kataさん 仏縁を得られた原因とは? 仏縁と意思・意図 2009,1,5,

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曽我さま

こんにちは。

おそらく2,3年前だと思いますがメールしました。
そのときは丁寧にお答えいただいてありがとうございました。

最近は、初期仏教(テーラワーダ)に落ち着きました。
と言いましても、スマナサーラ長老の本を読んだり、無常随念、死随念、慈悲の瞑想くらいしかやってません(笑)。
ヴィパッサナー瞑想を教わりに行こうかな、と思っていますが、なかなか東京も遠くて行けずじまいです。

ところで、曽我さんがおっしゃるように、テーラワーダが、お釈迦様の「本当」の教えそのものだとは思っていません(笑)。
しかし、浄土真宗のように「南無阿弥陀仏」と念仏すれば「極楽浄土」に行けるとは思えないし、まして、神に祈れば天国へ行けるとも思わなくなりました(笑)。
とにかく、「消去法」で、テーラワーダ仏教について行っている感じです。
たしかに、この世に「仏陀その人」はいないように思いますし、「アラカン」と呼ばれる人もいないのではないか、と思います。
というのも、「そこまで圧倒的なオーラみたいなもの」を感じないからです。
実は、本当はいるのだけれども、僕があまりに「鈍感」なので気付かないだけかもしれないですが・・・。
しかし、きっと、「仏陀その人」は、言語や理屈を超えた「圧倒的な存在感・説得力・雰囲気」といったものをもっていたと思うのです。
きっと、歩き方とか、姿勢とか、物腰とかも、まったく別格だったと思うからです。
ただ、「出家してらっしゃる方」は、数々の戒律を守っているというだけでも「僕みたいな凡人」とは、まるでレベルが違うと思うようになったので、「やっぱりすごい!自分の親についていくよりは絶対に善い!(笑)」とは思うようになりました。
しかし、お釈迦様がおっしゃられたように、最終的には「自分で確かめる」しかないと思っています。

ところで、お聞きしたいことは次のことです。

僕は、今、仏教(テーラワーダ)に出会えて、そして、一応、多少は納得できる部分が多くてよかったなぁ、と思っています。
というのも、「それなりに」以前とくらべれば、ずいぶん精神的に楽になったからです。
しかし、なんといいますか、「仏教との出会い」は、ほとんど「偶然」に過ぎません。

しかし、仏教では「因縁」を説きますね。
つまり、「ある結果」には、必ずそれなりの「原因(条件)」がある、と。

たしかに、そう思います。
しかし、頭が悪いので、因果の「すべて」はまったく理解できませんし、所詮はなんとなくそういうもんだよなぁ、と思う程度です。
つまり、この世には、あらゆる「因果」関係がある「のだろう」けれども、自分の頭では理解しきれない、という感じです。

ここで、質問の核心なのですが、「仏縁という結果」が生じる「原因」ってなんなのでしょうか?
仏教では、「原因(条件)」は、ある程度「意図的に、人為的に」変えられる、と説きます。
だから、「結果も変えられる」ということになりますね。
たしかに、そこに「仏道修行」の価値があるわけで、「汚い心」を「きれいな心」に、「お釈迦様の教え」に従って「意図的に変える」わけですよね。
「仏道」という「原因」を作れば、「涅槃」という「結果」が得られるわけですね(あくまで、理論上ですけど・・・)。

僕は、「仏縁という結果」を得られたのですが、その「原因」が皆目分かりません。
なんといいますか、「意図的に原因を変えた覚えはない」のは確かなのです。
仏教では、「過去に」「善行」を積んだからだ、といいますが、そんなことをした覚えはないんです(笑)。
つまり、お聞きしたいのは、「仏教との出会い」は、「偶然」しかありえないのでしょうか?
「仏道」から「涅槃」への道は「必然」らしいですね。
スマナサーラ長老は、仏教は涅槃への「マニュアル」だから一本道だ、とおっしゃっているようで・・・。
しかし、「凡人」から「仏教との出会い」への道は「偶然」というのは、なんというか「そんなのあり?」みたいな印象があります。

せいぜい、「仏縁という結果」を生じさせた「原因」は、「苦しみ」くらいです。
「苦しい」から、なんとかして「楽になりたい」というのはあったんです。
しかし、「苦しみという原因」から生まれる「結果」は、キリスト教でも浄土真宗でもなんでもいいわけですよね。
この場合は、「苦しみ」が「苦しみ」を生んだということになると思います。
というか、世間一般では、「苦しみという原因」が「苦しみという結果」を生むわけですね。
この点については、すごく分かりやすいです。

しかし、「仏教に出会う結果」を生む「原因」ってなんなのでしょうか。
みんな苦しんでいるから、なんとかして楽になりたいというのは「同じ」はずですが、しかし、「苦からは苦しか生まれない」のが道理だと思うのですが、
いったい、どこで、どういうことが関与して、「仏教」という「楽」への道に通じることになっているのでしょうか。
素人ながら考えるのは、「お釈迦様の出現」がまさにその原因でしょうか?
となると、お釈迦様が出現しなければ、だれもかれも苦しみ続けるということなんでしょうか。
しかし、そう考えると、「お釈迦様が出現するという結果」を生じさせた「原因」っていったい何なのでしょうか?

すみません!ここまで考えちゃうと、頭がわけわからなくなりますね(笑)。

まとめますと、「意図せず」に仏教と出会って、「意図して」涅槃を目指す、というのは、なんというか「納得がいかん!」みたいな感じなのです。
なんというか、「生き物の世界」ってすごく不平等だなぁ、みたいな・・・。
「偶然出会えたものの勝ち」っていうのは、釈然としないのですが、しかし、やっぱりそういうもんなのでしょうか。

お釈迦様は、「努力」はみんなできるとおしゃっているようです。
確かに、仏教に出会えさえすれば、仏道修行という努力をして、あとは善い結果が出てよかったね、で話はおわりです。
しかし、はっきり言えば、「仏教にどうすれば出会えるのか?」というところが、凡人の最大の難点です。
つまり、仏教との出会いに関しては、「努力のしようがない」としかいいようがないと思うのです。
アングリマーラも、お釈迦様との出会いは「偶然」ではないのでしょうか?
というか、アングリマーラが「意図して」出会ったとは、どうしても思えないんですが・・・。

お釈迦様の説法の中でも、ある人がせっかくお釈迦様の説法を聞く機会をもらえたのに、昔500回蛇だったから、お釈迦様のお話を聞かずに寝てばかりなのだ、というのがあるようですが、そういうのは、なんというか納得ができません。
この人は、「意図して」そうしようとしているわけではないと思うんですが・・・。
しかし、「意図せずして」そういう状態なのも、なんだかかわいそうで・・・。
一体、何がどう関与すれば、この人は「寝ずに済む」のだろうか、と。
やっぱり、お釈迦様の説法を「聞けない」なんて、この人にとっては致命的でしょうし・・・。

確かに、「因果関係」というのは、納得できてるんです。
しかし、この世の中で、どこまで「自分の意志」みたいなのが反映されているのか、反映されていないのか、そういうところがすごくよく分からないでいます。
自分の「意志」みたいなものが働く条件ってなんなのでしょうか。

すみません、論点がかなりごちゃごちゃして、よく分からない質問をしてしまって。

kata

 

曽我から kataさんへ  2009,1,17,

拝啓

 お久しぶりです。
 仏縁と意思・意図についてご質問をいただきました。

 正しいかどうか分かりませんが、私なりの考えを書いてみます。吟味いただいて、またご意見お聞かせ願えれば幸甚です。

 私は、死後生、輪廻転生はないと思っています。素朴な意味での善因楽果・悪因苦果も信じていません。素朴な意味での善因楽果・悪因苦果と申したのは、「よい(悪い)行いが、しばらく時間を隔てて影響力を及ぼし、よい(悪い)結果を生む」という考えです。

 私の考える善因楽果・悪因苦果は、「行い(業)は、すぐさま反応パターンへ影響を残す」という考えです。おそらくプッタタート比丘も同じような考えではなかったかと思います。
 私たちは、そのつど縁によって起こされる反応であるが、縁によって反応が起こると、それはすぐさまなんらかの痕跡を反応のパターンに残す。それによって反応のパターンは強化されたり、変化したりする。このようにして、そのつどの反応は、それ以降の反応パターンを僅かながら(稀には大幅に)変化させる。よい反応は、よい癖となり、反応パターンをよいもの(苦を生まないもの、苦を抜くもの)にするし、悪い反応は、悪い癖となり、反応パターンを悪いもの(苦を生むもの)にする。

 だから、私たちは、そのつどそのつどの反応をよいものにしていかねばならないのですが、ここで生じる問題が、kataさんも問題にしておられる「意思」です。

 私たちは、縁によって起こされる反応で、それまでに蓄積され形成されてきた反応パターンに従って起こります。徹頭徹尾、受動的であって、自分を第一原因としてなにかをすることはあり得ない。それは無我の教えに反します。だから、厳密には「意思」など持ち得ないことになる。ベンジャミン・リベットの実験が示すとおりです。

 しかし、釈尊の遺言は「怠ることなく努力せよ」でした。受動的反応である我々に、どうして努力ができるのか? 意思をもてるのか?

 これは、A・Hさんから頂いた難問で、自分なりに一応の解決をするまで、ずいぶん悩みました(意見交換をご参照ください)。
 ようやく見つけた答えは、「縁によって、我々は努力という反応ともなる」というものです。子供だましの言葉遊びのように聞こえるかもしれません。しかし、あれこれ試行錯誤してやっとたどりついた考えです。

 あらゆる生命は、過酷な状況においても何とか生き延びようとさまざまにもがき足掻きます。それが生命という反応です。進化とともにもがき足掻き反応は高度化していき、たとえば、条件反射では、それまでの種単位の突然変異に加えて、動物個体単位で、経験を重ねることで反応が適正化されていくようになりました。反応が適正化するためには、古い反応パターンとは競合する新しい反応パターンが生まれ、新しいパターンの方が起こりやすくなっていくことが必要です。つまり、条件反射以降は、ひとつの動物個体に競合する複数の反応パターンが共存するようになったわけです。
 さらに進化が進むと、カテゴリーを実体視することが始まり、そのつどの反応である自分を「我」(アートマン)として実体視するようになり、言葉やシミュレーションの能力が生まれ、実体視した「我」を守り育てようとする執着の反応が生まれます。守り育てるべき「我」を妄想することによって、欲望は執着へと先鋭化し、おびただしい苦を生むようになりました。

 「我」を守り育てようとしてかえって苦を作っていることを、シミュレーションによって人類は知り、「我」よりもさらに洗練された対象を妄想し、執着の矛先をそちらに振り向けることで、苦の生産を停止しようとしました。世界の多くの宗教・道徳はこれにあたります。

 ところが、釈尊は、まったく違う形で、執着そのものを根本的に鎮静化させる方法を見出されました。釈尊だけが、自分を実験台にして緻密な観察を行い、「自分は、そのつど縁によって起こされるそのつどの反応であって、「我」などない、「我」に執着しても甲斐はない」と発見されたわけです。
 しかし、これも厳密にいえば、釈尊の主体性の成果ではなく、インド伝統の苦行や瞑想といった修行やバラモン教の思想などが縁となって、釈尊において、精進・努力や試行錯誤といった反応を生み、無常=無我=縁起という閃き・覚りを生じたのです。

 そして、釈尊以降の私たちにおいては、釈尊の教えが縁として働いてくれるようになりました。しかし、私たちにおいては、数限りない古い執着の反応パターンがもつれ合い捩れ合って太い綱のようになっていて、釈尊の教えに縁を得ても、はじめは細い糸がそこに少し混ざったに過ぎません。その太い綱の中をそのつど走る小さな反応が私たちですから、たいていは執着の反応です。繰り返し教えに触れ、反省が起こり、シミュレーションが起こる中で、せめぎあいが繰り返され、うまくすれば釈尊の教えによる反応パターンが根付き、ある程度反応パターンが定着したら、着実に強まっていくことになります。

 ご質問の仏縁については、時を隔てた過去の善行によるのではなく、偶然によると思います。
 ただ、忘れてならないのは、まず第一に釈尊において空前絶後の気づきが実現したこと、また多くの仏弟子たちが、その教えを引き継ぎ、広めてくれたこと、その両者が縁としてなければ、我々は釈尊の教えに触れることはできなかったのです。
 だから、私たちも、一人でも多くの人が仏縁を得られるように、釈尊の教えを広く問いかけ、仏縁を広めていかねばなりません。

 この言葉が縁となって、kataさんとHPを見てくださった方々に、そういう反応が引き起こされるといいな、と思います。

 またご意見お聞かせください。
                      敬具
kata様
    2009年1月17日        曽我逸郎
 

 

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