sincekeさん 「妹尾義郎について」 2008,6,3,

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sincekeから曽我様へ「妹尾義郎について」

曽我さんのページで、妹尾義郎の名前を、久しぶりに見ました。

 最近のチベット問題が起こるまで、わたしはここ数年、仏教に関する本をあまり読まなくなっていたんですが、今また曽我さんのページを拝見させていただき、昔のことを思い出す気分で、自分の部屋をガサガサと探してみました。

 3年ほど前、この曽我さんのホームページではじめて「妹尾義郎」という人物の名前を知って、自分なりの関心でその時読み漁っていたときに書いたと思われる、メモや本のコピーが、いくつか出てきました。
 以下思い出し思い出し書いてみて、妹尾義郎に関して何か参考になることを付け足せればと思います。
 手元にあるコピーは、妹尾義郎40歳のころの日記の数ページです。
  時期は昭和2年から昭和4年まで。
 妹尾が「新興仏教青年同盟」を結成する時点から見ると、その数年前の書いた日記ですね。
 日常の妹尾の「迷い」や「息づかい」を知るには、これらの日記は絶好の資料だと思います。
 仏教の教理についての考えも、いろいろと記されています。

1927年(昭和2年)11月14日
『 車中、友松円諦さんの「現代仏教の真諦」を読んだ、たいへん益するものがあった。
 しかし、仏教の根本原理を、無常無我縁起の三諦に見て、空見に落ちるところはまだ不完全だと感じた、涅槃経にも明らかに不空定といって、無我を第二義的に見説かれてある。
 統一的仏教からしては、今一歩の観がある。
 縁起論も畢竟、人格実在に到って完成するものであると信じる、価値観によって因果律は洗礼されねばならないと思う。』

 因果律だけだと、「価値」というものがなくなってしまうのでは? という疑問が表明されています。
 一切が空であるとして、それでは「価値」とか「人格」とはどうなるのか、という気がかりです。
 妹尾の文章にはよく「人格」というワードが見られます。
 私はこれは、旧制高校的な、大正デモクラシー的な、雰囲気のある言葉だと思います。
 妹尾が学生時代の日記に、新渡戸稲造に感化されて(妹尾はたしか一高出身?)、新渡戸稲造は私の「ヒーロー」だ、と書いていたのを見かけました。
 大正時代の若者にある、「人格」に対する憧れ、それへの感化、というものの延長線上に、妹尾の感覚もあるのだと思います。

 同時に乃木希典将軍の「人格」に魅かれる妹尾義郎も存在します。
 妹尾義郎が、乃木希典将軍のエピソードに触れたエッセイがありました。
 「二つの雄弁から出発して」と題されたものです。
 内容は、私のうろ覚えなのですが、そこで弁舌の才に秀でた仏弟子の「富楼那」と、乃木将軍の訥弁とが比較されていました。
 結論として、乃木将軍の沈黙、「真率さ」のほうが 富楼那の「雄弁」に勝るときがある、とまことに「日本人らしい」ことを書いていたのを読んで、私は妹尾義郎がちょっと好きになりました。
 私には、稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ』岩波新書1974年などに描かれた妹尾義郎からは、戦前の日本人になら当たり前にあったような、そういう「色んな要素」がみんな抜け落ちているような感じがしました。
 こうやって日記の一部を引用しているのも、そういった妹尾像にいろいろと「肉づけ」したくなるからです。
 たとえば妹尾は新興仏教青年同盟を作るより前は、「日蓮主義」という名のもとで自分の思想を形成していたわけです。
 私が引用しているこの時期(昭和2〜4年)にも、しょっちゅう法華経の講義をしています。

 明治時代の田中智学から、「法華経」と「社会改革」「ナショナリズム」との関わり、って日本の近代史にはずっとあって、妹尾はその流れにも触れているはずなんです。
 今度、伝記が出るとしたら、もっと妹尾の日蓮主義や大正昭和の時代背景など、バランスよく記述したのを出してほしいと思います。
 みんな一度は法華経や日蓮に影響を受けた人たちでしょう。
 北一輝だって、血盟団だって。そういう「おっそろしいもの」ものも含めて。
 田中智学や石原莞爾は「右翼」だからダメで、妹尾義郎は「左翼」だからOKで、宮沢賢治は「童話」を書いたからOK、ということには勿論ならない・・・・。

 年の暮れ、大晦日の日記に、妹尾が日蓮にならって「わしは日本の柱だぞ!」と自分を叱咤激励するところがありますが、こういうところは当たり前ですが、1974年に出版された岩波新書には載らないんです。

1927年(昭和2年)12月31日
『 泣いた事もあった,笑った事もあった。
 苦しいこと、悲しいこと、様々なことを経験しつつとうとう一年もたった。
 本気でやらうと、大決心をさだめて、この年の元旦佐渡で迎へたのであった、ほんとうに生まれかわってと覚悟して。
 しかし、反省すれば、やっぱり元の木阿弥だ、何といふなさけない事であらう。
 先導といってしまへば、それまでだが、これほど求めながら、これほど、あがきながら、どうしても、はっきりした更生の喜びがえられないとは、ほんとうに悲しいことである。
 もう何しろ四十になるのだ、不惑の年を迎へるのに。
 時にはもう求道者などと言ふまいとおもふ事もある。
 また信仰によるのならば、真実の他力本願こそ本当ではないかとさへおもふこともある。けれども、やっぱりわしは道と離れることは出来ない、日蓮主義の光全性をいなめない、苦しくても何でも、この道をあがく外に道はないのだ。
 七生報国といった調子に、永久の求道生活をつづけるまでだ。
 いつかは、なしうると信じるのだ。
 この年も失敗であった。しかし来年もこの通りであってはいけないぞ。この何もない一身にも、一国の興廃のかかれることを自覚せずにはゐられない。わしも日本の柱だぞ!』

1928年(昭和3年)3月25日
『 わしが大阪にくればたいてい雨がふるが、今度も亦雨が少々ふった。
 幸いにポロポロ雨で講演の邪魔にはならなかった。
 雪江君と坂上君、篠崎君は西畑栄太郎君に案内されて奈良見物にでかけた。
 わしは残って事務を整理した。鈴木さんが病気して、二階に寝てゐる、時々相手になって話した。
 一日は夢のまに立って夜の講演となった。
 こんどは第14回目の講演だ。幸いに聴衆大勢、これまででは大紙クラブで未曾有の盛況であった。
 篠崎君が気分がわるいといって、とうとう講演に立たなかったので、雪江君、坂上君と三人で所信をひれきした。
 二人とも中々よく話してくれて、今までにないいい講演であった。
 この地にはじめてきたときの演題が、この「仏陀を背負いて街頭へ」という題であった。
 八年後の今、まことに今昔の感にたへぬものがある。
 十年一日のごとしと言ふ諺があるが、まだ八年だ。
 一生を貫く底の信念を要する。』

 曽我さんは、【映画『いのちの食べかた』を見て。仏教経済学の夢想】などで、現代の資本主義経済や、今の労働環境に対する憂慮をつづられておられます。
 資本主義、というか、現代の経済ってかなりおかしい、という事は私もずっと感じていることです。
  私は以前、雨宮 処凛(あまみやかりん)『生きさせろ! 難民化する若者たち』という若者の労働状況を描いた本を読んで、背筋が寒くなるようなリアルさを感じました。
 雨宮 処凛 という人は不思議な経歴の人ですが、私と年齢的に近いということもあるのか、彼女のもつ「精神的飢餓感」みたいなものが私にはよくわかるような気がします。
 これは「経済」以前の話です。(つまり、「宗教」の話です)
 それはさておき、現代の世相と変わらぬような昭和初期の日本で、妹尾義郎は、工場で働いている人の労働環境にも敏感です。

1928年(昭和3年)3月31日
『 午前、万寿工場で講演をした。
 夜半のつかれもあるのであらう、ゐねむりしてゐる娘もあった。
 全体が色のわるい女工さんが多かった。
 この工場は、全国でも設備のよい工場といはれてゐる、労働科学研究所もたてられてゐるほどなのだが、しかし、やっぱりだめだ、資本主義的制度を改廃して、人間本位の工業が実施されぬかぎりは。
 操短でだいぶかく首されるさうだが、不安な生活の中にどうして本当のよろこびが享楽されるものか。』

 乃木将軍の話。

1928年(昭和3年)11月13日
『 田中さんに案内されて朝風呂に入る、はじめてのびのびした。
 午前店頭の「乃木将軍」桜井忠温氏著をかりてよむ、将軍の人格がありありとうかんできて、わが魂にせまるものが多々あった。
 いつだれの伝記を読んでも人格の力はまことに偉大である、乃木将軍の自然人ぶりとまことの人格とが胸にせまる。
 まこととは、やっぱり思ひやりだ、忠恕だ、愛だ、慈悲だ。
 将軍は涙の人である、涙より発する理智こそ真のまことと信じられた。』

 自由意志の問題。
 プラス涙、「歌う心」の話(こういう部分は日記でしか読めない)

1929年(昭和4年)7月14日
『 自由意志と業の問題は永遠のなぞだ。
 思ふてえられず、避けてさけえられぬ幾多の問題を背負ふて立つ現実は、業といふ一語によって、つめたいあきらめをする外はないが、しかし、現実以上の価値の世界を見るとき、すべては積極的に、その価値実現への燃料として、肯定できる。
 今日はたか子姉の忌日だ。
 よい月夜だ。
 二階で家内やお隆さんと一しょに歌ふた。
 歌の心がおのづと流れてくるほど、いい眺めであった。
 歌ふ心は人間の根本に漂ふてをる、ありがたい泉だ。
 「うれしきにも涙、かなしきにも涙」と大聖人はいはれた、流れぬ涙は歌ふ心だ。』

 再び、因果と自由。

1929年(昭和4年)11月25日
『 朝八時帰宅。
 午後三時より約一時間半余、早大二十番教室で、早大日蓮主義讃仰会主催の講演。
 題は「宗教の超階級性と階級性」について。
 了って、同志と簡単な晩餐を共にして、さらに宗教問題を中心に語った。
 因果と自由の問題は談話の中心題目となった。
 この自然科学的因果の法則と自由の人格とを止揚するところにこそ人生は展開してくるのだ。
 単に一切を自然科学の対照として見てはならない。
 この法則を人間の情意によりて色づけたる因果論こそ、仏教の「業」の思想は生まれたものと信じる。』

 浄仏国土。法華経と社会改革者との関係。

1929年(昭和4年)11月27日
『夜、福ビルの階上で信解品の講義。
 長者窮児の譬えは全くありがたいお経だ。
 志下劣な窮児には長者の境地は皆目わからぬが、その方便指導によって遂に長者の一子てふ自覚を得たのだ。
 われらも仏子だ、この自覚をうるところに、人生の真の価値は体験されるのだ。
 「菩薩の法の神通にし仏国土を浄め、衆生を成就する」この念願は只ただ仏子のみよく領得しうる自覚だ。考へれば、「世尊は大恩まします」もし、今、わしからこの信仰を奪ったら何がのこるだろうか。』
(終わり)

 ……(曽我)お返事はまとめて、次の次のメール「法華経について」の下に掲載しました。
 

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