ミキヒデオさん 無執着の矛盾 2009,1,4,

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ソガサン、こんにちわ!

わたしは無執着の矛盾を以下のように解決しましたが、御意見をください。

仏教では世界は無常だから、執着するものではないという。しかし、われわれは食物や、酸素や、生活の基盤となるお金に執着しなければならない。そうしなければ生きていけないからだ。このように、執着するなといいながら、執着なしには生きていけない。ここに矛盾がある。仏教はこの矛盾をどう解決しているかわたしは知らない。文字通りとれば、無執着ということは、経典にも、仏舎利にも、仏教のあらゆる建物や行事にも執着するなということだ。それでは仏教自体が成り立たない気がする。

 わたしはこの問題について、以下のように解決しました。「世界は変わるものだから、変わることが当たり前だと思いなさい。基本としては変わるものにこだわることはない。しかし、こだわらなければ生きていけない。従って、必要があるならこだわったらいい。しかし、こだわりすぎてそれに溺れたら、苦しむのは自分だ。こだわらずに楽に生きるか、こだわって苦しむかは自分の選択である。」

よろしくお願いします。

ミキヒデオ

 

曽我から ミキヒデオさんへ  2009,1,17,

拝啓

 久しぶりにメールを頂くことができました。ありがとうございます。

 執着については、よくこんなことを言われます。「人間だけが執着する。それに対して、動物たちは素朴単純で、罪がない。」

 概ねそうかもしれませんが、執着は、進化史上、人類の段階で突発的に発生したとは思いません。その根ををたどっていくと、生命に本質的なホメオスタシスにまで行き着くと思います。細胞内の濃度を一定に保つため、水を取り込んだり排出したりする。ゾウリムシの繊毛の動きが、水温が適温を外れると、激しくなり、その結果として、ゾウリムシは適温域に行きあたるまで、ランダムな動きを活発化する。そういった生存に不可欠な自動的反応が、執着の土台になっていると思います。

 勿論、ゾウリムシの繊毛運動が執着であるとは、私も思いません。原始的なホメオスタシスの自動的反応と執着との間のどこかに境目がある。では、どこまでが執着で、どこからが執着ではないのか。

 厳密に考えると大変難しい問題です。思いつきとしては、戒律を詳細に調べると、どこまではよくて、どこからは押さえ込むべき執着なのか、伝統的な仏教の判断基準が見えてくるかもしれません。

 今はそこまでのゆとりはないので、自分勝手な考えを続けますと、空腹感を感じることは血糖値に起因する原始的なホメオスタシスの自動的反応でありましょうし、そうすると何かを食べたいと思うことも同じでしょう。空腹感は許されるが、食べ物を求めることは否定すべき執着だ、というのはナンセンスです。空腹感と食べ物を欲する気持ちとの間に区別を見つけることはできません。

 そんなことをあれこれ考えた上で、とりあえずの定義としては、第二の矢で苦しめる欲望が執着である、としたいと思います。だとすると、食べ物や空気は執着の対象ではない、ということになります。なぜなら、それらは、本来的には飢えや息苦しさという第一の矢を避けるためのものだからです。
 もし誰かが食べ物を独り占めにして、他の人は見ているだけで食べられないとか、そういう特別な状況で、空腹という第一の矢のみならず、怒りや妬み、あるいは優越感・蔑みといった第二の矢が生まれているような場合は、食べ物も執着の対象になっています。執着の対象かどうかは、対象によって決まるのではなく、その時々の我々の反応によって決まる。水・空気・食べ物などをそれ自体として執着の対象だと断じて否定するのは間違いだとお思います。

 仏教についても同じで、たとえばそれを理由にして人を憎むようなことになれば、第二の矢を生んでいるのであり、執着ということになりますが、釈尊の教えは本来は苦の生産を止めるものであるから、正しくそれを追求することは執着ではありません。

 欲しがることをすべて執着として否定すると、迷路に陥ります。「求めるな。精進も、定も、人を助けることも、望んではならない」というのは、釈尊の教えではありません。それは、「望むまま、求めるまま、ありのままでおれ」と同様に梵我一如的発想の展開です。釈尊は、精進・努力が必要だと教えられました。

 では、正しい精進と、鎮めるべき執着とを分けるのは何か。繰り返しになりますが、ミキさんがお考えのとおり、ポイントは「苦るしむこと」「苦しめること」にあると思います。第二の矢を発して人と自分を苦しめるのが執着です。

 いつも自分という反応に気をつけて、執着の反応になっていたら早めに気づき、そのつど鎮めていく。これは七仏通戒偈の教えと同じです。
 そして、定における徹底した自己観察によって、自分とはそのつどの縁によって起こされるそのつどの反応であって、実体はなく、執着しても甲斐のない現象であることが納得されれば、執着の愚かさが明白になり、執着の反応パターンは起動しなくなっていく。

 これが釈尊の教えだと思います。特に、自分の無常=無我=縁起を覚る、というのは、本当に画期的な発見で、非常にシンプルなことでありながら、執着にがんじがらめになっている見方・考え方からは、極めて理解しがたいことです。

 「執着なしには生きていけない」かどうか。そんなことはないと思います。執着なしでも生きていける。釈尊は、当時としてはかなり長生きでした。
 もしも執着しなければ生きていけない状況を仮定するなら、釈尊なら「執着するより死ねばいい」と仰るのではないかと思います。「執着しても生きていこう」というのは、それこそ生への執着、我執でありましょう。釈尊の眼目は、生きている間苦をなくすことであって、生きている間を延長すること、長生きすること、ではなかったと思います。(自分のことは棚に上げて書いています。為念)

 最後に、「選択」については、我々は無常=無我=縁起であるが故に、厳密な意味においては、主体的選択は不可能なことです。これについては、ミキさんのすぐ後に、kataさんという方からメールを頂き、kataさんへの返信で書いていますので、HPで見ていただければ幸いです。

 またご意見お聞かせください。
                               敬具
ミキヒデオ様
    2009年1月17日               曽我逸郎
 

 

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