大貫俊彦さん (曽我HPの)「仏教理解」の感想 2012,4,28,

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 大貫さんは、4月22日文京区民センターで開かれたNPO法人日本進路研究所主催による討論会「釈尊の教えと社会変革」を聴きに来て下さいました。講演の基になった原稿は、6月1日、同法人発行の雑誌『プランB』に掲載されます。少し日を置いて、このサイトにも掲出します。
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前略

 曽我様、先日は突然お邪魔した形になってしまい失礼しました。

今日、初めて仏教理解を読ませていただきました。

勝手ながら、私の私見を述べさせていただきます。
疑問に感じたのは苦についてです。苦が生じる原因様々書かれておりすべて納得出来ますしその通りだと思いました。
しかし、私が考えるに では、苦自体は悪いことなのかと言うことです。苦があるからこそ成長出来るのではないか?
苦をあってはならないと思うから苦になるのではないか?
では、苦を自分に与えてみたらどうなるか?
様々な修行を自分に課すこと、この様な状態を体験する事によって様々な心の変成状態を作り出して行く事が修行だと考えています。
では、そのような変成状態を体験するとどのようなことが脳の中で起こるのか?
「自分はこの様な修行に耐えることが出来た、だからすばらしい人間なんだ
 自分は普通の人間とは違う特別な人間になったんだと間違った思考状態をもっようになってしまうのではないでしょうか?」

私たちが、おちいりやすいおおきな罠だと思います。 「修行をすれば、超人になれるんだと。」

確かに、脳が修行の段階で変成状態になればそれが自分自身の現実になってしまうでしょうけどやはりそれは普段の状態とは違うわけです
では、なんのために修行をするのか?
自分が自分であることを理解する事だと思います。
自分が自分であること・・・・鼻は確かに自分の顔の真ん中についているこの事だと思います。
答えは私たちの中にすでにあるのだと、悟りということを超人になることなんだと私たちが勝手にねじ曲げてしまっているのではないでしょうか?

ここからは本当に私の勝手な創造ですし空想です。
なぜ仏陀は修行をやめたのか、苦しい様々な修行をしていてやめてしまします。共に修行していた者たちは堕落したと言ったそうです。
なぜやめたのか?そこにこそ本当の悟りがあったのではないでしょうか?
修行という特別な状態でないとき
平常なときに悟りの境地にいることが、本当の真理に目覚めた人なのではないかと勝手に考えています。

ではそれが、どのよな状態なのかは解らないのですが、先日読んだ板橋興宗老師の書かれた本に井上老師との初対面の問答が書かれていました

これまでの問答とはまったく違っていた。
「コレ、なんですか」と拳骨をつきだされ、私はグーの音も出なかった。
理屈だけで悟りを理解しようとしていて鼻をへし折られた。と書かれていました。
言葉では表せない領域、不立文字そんな領域が悟りの領域なのかもしれません。

誠に私の勝手な思い込みだけでかいています。未熟者ですのでご勘弁願います。
取り急ぎ仏教理解の感想まで、しつれいします。

合掌 大貫俊彦

 

曽我から 大貫俊彦さんへ 2012,5,13,

前略

 先日は、せっかくのお休みにわざわざ来て下さり、有難うございました。あの時も十分な意見交換ができず、申し訳ありませんでした。不愉快な思いを抱かせてしまったかもしれません。

 今回メールを頂いて感じたことは、「仏教」もずいぶん広いので、それぞれの立ち位置というか、バックグラウンドがあまり共有されておらず、有意義なやり取りができるだろうかと、心もとなく感じています。私は確信犯的に釈尊の教えを「仏教」から濾し採ろうとしてきましたので、普通の「仏教」のフィールドからはずいぶん偏った狭い土俵にいることは自覚しています。

 その偏った狭いところから思うところを書きます。相違点明確化のため、ぶしつけな点もあるかと思いますが、どうかご寛恕の上、検討してみていただければ幸甚です。

◆「苦自体は悪いことなのか…苦があるからこそ成長出来るのではないか」

 4日、フリーター労組主催の「自由と生存のメーデー」に参加しました。デモの後の集会で様々な報告がありました。福島第一原発20km圏内から退避したが、避難先では仕事が見つからず、家族のために事故対応の原発内被曝労働に就労せざるを得なくなった青年のビデオ。同窓会の賑やかな二次会での取材で、「妊娠したが怖くて産めない、どうして私は普通に幸せな家庭をつくれないのか」と涙を流す女性。飲食業の非正規雇用だが、雨の日とか客の少ない日は、後輩スタッフに長時間休憩を取らせてバイト代を減らすことが実質的に任務の一部となっており、嫌でしょうがない、という東京の若者。
 飯舘村の酪農家・長谷川さんの講演会では、「子や孫に避難を遠慮させたくない、私は先に墓に避難する」と言って自殺された高齢者の話も聞きました。
 自分の執着、人の執着によって我々凡夫が互いに苦しめ合ってしまうあり様は、やはりなんとかすることが必要ではないでしょうか。

 大貫さんの仰る「成長」とは、どのように変わっていくことをイメージしておられるのでしょうか。世の中の苦を容認しても成し遂げるべき変化とは一体どんな変化か?
 私の考えでは、我々凡夫の目指すべき変化とは、「人と自分とを苦しめないようになること。そのために自分が無常=無我=縁起であることが納得され、執着の反応が沈静化すること」です。

◆「様々な心の変成状態を作り出して行く事が修行」

 もしそうだとすれば、ドラッグでもやればいい事になりませんか?
 変成状態ならぬ普段の日常においても、我々という現象は、煮え立つシチューの泡やしぶきのように、脈絡なく次々と沸き上がっています。にもかかわらず、「いつもの私」が変わらず一貫して存在しているかのように思いなしている。普段において、自分という反応が暴走しないように気をつけ(戒)、できるかぎり静謐に保ち(定)、とろ火にかけたシチューのように沸きたちが穏やかになって観察可能になった自分という反応をリアルタイムで生々しく見つめて、ある時自分の無常=無我=縁起が了解される(慧)。そういう努力が釈尊の説かれた修行だと思います。
 (念のため:シチューは色身で、そこに沸き立つ泡やしぶきが私というそのつどの反応の比喩です。)

◆「私たちが、おちいりやすいおおきな罠=『修行をすれば、超人になれる』」

 確かに仰るとおりで、そういう危険な誤解が多いと感じます。

◆「自分が自分であること=鼻は確かに自分の顔の真ん中についているこの事」

 これは、何を仰ろうとしているのか、まったく分かりません。おそらく大貫さんも分かっておられないのではないでしょうか。分かっておられるなら、比喩ではなくもう少し分かりやすい説明をして頂ければ、と思います。
 意味ありげで、有難げで、どことなく分かったような気にしてくれるけれど、ちゃんとした説明のできない言い回しが、特に日本の「仏教」には溢れています。おそらく日本語、或いは日本人のコミュニケィションの性向かと思いますが、言う側ははっきり言わず、聞く側が慮って、言わんとされているであろうことを過剰に推察する。察しのいいこと、空気を読めることが、日本の付き合いにおいては洗練とされています。この性向の悪しき現れのひとつが、深い意味がありそうだけれど何を言っているか分からない言い回しをありがたがることです。こういう言葉は、とりあえずの安らぎを与えてくれて腰を落ち着けることができるのですが、かりそめの休憩でしかありません。そこに甘えず、真摯な精進が必要です。

 このような言葉に安住しない為の方策は、英訳して外国人に説明すると想定してみることです。

 Buddhists train themselves to realize that their noses are surely in the middle of their faces.
 文法の間違いなどはご容赦願いますが、これで外国の人に「仏教」を多少なりと理解してもらえるでしょうか。
 (今書いていて思い出しました。大貫さんが修行された安泰寺のネルケ無方師も、日本語でほとんど同じ言い方をしておられたと思います。日本語に極めて堪能な無方師が日本のコミュニケイション作法まで血肉化された結果でしょうか? ドイツ語を母語とし、各国語に秀でた無方師が、「鼻は顔の真ん中にあることを知る」という仏教の説明を、英語やドイツ語でどう書いておられるか、異文化交流の視点から大変興味があります。)
◆「なぜ仏陀は修行をやめたのか…そこにこそ本当の悟りがあったのでは?」

 私も、釈尊が苦行を止められた理由は、よく言われるように単に「苦行が無益と分かったから」というだけではないと思います。眠らないで続ける修行、断食、また本当に取り組まれたのか分かりませんが、息を止めての瞑想なども経典は伝えています。6年もの長きに渡ってそんな苦行を続ければ、大貫さんの仰るとおり変成意識体験をして、普通なら「真我が輝きだすのを見た」とか「世界の本源とひとつになった」などと浮かれ騒ぐことでしょう。しかし、釈尊はそんな誤ちには陥らなかった。おそらく、苦行によって身体を特殊な状況にもっていけば、「私」も特殊な状況になる、すなわち、「私とは、色身に縁起する現象である」ことに感づかれたのだと想像します。
 そこで釈尊は苦行を中止し、スジャータの差し出した乳粥を食べ、体調を整え、快適な環境で、「自分とは縁起の現象ではないか」という気付きを慎重に自らにおいて点検された。その結果終に、「自分とは、執着しても執着することのできない、そのつどそのつど起こってはたちまち消える現象である」との認識を得て、執着の愚かさが痛感され、暴流が砂の中に吸い込まれ消え去っていくように執着が鎮まり、穏やかな安らぎが訪れた。これが成道だったと思います。

◆「言葉では表せない領域、不立文字そんな領域が悟りの領域」

 不立文字とか離言とかが主張される背景には、大抵梵我一如型の発想があります。梵は、世界を生み出す本源、かつ世界全体として想定されおり、一方、言葉は輪郭線であり、対象とそれ以外のものを区分けする機能です。従って、すべてを包摂するとされる梵には、原理的に言葉は届かない。「梵」という言葉さえも、梵以外のものを想定させてしまうから、厳密には間違い、かりそめの表現でしかない、ということになります。梵的ななにかをイメージしていると、不立文字とか離言とか言い出さざるを得なくなるのです。
 禅は、中国の格義仏教の尾を引いて、老荘思想の影響を受けており、老荘の「無」とか「道」とかは、「梵」に似た考えではないかと思います。
 今申し上げたことが書かれている訳ではありませんが、禅思想の批判的な研究として、文字どおりの『禅思想の批判的研究』大蔵出版という本があります。著者の松本史朗先生は駒澤大学(曹洞宗系)の教授で、少し専門的な内容であり、値段も高いので、図書館等でご覧になって頂ければ幸いです。チベットに仏教が伝えられた初期におけるインド中観派対中国禅の争い(サムイェーの宗論)や、中国禅における頓悟の発生、正法眼蔵などから禅思想に鋭く切り込む刺激的論考が満載です。

 一方、釈尊は言葉を否定しておられません。八正道の最初は「正見」ですが、これは「正しく見ること」ではなく、「正しい見解」です。パーリ中部第43大有明経には、「正しい見解」は「他からの声」と「正しい思惟」という二つの縁によって起こる、とあります。つまり、誰かから釈尊の教えを言葉で聞いて、それをよく考え、正しい見解を持つ。これが釈尊の教えを学ぶ正しいスタートです。

 また大パリニッバーナ経では、釈尊は「早く入滅せよ」と勧める悪魔(釈尊の内心の願望?)に対して、こう答えておられます。

 「わが修行僧である弟子たちが、賢明にしてよく身をととのえ、ことがらを確かに知っていて学識あり、法をたもち、法に従って行ない、正しい実践をなし、適切な行ないをなし、みずから知ったことおよび師から教えられたことをたもって解説し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。」(『ブッダ最後の旅』中村元訳 岩波文庫)
 つまり、釈尊は、弟子たちに言葉による理解、言葉で人に教えることを期待しておられたのです。

 確かに禅は不立文字を主張していますし、他にも言葉を否定する「仏教」はあるでしょう。しかし、それは、「仏教」の広大な歴史的展開の中の偏った一部の「仏教」だと思います。

 またご意見お聞かせください。
                                 草々
大貫俊彦様
       2012年5月13日                 曽我逸郎
 

 

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