aさん 「仏教であることは必要か?」 2007,9,11,

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匿名希望の大学生です。
サイトにある佐藤哲朗氏との議論(にもなっていないかもしれないが)を読み、
「彼(佐藤氏)はなんと輪廻と仏典に執着していることか!」
といたたまれなくなりました。
仏典は過去に書かれたものである以上、いくらでも内容が変わることがあるのみならず、
最初の仏典結集が釈迦の死後数百年後に行われたこともあります。
私も輪廻は無我=縁起と完全に矛盾すると考えます。
そこで思うのですが、釈迦が説いた思想ということにこだわらなくていいのではないかと思います。
思想それ自体が正しいことをもってよしとする。
タイムマシーンができないかぎり、釈迦が実際になにを説いたかは絶対に分からない。
私は仏教(上記の理由から便宜的にこう呼んでいるだけとしてほしい)は死後の世界や輪廻などの形而上学的な議論なしに、論理と経験から組み立てることのできる思想体系、哲学体系であると考えています。
ですから、歴史的にできあがってきた「ブッダ」という権威は必要ではなく、それ自体で成り立つし、実践的な正しさもあると考えます。
ですから、仮にある仏典の作者が匿名であったり、もしくは江頭2:50の書いたもの(極端でしょうか)であっても、正しければよいのではないでしょうか。
もし、「釈迦は正しい」もしくは「仏典は正しい」ということを無批判に受け入れ、それを前提にしてしまうのであれば、
一神教やほかの宗教となんら変わらないものとなってしまう。
現に、佐藤氏などは釈迦を偶像化してしまっているためか曽我さんの聞く耳をもっていませんし、
私を「神の愛を認めない愚か者」として改宗をせまるクリスチャンの知り合いにそっくりです。
曽我さんの意見をお聞かせ願いたいと思います。

 

曽我から a さんへ  2007,9,15,

前略

 メール頂きありがとうございます。

 ちゃんとした?お返事は別途お送りしますが、頂いたメールを掲出しようとして、一点だけコメントしておいたほうがいいと思いつき、取り急ぎのメールをお送りします。

 最初の結集は、釈尊の死からさほど間をおかずに持たれています。このことを根拠として、「だから釈尊の教えは(少なくとも第一結集では)正しく保存されたのだ」という主張も可能でしょうし、逆に、「間をおかずに結集を持たねばならなかったほど、弟子たちの理解は、当時既に分裂し始めていた」と見ることも可能でしょう。
 釈尊のそばにいながら、釈尊の教えを誤解して頑なであったサーティ比丘の話が残っています。釈尊ご存命の時でさえそうだったのですから、釈尊が亡くなった後は、解釈はたちまち様々に分裂したであろうと想像します。そして分裂したそれぞれの部派は、おのおの「自分たちこそ正しく釈尊の教えを引き継いでいる」と主張したと思います。

 とりあえず、今回はこの件だけですみません。また改めてメールいたします。

                                  草々
a 様
       2007,9,15,                  曽我逸郎
 

 

aさんから  2007,9,15,

勉強不足のため基本的な事実誤認をしておりました。

ウィキペディアを見るだけでも、第一次の結集はもっと早くに行われていると書かれていますね。
(まあ、ウィキペディアは万能ではありませんがとりあえず)
それにしましても、私の意見の趣旨は先のメールの通り、すなわち釈迦という権威は重要ではないということで変わりありません。
曽我さんの仰るとおり、史実の解釈は無数に可能であるし、とにかく疑いだしたらきりがないわけです。

 

曽我から a さんへ  2007,10,18,

拝啓

 メール頂戴しながら、大変遅い返事で申し訳ありません。

 a さんのお考えと私の考えは、ニュアンスこそほんの少し違うかもしれませんが、ほとんど一緒かもしれません。

 私も、歴史上の過程を経て脚色され肉付けされた釈尊像には興味がありません。でもその一方で、実在されたはずの本当の釈尊はどんな方だったのか、どのように仰っていたのか、とてもとても知りたいと思っています。

 後の世の脚色や経典への加上が積み重なり、本当の釈尊の姿はほとんど見えなくなりました。まあ、釈尊への尊敬や憧れ故のことだったのでしょうから、仕方がないとは思いますが・・・。

 そういう状況において、では、どのようにして釈尊の実像に迫るのか? 残されたものを検討・比較し、取捨選択して、試行錯誤しながら組み立てる他ないと思います。誰かに、「おまえのような凡夫に仏の教えを選り分けるなどできると思っているのか!」と叱られそうですね。でも、それしか方法はありません。そうしないのなら、今に残る「仏教」のすべてを矛盾のまま丸呑みするほかはありません。しかし、誰もそんなことはしていないし、できないでしょう。テーラワーダも、中観も、唯識も、浄土も、法華も、禅も、密教も、「仏教」のすべての考えを等しく認めて安心立命するなんて不可能です。ですから、どんな「仏教徒」も、取捨選択しているのです。浄土の人は浄土経典を「選択」しているし、法華の人は法華経を選んでいるし、テーラワーダの人は、パーリ経典を選んでいる。それぞれ、縁に導かれ、また好みに応じて、あるいは実存を賭けて、自分なりに取捨選択した結果です。宗教的に言えば、「教えに選ばれた」といった言い方のほうがいいかもしれませんが、ともかく、その点に関してはどれも変わるところはありません。

 では、私(曽我)は、どう選ぶのか? まず、文献学を始めとする学問の成果に学びたいと思います。しかし、どれだけ文献学が進んでも、最古の文献(教えの文字化)と釈尊との間には、数百年の開きがあります。その溝は埋められない。その間に紛れ込んだものは、文献学といえど排除のしようがない。自分で一所懸命考えるしかありません。私としては、教えとして伝えられたものの間に矛盾があれば、他にないユニークな考えを釈尊のお考えとし、一方それに矛盾するものは混入物だと考えるべきだと考えます。ですから、無常=無我=縁起こそ釈尊の教えの核心だと考えるし、それと矛盾なく一体化できるものは採用し、矛盾するものは排除すべきだと考えています。無常=無我=縁起は、信じられないほど深く、同時に単純な発見です。輪廻転生や梵我一如の凡庸さとは、比べ様もない。そして、ほとんどなんでも説明できるほど応用範囲が広く、その上に苦を解消することまでできます。(問題は、それを自分のこととしてどすんと腑に落ちて納得することが非常に難しいことですが・・・)

 私にとって、釈尊とは、なによりもまず無常=無我=縁起に気づいた人です。そして、それをなんとか他の人にも分からせようと工夫に工夫を凝らして教えてくださった方です。その意味で、私は、釈尊その人よりも、無常=無我=縁起という教えの方を採っているのかもしれません。見えない釈尊を求めて、混入物を掻き分けながら教えの細い糸だけを手がかりに暗中模索していく限り、そうならざるを得ないのではないかと思います。

 しかしながら、「ならば、そんな朧な釈尊など打っちゃってしまって、無常=無我=縁起を思想として突き詰めればいいではないか」と問われると、やっぱり賛同しかねます。そうなると、ただの思想、世間に掃いて捨てるほどある凡夫の思想のひとつになってしまいます。私としては、2500年も前に、無常=無我=縁起という空前の洞察を成し遂げた釈尊という人の思想の全貌、人に教える工夫の全貌になんとか少しでも迫りたい。釈尊の教えには、凡夫には永遠に行き着けない完成度の高さを感じるのです。

 はっきりしない内容になってしまったかもしれません。うまく申し上げられませんが、微妙な気持ち、ご推察いただければ幸いです。

 またご意見お聞かせください。
                            敬具
a 様
    2007,10,18,               曽我逸郎
 

 

aさんから  2007,10,23,

返信ありがとうございます。
さて、曽我さんは私の考えと曽我さんのものとはほとんど変わらないと仰りましたが、
先のメールを読んで決定的に違うものであると確信しました。
私は思想それ自体の正しさをもってよしとします(曽我さんからみたら私は凡夫なのでしょう)。
やはり曽我さんは釈迦という権威を必要としているように感じます。
確かに、小学校で算数を教えてくれた先生を生涯にわたり感謝し続け、尊敬することはいいことかもしれません。
しかし、先生がおらずとも1+1=2であるのは変わらない事実であります。
釈迦の教えに信仰を捨てよ、執着をするな、というものがあったとおもいますが(もちろん釈迦本人がいったものとは限らず、文書があるのみです)、
まさにそれが全てではないでしょうか。

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