sincekeさん 「お久しぶりです。(諸々について)」 2008,5,31,

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これまで数度、お便り差し上げたことがあります。
最近、チベット情勢についてかなり関心を持ったので、
ふと曽我さんはこの件についてどう考えておられるかと思い、
久しぶりにホームページを覗かせて頂きましたが、
曽我さんと私との政治的立場、というか、
感受性の違いというものから予想される通り、
チベットについては「無記」の態度を取られていました。
「なんだ、冷てぇな」とその時は思ったものですが、
今となってみるとそれもどこかで誰かが保持すべき大切な立場だったと思っています。

《私は曽我さんのチベット「無記」の立場を(一応)支持します》

最近は、妹尾義郎や佐々井秀嶺氏の名前を出されていますが、私はそこに、社会的な現実の苦に対する曽我さんの関心が示されていると思います。
ナチュラルメッセージさんとの意見交換など、曽我さんが政治的なことを語られている箇所は、わたしにはやはりどこか「頑な」な、ステレオタイプな「左翼っぽさ」をどうしても感じてしまいますが、この私のこの「感じ方」だって、ある種時代的、世代的、「2ちゃんねる」的なステレオタイプにはまっているとも言えるわけですから(個人の履歴により作られる無意識的な反応パターン)、仏教を縁として、私もふつつかながら、曽我さんの思索や文章発表などを陰ながら応援したいと思います。

 影ながら応援って言ったって、ちょっと今言ってみただけで、特に何をするわけじゃないんです……今回は「とりあえず文章いくつか読んで、メール出す」ことにしました。
 前からなんとなく自分が考えていたことと、曽我さんの文章から思いつくことをこれから書きます。

 ちゃんと書こうとするとメール出すのがとても億劫になってしまうので、乱筆で、いい加減です、ご容赦ください。

《「自由意志」の有無を論ずるのは早すぎるのでは?》

 【リベット『マインドタイム』を読んで】のリベットの実験の話は、面白いですね。
「意識の遅れ」を指摘するリベットの発見、たしかに、(主体性、自由意志を認めない立場としての)仏教の無我説に通ずる。でも、この実験だけでは、自由意志を否定するほどの、そんなに射程の長い論理を引き出すには不十分なようにも見えます。
 0.5秒以内で起こる人間の動作って、たとえばスポーツの世界では「当たり前の話」ですよね。ピッチャーがボールを投げて、バッターが「球種」を判断して打ち始めるまで、0.5秒もかからない。
リベットの実験だけで、人間観がガラッと変わるようなインパクトを受けることは難しいような気もします。自由意志がないことの証明、というには程遠いのではないかと…。
それでも人間が適切に動いている、というほうが、不思議であり、興味あります。
曽我さんも武道の「無心」をチョコッと例に出されていますが、最近では宇城憲治という武道家が、リベットのこの実験の話を引き合いに出して、「武道とはこの0,5秒以内の無意識の世界をコントロールするもの」みたいなことを言ってるのを、本で読んだことがあります。面白い。
 面白いけど、危うい。
「リベットだけ」で話を広げる、一般化していくのって、ちょっと危なっかしい。
(危ないというのは宇城憲治さんのことを言ってます)

《「やればできる子」?−仏教の考える責任主体と原因》

曽我さんが努力や精進の可能性を考えていくうちに辿り着いた「意識的拒否も、無意識のうちに始まる」という考えが面白いです。たとえば、教育のことについて考えるときも、「アンタはやればできる子や」と、勉強のできない子によく言いますよね。
でも、「努力する才能って生まれつき、(または環境的に)決まっているんじゃないか。才能がないやつは努力しろって言うけど、努力する才能がない奴はどうすんだ」みたいな屁理屈をこねてみたくなることは多いです。ぼくは多かったです(笑)。それとチョッと似ていると思いました。

雑阿含経に「業報ありて、しかも作者なし」という言葉があり、親鸞にも「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉があります。

行為の責任者ってなんなのでしょうか。
仏教は「原因」と「責任」を分離しているのでしょうか。
犯罪者は罰さなければなりません。しかし、その犯罪自体は、重々無尽の縁起によって起こった現象だから、原因を辿っていくと、どんどん枝分かれしていって、「犯罪」自体が雲散霧消していきそうになります。そこを「自由意志」という「仮説」を導入することで、世間的にできるだけ穏当な形で、罪を誰かに帰属させるわけです。仏教は「自由意志」を認めないのだから理論的には「犯罪」の責任も誰かに帰属させることも不可能なようですが、仏教というのは歴史的にも、世間的言説、世間の慣行を尊重する側面もあるわけですから、「自由意志」という「仮説」も「ことば」としては、その社会的効果としては、認める、という方向になるのでしょうか。そんなことを考えました。

《浄土思想はお気に召しませんか?》

話が逸れましたが、曽我さんの「意識的拒否も、無意識のうちに始まる」という考えは、いろいろな考え方の分かれ道、扇のかなめに位置するような大変なポイントだと思います。
私は思わず、「浄土思想」の端緒を思ってしまいました。
日本の、法然や親鸞の浄土思想です。

それは日本の仏教の底に流れている「ある感覚」ともつながっていると思います。

曽我さんは【布施について『正法眼蔵』−】でも、仏教を毒している「梵我一如思想」を批判しておられますが、曽我さんが批判しておられる対象は、「思想」以前の「ある感覚」が含まれているのではないでしょうか。道元にあるのも「梵我一如思想」というだけでは言葉が足りず、「本覚思想」のようなものかもしれませんし、思想というより「本覚感覚」あるいは「本覚状態」みたいなものかもしれません。私は『正法眼蔵』好きなんですが、「悉有は仏性なり」等の道元のことばは、世界がキラキラと耀き出すような、自然と自分との一体感、というより「不即不離感」がもたらす心身状態が元になっているような感じがします。

話は「自由意志」と「浄土思想」のことからズレてしまいましたが。

ともかく、私は、仏教が尾ひれのようにまといつかせている「仏教以前的なもの」にも魅力を感じているので、曽我さんなど「純粋な仏教」を取り出されようと努力している方から見ると「それはどうか」と思うものにも寛容です、というかそこに(も)興味あります。(だから私はたとえば、近代仏教学者の発言だけではなく、一部でかなり評価を落としている中沢新一氏の著作に対しても、へーそうなんだ、と感心することが多いです)。

《慈悲と浄土》

曽我さんの慈悲に対する考え方には前から違和感があります。
【リベットを読んで−】の最後のほうにある、
「慈悲と執着は競合する反応なのだ。よって、執着の反応が停止すれば、もともとあった慈悲の反応が、制約なしに動き出す」というところですね。
そんなにうまく行くもんかなー、と思ってしまいます。
執着と慈悲とがトレードオフの関係にあるとは思いません。
過去の仏教教団内部でも、たとえば女性に対する「執着」への「対治」として、白骨観などを勧めていましたよね。「慈悲」と座りながら瞑想する「慈悲行」は別のものだと思いますが、慈悲行は「淫欲」に関しては有効ではない、逆効果だ、とそこかの時代のお坊さんが言っているということを、中村元の『慈悲』という本で読みました。(そこらへん詳しく調べるのは後にします)
ちょっと僕も概念が混乱してきましたが、慈悲についてはいろいろな思想や実践方法が積み重ねられてきたはずです。少なくとも「衆生縁の慈悲」「無縁の慈悲」の違いについては考えてみるべきだと思います。

連想ゲームみたいになりますが、
玄侑宗久氏はどこかで「慈悲は、修行を積んだ、柔軟な身体から放射されるもの」といった旨のことを書いていましたし、「身体性」を軸にして考えていくという点で、玄侑氏と立場の近い中沢新一氏も「慈悲の根拠は、浄土ではないのか」という考察をしていました。
私はこっちのほうが「好き」ですね。

人間はイメージの動物です。イメージは、身体の細胞に微細な影響を与えるでしょう。

元々はヨガ行者や道教など土着の宗教から来ているのでしょうが、仏教にもイメージや身体を使った修行方法がいっぱいあります。「それは仏教ではない」といえばそれまでですが、これらの身体技術、意識コントロールの仕方を全部除いてしまうと、仏教が東アジアを泳いでいくときに着けていた「尾ひれ」みたいなものが見えなくなってしまいます。その「尾ひれ」にも人類の智恵みたいなものはいっぱいつまってるんだと思います。テレビでダライ・ラマ14世の顔を見ながらあれこれ考えているときにも、そういうことをちょっと考えました。

話がうまくまとまらないので、読みにくいと思ってまた小見出しつけますが、

《進化の歴史と人類の歴史》

曽我さんは動物の進化の歴史のことも視野に入れて仏教を論じておられるわけですが、人類が何か知らないが、何かの副産物として「意識」というものを持つようになってから、その「意識」をコントロールする技術というのも生まれてきたわけです。「言葉」だけじゃないんですよ。ラスコーの洞窟壁画は「イメージ」だけど、ああして絵画も意識のコントロールの一種と見れるかもしれない。
人類はこれまでいろいろやってきたんですよ。仏教だけじゃない。

動物の進化の歴史から考えたのは、たとえば空海だって一緒だった。十住心の一番最初は「異生テイ羊心」でした。人間の「動物」的な側面です。そこから考えて、そこからどうするのか、いろいろと考えました。人間の社会行動を規律する「儒教的」修養も、「ある段階の人間には必要かもしれない」、と思って、空海は自分の思想体系に組み込みました。空海は仏教の正統的な考え方からすると「異端」になるでしょうけど、人間が動物から進化してきて、歴史において「いろんなことをやってきた」というのをそのまま受け入れているんですよね。スケールでかい。私はそういうことも気になっています。

《ユング・フロイトではなく、ブッダはスキナーと握手?!》

 話は変わりますけど、曽我さんは人間を「反応パターンの束」みたいなものとして認識しておられますよね。数年前、行動主義心理学の考え方を知って、(特にテーラワーダなどの初期仏教的な)仏教と似てるかも、って思ったことがあります。仏教はこれまで、フロイトやユングと結びつけてこられましたが、もしかして、ブッダがスキナーと握手する瞬間ってあるのかな! と考えてちょっと興奮しました。
集英社新書の、杉山尚子『行動分析学入門』の「オペラント行動」とか「レスポンデント行動」「行動随伴性」の話、仏教のこと考える際にも少なからず裨益するところがあると思いました。
 スキナーは人間の心とか内面とかを認めず、全部「行動」に還元してしまう。
 身・口・意をぜんぶ「行為」と見て、それらの制御をこころがけてきた仏教から見ても、「あ、役に立つ!」という発見が沢山ありそうです。

 ちょっと体力が続きそうにないので今日はこのへんで。
 読んでくださってありがとうございました。

 p.s.メール公開されたりするのでしょうか。
その場合は、****の本名ではなくsincekeなどのペンネームでお願いしますね。
昔出したものはそろそろ削除されても結構です。
それか、ペンネームに直してくださいませんか。
本名で検索されて誰かに見られるのも、(これまで何回かありました、別に不利益はこうむっていませんが)、なんとなく不安です。
 曽我さんの関心範囲とかかわりがあることで、
 また何かまとまったことを思いついたら、メール差し上げようと思っています。

    sinceke より

 ……(曽我)お返事はまとめて、三つ後のメール「法華経について」の下に掲載しました。
 

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