THさん 「あたりまえのことを方便とする般若経」拝読 2008,7,23,

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曽我さま

はじめまして、**(男、64歳)です。

いま、Web検索の途次、「あたりまえのことを…………」に逢着、拝読し、これを書いています。

面白かったです。注も含め、一挙に読んでしまいました。
(もちろん、そんなに簡単に理解できたなどとはいいません)
なかなかの文才ですね。とてもイメージ喚起力があって引き込まれました。

ぼくは神仏というものは信じていませんが、宗教を否定する者ではありません。
むしろ、非常に興味をもって、この1年ほど仏教思想などの書籍やWebサイトを覗いています。

一番共感したのは釈迦に対する曽我さんの理解です。ぼくも輪廻転生を仏教がどう扱っているか興味があって、リグヴェーダ以降の思想的な流を調べてみました。仏教研究者は自身が信者である方がほとんどのようで、なかなかずばりと断言するひとがいないと思っていますが、「あたりまえのことを…………」のなかで、そういう学者もいるということを知りました。

まだ結論ではありませんが、ぼくは釈迦のニルバーナは輪廻業説の完全な否定のような気がしています。宗教家には受け入れられないかもしれませえんが、個体の死は物質への解体以外何の意味もなく、霊魂の持続や種子などは信じられません。残念ながら“空”への煩瑣なまでのこだわりも理解できません。

子供の頃にはじめて死を意識したとき、何を考えたかというと、時間を止めようとしたことでした。あるいは意識の流を止めようとしたといってもいいでしょう。
でもそれがまったく無駄であることを知り(もっともそれが、瑜伽の目標の一つとは最近知りました)、あとは恐怖と戦うのみでした。

しかし、歳とともに、「個体の死は物質への解体以外何の意味もない」のは真実だが、ここに生を受けた一回性への感動を深く感じるようになりました。死に直面したときに、自分がどのように感じどのように振る舞うかは予測できません。
しかし、それをあえて受け入れようというのが現在の心境です。

曽我さんの「あたりまえのことを…………」に誘発されて年甲斐もないことを書いてしまいました。

駄文、おゆるしください。

 

曽我から THさんへ  2008,7,26,

拝啓

 メール頂きながら、返事が遅くて申し訳ありません。
 最近ご意見をお聞かせいただくことが少なくなっているので、嬉しく思いました。

 「あたりまえ・・・般若経」は、もう10年以上も前に書いたもので、今の立場からすると梵我一如的傾向が強く、その点はまずいのですが、私にとってはなつかしいものでもあります。
 あれを書いた後、南方上座部の伝える経典に自然の賛美、自然の描写がほとんど見当たらないことに気づき、だとすると自分の仏教理解は正しくないことになると思い、しばらく試行錯誤を続けました。

 現在の考えは、無常=無我=縁起は、宇宙や自然などの外のことではなく、自分のことである、自分が無常=無我=縁起であることを腑に落ちて納得することが釈尊の教えだ、と考えています。
 私達は、第一原因としてなにかを実行することのできる主体などではなく、そのつどそのつどの縁にそのつどそのつど起こされる反応である。凡夫という反応は、立派で守るべき自分がいると思い込む我執に色濃く染まった執着の反応であって、縁を受けるたびにつぎつぎと執着の反応が繰り返され、そのたびに苦が生み出され、人と自分を苦しめている。そのことに気づいて(発心)、反応パターンを改めようと努力し(戒)、過剰な反応を鎮め(定)、自分が主体的存在ではなく(無我)そのつどそのつど縁によって起こされている一貫性のない反応であること(無常=縁起)を納得し(慧)、執着すべき自分などなかったと納得して、反応パターンが執着によらないものに改まり、苦の生産が停止される(涅槃)。
 これが釈尊の教えだと考えています。

 輪廻転生については、私も、釈尊の教え(無常=無我=縁起)は、輪廻転生説の真っ向からの否定だと思います。ただ、チベット仏教をはじめ、世の伝統的仏教権威の多くは、輪廻転生を前提にしています。私からすれば、輪廻転生を信じられるのは、釈尊の教えが分かっていない証拠、とさえ思ったりするのですが、現実にはいろいろな意見があり、なかなか決着のつかないのが実情です。

しかし、歳とともに、「個体の死は物質への解体以外何の意味もない」のは真実だが、ここに生を受けた一回性への感動を深く感じるようになりました。死に直面したときに、自分がどのように感じどのように振る舞うかは予測できません。
しかし、それをあえて受け入れようというのが現在の心境です。
 深い境地に到達しておられるとうらやましく感じます。私も、自分は脈絡のない反応の途切れ途切れのつながりであり、大事にするほどのものではないとは思いますが、それでもめんどくさいことをさせられるのはすごく嫌ですし、ちょっとしたことで不機嫌になるし、反応パターンが改善されないのは、ホントのところではチットモ分かっていない証拠なのでしょう。

 またご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。
                                  敬具
****様
         2008,7,26,                  曽我逸郎
【追伸】
 このやりとり、ホームページに掲載していいでしょうか?
 お許しいただけるなら、お名前はそのままでよいでしょうか? なにかペンネームにされますか?
 ご指示頂ければ幸いです。宜しくご検討下さい。
 

THさんから  2008,7,26,

曽我さま

**です。

お返事、ありがとうございます。

>  このやりとり、ホームページに掲載していいでしょうか?
かまいませんが、署名は“TH”とでもしていただけますか。
>  深い境地に到達しておられるとうらやましく感じます。
それは誤解です。日々、感情の小舟に乗って、嵐の大海をゆくごとくです。

涅槃に達したお釈迦さまには敬愛の念を抱きますが、自分は、喜怒哀楽に振り回されて生きていることを、そのまま受け入れます。もちろん後悔は山のようにあり、欲望も海のようにありますが、それが生きていることだと思っています。

>  あれを書いた後、南方上座部の伝える経典に自然の賛美、自然の描写がほとんど見当たらない
そうですか。ということは金口の説法にもそれがないということですね。たしかに人は“人間”ですから、根底は人と人との関係性に依存しているのでしょうが、それはまた自然の一部でもあるという意味で、日々移ろう自然への讃歎。これなくして生きている意味の半分は失われるし、半分のない一は存在し得ないように思いますね。

貴方が書かれたように、

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朝露のおりた背に新緑の木漏れ日が射して、湿り気を含んだ土の匂いの中、肩にのぼる蒸気が白く光っていた。

やがて、かすかに蜂の羽音が近づき、むきだしの肩にそれがとまると…………あたりまえのことを説く如来の肩で、蜂が首をかしげながら前足で触覚をなでていた。
.........................

このような情景は何の変哲もないものですが、それを目の当たりにしたとき、ふと自然は“美しい”と思います。この感動があるから“生きていたい”とも。

ところでいま貴方のWeb ページから、上記の文をコピー&ペーストしていて、この蜂は曽我さんかな?と思いましたが。

いやいや、失礼しました。
 

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