篠崎 仁さん 死後生=生まれ変わりは無い、とは思いません 2012,6,27,

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拝啓 曽我逸郎 様

篠崎 仁と申すものです。現在は全てを捨ててミャンマーで出家しようかと考えています・・・
仏教の一般書をちょこっと読むだけで、全然知識ないです。

ホームページをたまたま拝見いたしました。
仏教に関する理解の深さに感服いたします。いくつか聞きたいことがあります。

現在日本にテーラワーダ仏教が広く紹介されています。
私はブッダの人と思想をよんで原始仏教に惹かれたのですが、現代のテーラワーダ仏教をみてどう感じるでしょうか?

ざっくりと小論や仏教に関する理解と言うところを拝見しただけですが、少し意見したいです。
死後生=生まれ変わり(と言う解釈で間違ってませんよね)は無い
と断言されていますが、私はそうだとは思いません。
この見解は明らかに邪見に入りますし、涅槃目指して修行する意味がなくなると思います。

昔から体と精神(心)はどこで繋がっているのかという議論がありますが、曽我さんは心は肉体の物質的な現象と考えているようですね。
仏教を信じることは、因果律を信じることでもあると思うのですが、始まりはともかく ”心” というのは連綿として何か感覚を享受してきたのだと思います。
5道に生まれ変わるといわれていますが、例えば
体が機能しなくなるとまた別の体を作ったり(or宿る?)、体あるのか知りませんが地獄で苦しむ など。
心が感覚を享受するために、渇愛があるためにまた生まれ変わるということを繰り返しているのだと思います。で、どこに生まれ変わるかは業によって決まると。
修行をすると生まれ変わる原因が無くなる=心が何も求めない=涅槃なのかなとも思っています。
経典には梵天は世界の消滅を○回見るくらい寿命が長い などと記されていますから、地球が存在するよりもはるか昔から 心 は何かを享受してきたんじゃないかと。
そんなら地球無いのに人間いるのか!ってなりますが、知りません・・・

ここで大事なのが、心キ我ということではないかと。
自分の過去世を知る方法が経典に記されていますが、結局は本当の所はわからない。という結論になりますね。
明確に見れたとしても、自分の勝手な妄想かもしれないですし。でも今ここに居るのは、何か原因があるんじゃないかと!

他に考えているのは例えば、ある人を溺死させて、その後、呼吸できるよう肺からから水を抜いて心臓マッサージしても生き返らない。(つまり体は自体は機能するようにしたにも関わらず機能しなかったということ)
そうすると、心というものがあって初めて体は機能するのではないかと。

駄文を長々とすみませんでした。ここが間違ってるとはっきり指導していただきたいです。

でも一番大切なのは、毒矢の例えにありますが、現に苦しみがある。原因を探してないで治療しろ。それだけで十分だと思います。
私は学校環境や家庭環境etcで苦しんできました。瞑想をして明らかにいい変化があって、現在は出家を考えています。
ペットで猫を飼っているのですが、昔は走りまわっていたのに今は年老いて苦しそうにしているのを見ると無常を感じずにはいられません。
私もいずれこうなるのかと、いろいろ考えてしまいます。

お返事いただけたらうれしいです。

篠崎 仁

 

曽我から 篠崎 仁さんへ 2012,7,25,

前略

 メールを頂き、有難うございます。大変遅い返事となってしまい、申し訳ありません。どのようにお応えすればいいか、考えるうちに日が経ってしまいました。

 或る頃から、輪廻転生、死後生、生まれ変わり等に関する議論に対しては、釈尊に倣って「無記」をもって対処するのが正しい、と考えるようになっています。ですので、「無記」の一言でもって終わらせるか、或は、回答しない方がいいのかも、などと考えました。

 とはいえ、それもあんまりですので、若干思ったことを述べます。

 梵我一如の考えは、「我あり」の考えで、 もともと「我」がある、また、その「我」は、本来良きものである「梵」の一部、または「梵」そのものであり、やはり「本来良きもの」と考えられています。
 一方、篠崎さんの仰る「心」は、「感受」を求め「感受」に執着することによって、「生まれ変わり」を繰り返している。そのようにお考えなのだろうと受け止めました。篠崎さんの言われる「心」は、執着の反応の結果であり、「本来良きもの」ではない、という点で、梵我一如思想とは異なる、という点は理解しました。

 ただ、篠崎さんは、心から心の縁起、心から心への輪廻転生を考えておられるのではないでしょうか。

 私としては、「心」という言葉は、釈尊が否定された「我」に代わって、「我」すなわち「持続的な主宰者」を含意する「言い換え」用語として機能してきた、と考えますので、「心」という言葉には気をつけねばならない、と考えています。当然、「心」を実体的な存在として想定することは、陥りがちな誤ちだと思います。
 ただ、私とて、ある瞬間の「心」という現象が縁となって次の「心」という反応を起こす、という事は、実際そのとおり頻繁に起こる現象だと考えます。ただ、「心」が「心」だけで独立して自立し、「心」のみで「心」から「心」へと縁起が連なっていく、とは考えられません。「心」は「心」に縁起して起こるだけでなく、もっと様々な事に縁起し、依存しています。色身の機能が停止した状態で、今の「心」が縁を発し、次の「心」を引き起こし、その連鎖が継続し得る、とは思いません。

 五蘊、即ち、色・受・想・行・識は、人間の様々な側面、機能・働きをただ羅列しただけのものではなく、その順に縁起することをも含意していると考えます。色が起こって、受が起こり、受が起こって、想が起こり、想が起こって、行が起こり、行が起こって、識が起こる。色がなければ、受は起こらず、受が起こらなければ、想は起こらず、想が起こらなければ、行は起こらず、行が起こらなければ、識は起こらない。識のみで、識から識への縁起、輪廻転生は継続するのでしょうか。

 素晴らしいことに、篠崎さんは、ビルマで出家し、自分という現象が無情にして無我なる縁起の反応であることを、自己観察によって確かめようとなさっています。良い師に恵まれ、精進によって成果を上げ、大きな気づきがありますことを心より祈念いたします。それによって、ここで意見交換した疑念も晴れるに違いありません。
 そして、見出された気づきを、私や多くの人にも教え気づかせて下さることを期待し、心からお願い致します。

 体調管理にお気遣いの上、ご健勝にて精進頂き、大きな成果をあげられますことを。

                                  草々
篠崎仁様
      2012年7月25日                    曽我逸郎
 

 

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