kumetsuさん 輪廻の構造〜「アートマン移転論」対「無我を前提とする縁起の理法」 2010,4,24,

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曽我逸郎 様

初めてメールをさせて頂きます。○○(仮名:kumetsu)と申します(50歳男性です)。曽我様のHPを拝見し、釈尊の教えの本当の意味を熱心に探求され、様々な批判的意見に対しても真摯に対応されている姿勢に感服いたしました。個人的にはブッダダーサ比丘「仏教の教えの本質的ポイント」和訳の記事が大変参考になりました。ありがとうございます。

ただ、私自身はここ数年、上座仏教に傾倒しておりますので、曽我様のHPの中で一番気になった点は、曽我様が輪廻を否定されているところでした。輪廻や業については、決定的な証拠を提示できないと思われますが、上座仏教においては、この点の理解を避けて通ることはできませんので、私も自分なりに調べてみました。その結果、現時点で自分なりに一応納得している説明を得ているつもりです。そこで、やや長くなりまして誠に恐縮ですが、以下に私がまとめたものをお示ししたいと思います。ヴェーダの梵我一如論とテーラワーダの無我論との対比についてまとめた文章からの抜粋ですが、どうかお目通しの上ご検討頂ければ幸いであります。

ただ、曽我様のHPの情報量はかなりのボリュームがあり、その全てに目を通しておりませんので、もしかしたら、同じような説明の意見が提示され、曽我様が反論もなさって結着がついているものかもしれません。その場合は、どうぞお許し下さるようお願いいたします。

また、もしも曽我様のHPの意見交換のコーナーにて下記文章を公開して頂く場合には、上記の仮名:kumetsu でお示し下さるようお願いいたします。


輪廻の構造〜「アートマン移転論」対「無我を前提とする縁起の理法」

輪廻(生まれ変わり)の仕組みの説明として、ヴェーダの立場からは、「アートマンのごとき何らかの永遠不変の固定的な実体・魂が主体となって、これがある生存から別の生存へと移転していく。」という説明が可能である(ここでは「魂移転論」と呼ぶことにする)。ただし、ヴェーダ的立場においてもアートマンは相対世界では把握され得ないという理解によるとすれば、相対界における輪廻という具体的現象の中核にアートマンを据えて把握することがはたして可能なのかという疑問はありうる。

これに対し、テーラワーダの立場からは、かかる「アートマンのごとき何らかの永遠不変の固定的な実体・魂」なるものの存在が否定されることから(無我論)、ヴェーダ的立場のような「魂移転論」により輪廻の構造を理解することはできない。

そのため、仏教の無常・無我という真理からすれば、輪廻の主体は成立し得ないとして、輪廻の存在自体を明確に否定する立場もある(アンベードカルのインド新仏教など)。

しかし、テーラワーダの立場におけるダンマの中核的教義をなす四聖諦・十二縁起からも明らかなとおり、そもそもテーラワーダの目的は滅苦すなわち「輪廻からの解脱」にあるのであるから、輪廻の存在はその教義の大前提となっているところである。

それでは、テーラワーダにおいて、無常・無我論を維持しつつ、それと矛盾しない形で輪廻を説明することができるのであろうか。

 この点、永続する不変の存在が「無常・無我」故に成り立たないと理解するのであれば、そもそも「輪廻転生」を「不変の固定的主体が、一つの生から次の生へ、さらにまた次の生へと移転し、延々と旅を続けるもの」と捉える構想自体を変えなければ説明し得ないことになる。

   これに答えるのが、常見にも、断見にも陥ることなく、中に縁る法である「縁起」の理法に基づいて生命を縁起的過程・流れとみる理解であり、「心相続(業の相続)」という構想である。

すなわち、私たちの心も体も固定的実体として存在するものではなく、刹那ごとに発生と消滅を繰り返す無常なる過程・流れであるとみるのである。これを心についてみれば、心すなわち識とともに、心の要素である「意志(チェータナー)」等の心所が刹那ごとに生滅するのであるが、その過程において、その意志の業力(形成力)その他の因縁によって、新たに次の識(心)とその心所である意志(結果)が生み出されては滅し、それが刹那ごとに連続的に繰り返されることによって、「この刹那の識と意志」= 因 → 果 =「次の刹那の識と意志」= 因 → 果 =「さらにその次の刹那の識と意志」=因 → 果・・・因が果をなし、果が因となり・・・という一つの連続的な因果の流れが作り出されていく。その際、刹那ごとに発生しては消滅する心は、いずれも以前に生じた心とは異なるものであるが、それら一連の瞬間ごとの心は全く無関係・無秩序に生じているのではなく、そこには縁起的繋がり・流れがあるのである。今この瞬間に生じた私の心は、次の瞬間にいきなり豚や象その他の生き物の心を生みだすということはなく、縁起の理法(現時点の心の意志を中心に、それを生じるために関わった過去に培われた思考パターン等その他の諸因縁)に従って次から次へと同種同様の心(結生識=有分心=死心)を生じさせることになりやすいため、ほぼ一定のアイデンティティを持った、連続的な因果の流れとしての心の時間的な流れ(基本的業有による心である有分心の相続の連続といえよう。)が生じてくるわけである。

このように一定の同じような心を繰り返し作り出す根本的な原因は、「我執」すなわち「私」という妄想概念に渇愛を抱き、激しく執着したためである、ということになると思われる(渇愛→執着→業有→結生)。すなわち、「妄想によって作られた一定の傾向にある心」(エゴ妄想)に渇愛・執着を抱くこと(我執)によって、その渇愛・執着(我執)が生み出した業有というエネルギー(形成力・業力)が同じ傾向の心を刹那ごとに再生産し続けていく、とみるのである。譬えれば、まさに流れる川のようである。川の流れにおけるある一つの地点において、同地点における流れを構成している水の分子・原子は瞬間ごとに入れ替わっているものの、一瞬前も、今も、そして次の瞬間も「同じような流れ」がそこに存在している。これと同様に五取蘊も縁起の理法に従って瞬間ごとに生滅を繰り返しながら止まることなく流れ続ける。心(ナーマ)のみならず、肉体(ルーパ)もそれを構成する原子・素粒子は瞬間ごとに生滅しつつ入れ替わって流れ続ける、そのようにして五取蘊は常に流れ続けているのである。

そして、この心の連続的な刹那ごとの生・滅による縁起の流れを称して、「因果連続の相続体」とか「心相続」とか「業の相続」と呼ぶのである。

心も体も瞬間ごとに生じては消滅することの連続によって流れを形成するが、「世間的な生命の死」とは、現世における色=肉体の生滅による再生産の流れが停止することを意味するのである。しかし、心の生死の連続は新たな色(新しい体)の再生の流れを伴いながら延々と止まることなく続いていくのであり、このことを「生まれ変わり」といい、この生まれ変わりが際限なく続くことを「輪廻」として理解する。つまり、心(ナーマ)と体(ルーパ)の縁起的流れ自体が輪廻を構成するとみるのである。

「私は業そのものであり、私が相続しているものは業であり、私を生んだのは業であり、私の血縁・親類者といえば業であり、私の拠り所となるのは業である。私が何か行為をするならば、それが善であれ悪であれ、常に必ず、私はその結果を相続する。」(増支部5集57より意訳)

そして、心(ナーマ)も体(ルーパ)も刹那ごとに生まれては死ぬということを延々と繰り返しており、そのことをあるがままに知ったときに、それ自体が苦以外の何ものでもないことが判明するはずである(行苦)。このようにみると、一般的な意味での肉体の死は、これまでの肉体の再生産が不能となったことに特異性があるだけであり、その前後いずれにおいても心の生滅が縁起的流れとして止まることなく連続していることには変わりがないのである。つまり、われわれという縁起的存在は一般的な意味での死亡を経験する以前に文字通り、瞬間毎に(生まれては)死に続けているのである。この流れは、無明・渇愛・執着の滅(滅観縁起)がない限り、無始なる過去から終り無き未来に至るまで止まることがなく、輪廻による牢獄から逃れることができずに苦しみが続く(順観縁起)のである。

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   以上です。

  ところで、上記の「縁起」は、上座仏教において重視される時系列的な縁起観(因果律)(十二縁起など)によるものですが、曽我様が主張されている「無常=無我=縁起」における縁起とはいわゆる相依性縁起(この世には他からの影響を受けることなく超然と独立している存在というものはありえず、全ては他との相互依存的・相互規定的関係で成り立っているという意味)のことなのでしょうか?

  なお、分かりやすい参考文献としては、横山紘一先生の「仏教思想へのいざない」などが挙げられます(横山先生は唯識論者だと思いますが、この本の最初の方に原始仏教ないし初期仏教に関する基本的理解が分かりやすく示されていると思います)。

  これからも宜しくご指導下さるようお願い申し上げます。

  曽我様が健やかで幸せでありますように

  曽我様のHPが益々発展し、釈尊の智慧の輪が広がりますように

  全ての衆生が幸せでありますように

  kumetsu

 

曽我から kumetsuさんへ 2010,7,3,

拝啓

 遅い返事になってしまい、申し訳ありません。
 このところ他の方からも輪廻転生を主張するご意見を頂戴しています。どういう対応が最も適切か、考えておりました。結論として、このテーマについて意見交換することは、控えたいと思います。
 理由は、まず、既に多くの方々と意見交換しており、その繰り返しになる事。HPのトップページにサイト内検索を設けておりますので、そこで「輪廻」と入れてみて下さい。テーラワーダのお立場では佐藤哲郎さんとの遣り取りなどがあります。
 もうひとつは、こちらの方が重要ですが、輪廻転生は、全く重要でなく、どうでもいいことだと思うからです。輪廻転生など放っておいて、自分が無常であり、無我であり、縁によって起こされる反応であることを見極めて、腹の底から納得することに傾注すべきだと考えます。HPを読んで下さった方々を輪廻転生によって迷わせたくありません。
 どなたかからのメールなどで考えが変るようなことがあれば、輪廻転生について述べることもまたあるかもしれませんが、そんなことのない限り、以上の理由により、輪廻転生を主題とするメールは、今後は掲載することも控えたいと思います。
 何卒宜しくご了承の程、お願い申し上げます。
                                 敬具
kumetsu様
   2010年7月3日                       曽我逸郎
 

 

kumetsuさんから  2010,7,4,

曽我逸郎 様

ご返事ありがとうございます。

曽我様からどのような鋭い反論が返ってくるのかと期待しておりましたので、下記のご返事を頂いたことはとても残念に思います。

曽我様の今後のご検討をお祈りいたします。

曽我様が健やかで幸せでありますように
中川村の皆様が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

kumetsu

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