ネルケ無方さん 「自動的受動的な意識になんの役割があるのか」 2007,9,6,

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曽我様、
ネルケ無方です。ご無沙汰しております。
数ヶ月前、安泰寺のHPのアドレスが変わりました。新しいアドはantaiji.dogen-zen.deです。宜しくお願いいたします。私もまだちょこちょこと意識のこと、自由のことなど考えておりますが、私にとって一番の問題はやはりこういう問題です:「私というものがないはずなのに、意識というものも単なる自動的・受動的なものだとすれば、そもそもそんな余計なものはなぜ世の中に存在するのか。盲腸は役に立たなくても、人間が進化している過程の中ではそれなりの役割は一時的にはあったでしょうが、「受動意識」にはなんの役割があるのでしょうか。シミュレーションにしろ、何にしろ、無意識・ロボット的に行われていても良さそうだ」と。
映画館で映画を眺めているように、「私」という幻は絶対受動者としてそのつど縁によって引き起こされている現象を眺めているだけのであれば、そんな観客がない方がすっきりしますが、どうして意識があるのでしょうか。まぁ、どうでもいいといわれればそれまでですが。
合掌
無方

 

曽我から ネルケ無方さんへ   2007,10,14,

拝啓

 いつもながら間の抜けた遅い返事になってしまい、申し訳ありません。

 意識の役割については、まったく釈尊の教えに根ざすものではありませんが、「より巧妙に縁に対応するため」だと考えております。

 生命というのは、拮抗する反応が組み合わさって、その時その時の状況(縁)に応じてどれかの反応が活発化し、ホメオスタシスが維持され、その反応の組み合わせが安定しつつ拡大していく、そういう反応の組み合わせである、と思っています。

 たまたまなにかの偶然の縁によって、そういう反応の組み合わせができあがり、それ以降、さまざまに変化する状況下で、ある個体はその変化に対応しきれずに破壊され、ある個体はなんとかホメオスタシスを維持して持続します。

 そんなことが繰り返される中で、時々偶然の縁によって遺伝子が変形し、その結果、遺伝子の変化した個体のほとんどは死にますが、遺伝子変化によっては、時々それまでより巧妙に縁に対応するものが現れ、それは新たな種として個体数を増やします。

 進化史上、ずいぶん長い間、縁への対応の仕方が巧妙になることは、このような遺伝子の変化によってのみ起こり、生物種としての進化によってのみ起こってきました。個体は、遺伝子によって定められた種に共通の反応パターンで縁に反応することしかできませんでした。

 しかし、脊椎動物や節足動物や軟体動物のあたりから、個体ごとに経験から条件反射によって学習することが可能になりました。動物個体ごとに、経験によって反応のパターンが変化し、より巧妙に縁に反応するようになったのです。
 この条件反射(本来一回的な現象をカテゴリーにおいていつも化して捉え、ふさわしい情動を引き起こすこと)を可能にするしくみがクオリアである、と考えています。(小論「ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え」に書いたとおりです。)

 クオリアによって条件反射が可能になってから意識の発生に至るプロセスについても、上記小論で考えてみましたが、あまりに粗雑でまだまだまったく話になりません。
 ただ、意識によって可能になったことは、エピソード記憶を組み合わせて、予想される事態に対応するためのシミュレーションを行ったり、望ましい結果をもたらさなかった自分の反応を反省したりすることではないか、と思います。つまり、より巧妙な反応を模索する反応が可能になったと考えます。

 この反応は、大変複雑で高度であるため、一見したところ主体的、すなわち、自分を第一原因として起こっているように感じられますが、詳しく見てみると、やはり様々な縁によって起こされる反応であろうと思います。

 この反応によって、その時その時の一過性の感情しか持たなかった動物が、執着をも持つようになります。つまり、意識は執着を可能にする、ということもできます。執着は、攻撃性・持続性・計画性を高め、短期・中期的にはその個体に有利に働きますが、弊害もまた大きい。その弊害に気付いて、よりよい自分の反応パターンを模索して、発心・精進することも、意識によって可能になると考えます。

 意識の役割は、より巧妙な反応を模索させ、執着・発心・精進を可能にすることだと思います。

 ご意見・ご批判、お聞かせください。
                                  敬具

 と書いて、もう一度無方さんのメールを読み返してみて、「シミュレーションにしろ、何にしろ、無意識・ロボット的に行われていても良さそうだ」とあるのに、遅まきながら気付きました。無方さんの問題意識は、「シミュレーションが行えるのは結構だが、意識などなしにシミュレーションをすればよいではないか。なぜシミュレーションに意識が必要なのか」ということであろうとようやく思い至りました。

 確かに、コンピュータでもシミュレーションはできます。であれば、人間もコンピュータのようなシミュレーションでもよかったのではないか?

 しかし、コンピュータは、自分で自分のスイッチを入れません。自分で自分に解決すべき課題を与えません。
 いやいや、こういう言い方をすると、「ならば、人間は自分で自分にスイッチを入れるのか、自分に解決すべき課題を与えるのか」ということになり、「縁によって起こされる反応だ」という私の主張に反してしまいます。

 では、どのように言うべきか・・・?
 「縁に応じて引き起こされた感情が、シミュレーションの仕組みに課題を与え、シミュレーションの実行ボタンを押す」と考えます。

 すべての生物は、その時その時の状況に対応するため、自動的にさまざまに反応します。その反応が情動です。情動は、その時その時の縁によって自動的に起動され、縁と情動とは、いわば機械的なメカニズムで結び付けられています。

 しかし、条件反射においては、条件となる刺激(縁)とそれによって引き起こされる情動とは、もともとは結びついていません。池のコイにとって、手を打つ音は本来はおそらく危険のサインでこそあれ、餌のサインではない。学習した刺激を縁にして、もともとはそれと結びついていない情動を全身に引き起こす仕組みが感情であろうと思います。クオリアは感情によって条件反射を引き起こす、と考えます。

 そして、さらに進化して、感情はシミュレーションも起動するようになり、そのシミュレーションが意識ではないでしょうか?
 いや、シミュレーションだけでは狭すぎるかもしれません。まずは満足の確認があり、満足できない場合は改善のシミュレーションがされます。その両方をあわせたものが意識ではないでしょうか?

 自分の反応がよかったのかどうか、自分の状態がモニターされて満足度が計られる。満足度が高ければ、その反応は強化されます。(シナプスの可塑性によって。)満足度が低ければ、これまでとは異なる新たな反応パターンが模索され、シミュレーションが起こる。こういった一連の反応を起動するのが感情であり、感情によって起動されるこの一連の確認と改善の反応が意識ではないでしょうか?

 生命に本源的なもがき足掻き反応であるところの情動と、それを引き起こすための感情があり、それらと緊密に結びつきながら、より巧妙な反応パターンを模索するために意識があるのであろうと考えます。

 まったく荒削りな思い付きです。ご意見、お聞かせ頂ければ幸いです。

                            (ホントの)敬具
ネルケ無方様
        2007,10,14,                 曽我逸郎
 

ネルケ無方さんから   2007,10,16,

曽我逸郎様

いつも丁寧なお返事を誠にありがとうございます。

 「もう一度無方さんのメールを読み返してみて、「シミュレーションにしろ、何にしろ、無意識・ロボット的に行われていても良さそうだ」とあるのに、遅まきながら気付きました。無方さんの問題意識は、「シミュレーションが行えるのは結構だが、意識などなしにシミュレーションをすればよいではないか。なぜシミュレーションに意識が必要なのか」ということであろうとようやく思い至りました。」

そうですね。私が定義したかったのは、メールの後半にあるような問題です。

 「確かに、コンピュータでもシミュレーションはできます。であれば、人間もコンピュータのようなシミュレーションでもよかったのではないか?しかし、コンピュータは、自分で自分のスイッチを入れません。自分で自分に解決すべき課題を与えません。 いやいや、こういう言い方をすると、「ならば、人間は自分で自分にスイッチを入れるのか、自分に解決すべき課題を与えるのか」ということになり、「縁によって起こされる反応だ」という私の主張に反してしまいます。」

先日、一人のクリスチャンの女性と議論する機会がありましたが、彼女曰く「宇宙の全ての物には始まりがあり、終わりがある。従って、そもそもの始まりである『創造主』がなくてはおかしいではないか、物が物自体の創造主になり得ないから」。それに対して、「では、その創造主を誰が創造したのか」と聞くと、「いや、時空を超えた、永遠なる創造主ですから、非創造物とは違う」ということになるらしいです。先の「スイッチ」の話とどこか似ています。

 「では、どのように言うべきか・・・? 「縁に応じて引き起こされた感情が、シミュレーションの仕組みに課題を与え、シミュレーションの実行ボタンを押す」と考えます。 すべての生物は、その時その時の状況に対応するため、自動的にさまざまに反応します。その反応が情動です。情動は、その時その時の縁によって自動的に起動され、縁と情動とは、いわば機械的なメカニズムで結び付けられています。」

この辺までは分かるような気がいたします。

 「しかし、条件反射においては、条件となる刺激(縁)とそれによって引き起こされる情動とは、もともとは結びついていません。池のコイにとって、手を打つ音は本来はおそらく危険のサインでこそあれ、餌のサインではない。学習した刺激を縁にして、もともとはそれと結びついていない情動を全身に引き起こす仕組みが感情であろうと思います。クオリアは感情によって条件反射を引き起こす、と考えます。」

どうしてここから「クオリア」の概念が入ってこなければいけないのか、私には不明です。というのは、コンピュータのソフトでも上のコイと煮たような「学習」はできます。
そもそも、私が定義している「意識の意義」という問題は古くから哲学の難題としてありますが、誰もそれに対して満足できるような答は提示していません。最近では「問題自体には解決はあり得るが、人間の脳みそではそれは得られない」という哲学者すら現れています。また、分析哲学ではどうやら、(物質としての)脳神経ですべて説明が付くのだから「現象としての意識(あるいはクオリア)」はあえて問題にしなくてよい」という見解が主流になっています。
クオリアという考え方は、私が理解している限り、マッハの哲学に基づいています。物質が先にあり、現象としての意識が後から生じてくるのではなく、出発点であり一番確かなのは「現象」ではないか、という主張です。仏教で言えば、唯識によく似ていますが、説一切有部のにも通用します(現に、スリランカではマッハの哲学が仏教の理論を実証したとされているらしいです)。
つまり、クオリアで行くなら、「すべてクオリアなり」という主張は分かります。またその逆、物質しかない、という主張も分かります。「物質しかない」という時、「ではなぜ心があり意識があるのか」という難題があり、「クオリアしかない」と言うとき、私が思うには、他者の心の説明がネックになると思います。純粋なマッハ主義は独我論に陥るはずです。
一番分かりづらいのは、唯物論・機械論だけでも十分もの足りそうな曽我様の考えの中には、いつどうしてクオリアが忍び込む必要があるのか、とうことです。以前にも「人間は98〜99%は決定されており、ほんの1〜2%は自由」というような主張があり、そのとき私が「では、その1〜2%の自由はどこから来ているのか」と疑問に思っていたにどこか似ています。自由と共に、意識もクオリアも無用の長物と違いますか、曽我様の考えに置いては?そういう意味で「盲腸」と比較していたのです。
ただ、自由を捨てても別に不自由をしないのに対して、意識を捨ててしまえば、「今これを書いている私には意識があるのでは?」という疑問はおさえきれず、やはり全てはクオリアだと言いたくなります。
しかし、繰り返しますが、純粋な機械論から出発して、ダーウィニズムや脳神経学などを使ってから、途中から「クオリア」が出現するのは論理的にはどうかな、と思っています。

 「そして、さらに進化して、感情はシミュレーションも起動するようになり、そのシミュレーションが意識ではないでしょうか? いや、シミュレーションだけでは狭すぎるかもしれません。まずは満足の確認があり、満足できない場合は改善のシミュレーションがされます。その両方をあわせたものが意識ではないでしょうか? 自分の反応がよかったのかどうか、自分の状態がモニターされて満足度が計られる。満足度が高ければ、その反応は強化されます。(シナプスの可塑性によって。)満足度が低ければ、これまでとは異なる新たな反応パターンが模索され、シミュレーションが起こる。こういった一連の反応を起動するのが感情であり、感情によって起動されるこの一連の確認と改善の反応が意識ではないでしょうか? 生命に本源的なもがき足掻き反応であるところの情動と、それを引き起こすための感情があり、それらと緊密に結びつきながら、より巧妙な反応パターンを模索するために意識があるのであろうと考えます。」

ここで考えてのですが、ニルヴァーナーにおいては意識があるのでしょうか?(以前「ブッダは涅槃でくつろいでいる」と言ったようなくだりを読んで、非常に違和感を覚えたことがありますが、)もし意識が「生命に本源的なもがき足掻き反応」とつながっているのであれば、その「生命に本源的なもがき足掻き反応」が消えたとき(=涅槃?)、意識そのものも消えると考えるべきでしょうか?意識がなくなった状態が涅槃?そうだとすれば、「悪禅定主義」に近いではないでしょうか。

私自身は、情けないですが、何の答えも持っていません。自由もまだ捨てたものではないと思いますし、意識のあることは否定しようがありません。これが単なる「無用の長物」だとも思えないのに、物質である脳神経が勝手に果たせない役割を「意識」が背負っているというのもおかしいと思います。しかし、それでも自然科学をベースにして私自身、そして仏教、あるいは宇宙全体を理解したい気持ちはあります。色々な意味で非常に似た問題意識をもつ曽我様の思考に刺激を求めながら、暗中に模索しております。曽我様にぶっつけている様々な問いも、そういう意味では、自分自身に発している問いに過ぎません。

合掌
無方

 

曽我から ネルケ無方さんへ   2007,11,3,

拝啓

 いつも遅い返事で申し訳ありません。安泰寺は、冬篭りの準備にお忙しい毎日でしょうか。

 さて、クオリアについては、おそらく私が、本来の定義をおろそかにして、自分勝手に意味を与えているために、余計な混乱を生んでいるのだと思います。勿論クオリアに係わる本は何冊か読みましたが、どうも多義的でその場その場で便利に使われているように感じられ、すっきりと腹に落ちた理解ができませんでした。
 例によって、動物進化のプロセスを考えているうちに、条件反射(学習)が進化史上まさしく画期的なワンステップではないか、と思いつきました。条件反射によって、種レベル、種単位ではなく、個体ごとに個体単位で適応を向上させることが可能になった。条件反射とは、そのつどの無数の縁のうちから、利害にかかわるものをカテゴリーとして感知し、そのカテゴリーにふさわしいけれど生得的にはその縁に連結していない情動を、フライングによっていち早く立ち上げることです。
 この「本来無関係であった縁と情動とをふさわしく連結する仕組み」が本来のクオリアである、と仮定することによって、クオリアに関する様々なもやもや(クオリアのイデア性とか無時間性とか生々しさとか)が、私にとっては一挙に晴れたのです。

 (無方さん言及の「マッハの哲学」というのは、不勉強で知りませんでした。Googleで「クオリア マッハ」を検索してほんの少し齧ってみたところでは、私の考えと矛盾するようには感じられませんでした。ただしかし、そのつどの一回的な縁が、どのようにして「いつも化」されるのか(カテゴリーとして捉えられるのか)、経験を繰り返すことによってどのようにしてカテゴリーが精緻化されていくのか、などといった肝心の部分については、私のクオリア解釈はなにも答えられていない、ということを再認識いたしました。)
 クオリアを条件反射と結びつけて考えるというのは、私には、刺激的な、可能性の大きい発想なのですが、無方さん以外ほとんどどなたからも賛同も批判もいただけません。Googleで「クオリア 意識」で検索してみると、私のサイトのページがかなり上位に上がるので、そこそこ見ていただいているとは思うのですが、箸にも棒にもかからない素人の馬鹿な思いつきなのか、結構面白いのか、どうなのでしょう? ご意見ご批判によって新たな気付きをいただけますので、今後とも何卒よろしくお願い致します。

 今回、無方さんから、

>一番分かりづらいのは、唯物論・機械論だけでも十分もの足りそうな曽我様の考えの中には、いつどうしてクオリアが忍び込む必要があるのか
 という疑問を提起いただきました。私としては、普通言われるところの「物」も現象のうちの一つの形だと思っておりますので、唯物論というより、唯現象論と呼んでいただきたいという気持ちはあります。まあ、それはともかくとして、色身(肉体)において起こる現象のひとつが、クオリアであり、意識であろうと考えております。
 ホームページ上で何度かロウソクの比喩を述べました。小論「クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える」に添えたイラストを見ていただけると助かります。
 風のないところで静かに燃えるロウソクの炎は、一見じっとそこに「有る」ように見えます。しかし、勿論、炎という実体がそこに存在し続けているわけではなく、本当は、気化した蝋が次々と酸素と結合して二酸化炭素と水蒸気に変っている反応の場です。その場所において、熱や光が現象している。それと同様に、私たちの色身も、ものが入ってきて、反応して、出て行く、そういう反応の場だと捉えています。そこでは、体温といわれる熱の発生や、腸の蠕動、内分泌など、様々な反応が起こっています。それらの反応は、生命に本源的なもがき足掻き反応がさまざまに展開したものです。というより、もがき足掻き反応こそが生命である、というべきでしょう。肉体、身体は、生命そのものではない。そして、生命の進化とは、もがき足掻き反応の進化です。もがき足掻き反応が高度化・複雑化して、より効率よく適切に縁に対処してもがき足掻けるようになること、それが進化です。
 クオリアや意識も、そうしたもがき足掻き反応のひとつである、と考えています。

 「意識の意義」に関しては、進化論があらゆる生物の能力について述べる述べ方と同様に、なにか意義があるからできたのではなくて、たまたま偶発的に生まれた能力が生き延びるのに有効だったから残った、と考えます。どう有効だったかというと、たとえばシミュレーションによってより効率のいい反応パターンを模索することが可能になった、とか、我執を生み出して、自分を守り育てる反応を加速・強化してその場その場の生存競争に打ち勝った、といったことが挙げられるでしょう。
 そして、我執がその場その場の局面では有利でも実はかえって苦を生んでいることに気付き、それをどう克服するかさまざまにシミュレーションをした結果が、宗教だと思います。

>ニルヴァーナーにおいては意識があるのでしょうか?(以前「ブッダは涅槃でくつろいでいる」と言ったようなくだりを読んで、非常に違和感を覚えたことがありますが、)もし意識が「生命に本源的なもがき足掻き反応」とつながっているのであれば、その「生命に本源的なもがき足掻き反応」が消えたとき(=涅槃?)、意識そのものも消えると考えるべきでしょうか?意識がなくなった状態が涅槃?そうだとすれば、「悪禅定主義」に近いではないでしょうか。
 もがき足掻き反応は、そのまま生命とイコールです。暑いときに汗がでることも、心臓の鼓動も、もがき足掻き反応です。ですから、もがき足掻き反応が消える時というのは、命の消える時、すなわち死です。「仏教」的には、死を涅槃と呼ぶ場合もあるようですから、「もがき足掻き反応の消えたとき」=涅槃、でもいいのかもしれませんが、今我々が問題にしようとしているのは、生きているうちの涅槃のことですよね。
 生きているうちの涅槃は、当然すべてのもがき足掻き反応が停止することではありません。クオリアの反応も意識の反応も残っています。涅槃においても、暑ければ汗をかき、血糖値が下がれば空腹感を覚えます。消えるのは、執着の反応だと思います。
 現象を 変らぬ価値を持った実体として捉えること(無明)によって、執着は起こります。自分が、そのつど縁によって起こされる無常にして無我なるそのつどの反応であり、実体ではなく現象であることに気付き、腑に落ちて深く納得することによって、いくら自分を守り育てようと執着しても詮方ないことを納得する。その結果、執着という過剰に加速された反応がなくなる。それが涅槃であろうと思います。そして、執着の反応が停止(or 衰退)すれば、穏やかで軽安な落ち着いた反応パターンとなり、執着と拮抗する慈悲の反応が、執着のかわりに活発になるのだと考えます。
>コンピュータのソフトでも上のコイと煮たような「学習」はできます。
 コンピュータに条件反射(学習)は可能か? これには大変興味を覚えます。想像するのは、例えばこんなコンピュータです。

 室温を極狭い一定の範囲にコントロールすること(≒ホメオスタシスの維持)を役割としており、室内温度や外気温のセンサー、ビデオカメラ、マイクなど(≒感覚器官)がつながれている。その部屋には、何人かの人が出入りする。扉が開けば、外気の影響を受けるし、人の体温も室温に影響する。温度の変化を感知してから対応するのでは間に合わない。変化を先取りして予測し、冷暖房を開始せねばならない。ところが几帳面ですぐに扉を閉めてくれる人もいれば、横着な人もいて開けっ放しにする人もいる。寒がりの人や熱がりの人がいて、勝手に窓を開けたりする。酔っ払っているときは、普段と違う動きをする人もいる。
 こういう状況で、顔認識による個人の特定や足音による酔っ払い度判定をして、経験から今後の展開を予想し、あらかじめ先立って冷房・暖房のスイッチを入れ、きめ細かく室温をコントロールする。経験を重ねるにつれて、「**さん、今日はシラフだ、今日はほろ酔いだ、泥酔だ」とは思わないでしょうが、ともかくどんどん適切な対応をするようになっていく・・・。

 こんなコンピュータはできるのでしょうか? それとももう既に実現されているのか? もし可能であるのなら、いつも化の仕組みを考えるためのヒントを与えてくれそうです。いろいろ考え出せば、反応すべき縁のカテゴリー化の精度を上げていくためには、反応の結果が満足をもたらすのか、不満あるいは恐怖をもたらすのか、それがはっきりするまで、その時の縁とイデア的クオリアの相違の距離感を保持していなければなりません。つまり、条件反射が可能となるためには、なにかワーキングメモリ的な機能が前提になるのかも・・・。いろいろ興味は尽きません。

 いつもよい刺激を下さり、ありがとうございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

                                 敬具
ネルケ無方様
        2007,11,3,                 曽我逸郎
 

 

再び曽我から ネルケ無方さんへ  追伸 2007,11,4,

前略

 なぜ私が、クオリアなどという釈尊の教えに関係なさそうなものに拘るのか、ご説明したほうがいいかと思い当たりました。

 世の中の事物も、我々自身も、実際は現象であるのに、我々は、それらを変らぬ価値をもって存在し続ける「もの」として実体視し、執着しています。なぜこんなことが起こるのか? それを考えていくうちに、「現象を固有の価値を持つ実体としてとらえること」(無明)を引き起こしているのが、クオリアであり、それは条件反射に端を発する、と思い至った訳です。

 つまり、執着の原因探求であり、ひょっとすると無明の原因探求なのかもしれません。

                               草々
ネルケ無方様
         2007,11,4,              曽我逸郎
 

 

若干の加筆  2007,11,25,

 先日、南相木村診療所長・医師 色平哲郎さんとじっくりとお話をする機会を得た。その際、私の考えを説明する中で、なぜ私は進化論や脳科学などを導入して無常=無我=縁起に新しい方便を与えようとするのか、執着や無明の原因探求をしようとするのか、言葉にして自覚することができた。
 極論をすれば、私にとっては、仏教はどうでもいいのである。もっと言えば、仏教という言葉が、釈尊の発見を宗教の土俵に閉じ込めるのなら、私の願望からすれば、かえって有害であるかもしれない。仏教と呼ばれることによって、無常=無我=縁起が仏教徒もしくは仏教に関心がある人達だけの話題に限定されるなら、なんともったいないことか。釈尊という名がキリストやムハンマドらと並び称されるのと同様に、ゴータマの名は、コペルニクスやダーウィンらと並び称されるべきなのである。
 では、私の願望とは何か?
 「守り育てるべき立派な私がある」という思い込みから、「私とは、そのつどの縁によって起こされるそのつどの反応であり、持続的実体ではない」(無常=無我=縁起)という理解へと、パラダイムシフトが起こることである。
 コペルニクスが地動説を唱え、その後時間をかけてその考えが共有されていったように、2500年前の天才ゴータマ・シッダールタの発見が、世界理解ならぬ自己理解のパラダイムとして、仏教徒のみならず、キリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も無神論者も含め、世界のあらゆる人々によって共有されれば、と思う。
 勿論、それによって世界中の執着が滅せられる、などと夢想するわけではない。執着を萎えしぼませるためには、無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得する必要があるし、そのためには戒・定・慧が必要だ。しかし、それでも、あたかも欲望を掻き立てあい欲望の実現だけを目指していけば世界は良くなるかのように思い込み、苦を際限なく撒き散らし続けている今の世界に対して、このパラダイム・シフトは、ゆっくりとではあるが深いところから、批判、反省を熟成させてくれるのではないかと思う。
 思えば、ゴータマにしても、宗教を起こそうという考えなどはなく、ただ世を覆う苦をなんとかしたい、自分を苦しめ、互いに苦しめあっている人々を救いたい、という思いだったはずである。であれば、ゴータマの発見を宗教として考える必要はない。もっと普遍的な思想史上の大発見として扱うべきだ。
 無常=無我=縁起というゴータマの発見は、あまりに深く斬新過ぎて、2500年が経過する今でも仏教徒の間にさえ共有されていない。ましてや宗教を超えて広げるためには、経典のみを典拠にしていては不可能だ。しかし、ようやく科学が、傍証し始めた。欲望の実現ばかりを目指して苦を生み続ける世界に一刻も早くブレーキをかけるために、科学でもなんでも使えるものは利用して、無常=無我=縁起を提起し、ミームとして広めたいと思う。
 

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