旅師まさ坊さん 主体性について(続きの議論) 2010,11,3,

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前略

ご無沙汰しております。九州の旅師まさ坊です。
すっかり寒くなりました。お風邪を引かれませんように。今後とも精力的な情報発信を楽しみにしております。

最近更新があった意見交換の中に、ムニムニさんの質問を見つけました。私も少し皆さんの議論に役に立つべく、自分の意見を明確にしてみようと思います。
自分が質問に挙げさせていただいた、主体性についての質問ですが、正直なところ、私は人間(を含む生き物)の主体性について、どこまでが確かでどこまでがあやふやなものなのか、いまだに実感がつかめておりません。ただ、過去に曽我さんとやりとりさせていただいた中で出てきた、「我々が個物として捉えているのは、波紋が干渉しあって突出した波形の部分である」という表現が、今のところ自分に一番しっくりきます。つまり、個物は絶対ではなく、他との干渉の中で仮に形づくられている、ということです。

主体性について考えを述べさせていただく前に、少しだけ個人的な話に触れさせてください。

学生時代、私は大学まで片道1時間半の電車通学をしていました。そして、あるときふと、目に映る車内の景色が「ひとつの絵」のように映ることがありました。
目の前に長いすはあるのですが、それがどうしても「本当にある」とは思えない。どうも「絵に書かれたアイテム」にしか見えてこない。立体感がない。
何といいますか、目前のものすべてが重み(質量、形、大きさ)を失い、奥行きのない、平らな事物に映るようになりました。
この変な感覚は何なんだ?どうも息苦しく、それからしばらくうなされる羽目になりました。
この感覚を説明する言葉を本屋で探していたところ、独我論という文字に行き当たりました。内容は、ご存知の通りです。ご多分にもれず、私も「(日ごろ接する友人知人に対し)この人は本当に存在するんだろうか」などとつまらんことを本気で考え、「本当にそうだったら、恐ろしいことや〜」とビクビクするようになったわけです。

私には今、椅子が見える。地下鉄のホームが見える。そこで携帯をいじくる女子高生が見える。普通なら、私たちはここで椅子が「ある」、ホームが「ある」、女子高生が「いる」と受け止めるわけですが、ここで疑ってみたんです。
事実間違いなく認められるのは、私の目に映る椅子という「形(イメージ)」、ホームという「形」、女子高生という「形」、それだけじゃないか。自分の心象に何者かが現れるとき、私たちはその感覚を以って「(対象が)存在する」と考えるが、そこに(イメージと物自体との間を無理につなぐ)飛躍がありはしないか。

道端に落ちていた小石を拾ってみる。私の手には、小石のザラザラした感触がある。灰色に染まった色合いが目に映る。私の両目と、小石との間に広がる1メートル近くの距離(物理空間)を感じる。・・・こうしたさまざまな感覚、印象を以って、私は「この小石がここに存在する」と考えます。しかし、感覚はあくまで感覚。対象であるもの自体ではないはずです。そう考えたとき、私が日ごろ接するさまざまなもの、人、家族、アパート、あらゆるものが存在が不確かなものに感じられてどうしようもなくなったんです。

そもそも、「感覚」自体も根拠があやしい。私たちは無前提に「目」という感覚器官の存在を受け入れていますが、それ自体、果たしてそういえるのか?日々向かい合っている家族のイメージ、小石のイメージ、空を飛ぶトンビのイメージ、それらを知覚することを以って「目」という感覚器官の存在を想定しているだけじゃないか。私の目、頭、手、足・・・あらゆるものが、私の視覚データ、聴覚データ、触覚データによって仮に想定されているだけじゃないか。自分が心底「真実ある」といえる存在は、実は何もないのではないのか、そう結論づけずにはいられなくなりました。(今私は視覚や聴覚、触覚などを挙げましたが、これらの感覚自体も、その根拠は不確かなものだと感じております)

とまあ以上のようなことを考えながら学生生活を送って参りました。
社会人となった今では上のようなことを真面目に考える暇も余りありませんが、自分が長年抱いてきた(研究?)テーマであり、いつか解決のとっかかりを見つけたい、と考えております。(その過程で仏教を見つけ、勉強しはじめたところ。曽我さんの「無常=無我=縁起」の指摘には、正直シビれました)

すいません、もうひとつ。上は「ものが存在するのか否か」についての疑問だったのですが、仮に「ものが存在する」と実証できた場合の、次の段階でまた疑問があります。それが「主体性(統一性)、あるいは個物性」です。個物といえるものは、果たして実在するものといえるのかどうか。
以前、質問させていただいた内容と重なりますがご容赦ください。

私たちの日ごろの生活は、朝「ベッド」から起きて、「歯ブラシ」で歯を磨くところから始まります。「電車」に乗って「◎×会社」と看板の置かれたコンクリートの建物に入っていくわけです。自分の「机」で仕事をし、時間が空いたときには会社の窓から「◎×市」の街並みを眺め、疲れた気分を和ませることもあります。・・・今、カッコでくくった部分は、いずれも私たち人間が勝手に意味付けてとらえたものです。現実に「存在」するものではありません。たとえば「ベッド」なら、金属製の板を上下左右に組み合わせたもの。仮に名づけてそうなっているだけのことです。

見渡すと、仮に名づけてそうなっているものばかりです。「時計」しかり、「車」しかり。「地球」だってそう。カレンダーの「月日」だってそうです。私たちが日ごろ接するものたちは、本来はそのような輪郭を持っているわけではないのに(本来、輪郭自体が「ない」かもしれない)、私たち人間の側から勝手に区切られ、意味づけられているわけです。こうして考えていくと、日ごろ接する個物を個物たらしめる輪郭線がはなはだ妖しいものに映ってくるわけです。曽我さんの小論集の中で「走る馬」についての描写がありましたが、「走る馬」という現象そのものを感じ取れる人というのはそうそういないだろう(感じ取ったという彼女は、「現象それ自体」を受け取れたからすごい)と感じます。こう考えてくると、接するものすべてが「本当に個物として存在しているのか」と疑わしく映ってしまいます。

上で挙げたものはすべて無機物です。これらのものについては、私は個物性を見つけるのは難しいと感じております。
ただ、生き物についてはどうか。・・・ここが、実は一番知りたいところです。本当は「あってほしい」と願っています(なぜなら、個物がないということは、私という存在自体が根拠薄弱なもの、ということになりかねないから。自分を自分たらしめる存在基盤が揺らぐのはやはり怖い)。

曽我さんが以前紹介してくださった、スッタニパータの一節
(第4章 916 )『師(ブッダ)は答えた。「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ』
にあるように、そもそも「我あり」という考えをベースに置くところに悩みの根源があるのだろう、と思っております。ただ、なかなかこの「我あり」の呪縛から逃れられないんです。なんとも嘆かわしい次第です。

個物の話に戻ります。有機物の個物性についてですが、その輪郭をはっきりかたどる象徴があるように感じます。それが、主体性です。
繰り返しの話で恐縮ですが、もう一度書いてみます。

有機物の代表として私自身を例に挙げます。私には、ほかの何者がやろうと思ってもできないことができます。たとえば私自分の目をつむること。今この瞬間に私自身の笑顔をつくること。私にかかわることならば、私自身にしかできません。ある目的に沿って何かの行為をすることが、私自身に唯一できる。このこと自体が、私を他の一切のものとは異なる個物であることを証明しているのではないかと感じます。つまり、私自身には、こういった個物性、(目的を果たすため心身の作用をまとめる)統一性、主体性がある、と感じられます。

もちろん、私の行動すべてが主体的であるわけではありません。友達のA君から嫌味を言われれば、そりゃあ表情も厳しくなります。前方から野球のボールが飛んでくれば、無意識によけます。反射的に動く行為については、私たちの(自由)意思が働く前に、体が動くわけで、主体性があるとはいいがたい、と思います。

問題は、反射によらない行為です。たとえば「笑う」という行為について、

お笑い番組を見ていて思わず笑った→反射の要素が強い、といえますが、
「今から10秒後に笑顔をつくる!」と突如思い、実現する→自発的要素が強い(=主体的)といえるのではないか。

ベンジャミン・リベット の論文では、
「行為は無意識のうちに起動されている。意図はそれを後付で意識したものにすぎない。従って、意識が意図をもって行為を引き起こすのではない。」
という一節があったかと思いますが、外界の影響によらない行為についてはどう説明するのか(そういった行為がありえるのか疑問もありますが)、ここが聞きたいです。

ムニムニさんの表現では、
「ピアノを弾く、バットを振る、歩くという一連の行為は無意識的に行われているにしても、それは、その行為を行う人の意思を反映しない反射的な行為なのでしょうか? 一連の行為は無意識であるとしても、ピアノを弾こう、バットでボールを打とう、歩こう、ということはその人の意思を反映した行為なのではないでしょうか? アウェアネス(意識的気付き)のみが自由を行使できるのではなく、無意識的過程においても一定の自由を持ちえると考えることはできないでしょうか? 意識と無意識のあいだに絶対的な区別があるのではなく、意識と無意識の差異は、高速で情報処理をするか、全体的文脈の中で高度に複雑な関係として時間をかけて情報処理するかという差異に過ぎず、自由意思の有無を示しているのではないという考え方もありうるのではないか」

とありました。無意識的行為で自発的とは見えないような動き(たとえば「ピアノをすらすら弾く」行為)も、実はもともと自発的意思(「えっと、今から「ソ」を押して、「ラ」を押して・・・」というように)が基になっているのではないか、そういったご指摘ではないかと思います(違っていたらすいません)。

私が今回曽我さんにぜひお聞きしたいのは、反射によらない主体的な行為というものがあるのではないか、ということです(ムニムニさんの質問とは若干ずれるかもしれませんがすいません)。

毎回舌足らずの文章で申し訳なく思っております。ただ、こうやって質問させていただく(そして曽我さんから回答をいただける)ことがとても楽しく、やらせていただいております。
繰り返しになりますが、私は自分の意見にこだわりを持っているわけではありません(誰かを論破しようとかいうつもりは全くない)ので、どこか気にそぐわない表現などありましたらご勘弁お願いいたします。

どしどしご指摘をいただきたいです。よろしくお願いします。

草々

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