sincekeさん 「法華経について」 2008,6,3,

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sincekeから曽我様へ「法華経について」

 曽我さんの【凡夫が仏になるには・・・法華経を再読して】を読んでの感想は、
 まず、法華経については、語られるべきことが「もっとあるはず」、というのが私の印象です。
 でも、曽我さんが、法華経は釈尊の教義とは別物、とおっしゃるのは正しいと思います。

 曽我さんの文章の小見出しに従って、とりあえず思いついたことをメモしておきます。

*釈尊の教え(無常=無我=縁起)を正しく引き継いでいるか?*

 やっぱり引き継いでいないでしょう、これは。
 歴史上の釈尊の教えを理解するためには、とりあえず法華経をパスする、というのは正しい態度だと思います。
 でもやっぱり、法華経って、不思議な魅力があるんだよなぁ、困ったことに。
 曹洞宗の南直哉氏も、最近の『問いの問答』という対談本の中で、「法華経には教えなんてない。般若系の経典の言葉を散らしただけ。でも、考えるべきことはいろいろあって、今のところ、判断は保留する」といった旨のことを述べておられます。
 ちなみに、私は南直哉氏の『老師と少年』という本を読んで、泣きました。(嗚咽がこみあげてくるような泣きでした)
 ところで、私にとって、法華経で、最初に私に「刺さった」言葉は、恋慕や渇仰という言葉でした。

 「その心が恋慕するによりて、すなわち出でて為に法を説く。」という所ですね。
 法華経が日本人に昔から人気あった理由も、もしかして「ここかな」と思います。
 中村元氏の本によると、文学者の幸田露伴に「因其心恋慕乃出為説法」と題されたエッセイがあるそうです。
 法華経のこの言葉に注目するなんて、さすが露伴だと思います。
 近代以前の日本人の心性を解明するのには重要な着眼点だとは思いますが、「釈尊の教え」を明らかにする、というここでの意図としては、あんまり重要ではなさそうに見えます。
 でも、後で述べるように、「他者」という思想がここから汲み取れる可能性はあります。
 釈尊の「梵天勧請」の故事も、はじめから釈尊の説教には、「他者」というものが巻き込まれている、ということを暗示しているのではないでしょうか。

 曽我さんが法華経の問題点として挙げられている「久遠仏」も、だから、わたしは「永遠のブッダ」というより「恋慕のブッダ」と読めてしまう。思想としては、無限への憧れ、遠くからの呼び声、他者からの切迫、そういうことがいろいろに読めてしまいそうな経文です。

 2005年の雑誌『考える人』のインタビューで末木文美士氏が法華経の「他者としての仏」「せまりくる仏」「ストーカーとしての仏」というアイディアについて述べています。

『 法華経はいろいろな解釈が可能な経典ですが、私はその主題を「他者としての仏」という読み方をしたいのです。
 私たちは日常的に、夫婦、友人、同僚など他人と付き合っています。
 それは、お互い了解事項や役割のある人間関係としての枠組みの中の他人です。
 その他人との関係が、うまくいっていれば良いのですが、スムーズに動かなくなったときに自分に襲いかかってくる存在、それが「他者」です。
 例えば、ここであなたが突然ナイフを持って私に襲いかかってきたとしたら、もう聞き手と話し手という私たちの役割関係は即座に壊れてしまう。
 あなたは了解不可能な「他者」に変貌するのです。
 法華経に出てくる仏も、他者として私に襲いかかってくる、逃げても逃げてもつきまとってくる存在なんです。
 そう法華経を読み直したとき、仏っていうものはただありがたいだけのものではなくて、自分が否応なしに関わらざるを得ない、どんどん迫ってくる、そういう他者としての存在なんです。
 言ってみれば、ストーカーみたいなものです。』

 このストーカーみたいにつきまとう仏の存在、法華経の「切迫感」という発想から、たとえば私などは、宮沢賢治を思い出しましす。
 宮沢賢治には、仏や菩薩に「つきまとわれている」感が、すごく強いと思います。
 ほとんど病気です。
 でも時に美しい。きらめくほど。
 童話や詩も何か「透明な切迫感」に促されているような感じ。
 何ものかに頭を押さえつけられて、清冽な水の中に息も出来ないまま潜り込まされているような感じです。
 友達に出した手紙なんかではその「切迫感」がもっとひどくなってる。(人格が分裂している)

 私も、ここ数年、遊び呆けていて、仏教への関心はしばらく失っていたのに、最近チベット問題をきっかけにして、また仏教について何か考えたくなってきました。
 スケールは小さいですが、私にもやはり勝手に仏がとりついてくる感じはあります。

 法華経の「あなたも仏になれる」という宣言にしろ、聞いているものはみんな随喜の涙を流した、なんて経文には書いていますが、これも考えてみれば迷惑な話で、何億年も修行して仏になって永遠に説法しつづけなければならない、なんてことを、勝手に押しつけてるわけですよ、法華経は。
 「仏になれ。そしてそれを悦べ」とか言ってるけど、喜べますか、普通?(笑)
 街で聞いてみてくださいよ。「あなたは仏になれます」と言って喜ぶ人がいるかどうか。

 この法華経の「押しつけがましさ」が、末木文美士氏が考えておられるであろう、「他者からの切迫」という問題系に触れているんだと思います。
 曽我さんは「法華経信者の不思議な自信に溢れた積極性」は、法華経の「全肯定性」から来るのではないかと書かれておられますが、あのちょっとクレージー(笑)な感じは、「全肯定」からだけではなくて、この「他者からの切迫」からも来ているのではないでしょうか。

 あと、昔から法華経は、壮大な管弦楽のよう、交響楽のよう、と形容されてきましたが、宮沢賢治が感応したのもこの音楽性だと思います。

 曽我さんが問題点として指摘する「感官の喜びに無警戒」というのはその通りで、法華経は密教などと同じように、「それ」を利用しているんではないですか。「常楽我浄」の世界ですよね。

 釈尊の教えに違背しているのはその通りだと思うけど、その世界を知るが故に、この娑婆世界を浄める、という方向性も出てくるわけで、佐々井秀嶺氏も、妹尾義郎も、社会改革に身をささげるようなエネルギーを持った仏教者たち、やはり両者とも若い頃「法華経」を奉じていましたよね。佐々井氏については、『破天』にそのような記述があったかと思います。

 曽我さんが考えておられる、仏教と社会的な苦への関心、という問題は、その「はざま」に、日本では法華経があったわけです。  法華経には「仏説にあらず」という言のみでは、「捨てきれない何か」があるのだと私は考えています。

 

曽我から sincekeさんへ  2008,6,19,

拝啓

 いくつものメールを頂戴しました。返事遅くてすみません。

 まとめて順番に思うところを書きます。

◆ 一通目

◎ >チベットについては「無記」の態度を取られていました。

 チベットのことを書けないのは、私には実態が見えていないからです。主要な情報ソースのひとつであった「ラジオ自由アジア」は、どうやら米国政府ひも付きの情報発信機関のようですし、報道が事実としても、いろんな勢力のいろんな思惑が後ろでいくつもとぐろを巻いていそうな気配があります。

 勿論、天安門で自国民を戦車でひき殺した中国政府のことですから、チベットでも相当なことがあると思います。また、政治的弾圧のみならず、経済的な、たとえば中華観光資本がチベットの伝統文化を買い漁り、商売ネタにして儲け、格差の底辺に追いやられたチベットの人たちに無神経な振る舞いをしている、ということもあるに違いありません。そういう想像はきっとあたっていると思いますが、胸を張って声を挙げられるほどには、まだよく見えていません。

 それから、「同じ仏教徒として・・・」ということがしばしば言われますが、これはちょっと変だと思います。仏教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、無宗教であろうが、苦しみに対しては同じように対処するのが普通でしょう。仏教徒なら動く、仏教徒でなければなにもしない、というなら、仏教にあるまじき執着の差別です。そういう意味で、他の問題には無関心でいられるのに、何故これにはこれほど熱く?という思いはあります。

 執着といえば、今回、聖火リレーの只中で中国政府批判の声をあげることは、結果的に西側対中国の単純化された対立構造に荷担することになりそうで、中国大衆をナショナリズムに追い立てることに繋がるとも思います。中国大衆も、凡夫であり、執着による単純な反応に走りますから、そういう縁を発信するのは如何なものかと。冷静に意見を聞き合える状況になるまで、しばし待った方がよさそうです。

 凡夫の執着の反応といえば、我々の側も同様です。今回の反応は、純粋なチベットの問題のみならず、一部の人々にもともとあった中国憎しの感情も混ざり合っているように思います。大きな波のような執着の反応には感情的には同調せず、どんな影響を生じさせるか冷静に考えなければなりません。仮に一つの苦を減らしたとしても、それによってもっと多くのもっと大きな苦を作ることになってはならない。

 執着のままに感情的反応が高まっているときは、不用意にそれに同調してはいけないと思います。

◎ >リベットの実験だけで、人間観がガラッと変わるようなインパクトを受けることは難しいような気もします。自由意志がないことの証明、というには程遠いのではないかと…。

 かもしれません。でも、たとえば量子論誕生のきっかけは、「当時の理論では溶鉱炉の温度が無限大になってしまうはずなのにそうならないのは何故か」という、いわば重箱の隅のような問題でした。リベットの実験も、突き詰めていくといろいろな問題に気づかせてくれますし、思い込みを破壊する力を秘めていると思います。

◎ >努力する才能って生まれつき、決まっているんじゃないか。

 才能というより、反応パターンと言いたいのですが、努力する反応パターンや諦める反応パターンなど、有情のあらゆる反応パターンは、生まれつきではなく、これまでにどんな縁を受け、それにどう反応してきたか、その積み重ねによって形成される、と思います。
 ある人に、今、努力する反応パターンが強いかどうかは、そういう過去の経験の積み重なりによるのであって、その人自身のもって生まれた何かによるのではありません。また、今はあまり努力しなくても、いい先生に感化されるとか、友人の努力する姿に触れるとか、逃げてばかりいる自分に嫌気が差すとか、さまざまな縁によって、あまり努力しない人が、努力する人になることはしばしば起こります。よい縁が重要です。

◎ >仏教は「自由意志」を認めないのだから理論的には「犯罪」の責任も誰かに帰属させることも不可能・・・

 そのとおりです。釈尊の無我=縁起の教えからすれば、犯罪の責任を個人に負わせることはできません。連続殺人鬼アングリマーラも、「生まれてこのかた、故意に(=主体的に)生物の命を奪った記憶がない」のです。裏返せば、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」です。

◎ >犯罪者は罰さなければなりません。

 責任は問えないのですから、「罰する」という考えは、釈尊の教えにはそぐわないと思います。犯罪者に対しては、罰するのではなく、苦を生む反応パターンを改めるような、よい縁に触れさせるのが正しい対処です。
 今の世の中の対応は、罰して、前科者の烙印を押して、かえって悪い境遇で悪い縁にまみれさせているように思われます。税金を使って逆に再犯率を高くしているのではないでしょうか?
 とは言うものの、誰も皆凡夫、アングリマーラを回心させた釈尊のようなことは、なかなかできませんが・・・。

◎ >浄土思想はお気に召しませんか?

 他力思想は、阿弥陀仏という人格的他者におすがりするという点では、ちょっと違うかなと思います。努力をはからいとして否定するのも、問題だと思います。
 我々は、無我なる縁起の現象であって、主体性はないけれども、縁によって努力をすることはある。よい縁によって努力をして、苦を生まない反応パターンに変ることが、釈尊の教えだと思います。

◎ >仏教以前的なもの

 仏教以前的なものが、仏教以前的なものに留まるうちは、一向に構いませんが、自分は仏教だと主張するなら、せっかくの釈尊の教えを混乱させますから、否定せねばなりません。

◎ >中沢新一氏

 http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha174.html をご一読頂ければ幸甚です。

◎ >執着と慈悲とがトレードオフの関係にあるとは思いません。

 私もそう考えます。それどころか、凡夫の慈悲は、大抵執着によって裏打ちされています。たとえば、冒頭触れた先日のチベット支援の活動も、一部の人においてはそうだったのではないでしょうか。ボブ・マーレィが搾取されている人たちに「立ち上がれ」と熱いメッセージを送る時、それは100%純粋な慈悲で、怒りや憎しみといった執着の反応は微塵もないのか? 誇りを奪われた同胞のために自分を犠牲にして状況を変えようとする自爆テロは、慈悲の行いか、執着の反応か? オウムのポワは? 自分で慈悲と思っていることが、一皮化粧を剥いでみれば、実は執着の反応であることはしょっちゅうのことです。執着は、慈悲を利用する。装う。執着は、非常にしたたかです。
 だけど、無常=無我=縁起が、本当に自分のこととしてどすんと腑に落ちて分かり、それまでの自分の執着の愚かしさに目が開かれれば、執着も含めて他のあらゆる規範(行動を導く基準)は失せて、ただ慈悲だけが残ります。

◎ >「言葉」だけじゃないんですよ。ラスコーの洞窟壁画は「イメージ」だけど、ああして絵画も意識のコントロールの一種と見れるかもしれない。人類はこれまでいろいろやってきたんですよ。仏教だけじゃない。

 ・・・?

◆ 二通目 妹尾義郎

 たくさんの貴重な資料ありがとうございます。

◎ >一切が空であるとして、それでは「価値」とか「人格」とはどうなるのか

 妹尾のことは勉強不足ですが、無常=無我=縁起は一切の価値の根拠を掘り崩します。人格とは、「その時点におけるその人に特徴的な反応パターン」のことです。

 私は、妹尾の仏教理解というより、その誠実な生き方に感銘を覚えます。

・・・
 『WEDGE』という雑誌の6月号に、宮台真司氏が、ネオコンと対比しながら、昭和維新を引き起こした法華主義者を論じていて、なかなかおもしろい内容でした。昭和維新の法華主義者もネオコンも、国家とその軍事力とを手段として利用して宗教的な「正義の」世界革命を実現しようと考えた、とあり、確かに鋭い指摘だと感じます。
 (宮台氏は、法華主義者達の戦略的な思考が内包した矛盾によって、その亜細亜主義世直し思想は破綻したと捉え、その点を分析することによって、今のアジアの問題に取り組むヒントを見出そうとしておられるようですが、論考は今後に続くようで、次の掲載が楽しみです。)
 で、ネオコンがキリスト教福音派なのかユダヤ教なのか、その辺は良く知りませんが、おそらく彼らも宗教的な思い上がった選民意識を持っているのでしょう。少なくとも法華経は、法華主義者を格別の存在として自己陶酔させ、高揚させる仕組みを持っています。釈尊の教えに学ぶものは、本当は、自分を執着による自動的反応として捉え、いつも自分という反応に気をつけていなければならない筈ですが、法華主義者は、「自分はすでに過去生で無量の功徳を積んだ菩薩である、今ここで法華経に触れ得ていることがその証拠だ」と考え、自己肯定し、自分の執着に無頓着・無警戒になりがちなのではないでしょうか。だからこそ、疑うことなく世直しに邁進できる。しかし、実のところ我々は皆凡夫であり、警戒しなければ執着のまま働いて大きな苦をつくるのですから、その危険を常に自覚し、自省しなければなりません。他力思想がすべての努力をはからいとして否定するのも問題ですが、法華主義者の無反省な積極性も、大きな苦を作りかねず、大変危険です。我々は、自分の中に宿る危険な反応傾向をいつも警戒しながら、慎重に努力をしていかねばならないと思います。

◆ 三通目 ブッダと社会改革

 具体的に有情に向かって働こうとするとき、それは、有情の苦を抜く行いなのか、有情の執着をかなえてその結果執着を助長しかねない行いなのか、見極めるのはとても難しいことだと思います。

◎ >「それでは、社会の苦を減らすためには?」というさらなる問いを立てて、「方便としての科学」という考えを挙げられています。唐突だ、と思いました、

 社会の苦を減らすためには、執着をひとつひとつかなえていく方向ではなく、執着を鎮めて、みんなが少しでも苦を作らない方向を目指さなければならないと思います。しかし、社会の全員が、無常=無我=縁起を自分のこととして分かるというのは、まず無理なことでしょう。ただ、それは無理にしても、現代社会のように、自己愛に突っ走って、損だ得だ、競争だ、自己責任だ、と騒ぎ立てるのではなく、自分大事の熱がもう少し穏やかな社会というのもあり得るのではないか、と思います。

 自分のこととして無常=無我=縁起が分かるところまでは行かなくとも、科学の知見によって、自分とはどういう現象か、どうやら実体的な存在ではないらしい、ということが、科学理論の深い理解というより、漠然としたパラダイムとして、社会に共有されることはあり得るのではないか、と考えています。
 万有引力の深い理解はなくとも、「地球は球体で、太陽のまわりを回っている」ことが、皆に受け入れられているように。

 「自分は確固とした存在ではなく、そのつどそのつどの縁への反応であって、ついつい執着の反応となり、苦しめあう結果を招いているんだって。お互い気をつけなくちゃいけないね。」そういう考え方が広がらないかと期待しています。
 そんなことあり得ない、と思われるかもしれませんが、かつて「大地はどこかに端のある円盤だ」と信じられていた時代においては、地球が球体であることを誰もが信じる時代が来るとは、だれも想像できなかったでしょう。

 個人個人が、無常=無我=縁起や脳科学その他を深く理解するということを想定しているのではなく、時代の社会常識が、守るべき確固たる自我を想定する考えから、そのつどの反応という自己観に移ることを期待しております。

◆ 四通目 法華経

◎ >仏教と社会的な苦への関心、という問題は、その「はざま」に、日本では法華経があったわけです。

 現実世界の苦に向き合おうとする点はすばらしいと思います。ただ、法華経の問題点は、自分が凡夫であるという自覚を希薄にさせ、反省・自制のない積極性に走らせ、その結果、おびただしい苦を作らせかねない一面がある、という点です。

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 たくさんの問題点をご指摘いただいたので、どれも断片的なものになってしまいました。お赦しください。

                                   敬具
sinceke様
        2008,6,19,                     曽我逸郎
 

 

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