宮島康子さん 「意識は副産物。ネルケ無方さんのご意見に」 2008,1,25,

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曽我様

こんにちは。

もう1月も末になりましたが、明けましておめでとうございます。

ネルケ無方さんの「意識の役割は?」という文章に何だか頭が反応したので書かせていただきます。推測でしかなくて情けないのですが。書くだけ書いて、結局自分の中には何一つ確かなことは無いのだなあと実感しています。

では、本年もよろしくお願い申しあげます。

宮島

【 以下、添付文書 】

ネルケ無方さん(08,1,18):「私というものがないはずなのに、意識というものも単なる自動的・受動的なものだとすれば、そもそもそんな余計なものはなぜ世の中に存在するのか。盲腸は役に立たなくても、人間が進化している過程の中ではそれなりの役割は一時的にはあったでしょうが、「受動意識」にはなんの役割があるのでしょうか。シミュレーションにしろ、何にしろ、無意識・ロボット的に行われていても良さそうだ」。
意識は生命反応の中で生まれたただの副産物ではないかという気がします。偶然できた副産物だから特に役割はない。ヒト科ヒト属の動物はこの副産物を肥大化させて苦しんでいるように思われます。
副産物も何らかの使われ方をすることがあって、その主要なものは「伝える」ということではないかと思います。例えば、今書いていることの内容は、私にとってはまるで意識しなくても構わないものです。そしてこの内容はきっと「無意識の内に準備され」ていたもので、曽我さん、ネルケさんの文章を読むことが縁となって表現したい・伝えたい気持ちが触発され、「後に意識され」た。

おそらく、異なる個体に「伝える」ための準備をするという役割を意識は果たしてきた、そして意識することが習慣化して、必要のない時にも物事がほとんど途切れなく意識されるということが起きているのではないでしょうか。脳内で事実からの迂回経路ができたわけです。そういう経路のできやすい遺伝体質をヒトは持っているのかもしれません。
集団での協力なしには生きながらえるのも困難な弱い生命体である人間に、「伝える」ことは重要だったでしょう。危険なヘビを見つけた時、チンパンジーも叫びをあげて仲間に伝えます。ライオンが来た時、去った時、それぞれ別種の叫び声をあげます。この時は意識なしの条件反射で伝えているかもしれません。ヒトの場合、記憶の関わるもっと複雑なことを伝える際、意識化が必要となってくるのではないか。「この草は腹痛に効く」とか、「あの岩の所に魚がたくさんいるけど足場に注意しなければいけない」とか。

もしかすると「伝える」ことにも意識は不要なのかもしれません。意識が必要なのは自分が凡夫だからかも。Jiddu Krishnamurtiは講演の前はいつも何を話したらいいのか分からなかったそうです。しかし聴衆の前に出ると、非常に複雑なことを滔々と語る。彼は意識なしに必要で的確なことを伝えたのかもしれません。

私は岸田秀の「共同幻想論」を思い出しています。うろ覚えですが、「人間は本能の壊れた動物で、その壊れた部分の補填のために自我という幻想をつくりだした。人間社会は自我という幻想に基づいた共同幻想社会である」というようなものです。自分流に言い換えてみると、「ヒトは大宇宙の自然という第一次環境の中に、意識による共同幻想世界という第二次環境を作った。この第二次環境の中で、副産物たる意識はますます役割を持ち肥大化していった。今や意識の役割は共同幻想を維持することである」。第二次環境の中で価値も尺度も美も醜も葛藤も次々に相互作用で作られてくる。「人間をやめる」というのは澤木興道氏の言葉だったでしょうか、これは共同幻想から抜け出ることを意味するように思えます。
意識はある意味で妄想でしょう。意識は1万分の1秒だけ後、10万分の1秒だけ後であったとしても本当に起こったことから時間的に遅れてずれているからです。ただ、みんながみんな遅れているから第二次環境の中ではなんとか整合性らしきものを保っていられる。川上雪担という禅僧が彼のサイトで「目から鼻に抜けるのでは遅いのだ」と言っていましたが、そういうことなのではないかと思います。

「意識」との関連で以前から気になっていることがあります。

最後に余談ですが、私は子どもを相手にする仕事をしていますが、彼らの中でほとんど「世界」イコール第二次環境(人工物)ということに気が付いて愕然としました。歌手やゲームや買い物のことばかり話すので、「人間の作ったものでないものに目を向けてごらん」と言ったら、「そんなもの無い」という答えが返ってきたのです。中学生でもです。そら恐ろしくなります。「空、地面、猫、犬」と指してやるとキョトンとしていました。ちょっと気が付いたのかもしれません。「あなただって人間がつくったものではない」というのは通じなかったようです。
ひょっとすると、私はこのことがあったのでネルケさんの文に反応したのかもしれません。

2008年1月25日
宮島康子

 

曽我から 宮島さんへ  2008,6,15

拝啓

 本当に遅い返事で、大変申し訳ありません。メールを頂いてから、もう5ヶ月になろうとしています。

 意識の役割について、ご意見を頂きました。

 進化の過程で考えると、刺激(縁)に反射反応をしたり、条件反射を形成したりするレベルまでは、まだ比較的単純なモデルで考えることができるように思います。しかし、類人猿や人間の段階からは、コミュニケーションとか、エピソード記憶とか、言語の発生とか、自己の対象化(ノエマ自己の発生)とか、シミュレーションとか、いろいろなことが一挙に爆発的に可能になって、それらがどう組み合わさっているのか、なにがなにの前提になっているか、解きほぐすのは容易なことではありません。

 そういう、様々な能力のビッグバン的な展開の中で、私達の、おびただしい苦を作りながらも止まらない執着・我執の反応も、発生してきたと思います。執着・我執を理解する方便的な助けとして、進化過程の研究や動物の行動研究、子供の成長過程の研究は役に立ってくれそうな気がします。勿論、一番大切な方法は、反応を静謐に整えた上で自分を観察すること、だと考えますが、この方法ばかりにのめりこむと、独りよがりのトンデモな世界に陥りかねず、さまざまな研究成果とつき合わせて検証することが必要かと思っています。

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 「伝える」で、ひとつ興味深い事例を思い出しました。
 小鳥が群れで餌を食べているとき、天敵を知らせる警戒音を発して他の鳥を追い払い、しばらくの間餌を独占しようとする行動です。これとて、仲間を騙そうという意図をもってやっているのか、たまたま勘違いして、あるいは興奮して警戒信号を発してしまったら餌を独占できて、それが条件反射的に反応パターンとして定着したのか、判別は難しいところです。私としては、「意識は条件反射が特殊に高度化したもの」と考えておりますので、このような事例は、意識発生のプロセスを解明する鍵になるかもしれない中間段階ではないか、と期待したくなります。ともあれ、しょっちゅう嘘の信号を発したら、効果はなくなるし、本当に天敵が現れた場合は群れが危険に晒されるわけですから、騙し行動は、たまにしか起こらない。このあたり、どういう仕組みで行動の発生が制御されているのか、おもしろそうです。

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 「分かる」というのは、リベットが数学の例をあげて言っているように、意識化される前に起こるのだと思います。「分かった!」というひらめきは、それまで気づいていなかった関係性の発見であり、無意識下で起こる。しかし、人間は、それだけではなぜか納得できなくて、言語化・論理化して検証しなければ収まりません。あるいは、言語化・論理化とまでいかなくとも、さまざまに自問自答・シミュレーションしてみなければ、自分の発見に落ち着けない。
 例えば、「親戚のあいつが俺を騙していたんだ!」とひらめいて、「そうだ、あの時も、あそこでも・・・」と検証をして、納得し、確信する。

 そんなふうに検証しないと落ち着けないのは、ひょっとするとおそらく、ひらめきの「分かった!」だけでは、しばしば誤っており、それに基づいて反応して、大きな不利益をこうむったため、それが条件反射となって、ひらめきをそのまますぐに受けいれることを押しとどめているのかも知れません。リベットについての小論で述べた考え、「行為の拒否も無意識のうちに起こる」、「ある行為のプロセスの始動そのものが、行為中止のプロセスのスイッチを入れる」というののひとつの例かも。

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 ところで宮島さんは

>意識することが習慣化して、必要のない時にも物事がほとんど途切れなく意識されるということが起きているのではないでしょうか。
とおっしゃっていますが、私は逆に、私達は実は日常生活のほとんどをきちんと意識しないまま、自動的反応で対応している、と思っています。そして、そのうちのほとんどの反応は、執着による自動的反応です。であるからこそ、釈尊は、繰り返し繰り返し、「いつも気をつけておれ」と教えられました。三学の第一である戒も、まず自分の反応をいつもしっかりと意識することから始めなければ、実現できません。

 私達の反応の大方が無意識のうちに行われていることを確かめるのは、簡単です。「今からはすべての行為を自覚して行うぞ」と心に誓い、やってみればいい。どれだけ固く誓っても、身体は勝手に差し出がましく働く。どれだけ多くのことが無意識のうちに勝手に準備され実行されているか、痛感できます。第一、何を考えるか、がすでに制御不可能です。

 勝手な深読みの暴走で、間違っているかもしれませんが、宮島さんのメールを拝読して感じるのは、宮島さんはひょっとして以下のようにお考えでしょうか・・・

 >>>人間は、大自然という第一環境にいるにも拘らず、意識によって共同幻想世界という第二次環境をつくりだし、あたかもそちらがすべてのように思いなしている。そもそもそれが間違いであって、意識の働きを停止し、本来の現実環境に立ち返り、ありのままの現実の事象にダイレクトに間をおかず反応すべきだ。
 もしこうお考えだとすると、これは私のかつての考え方にも近いので共感も感じますが、日本の大乗にありがちな考え方かもしれませんが、釈尊の教えとは違うように感じます。

 意識が停止すれば、我々は欠神発作のごとき状態になるのではないでしょうか。 ダマシオは、『無意識の脳 自己意識の脳』(講談社)p23で、「もぬけの殻」状態のまま、テーブルのカップをながめ、手に取って、コーヒーを飲み、立ち上がり、ドアに向かって歩き出した患者さんのことを書いています。小論《ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え》などご参照下さい。) 意識が停止すると、ダマシオの言う「もぬけの殻状態」になるだろうと想像します。あるいは、座禅においてもこういう状態になり得ますが、これはブッダダーサ比丘のいう「深すぎて役に立たない定」ではないでしょうか。

 釈尊の文脈で考えると、意識のないあり方とは、凡夫の日常のあり方であり、執着のまま自動的に反応を繰り返すあり方です。繰り返し苦を作るあり方です。そういうあり方をやめるために、釈尊が説かれたのは、徹底して意識して、自覚的に自分を観察することだった、と思います。そして、観察によって、無常=無我=縁起が自分のこととして腑に落ちて分かり、執着の愚かさを知る。それによって執着の反応パターンが消失する。これが正しい仏教ではないかと思います。

 釈尊の教えは、意識を停止することではなく、逆に、正しく意識を使うこと、であったのではないでしょうか?

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 悪い癖で、返事というより自問自答になってしまいました。見当はずれなことを言っておりましたらご寛恕下さい。

 また是非ご意見をお聞かせくださいませ。
                               敬具
宮島康子様
         2008,6,15,               曽我逸郎
 

 

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