土屋さん 「般若心経における空思想への批判」 2007,11,7,

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曽我逸郎様
初めてメールを差し上げます。
別れた女房と暮らす息子へ送ったメールを若干修正したものを添付しますので、勝手とは思いますが、誤りがあったら指摘していただけたらと思います。
この経緯は、息子は大学受験勉強中なのですが、高校の先生の中に宗教の好きな人がいるらしくて、近頃、「竜樹の中論における空思想がどう」のという議論を受けてしまいました。空思想については昔勉強した覚えがありますし、中論も読んだ覚えがあるのですが、中論は殆ど理解できませんでした。そんなこんなで、当初は「宗教の勉強をしたいなら大学に入ってからやれ」と言っていたのですが、「受験勉強からの逃げ」のつもりでしょうか、なかなかあきらめないのです。私も40年前大学受験のとき、止めろといわれた哲学だの仏教だのにのめり込んで1年無駄にした覚えがあり、無駄も人生かと・・・強くいえません。そこで、とりあえず理解したつもりにさせるために別添のような紙を書いて送り、プリントして先生にも見せろと言いました。その後で、はっと気がついて、「嘘は書いてないとチェックしないと危ない」と思うようになりました。その後反論のようなメールは無いので、その先生も受験という時季を考えてくれているのかとは思いますが、どうも「正しかったのか」という悪夢に取り付かれてしまいました。
そこで、曽我様にチェックをお願いするわけです。まことに勝手ながらよろしくお願いします。
土屋

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般若心経における空思想
−般若心経が示す観音様の悟り−

gam bhi ra yaam pra junya paa ra mi ta yaam

これは、漢文訳「行深般若波羅蜜多」部分のサンスクリット文・梵字表記とアルファベット表記である(梵字はフォントの都合で割愛した。曽我)。発音を示すアルファベット表記は、例えば「促音(梵字の上に点を打って示される)はgam、yaamの様にmと標記する」など一般的表記法に拠っている。しかし、現在サンスクリットを日常語として使っている人はいないので、gaをギャと発音するかガと発音するかは読む人の自由である。サンスクリットは二重子音が多く、日本人には発音しづらいが、現在では単なる識別情報であり、他の単語と区別が付けばよいので、ローマ字読みで適当に発音して全く問題無い。以下では、サンスクリット文を参照する場合には文字に馴染みがあるアルファベット表記を使うことにする。
pra junya paa ra mi taは、般若波羅蜜(知恵の波羅蜜)ではなく、玄奘訳の漢文にあるように、般若波羅蜜多(波羅蜜多な知恵)である。漢文では、般若波羅蜜でも、般若波羅蜜多でも字面から見る限り「多」が在るかないかの違いで、大した差ではないように見えるが、そこには般若が波羅蜜を修飾するのか、波羅蜜多が般若を修飾するのかという違いがある。サンスクリットの文法では、修飾関係は名詞が先に来て、修飾語が後に続く構造が基本である。即ち、日本語とは逆の語順であり、サンスクリット文の修飾関係からは「知恵・波羅蜜多な」と玄奘訳のように解するのが一般的なのである。
「波羅蜜多な」の意味は「パー ラ ミ タが英語のパラマウントに相当する単語(英語もサンスクリットもアーリア語系の言葉であり、この場合対応する単語が存在した)」なので、プラ ジュニャ・パー ラ ミ タで「至上の知恵」という意味になる。
「知恵の波羅蜜」とする場合では、六波羅蜜とも言われる6つの修行の一つを、「知恵を得るために」行うというような意味になる。しかし、そのときは上述の単語パー ラ ミ タの音の区切り方をパラム・イ・タと変えて3語に再編し、「到彼岸」としたうえで、これを「悟りに至る」の意味だとこじつけており、翻訳というよりは作文になっている。

上に掲げたセンテンス全体の意味は『観音(:観音或いは観世音というのは鳩摩羅什訳。玄奘訳では観自在※1)菩薩が、玄奘訳の菩薩名が示す「菩薩が得意とするところの観ずる行」を深く行ったときに』ということであり、観音様の行動が明確に示されている。観というのは「漢字の意味する、見るという意味」ではなく、後で示す「観という様式の思考方法」である。「観を深く行った時に」というのは、「座禅を組んだときに」ということではないし、ましてや『座禅によって、「色=空」という知恵を梵から与えられるというようなタナボタの話』でもない。因みに、お釈迦様は苦行もしたが「苦行により悟りを啓いた」などという話は聞いたことがない。ヒンドゥー教は苦行自体を絶対者への犠牲として重視するが、悟りは知恵の働きであり、苦行のみにより悟りを啓くことはできない。また、般若心経では、はじめから観音様が「至上の知恵を深く行じた時に」としているのだから、『「色(しき)は空(くう)ではないか」という「至上の知恵」の仮説』を予め持って「行(:ぎょう。この場合、観という行)」を深く行ったに違いない。色(しき)というのは、目が感じることのできる光の波長に対応する「色(いろ)」ではなく、この世の実在(物)が「変わり易く、移ろい易い」ということから、実在(物)を「本質が変わらずに色が変化していく(変色)現象」に類推して色(しき)と翻訳したもの。現在の我々がこの行を追体験するのであれば、「この命題は、既に観音様が照見したことを知っているのだから」色即是空を真理として観を行うべきである。
観は、思考に集中できるのであれば、机に向かって白い紙にメモを取りながら行ってもよいし、パソコンの画面を見ながら行ってもよい。誰でもが、観音様のように完璧な記憶力を持っているわけではないので、少なくとも記憶力を補助するメモを取るだけで、記憶力の補強になり、同じ思考を繰り返す愚からは解放される。これに対し思考力を増強する手段はまだ無いようである。例えば、インターネットの検索技術が思考を補助するのか、阻害するのかは、可能性は両方ともにあり、よく分からない。
しかし、「観を座禅の形で行う」のは、若いときからその方法に慣れた「座禅専門家」以外にとっては、非効率以外の何者でもない。座禅だけが観の方法でないことは、座禅を知らなかったヨーロッパ人のほうが、座禅を知っていた、それも人口からいえば一桁多いインド人+中国人+日本人よりも科学や哲学の発展に貢献してきたことだけを見ても、明らかであろう。

※1観音菩薩はva lo ki te  shva ra  bo dhi sa ttvoの漢訳である。va lo ki teは次項に述べる観。bo dhi sa ttvoは菩薩であり、音訳になっている。意味としてはbo dhiが真理で、sa ttvoは持つの意。続けるとbo dhi sa ttvoで真理の護持者の意味となるがbo dhi sa ttvoが「神位」を示す一般名称へ変化したので菩薩という音訳が使われるのである。 すると、shva raがどういう意味かで、「音」か「自在」かに分かれることになる。鳩摩羅什は単語のshvaraとして音と訳し、玄奘はishva raのiが文法上の連接により省略された形と考えて(自由)自在と訳したのである。鳩摩羅什は、「音を観ずる:耳で聞くべき音を目で見るという意味にも取れる」では意味が通じないので、「世の中の音は人間の諸々の営みから発するものなので、音が人間の営みを象徴する」として観(世)音で「人間の活動(世音)を観ずる」意味だとしたものである。しかし、此処で論じている般若心経の中心テーマである「空思想」も人間の活動(世音)には直接関係しない事象である。そんなことから現在では、玄奘訳が正しいと考えられている。この般若心経を解釈する際にも、観を行う菩薩が観「自在」な菩薩でないと面白くない。

「観」はヴァロキテー、パーリ語のヴィパッサナー(或いはウパ−サナ)の訳語である。普通ならば「観」ではなく、「瞑想」或いは「念想」と訳される。「行ずる」はこの観を行ずるということであり、六波羅蜜のいずれかを行うという曖昧なものではない。それは、このすぐ後にvya  va lo ka ya ti  sma「照見した:玄奘訳による。直訳すれば観により全て悟った」と、観音様が行ったのは観であると明示されている。此処で注意しなければならないのは、前述のように「観は無念無想で座禅を組むことではなく、注意力を集中して思考すること。ありありとしたイメージを伴った思考をすること」であること。
最近、大脳生理学が「無念無想の座禅」が「脳の活性化に役立つ」としていることから、「現代科学が、座禅にお墨付きを与えた」かのように喧伝されているが、それはあくまでも「無念無想の座禅」が「脳を休ませるのに適している」と言っているに過ぎない。「体を覚醒させたままにしておいて脳を休ませると、脳の活性化に役立つ」と言っているのである。
逆に体を寝かしておいて、脳を半覚醒状態(体を寝かせておいて脳を覚醒状態にすることはできない。脳が覚醒状態に移行すると体も必ず覚醒状態に移行する)に置いたりすると脳は「金縛り状態」と認識し、怖い思いをすることになるそうである。これは、脳が眠ったまま体が動き出すと「夢遊病のように危険」なので、我々の体は、脳が眠っているときは体が動かないようにできていることによる。半覚醒で、動こうとしても体のほうは夢を見ているときと同じ状態なので動かない=金縛り、だそうである。覚醒すると怖い思いをしなくてすむということでは、金縛りとは悟りの前の状態みたいなものですかね。
座禅の後、この活性化された脳で思考しないのでは、健康には良いかもしれないが、悟りには何の役にも立たない。つまり、「無念無想の座禅」では「脳はリラックスして休んでいる」のであって、思考という観点からは寝ているのと変わらない。即ち、「無念無想の座禅」は観ではなく、単なる「ヒンドゥー教の推奨する体術ヨーガの実践」に過ぎない。しかしどういう訳か、このヨーガは、インドではジュニャーナ・ヨーガ(知恵のヨーガという意味。サンスクリット語のpra junyaからpraが取れたもので、意味としては同じ)と言うらしい。こうしてみるとインド人は「無念無想の座禅」が「脳の活性化に役立つ」と昔から知っていたのかも知れない。

ところでヴィパッサナーであるが、ウパニシャッド哲学では思考過程として「AとBをウッパースする (AとBを同一視するという意味) 」という表現が多いが、このウッパースがヴィパッサナーの語源である。先に挙げた色(しき)の例では、この世の実在(物)を色(いろ)にウッパースすることにより、実在(物)を色(しき)と翻訳したわけである。この観という言葉の変遷一つからもサンスクリット語の使用、ウパニシャッド哲学の成立、パーリ語の使用の歴史が窺える。

なお、漢文訳に示される「色=空」の等式は、サンスクリット語では「ruu pam即ちが名詞であり」、「shu nya即ちが形容詞である」ために、文法から言っても等式ではありえない。色と空の品詞が異なるために「色は空: ruu  pam shu  nya  taa」という命題の立言はできるが、「shu nya(形容詞)はruu pam(名詞)」という文章は文法的にありえないので、サンスクリットの般若心経では「空であるところのものが色」shu  nya   tai   va   ruu  pamという形で表現されている。これは、「色が空である」ということを「倒置表現により強調しただけ」である。すると、サンスクリット文では「空が色である」という主張、即ち「無が有であるという主張」は全く言っていないことになる。一方、漢訳では両者を名詞としたので、『色→空であり、かつ空→色なので「色=空」』というように、空と色が対等な概念(両方とも名詞)のシンプルな論理式として示されている。このため、「形式的にはより形の整ったもの」となったが「有と無は等しい」ということなので矛盾律の否定になる※2という別の問題をもたらした。

※2アリストテレスの第一原理の一つは矛盾律であり、「あるものが、同じ時に、同じ場所で、存在しかつ存在しないことはありえない」というものである。色即是空、空即是色はこの矛盾律に反する命題である。私が高校生の頃、初めて般若心経を学んだとき、有無、正否、Yes, Noが等しいのでは、「どんな命題も意味をなさなくなる」とショックを受けたものである。しかし、日本では般若心経が良く知られているためか、これが「理性を持つものの主張とも思えぬほど無茶苦茶な主張」である事を誰も問題にしないことに、さらに驚かされた。
アリストテレスの第一原理とは、この世の形あるものとそのあり方の法則を成り立たせるのは、直接には見ることも感ずることもできない形而上の原理であり、それを見つけるのが哲学であり形而上学であるとした上で、その根本の原理を第一原理とした。言葉を変えると、哲学とは第一原理以下のこの世界を成り立たせる原理の体系を探求する学問であった。アリストテレスは哲学史と形而上学の2つを提示することにより、哲学という学問を作り、その哲学は2300年に亘って確固たる地位を保ってきた。それが相対化され揺らぐのは現代哲学が起こってからである。
ニーチェは「神は死んだ」と絶対者を否定し、ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬことには、沈黙しなければならない」と形而上の議論を否定し、観測できる限りの有限・相対的な現実的世界観を示した。この現実的な世界観は、物理学の相対性理論の影響を受けたものであり、「この世界には、その動きを規定する法則性はあるものの、絶対的な基準はどうしても見出せない」ということを主張している。もし、その法則性に「縁起の法」を当てはめ、絶対的基準が見出せないことに「無常」を当て嵌めるとお釈迦様の主張と良く似たものとなる。仏教では、哲学の祖アリストテレス以前から絶対者の不在を説き、無常の世界観を示してきたので、奇しくも二千数百年を経て洋の東西の宗教と哲学が同じような視点に立ったことになる。相対性や無常の理解の中身については、哲学の側に2300年分の思考の積み重ねの長があるが、この中途の2300年分の積み重ねを飛ばして現在の哲学的理解のレベルに近いものを達成した「お釈迦様の直観」には驚く他ない。しかし、我々凡人が中抜きで飛躍した直観を得ようとすると、大抵は「ど壷に嵌まって」臭い、誤った考えから抜けられなくなるので、決して真似をしてはいけない。後で示すが、お釈迦様でさえ誤りがある。

サンスクリットの般若心経では、空は名詞化された「無い状態」という概念にまで進化していない。この言わば「ゼロが発見されていない状況」のため、「(たった一つしかない)無い状態:無い状態というのはどれもこれも全く同じで、ほかの無い状態と区別が付かないので、無い状態というのは一つしかないと考えざるを得ないと「無数にある実在:どのような実在(物)にしろ、実在物である限り、いくら似ているものであっても、大きさが違う、形が違う、キズの位置が違う、元素の構成比率が違う・・・等々と必ず違いが発見できるので、完全に同じものは二つとないと考えられるの両者を対等の重みを持つ概念として対比し「等しい」と言えず、サンスクリット語の般若心経では「全ての実在即ち色(名詞)が空である(形容詞)」という「ただ一つの命題」を、「倒置したり、言い換えたり」して、ひたすら「文章として捏ねくり回す」ことになっている。
ただし、仏教としては、「全ての存在は空であり、無常である」「(それ故)何事にも、何物にも執着するな」という主張の正当性を言うためには「色即是空」とのみ言えればよいのであって「空即是色」は無用の命題である。空即是色は「何もないところから実在物が現れる」という意味でもあるので、それは「誰も未だ、見たことも経験したことも無いこと」になり、このような主張をすれば「証拠を見せろ」と言われても仕方ない。それならば無用なことは言わないほうが良い。色即是空とのみ繰り返すサンスクリット文のほうが、例え多少マダルッコシく見えても実は正しいのである。

蛇足として、名詞化されたと形容詞shu nyaの「意味あいの違い」を示しておく。例えば柿の実10個と栗の実10個があるとして、夫々から1個ずつを取り去ると、柿9個と栗9個となるが、夫々は同じ9個でも柿と栗という違いがある。柿1個と栗1個があるとして、同様に「其処から1個ずつを取り去るという同じ手続き」をとると柿0個と栗0個となる。0個となったときには柿、栗という区別は意味を失い両者は完全に同じものとなる。つまり、例え同じ手続きによっても、初期状態により「違う」と「同じ」という全く反対の結果が出ることになる。これを初期状態がどうであれ、「同じ手続きに対しては同じ結論が出る」ようにするためには、「柿0個と栗0個は異なる」としておけばよいのであるが、現実には両者に差は無い。これが「形容詞としての空」と「名詞としての空」の違いである。これは本来「どちらが正しいか」という問題ではなく、どちらが「自分の説明に都合よいか」という問題なのである。即ち、形容詞としての空には、実在物がだんだん少なくなって無くなるということで柿0個、栗0個というように「何々が無くなった」という形で実在物の影を引きずっている(形式論理からは、同じ手続きに対しては同じ結果が出るので、こちらのほうが説明しやすいことが分かるだろう)が、名詞としての空は実在の影を伴わない空であり、柿でもなく栗でもなく単純に「何も無い」「空っぽ」というたった一つの状態である。現実はこのとおりであるが、「柿0個と栗0個が等しいと認める」ときには「同じことをしても、初期状態により結果は異なる」という論理の存在も同時に認めなければならなくなるのである。つまり、「因と果は、因果律により一つの原因に一つの結果が対応しているにしても、初めどうであったかによって、同じ行為が全く反対の結果を招くことがあると認めなければならなくなる」のである。
これは、大きな問題をもたらす。例えば、お釈迦様は弟子たちに沢山の「戒」を与えられたが、この論理をその「お釈迦様の戒」に適用すると、「戒という手続きを守ることが何時も正しいわけではない」「場合によっては、戒を守ると誤りという反対の結果に至ることもある」と言っているのと等しいことになることがお分かりになるだろうか。
サンスクリットのshu nyaと漢字のには本来これだけの差があるのだが、サンスクリット文はもちろんのこと漢文訳でも、この概念の差を明示的に区別して使っている訳ではない。

漢文が基準文書であれば『「色→空∧空→色」なので「色=空」[色即是空、空即是色、所以色等空(:この「等」は現代中国語の「待て」という意味ではなく等しいという意味)]』と呆気ないほどシンプルで美しい表現になり、修辞学的修飾が行われたとしても般若心経は現在の分量よりもかなり短くなる筈である。 (現状でもサンスクリットの般若心経より漢文訳の般若心経の方がかなり短い。玄奘訳般若心経は、翻訳に際してのフライングに目を瞑れば、原文より美しい名訳である)

この、「全ての実在は空である」という命題が成り立つことの説明は、般若心経の中には示されていないため、般若心経を読むだけでは完結しない。この命題の説明(残念ながら証明ではない)は「縁起経」によってなされる。

[仏教は宗教であり、科学や哲学ではないため、証明することが無い。件のナーガルジュナの中論も証明は一切無いし、説明さえも無いため非常に分かりにくい。私も何度か読んだが、よく分からない。それを、教科書を覚えるように暗記することだけは絶対にやめて欲しい。般若心経もそうだが、繰り返し唱えていると分かったつもりになったり、間違ったことでも正しいことと区別が付かなくなったりする。もし物事の意味を考える勉強を始めたいなら、科学や哲学から始めたほうがよい。命題の正否が検証可能であるということが大事なのである。宗教のように検証不能の命題が多すぎると、そこに進歩は無くなる。科学や哲学を勉強した後で仏教に戻っても決して遅くないと思う。名著リストには入らないが、仏教徒でないヤスパースの書いた「仏陀と竜樹」などを読んでみても良いのではないか。:息子に宛てたメールからの意図的消し残し]

今、我々の目前に存在する全てのものは、原因があって、その結果として存在しているのであるから、いわば因果律[この因果律という言葉は「縁起の法」と書くのが仏教的なのだろうが、「縁起」には「縁起が良い/悪い」などのように他の意味も重ねあわされて手垢が付いているので、西洋哲学で同じ意味を単純・明確に表す用語である因果律(これもアリストテレスの第一原理である)を使うことにする。以下の因果律も同じ]により存在させられているのである。これは「全ての存在即ちは因果律の表現としての存在である」とも言い換えられる。因果律により変化していく全ての存在は「因果律という無形の法が示す変化という動態」を反映した「変化するもの」に過ぎないのであるから、全ての存在(即ち)は「無形の因果律がたまさか見せている仮の姿(空という形容詞で示されるもの)そのもの」であるという考え方である。

しかし、因果律により変化させられる客体である物質(物質やエネルギーは「質量・エネルギー保存の法則」により、「形を変え、変化することはあっても、決して増えたり減ったりしない」と物理学が証明済み=現在までに、この命題に対して挙げられた反証は全て否定された。それが科学における証明済みということ)の位置付けや、その変化の法則(運動方程式や自由エネルギーの法則等)については考えられていない※3。
なお、この質量・エネルギー保存の法則は、因果律が成り立つための実在(物)に関する基盤を構成している。もし、質量・エネルギー保存の法則が成り立たないと、その保存されない分の質量・エネルギーについては「因果律が成り立っていない」ことになるからである。即ち、物質やエネルギーが消滅すると因があって果が無いことになるし、或いは逆に物質やエネルギーが現れたりすれば、因なくして果があることになり、「その分について、因果律が綻(ほころ)びている、或いは因果律が成り立たっていない」ことになるからである。質量エネルギー保存の法則は、因果律が成立していることを物質とエネルギーの面から保証しているのである。
原子爆弾では質量が膨大な量のエネルギーに変化するが、「一見異なって見える質量とエネルギーは等価なもの」であり「質量の消滅量=質量の消滅に等価なエネルギーの発生量」という形で、そこでも厳密に因果律は成立っている。

以下で述べるように、お釈迦様の「この世が空でないとするならば、生ずることも、滅することもできない」という主張は、「因果律が成り立つ」という主張と「この世の実在は空である」という主張が衝突する形に統合された面白い複合命題になっている。

日本では、この「お釈迦様の命題」の立てられた700年後に至っても、「顔から体まで刺青を施した矮躯の野蛮人が、部族抗争を繰り返し、殺しあっている」と魏志倭人伝に描かれた「卑弥呼のいた神話時代」なので、この大昔の宗教改革者の考えが及ばなかったことは“仕方ないか”とも考えられるが、お釈迦様の100年ばかり後に生まれる(お釈迦様の没年がアリストテレスの生年であるという別の説もある)アリストテレスの哲学と比較すると、完成度があまりに低く、一人の人の考えることの限界を感じざるを得ない。また、ギリシャ哲学に連なる現代の科学などのように検証可能で修正・累積され、「時を経るごとに正確になっていくタイプの知恵」の存在を考えるとき、「変更することのできない過去の教祖の言葉に固執するのも執着である。『執着するなかれ』というのが『仏教の知恵である』」とするのが至当であろう。しかしそうすると「お釈迦様の教えを蔑ろ(ないがしろ)にする仏教とは何か」が問われることにもなるが、現実に「仏教には、お釈迦様が説かれなかった教えが沢山紛れ込んでいる」。

※3 物質エネルギー保存の法則は、「この宇宙の物質とエネルギーの総和は不変。」としている。お釈迦様が言った「この世が空でないとするならば、生ずることも、滅することもできない」という命題の後半はこの「物質エネルギー保存の法則」により、「生ずることも、滅することもない」が「常に完全に成り立っている」と保証されていることになる。すると「『この宇宙は空でない』という命題が正しいかもしれない。」とお釈迦様自身が言ってしまったことになる。これは、「お気の毒」としか言いようがないが、「変化」と「生成・消滅」を混同したことによる観察力不足がもたらした誤謬である。
「この世が空でないとするならば、生ずることも、滅することもできない」という命題は「この世の実在(色)は生じたり、滅したりするのだから、この世界は空である」という命題の対偶命題にあたる。ある命題と対偶命題は等価なので、命題か対偶命題のうち片方が正しいと言えると、他方も正しくなる。逆に片方が誤りなら、他方も誤りである。お釈迦様は「この世の実在(色)は生じたり、滅したりするのだから、この世界は空である」と「色即是空」を証明するためにこの命題を立てたのだが、因果律とは「原因があって結果が生じるという変化の法則」のことであるため、因果律は生成も消滅も否定するのである。即ち生成や消滅という「端末」では「原因が無いのに結果がある:生成」「原因があるのに結果が無い:消滅」というように因果関係が破綻していることになるので因果律を認めるならば生成も消滅もあってはならないのである。
ここで、上述した対偶命題「この世の実在(色)は生じたり滅したりするので、この世は空である」の論理値を計算すると、前提(前段)の「この世の色は生じたり滅したりする」が偽であるため、結論(後段)が真であろうと偽であろうと、この複合命題自体は真になる。つまり元の「この世が空でないとするならば、生ずることも滅することもできない」という複合命題は常に真であることになるが、「この世が空である」かどうかに関しては何の証明にもなっていないことになる。
この因果律と空の関係については、お釈迦様以降の仏弟子も考え続けていたらしく、般若心経の中にも・・・是諸法空相 不生不滅・・・不増不減・・・※4という表現があり、お釈迦様の主張にも係わらず「因果律(縁起の法)を認めるならば、不生不滅でなければならない」ことが知られていたことを示している。

※4 これはナーガルジュナの中論(中論觀因縁品第一)に典拠する。
また、縁起経の説く「因果律という『変化の法のみが全ての基本』という無常の教え」と、梵および輪廻転生の考え方は当然のことに相容れない。お釈迦様の教えが失われていなかった初期仏教団(サンガ)内および初期経典においては、ブラフマンとアートマンというヒンドゥー的考え方については全面否定されている。尤も、お釈迦様の言葉としてブラフマンを直接否定した表現は見当たらない(少なくとも私は知らない)が、アートマンについては、アートマン(我)の否定としてアナートマン(無我)という言葉を作り出すほど度々否定している。ウパニシャッド哲学ではアートマンとブラフマンは表裏一体の概念であるので、お釈迦様がアートマンを否定したということはブラフマンも否定していると見るべきであろう。ブラフマンを直截に否定しなかったのは、「インドに蔓延っていた迷信を一概に否定するのは布教の妨げになる」ことによる方便であろう。

元々「梵はヒンドゥー教の中心概念」であるし、「輪廻転生(と因果応報)はヒンドゥー教の教えに中国道教の功過思想が結びついたもの」である。「中国の法官の服装をした閻魔大王が六道輪廻を差配する」などという六道・地獄図の絵柄は噴飯物でしかないが、この「輪廻転生と因果応報」という2つの教えは何時の間にか仏教に紛れ込み、仏教の教えのように言われている。しかし、これらが紛れ込みやすい条件も人間の側に有る。すなわち、「お釈迦さまならぬ」ただの人が因果律を考えるとき、人は、その本性から、つい「何故そのようなことが起こるのか」と考え、説明を付けたくなる(原因を考える)ものらしく、すぐに「因果応報」などというような「意志を持った絶対者(全能の神)の存在とその干渉」或いは「予定調和の因果律」を仮定するようになる。しかし、「絶対者(或いは予定調和)の存在」自体が「無常を説く、お釈迦様の教え」と両立しない。

禅宗の人々にとって「梵我一如」は基本概念である。しかし「宇宙創成神であり宇宙そのものと等しいブラフマン(梵)とアートマン(我)が一つのものであることを理解することが悟りであり、輪廻からの解脱である」という「梵我一如」はヴェーダーンタ思想というヒンドゥー教の教えそのものであり、ヒンドゥー教の宗教改革として現れた仏教を基準にして、これを逆に見れば、「梵我一如」は「反仏教の教え」にあたる。仏教は梵や神という絶対者・超越者も否定すれば、前世・来世や輪廻も否定した無常の教えである。初期仏教の第一の特徴はヴェーダ(ヒンドゥー教の経典)の権威を一切認めなかったことである。梵我一如を説く人たちは、「無常の教えでは無間地獄へ落ちる」と脅すのが常であるが、そもそも初期仏教では地獄も極楽も存在を認めていない。
一度、梵我一如を説く人たちに尋ねてみたいのだが、彼らの梵には無間地獄が含まれないのだろうか。もし含まれるのなら、彼ら自身も其処に落ち込むだろうし[無限集合においては、部分と全体は同じ大きさを持つために、論理的にはある日「梵全体が無間地獄に落ち込んでいることに気づく」ことになるかもしれない:つまり梵に無間地獄が含まれるということと、無間地獄に梵が含まれるということは等価である]、含まれないなら梵には其処が欠けているのが明らかなので梵は不完全なものに過ぎない。しかし、いずれにしろ、梵我一如の教えは仏教の教えではない。
「(たとえ梵があったとしても)梵でさえも縁起の結果の一つとして生じ、変化するものに過ぎないのだから、それに執着してはならない」というのがお釈迦様の教えである。もし、「連綿として続く前世を背負った個」が「死に変わり、生まれ変わりして続いて」いたり、「梵という絶対的・包括的存在」があって、しかも「個(我)はその一部であり全体である」というのであれば、絶対・不変のものが存在することになり、「全ては空であり、無常である」、「何事にも、何物にも執着するな」とは言えなくなってしまう。

梵に対立するものとして「縁起の法」を立て、縁起の法の下での完全な平等(即ち「恒常的価値は存在しない」と説く無常)と慈悲・喜捨の「四無量心」を説いた宗教改革が仏教である。お釈迦様は、行動規範として非常に多くの「戒」を比丘・比丘尼と在家信者に与えているが、悟りについては驚くほど少しのことしか言っていない。この「無常と四無量心」だけで、お釈迦様の主張する悟りの大半をカバーするほどである。ヒンドゥー教の宗教改革として現れた仏教は、我(上述のAtman ※5)という「輪廻転生の主体」も認めていなければ、梵という「宇宙全体に等しい単一の主体」も認めていない。初期仏教は、「たとえ神仏でさえも縁起の法がもたらすもの」と見るのである。そのように「頼りなく」「儚い」無常の世界に生きていることを諦観すれば、慈悲・喜捨の「四無量心」によって自らと他人を一切の苦厄から救えるというのが仏教の教えである。

※5 (パーラミタがパラマウントに対応したのと同じように)ドイツ語にAtmanに対応する言葉が残っている。Atem「息・呼吸、風」がそれである(Atemは大きな辞書でないと載っていない)。この「息」から「生気」「霊魂」「自我」という意味が派生した。

初期仏教では、因果律という「縁起の法」のみがこの世の実相である(諸法空相)としており、「縁起の法」により生かされている我々は、因果律に基づき変化を続ける実在(サンスクリット語のruu pam。それは常に変わり続けるので色と漢訳された)の「空である」在り様を理解し、全ての苦厄を度(:渡に同じであり、超越の意)すべきであるとしているのである。

般若心経自体は、観音様が「色即是空」を観ずることにより、全ての苦厄を超越したという話をもとに「色即是空が最高の知恵である」ことを示している。

なお、漢文訳に見られる「空即是色」は、サンスクリットの原文には見当たらない。それが漢文訳独特の表現であることは上述のとおりである。サンスクリットの原文は「色即是空」としか言っていない。無常を説く仏教では「この世の実在の本質が空である」ということさえ言えれば十分であって、「空即是色」であっても、なくても構わないのである。

漢訳は、形式的に美しくなったし、哲学としても面白いが、「無常を説くためには不必要な主張を付け加える」ことにより、「どうして無が有なのか」「アリストテレスの矛盾律とどちらが正しいのか」という新たな重大な疑問を付け加えているのである。
なお、現在我々が知っている般若心経の訳者は三蔵法師玄奘であるとして本文を書いたが、「そうではない」という説もあることをお断りしておく。

また、第一原理(first principles)の理解については、「私なりの解釈」となっており、必ずしも教科書に書かれるような決定版ではない。

土屋

 

曽我から 土屋さんへ  2007,11,23

拝啓

 返事が遅くて申し訳ありません。
 それに、私は、添削などできる力もありません。勉強不足のまま、釈尊はどう考えておられたのか、極々狭い範囲で自分勝手に屁理屈をこね回しているだけです。

 般若心経についても、まともな勉強はしておりません。そのくせ、勝手なことを言っておりますが、それについてはホームページのGoogleサイト内検索で「般若心経」を検索していただいて、それこそ添削を願えれば幸甚です。

 頂いた論文を拝読して、大変共感を覚える部分が多く、また興味深いご指摘も多々ありました。そして、愚見についてご批判をいただきたいとも思いました。

 ということで、添削はできませんが、刺激を頂いて思ったこと書いてみます。どのようにまとめればいいのか、脈絡の乏しい文章になるかと思いますが、ご寛恕ください。

◆ 観

 『観、ヴィパッサナ−の語源は、ウパニシャッドに頻出するウッパースであり、それは「AとBを同一視する」という意味である』
とのご指摘、私はこういったしっかりと押えておかねばならない方面の勉強ができておりませんので、大変興味を引かれます。ウパニシャッドのウッパースは、「アートマンとブラフマンを同一視する」ということだったのでしょうか。あるいは、「小道具や所作を神にかかわる意味深いものとみなして祭儀を行う」、あるいは、さらに「祭儀の所作や小道具によって神をリモコン操縦する」というニュアンスまで実質的に内包していたのかもしれませんね。

 仏教の伝統における観については、私は、「無念無想で座禅を組むこと」でもないし、「思考すること」でもないと思っています。定という極めて落ち着いた状態における、集中度の高い、観察対象に引き込まれるようなリアルタイム、クロウズアップの観察ではないか、というのが現在の私の想定です。例えば、動物の生態の映像で、ムカデとかヒルとかが這う様がフォーカスぴったりで大きく写しだされている時のような感じです。おぞましくもあるけれど、その動きは繊細であり、また美しくもあり、思わず引き込まれてしまう。クオリアをかぶされていない剥き出しの現象、いつも化されていない評価不能のめくるめく映像に直面して、感覚が根こそぎそこに吸い付けられる感じ。

 そして、観の本来の観察対象は、なにより自分自身であろうと思います。けして事物一般の色ではない。私の色身、私の受・想・行・識。自分が呼吸している様子を、クオリアを剥いで、初めて目にするヒルの蠕動運動のように驚嘆して見つめる。筋肉の動き、皮膚の感覚、音、妄想の沸きあがる様・・・。そしてついに、(世界などではなく)他ならぬこの私が無常=無我=縁起であると腹に落ちて納得する。そんな風に思っています。

◆ 空即是色

 『「空即是色」は、サンスクリットの原文では「色即是空」を倒置によって強調しているにすぎず、サンスクリット原文では、「色⇒空」としか言っていない』
とのご指摘、不勉強の私には初耳でしたが、そうだとすると納得できる点が確かにあります。
 『「色即是空」で十分であって、「空即是色」は無用』
とのご指摘にも、共感します。無用どころか、「空即是色」は有害でさえあるように、私には思われます。というのは、空即是色(空⇒色)は、梵我一如思想、すなわち「単一の本源たる梵が展開して個物になる」という「梵⇒我」の考えの焼き直しとして理解される危険性が高い、と警戒するからです。また、この発想は、道家の「道」や「無」「混沌」とも親和性が高く、中国に入ってからの「空」は、本来の形容詞としての性格を失い、梵我一如や無を一層神秘化して説く言葉になっていった。般若心経は、仏教を釈尊の教えから変質させ逸脱させていくひとつの要因になったのではないかと思います。

 また、

『空について、形容詞と名詞をしっかりと区別して考えるべき』
というご主張にも同感です。もともとの「空」は、「本来そこに予想されるなにかがそこにない」、という意味の形容詞であっただろうと考えます。数学の場合で言えば、一、十、百といった位のどれかに、2,3,4,・・・,9 といった数がない、「その位置が空っぽ」ということが、zUnyaであり、ゼロということだったのではないでしょうか。仏教の文脈で言えば、「変わらぬ価値を持って永遠に存続する本体、すなわちアートマンが我々にはない」ということであり、空と無我とは本来同義だと思います。土屋さんの言い方に倣えば、なにかあると想定されたもの(アートマン)の影を引き摺りながらの「空っぽであること」が正しい空だと思います。それが、名詞化され、なにものの陰影もないのっぺらぼうなそれ自体の空になったとき、空は梵の役割を担い始め、上記の弊害を生んだのではないでしょうか。

 ただ、般若心経の梵文をネットで見る限りでは、空即是色のみならず色即是空においても、空はzUnyatAと名詞形になっており、形容詞ではないようです。この点、私に誤解があるようなら、ご教授ください。

◆ 梵我一如

 『梵我一如は反仏教』
とのご意見、まったく同感です。現代の仏教は、大抵が梵我一如に取り込まれてしまい、釈尊の教えからは遠ざかってしまった、と感じています。梵我一如については、もう一度きちんと対決して論じなければいけないと思いつつ、手がつかないでいますが、突き詰めたところで申せば、梵我一如では、結局のところ、執着も憎悪も戦争も搾取も、苦を生むありとあらゆるものが、その他すべての事象と同時に、梵の現れとして肯定されてしまいます。

 そこまで徹底できない中途半端な梵我一如は、ネガティブなものが生じてくる根拠として、計らいとか自分考えとか我侭とか利己心とか客塵とかを導入します。しかし、これでは、土屋さんが書いておられるとおり、それらを梵の外に置くことになり、梵が一切の本源だという前提に矛盾します。
 無念無想を目指す考えは、思考の停止を目指すものであり、「小賢しい思考をなくせば、内に分有する梵がそのままに働き出す、梵の働きを邪魔するな」という発想を背景としており、梵我一如型発想のひとつのパターンだと思います。

 土屋さんと同じように、私も、無念無想は熟睡状態と同じ、と思います。タイのプッタタート比丘は、「深い定は、慧の修行に対する主要な障害のひとつである」と言っています。(小論《タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘》参照)

 一点、少し土屋さんと見解の違う点は、上にも書きましたが、観の対象をはじめとして、釈尊が問題にされたのは、自分自身だという点です。釈尊は、実に注意深く問うべき範囲を限定されました。すなわち、自分自身と、自分に縁を与え、自分が縁を及ぼす身の回りの事物です。それ以外のことについては無記の態度を守られた、と思います。苦に対して如何に対処するか、それだけが釈尊のテーマであり、そのために自分と自分に接するものだけを対象として観察・考察されました。世界の果てや世界の真相には係わられなかった。もし自分自身ではなく、存在物一般や世界を問い始めるなら、発想は容易く梵我一如のパターンに陥ってしまいます。その危険性にも気付いておられたのではないでしょうか。

 一方、般若心経は、そういう注意深さに欠け、空即是色(空⇒色)において、世界の生成を説いているとの解釈を可能にしている点で梵我一如につけこまれる隙を与えています。また、仰るとおり「理性を持つものの主張とも思えぬほど無茶苦茶な主張」に溢れているのは、合理的思考を無効にすることで、思考を超えた神秘的ななにか、すなわち空=梵をイメージさせるように仕組まれているのかもしれません。

 もうひとつ梵我一如的だと感じる点は、「心無*(アミガシラの下に「圭」)礙」の部分で、これは「心がなにものにも覆われず妨げられない」という意味でしょうから、であるなら、この心は、梵が展開したところの真我・アートマンを想定していると考えざるを得ません。

 スッタニパータにこんな一節があります。

 ・・・「自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。」(岩波文庫「ブッダのことば」中村元訳、P236)
 この文章は、「世界」を話題にしていますから、可能性としてはこういった梵我一如的な解釈も可能かもしれません。「小我に固執する見解を打ち破って、世界は空(=梵)の展開である(、小我の底に隠れている真我も見て、それが空の現れである)と観ぜよ」と解釈することも可能かもしれません。しかし、私は、文献学的な裏打ちはありませんが、前半はアートマンを否定し、後半はブラフマンを否定している、と読むほうが単純かつ無理がないのではないか、と思います。スッタニパータとは言え、これが釈尊ご自身の言葉だったかどうかは確かめようもありませんが、当時のインドでは梵我一如が力のある主流の考えであった筈で、それに対抗する、当時としては異端的な見解が初期仏教にあったとすれば、釈尊ご自身がアートマンもブラフマンも否定しておられた、と推定できるだろうと思います。逆に、仮に釈尊が当時ありふれた梵我一如を説いておられたのなら、今に至るまで語り継がれるようなユニークな思想家ではあり得なかった筈です。
 梵我一如に異を唱え、「梵も我もない、自分自身を観察し考察して、自分が無常にして無我なる縁起の現象である、そのつどの縁によってそのつど起こされる反応である、それに執着しても詮方ない、と納得すれば、その結果執着が萎え衰え、苦を生むことがなくなる」と教えるのが、釈尊の教えだと思います。

 釈尊の教えは、ブラフマンもアートマンも否定するものであったと考えますが、その後の仏教は、梵我一如思想を言葉を変えて招き入れてしまい、仏教は釈尊の教えから遠ざかっていった、般若心経はその典型のひとつだ、と思っています。

 お待たせした上、ほとんどご期待に副えなかったのではないでしょうか。お許しください。
 仏教に関心を持っておられる末頼もしいご子息が、試行錯誤されつつ、正しい仏教に向けて歩んでいかれるよう、お祈り申し上げます。

 またご意見、ご批判お聞かせ頂ければ幸甚です。

                              敬具
土屋様
       2007,11,23,      曽我逸郎
 

 

土屋さんから  2007,11,27,

曽我様
ご丁寧な、ご返事ありがとうございました。曽我様のような碩学に「見解の相違はあっても、すぐに露見する誤りは指摘できない」といって頂けたと考え、望外の幸せに存じます。
また、曽我様のお話に、私の感じましたことを、書かせていただきます。

  仏教の伝統における観については、私は、「無念無想で座禅を組むこと」でもないし、「思考すること」でもないと思っています。定という極めて落ち着いた状態における、集中度の高い、観察対象に引き込まれるようなリアルタイム、クロウズアップの観察ではないか、というのが現在の私の想定です。例えば、動物の生態の映像で、ムカデとかヒルとかが這う様がフォーカスぴったりで大きく写しだされている時のような感じです。おぞましくもあるけれど、その動きは繊細であり、また美しくもあり、思わず引き込まれてしまう。クオリアをかぶされていない剥き出しの現象、いつも化されていない評価不能のめくるめく映像に直面して、感覚が根こそぎそこに吸い付けられる感じ。
観察というのは、観るというだけでなく、最低限度でも「分類し、意味を考える」というような精神活動が含まれるのではないでしょうか。顕微鏡を使ったり、望遠鏡を使ったりして見るべきものを見る「人という主体」がいて初めて観察になるのではないでしょうか。顕微鏡や望遠鏡が自から観察することは決してありませんし、それを覗くのが犬や猫であっても観察は成り立ちません。犬や猫は見ている対象が獲物であると認識して涎をたらすことがあっても、その属性を分類し、活動を見つめ、活動の意味することを考えることに喜びを見出す事は無いのではないでしょうか。精神活動(犬や猫にも萌芽がある”無駄“や”遊び“が始まりです)があって初めて観察になるのではないでしょうか。つまり、(人が簡単に騙されるもとである)クオリアの先に、クオリアを通してしか観察はありません。もし、感覚を遮断されたら「感じる」ことは無く、「精神が直接外界を認識することは無い」というのが科学の見方ではないでしょうか。
  そして、観の本来の観察対象は、なにより自分自身であろうと思います。けして事物一般の色ではない。私の色身、私の受・想・行・識。自分が呼吸している様子を、クオリアを剥いで、初めて目にするヒルの蠕動運動のように驚嘆して見つめる。筋肉の動き、皮膚の感覚、音、妄想の沸きあがる様・・・。そしてついに、(世界などではなく)他ならぬこの私が無常=無我=縁起であると腹に落ちて納得する。そんな風に思っています。

土屋さんと見解の違う点は、上にも書きましたが、観の対象をはじめとして、釈尊が問題にされたのは、自分自身だという点です。

この問題は 観の対象の公私の別であり、上座部仏教と大乗仏教の最も大きな違いではないかと思います。
そして、お釈迦様の教えは、パーリ語経典に見られるように、上座部仏教の教えに近かったのだと思います。一人でも多く、「悟りを啓いた個人」を得ることがお釈迦様の活動であり、その「悟った比丘や比丘尼が、お釈迦様に代わり信者を救う」というのがお釈迦様の描いたビジョンではなかったのでしょうか。タイやビルマの寺の床の石畳に座って、一人ひとりの信者の相談に答えている老僧(夫々とても尊敬されている高僧だそうです)の姿に、頭が下がりました。

一方、ベトナムの寺では、参詣者に良く見えるように「ツー・ビー・ヒ・サ」と書かれていることが多いのに気づきました。ベトナムでは、共産主義下で仏教は衰えていますが、タイやビルマと異なり、大乗仏教の国です。この「ツー・ビー・ヒ・サ」を漢字で表すと「慈悲喜捨」です。これが「仏教の根本の教えである」といっているのだそうです。参詣者の全てが、その意味を理解しているとは、とても思えませんが、ベトナム人に訊くと「仏教の教え=ツー・ビー・ヒ・サ」と答えます。我々が色即是空と唱えていると、何時の間にか理解したつもりになるし、場合によっては色即是空という言葉によって判断や行動を律することがあるかもしれないと思うと、これも一つの「救いの形」ではないかと思うようになりました。なかなか実行できることではなくとも、四無量心があれば、世の中は救われると私は信じます。

参考に、西洋哲学で有名な「我思う、故に我在り」について
『私が一切を虚偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。そうして「私は考える、それ故に私はある(全てが架空であるとしても、それらが架空ではないかと疑っている主体としての私は確かに存在している)」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことはできない・・・』デカルト『方法序説』第四部より

土屋
 

もう一通 土屋さんから  2007,11,28,

曽我様
昨日のメールで書き忘れた部分を書きます。
曽我様の以下の部分ですが、「ただ、般若心経の梵文をネットで見る限りでは、空即是色のみならず色即是空においても、空はzUnyatAと名詞形になっており、形容詞ではないようです。この点、私に誤解があるようなら、ご教授ください。」、このzUnyatAは梵字ではshu  nya  taaと3文字で表記されているのではないかと思いますが、これは、1語ではなく2語から成るのではないかと思います。つまり、shu  nyaは形容詞の空であり、taaは助辞で漢語の「也」に当たる強勢の助辞だと思います。ただし、「恥を申しますと」サンスクリット語を勉強したことがあるような書き振りをしましたが、「入門コース」のほんのはじめ部分を齧ったことがあるというだけで、詳しく問い詰められると、どんどんボロが出て収拾がつかなくなります。これで勘弁してください。
土屋

 

曽我から 土屋さんへ  2007,12,2,

前略

 いつもながら間の抜けたタイミングの返事で済みません。

 始めにまずお断りしなければいけないのは、私は、集中力の乏しい怠け者で、不勉強のまま僅かなネタを捏ねくりまわしているだけのオタクですので、リップサービスにしても碩学などとは仰らないようにお願い申し上げます。

 などと殊勝なことを言いながら、以下、一転して偉そうな口調になりますが、オタクのこだわりとご理解頂き、ご寛恕ください。

****
 観については、「分類し、意味を考える」といった日常の”悠長な”ものではないように感じます。

 仰るとおり、普段、我々はクオリアを通してしか縁に接していません。これは汚い、これは高価だ、この方は偉い、こいつは目下だ、あ、いい女(男)、わぁ、うまそう・・・。そんなふうに自動的に決まった反応を次々と繰り返しています(いつも化、執着の反応)。これは、条件反射の高度化したものであり、クオリアによって成立していると思っています。(より厳密には、そういう「そのつどの自動的反応」が、「わたし」です。)  しかし、この「いつも化」は、けして揺るがないほど強固なものではありません。例えば、普段はなんとも感じないいつもの家の中が、大事なお客様が見えるとなると、急に汚れやほこりが気になる。あるいは、見慣れた筈の風景や顔が、なにかの拍子に改めて眺めると、とても美しくいとおしく感じられたり。ひらがなでもなんでも、繰り返しなんどもなんども書いているうちに、突然見慣れた文字ではなくなって、見たことのない意味不明の印に見えてくる。
 あるいは、出家前の釈尊が、深夜、宴の後のありさまをご覧になって痛感されたむなしさ、異様さ。
 こういう時、いつも化・クオリアは、破れていると思います。破れているとまでは言えなくとも、ほころびている。ドラッグでトブのも、統合失調症の妄想も、「健康な」クオリアが変調をきたした結果ではないかと想像します。
 (「あたりまえ・・・般若経」の「見つめる練習」と「町からきた娘の報告、2」をご参照ください。)

 「観」とは、眼光紙背というか、穴の開くほど見つめるというか、それくらいの勢いで、いつも化・クオリアを破っていくことだと思います。座っていて、頭や顔を虫が這っているようなむず痒い感じ、あるいは膝の痛み、呼吸するお腹の動き・・・。徹底的にクロウズアップ・リアルタイムで感じようとする。目で見る「観察」ではありませんから、「感察」というべきかもしれません。ともかく、それに集中する。そして、ふと気付くと、集中していたはずが、いつの間にか下らない妄想を延々と紡ぎだしている自分に気付く。それもまた観だと思います。これらすべてが、自分というそのつどの反応・現象に気付くきっかけです。

 「観」は、普段日常のクオリア・いつも化を突き崩さんとする試みですから、かなり「危ない橋」だと思います。異常な状況にみずから踏み込んでいく試み。しかし、同時に、挑戦すべき橋、だとも思います。

 と、表明しながら、片方では「ヴィパッサナはウパニシャッドのウパースに由来する」という土屋さんのコメントを読んで、プッタタート比丘の「ヴィパッサナは釈尊の時代にはなく、後世開発された方法であり、過剰すぎる定をもたらす危険性もある」といった言葉を思い出しました(小論《タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘》参照)。ひょっとすると、ヴィパッサナも、釈尊の教えにとって外来物であり、警戒すべきものなのでしょうか。
 今の私には、判断を下すことはできません。検証すべき今後の課題がまたひとつ増えました。

 よい刺激を頂いたこと、感謝します。またよろしくお願いいたします。

                                  草々
土屋様
       2007,12,2,                 曽我逸郎
 

 

曽我から もう一通 土屋さんへ  2007,12,3,

前略

 オンライン辞書 Cologne Digital Sanskrit Lexicon(「月を差す指は・・」HPのリンク集にあり)によれば、やはり zUnyatA は名詞のようです。tA は、ちょうど emptiness の -ness のように、抽象名詞をつくる接尾辞ではないでしょうか。

 サンスクリットについては、私も促成栽培コースを齧ったものの、そのあまりの歯ごたえに逃げ出した口でして、自信のあることはいえません。強勢の助辞という見方もあるのかもしれません。

 04年1月11日、26日の清水さんとの意見交換もご一読頂ければ幸いです。

                                草々
土屋様
    2007,12,3,                    曽我逸郎
 

 

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