ネルケ無方さん 意識の役割は? 2008,1,18,

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曽我様

お久しぶりです。
新しい「小論」を拝読致しました。

「我々は無常にして無我なる縁起の現象であり、かつ、反省や努力といった反応も縁によって起こる」
という仮説には異論がありません。
しつこいようですが、それでも意識の役割が分かりません。意識によって宣言的記憶やシミュレィションが可能になり、反省や努力がなされるだとします。
「そのつどの反応をコントロールすることはできないが・・・今以降の(無意識な)反応パターンの修正が行われる」。
そうしますと、無意識に決定される行為とその結果が意識にのぼり、意識のみが可能にしてくれているあるフィードバックを起し、再び無意識な行動パターンに影響を及ぼし、今以降の行為に影響をすることになります。しかし、もし本当に意識的な「気づき」がなければ、こういった宣言的記憶・シミュレィション・反省・努力が不可能だとすれば、意識には主体性が持たれるのではありませんか。
「数学の難問が無意識のうちに解かれ、その瞬間、立証する前に正しいことが分かる、といった例」と同じように、「宣言的記憶・シミュレィション・反省・努力」もそれぞれ意識にのぼる(500ミリ秒間)前に、無意識的に決定されてしかるべきではないでしょうか。曽我さんは全ての行為は意識される以前にもうすでに決定されているといっていると思います。そしてリベットと違い、意識には拒否権もなく、ある行為を途中でやめた場合でも、その行為への拒否もあらかじめ無意識に準備されていたといいます。つまり、意識が関わらなくても、それらの行為と行為への拒否が起こりうるはずです。
そうだとすれば、宣言的記憶などがどうして意識がないと説明がつかないのでしょうか。無意識に(ゾンビーのように)宣言的記憶・シミュレィション・反省・努力があっていいのではないでしょうか。
むしろ、意識があって初めてそれらが成立するのであれば、理論上おかしいのではないでしょうか(意識に主体性が持たされるから)。あるいは逆に、意識があって初めて成立するのではなく、諸々の行為と同じように最初は無意識の内に準備され、後に意識されるだけだ、というのであれば、「じゃあ、全然意識されなくてもいいのでは」ということになります。

つまり、

「諺で「損して得取れ」という。短期的に損をして長期的に得をするという知恵は、条件反射・学習からは導き出され得ない」
とどうして言えるのかがよく分かりません。たしかに、単純な条件反射からは導き出されないでしょうが、高度な条件反射であれば、当然導き出されるはずだと思います(高度な数学問題の解決が無意識に導き出されると同じように)。

もうひとつ、

「意識は常にひとつの内容しか持てないのは何故か? 無意識では、いくつものプロセスが同時に進行しているのに? これも今後の課題である。・・・意識は常にひとつの内容しか持てないとすれば、オーバーラップの考えで解決できるのだろうか?」
の「常にひとつの内容しか」の意味が分かりません。音楽を聴きながら朝ご飯を食べていると、そこには様々意識内容が重なり合っているのではないでしょうか。勿論、それらは一つの「意識」に統合されていますが、オーバーラップも同じようには考えないでしょうか。

リベットの主張する「意識の拒否権」には私もあまり共感できませんが、曽我さんが引用されているアンバラッティカ・ラーフラ教誡経の「苦を生むものならば停止せよ」というくだりだけではなく、仏教の全ての戒律もキリスト教の戒律も元々は「何々なかれ」という形を取っています(それはのちの大乗仏教では「不殺生」が「物事を生かせる」、しまいには「天地一杯の命は殺そうと思っても殺しようがない、という大宇宙の条理」などなどと解釈されていますが)。つまり、人には自由に行動を起こすことはできないが、ことを止めることだけは(止めようと思えば)できるという思い(錯覚?)があるようです。興味深いです。

合掌
ネルケ無方

 

曽我から ネルケ無方さんへ  2008,2,16

拝啓

 毎度の事ながら、返事が遅くて申し訳ありません。

 無方さんご指摘のとおり、意識は、高度な条件反射だと考えています。もう少し具体的に言うと、普通の単純な条件反射が起こったことを条件とする第二の条件反射、言い換えれば、クオリアが起動したことを縁として起動する第二のクオリアが引き起こす反応が意識だと考えます。小論 《ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え》 では、「気づいていることに気づくこと」という言い方もしました。意識は、自分でコントロールできる主体的な働きではなく、縁によって引き起こされるそのつどの自動的反応です。

 意識によって、宣言記憶が可能になります。意識(気づいていることに気づくこと)がなければ、宣言記憶は成立しません。意識を持たなくてもある程度発達した動物(例えば池のコイ、あるいはゾンビ)なら、新たな条件反射を身につけることはできるでしょう。しかし、宣言記憶を持つことはできません。
 宣言記憶も、本来は自分でコントロールできるものではありません。憶えようとしなくても憶えている記憶もあれば、忘れたくても忘れられない記憶もある。思い出したくても思い出せないこともある。

 ともあれ、意識によって宣言記憶が可能となり、それが蓄えられて、シミュレーションの材料になります。

 単純な条件反射は、「今ここ」に限定されています。条件となる縁があれば発動しますが、そういう縁のないときは、何の効果も生み出しません。しかし、宣言記憶の場合は、なにか別の縁に刺激されて、関連した、あるいは思いがけない連想が浮上してきます。(これは、私の場合座禅をすれば嫌というほど実感させられます。)宣言記憶においては、「今ここ」の制約を離れ、無限ともいえる組み合わせが可能になります。可能といっても、勿論自分で好きなようにできるというわけではなく、どのような組み合わせが起こり、どのようなシミュレーションが行われるかは、縁によって偶然性に支配されています。

 シミュレーションは、縁によって自動的に起こるのですが、その結果、時として、これまでの自分の反応パターンの問題点・改善点が気づかれる。「反省」とは、この気づきのことだと思います。反省は、さらにシミュレーションを引き起こし、それが繰り返されるうちに、より良い新たな反応の可能性が気づかれる。
 そして、問題のある反応を引き起こすクオリアが縁によって刺激されると、従来の問題ある反応が従来どおり起動されると同時に、新たな反応も起動する。これら二つの反応は、互いに相容れない反応です。新旧二つの反応プロセスが競合しあう時に発生する感覚が、努力だと思います。

 古い反応パターンが勝って、その結果問題が引き起こされれば、反省が一層強まり、次の機会に新しいパターンが勝つ可能性が高まります。新しい反応パターンが勝って、よい結果がもたらされた場合も、新しい反応パターンが強化されます。このようにして反応パターンは改善されていきますが、このプロセスは、単純な条件反射のレベルから一段進化した、高度な適応プロセスです。

 つまり、意識の役割は、まず、宣言記憶を可能にして、シミュレーションの材料を蓄積することです。意識(気づいていることに気づくこと)がなければ、単純な条件反射に留まり、「今ここ」の制約を離れたシミュレーションは実現されません。
 また、意識(気づいていることに気づくこと)は、反省や努力をブーストアップして強化します。
 意識は、反応パターンの改善に役立ち、より洗練され、より大きな利害を長期的にもたらすような適応を可能にしたと考えます。

 こうして意識は、計算高い執着を実現し、長期的に大きな得をもたらしました。しかし、実はこれは、中途半端な適応であり、大きな得をもたらす一方で、それ以上に大きな苦ももたらします。普通、凡夫は、得にばかり目を奪われて、大きな苦にはなかなか気づけないのですが、時としてシミュレーションによってそのことに気づく特別の場合があります。その反省が発心であり、苦をもたらさない反応パターンを模索する努力が精進だと思います。
 発心・精進は、反省・努力・執着よりも一層高度な適応を目指すものだと考えます。

 発心・精進は、自分を守り育てようとする執着が苦の原因だと発見します。そして、自分への執着を矯めるための方法としてよく用いられるのは、自分を超えたなにかを創造し、執着の対象をそちらに移し、超越的ななにかに献身することによって、自分への執着をなくそうとする方法です。しかし、注意深く観察すれば、その努力は、自分で創造した「超越者」をプリズムにして光を反転させ、もう一度自分に光を当てようとする屈折した我執の表れです。洗練されてはいますが、自分を肯定し、自分に価値を与えようとする点において、やはり我執に違いありません。

 その中で、ひとり釈尊だけが、自分を肯定し自分に価値を与え自分を守り育てようといくら頑張っても、そもそもそんな自分などもともと無いのだ、と気づかれました。無いものに執着して苦を生み出してきた愚かさに気づかれたことにより、苦の生産が止まり、深い納得による穏やかな安らぎの反応になられたのだと思います。

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>「(意識は)常にひとつの内容しか」の意味が分かりません。音楽を聴きながら朝ご飯を食べていると、そこには様々意識内容が重なり合っているのではないでしょうか。
 音楽を聴きながらご飯を食べているとき、あるいはどんな時でも、数々のノエシス、反応が同時に起こっています。その多くは、気づかれることなく、黙々と遂行されています(例えば、瞬き、呼吸)。クオリアが刺激され、反応が引き起こされる場合も、多くははっきりとした気づきなしに起こっています(例えば、冷奴がだされて、条件反射的・自動的に醤油をかける、とか)。しかし、そういういくつものことが同時に進行している中でも、意識、すなわち「気づいていることに気づく」と言えるようなレベルは、一瞬一瞬においてはひとつしかないのではないでしょうか?
 「意識の内容はひとつ」と考えたとき頭にあったのは、両義性の図です。「アヒルとウサギ」とか、「若い娘の斜め後姿とニタリと笑う老婆」とか。あるいは、直方体の透視図で、どの頂点が手前にあるか。慣れれば、パチン、パチンとスイッチを切り替えるように見える内容を切り替えることができるけれど、同時に二つを見ることはできません。
 単純な身体の反応や条件反射のレベルでは、多くのことが同時に行われているのに、あるいは、ワーキングメモリには複数の対象を置いておけるのに、意識の対象は、次々と切り替わっていても、常にその瞬間においてはひとつしかないように思われます。なぜなのか? このことが、「一人の一貫した自分」という思い込みと関連しているのかもしれません。

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 世の宗教や道徳が、「・・・するなかれ」と教えるのは、おそらくその教えに実効があるからだと思います。

 本当は、我々は、無常にして無我なる縁起の現象であり、思うままに行うことなどできないのですから、「・・・するなかれ」と自分にいくら命じても、それだけで悪しき行いを停止することはできません。
 しかし、「・・・するなかれ」の教えは、縁として作用します。時には、「ええい、うるさいことを言うな。俺は、好き勝手に生きるぞ」と反対の反応を引き起こすこともあります。しかし、我々は、日々様々な縁に晒され、いろいろな状況に遭遇しています。思いどおりにいかぬことばかりで、たまにうまくいっても、それは縁に恵まれただけ、いろいろ反省せざるを得ないことの多い毎日です。そのような日々において、宗教や道徳の「・・・するなかれ」の教えは、縁として深く刺さり、またシミュレーションにおいても評価されることが多いために、宗教的道徳的教えのミームとして、広がってきたのだろうと思います。
 ですから、釈尊の教えを語ることは、よき縁を人に送ることです。釈尊の教えを聞いたことは、その時は格別の効果がなくとも、記憶の奥に留まり、時を経た後縁を得て浮上して、シミュレーションに働きかけ、発心や精進を引き出します。
 釈尊の教えを語ることは、人が人になしうる最高の行いではないかと思います。

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 私がこのように意識や主体性の問題にこだわってきたのは、この問題と、釈尊の無常=無我=縁起の教え、また「精進・努力せよ」という教えが、矛盾しないことを確認するためです。私としては、これらが互いに矛盾せず整合し得ることを納得できなければ、安心し自信を持って釈尊の教えに取り組むことができないと感じていました。そのため、しばらく右往左往してきましたが、ようやくどうやら心配せずとも矛盾するものではなく、逆にひとつながり、一体のものだと思えるようになってきました。日本仏教の用語を使って大げさに言えば、他力(縁起・主体性の否定)と自力(精進・努力)とを止揚できたような気さえしています。

 とはいえ、この疑問は、一般的には余計なことであり、本来ならば無記をもって捨て置かれるべきものだと思います。無常=無我=縁起を自分のこととして深く納得できるよう精進・努力すれば、それでよいのです。

 要らぬことに拘ることはそろそろ止めにして、もう一度釈尊の教えの基本に立ち返り、反芻しようと考えています。

 引き続きご指導宜しくお願いします。
                                 敬具
ネルケ無方様
        2008,2,16,                 曽我逸郎
 

 

ネルケ無方さんから  2008,2,17,

曽我様
ご返信、ありがとうございました。
一点だけです。
「意識の内容はひとつ」ではなく、「意識はひとつ、その内容はいろいろ」というのではいかがでしょうか。
「アヒルとウサギ」の話は分かりますが、まさか、自分の呼吸を意識しながら親指の先を同時に意識できないと言うことはないでしょう。そもそも同じ線を「ウサギ」として認識するか「アヒル」として認識するかという問題、またそれを同時に「アヒルとウサギ」として認識することが不可能であると言うことは、今の問題と無関係だと思います。たとえば「二」という漢字を日本語で「2」という数字を表す漢字として認識することはできるが、同時にカタカナの「ニ」として認識することはできないにしても、「二」の上の線(「一」)と下の線を同時に意識することは不可能ではないと思います(むしろ、普通だと思います。別々に意識するのに苦労するくらいです)。「龍」だとか、複雑な漢字を「一点一点」スキャンするように意識するのではなく、一瞬にして全体を意識することはできるでしょう。あるいは、左手の平を全体として意識することはできると思います。パチ、パチと、意識が左手の中であちらの神経からこちらの神経へ、一瞬一瞬して飛び回っているというのは考えにくいと思います。
私が体験したヴィパッサナ瞑想ではたしかに、頭の天辺から足の先まで、絶えず意識を動かして、いつも一点に意識をおいていたと思います。厳密に言えば、一点ではなく、例えば「ヘソの周り」とか、ある限られた体の部分ですが。禅宗でも、呼吸だけに集中するとか、丹田だけに集中するとかいった瞑想法はありますが、しかし、それはあくまでも一つの瞑想法であって、意識の自然な状態でもあるべき状態でもない、と私は思います。
むしろ意識を(理想として)360°広げること、身体を全体として感じ、呼吸も感じ、目の前も意識し、音も聞き、浮かんでくる雑念にも気づき、などなど、ということも可能だと思います。
仰るとおり、そのほとんどの場合は感覚のどこかに意識が重点をおき、その他がぼんやりとしてきますが、それは必ずそうでなくてはならないと言うことはないと思います。
また、例えそうだとしても、「意識の内容はひとつ」ではなく、「意識の内容は一つのことだけが比較的ハッキリとしていて、ほかの部分は比較的ぼんやりとしている」ということになるのでないでしょうか。本当に「意識の内容はひとつ」という時は非常に珍しい状態と思います(また、繰り返しますが、禅の目指す境地では決してないと思います)。
合掌
無方
 

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