませんが、私にとってはありがたい刺激(=縁)ですので、何なりとご意見お聞かせ願えれば幸甚です。引き続きよろしくお願い申し上げます。

                             草々
山宮様
        2015年2月24日              曽我逸郎
 

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