YIUEさん 「私という統合体、真空妙有とか梵」 2007,9,2,

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曽我様
YIUEともうします。
(先に送信したものに若干、補充して再送いたします)
サイトを拝見しいろいろのご見解や議論で啓発されること多く関心をもっています。
曽我様のご見解で、私に?なことがあります(当然、議論済みのことかとも思いますが、鈍根ですのでわからないのでしょうが)ので、できましたら、意見交換欄ででも
おひまなときにでもご教示下さいましたら幸甚に存じます。
(下記質問事項をどのように,
(自分でも乱雑で、何をいいたいのかわからないことを書いていると思いますので、曽我様が私の言っている趣旨とご理解されるところに従い)
整理され、引用されてもけっこうですが、私の名前は仮名YIUEでお願いします。)

無常=無我=縁起を腹に落ち納得する、正見する、苦を自覚するとありますが、
何者が納得し、正見し、自覚するのでしょうか?。(梵に通ずる真我であるとするとわかりやすいのですが)
現象が、私を含め無常=無我=縁起であることに(現象である私は)異議ありませんが、

異議ないと想念継続するこの私という統合体は、一瞬前といえども既に手が届かなくなっている過去の経験を無意識に、または記憶として、ある時間帯(例えば想念継続に必要な時間)において反映継続し、一瞬後といえどもいまだ手が届かぬ未来を現在(継続する時間帯)において有意識、無意識に願望、絶望しこれに対処しようとする、生理化学的に統合されている統合体だと思われますが、この統合体が上記の「何者」だとすると、この統合体が統合されてあることの根拠は何でしょうか。

無常=無我=縁起であるにもかかわらず、私が統合体である事態
(ある時間帯での恒常性)
を真空妙有とか梵を根拠に持ち出さずに説明できるのでしょうか。

曽我様のお考えでは、(私の誤解だとすれば失礼もうしますが)統合体に根拠は存在しないのでしょうか?
無常=無我=縁起である現象(私)が無常=無我=縁起という真理を無常=無我=縁起のままに納得
(どの、レベルでの納得?、腹とか腑とか、生物としての生存意思に規制されているものを持ち出されてますが、全細胞が生存に執着していますから、そのレベルでは執着から離れることができない=業というのでしょうか、のは自明であって、納得とは執着から離れられないことを(何者かが腑において)納得するのでしょうが)
したところで、・・・・・それがどうしたといったらおしまいだという言い方もありますが、・・・ブッダが俗人の「それがどうした」という半畳を許すような解脱をされたのでしょうか?

例えが悪いでしょうが、夢のなかの私が夢であること気づき、夢と納得しながら夢以外には存在しない(夢から覚めた現実も現実という名の夢に過ぎない
または、夢から醒めた現実は存在しない、あるいは現実とは、夢をみているものには手が届かない、手を届かす必要もない)
ことを自覚して夢を見つづけた=解脱、といったふうにしか思えないのですが、誤りをご指摘願います。

曽我様のお考えでは、輪廻はありえないとのことですが、
橋本治も「宗教なんかこわくない」でしたか、うろおぼえですが、現代の人は、すべて解脱している。輪廻などという迷信を信じていないのだから。と書いていたようです。
梵なり真空妙有なりを、無意識にでも前提しない場合、ご両人とも輪廻はありえないのは当然であって、(もってまわった複雑な理屈(唯識?)は、梵なり真空妙有なりを前提しているのではないでしょうか)
これを前提にして始めて、では、輪廻とは何か、存在するのか否かという議論になるのであって、曽我様の意見に反対するかたは、この前提のもとで反対しているから、議論がすれ違っているのではないでしょうか。

ついでですが、
玉城康四郎著「仏道探究」のP128によると、「ブッダの教えに従い行じ、解脱においてなお解脱してゆくと、おのずからブラフマンとなって住している」と(ブッダは)説いているそうです。
 

再び YIUEさんから 「あたりまえの布施」 2007,9,18,

この前メールしましたYIUEです。
ブッダとサンガは布施によって身体ひいては解脱の境地、解脱への精進を養っておりましたが、大衆があたりまえのこととして布施し、ブッダとサンガはあたりまえに布施を受けていました。
どうして、このようなことが可能なのでしょうか。

@大衆は輪廻しており、布施の功徳が未来または後生において善果となり報われるから。
  インドと東南アジアでは何者に輪廻するか信仰が異なるでしょうが、大いなる循環のうちで転生する点では同じで、これをブッダが承認してのであれば、あたりまえ=あたりまえ、で何の問題もありません。

A輪廻は俗信に過ぎないが、布施によりブッダの身体、解脱が維持されてありがたいから。
  ブッダのほうではあたりまえで結構でしょうが、大衆のほうのありがたい気持ちはブッダからすれば錯覚に過ぎないわけで・・・・・・、
曽我様が(ブッダとなって、ブッダを目標に)無常=無我=縁起を自覚し、軽安に生きると説明されても、その説明をどのように精緻に整えたところで現に布施をする、解脱をめざさない当事者のあたりまえには届かないと思います。
(結果としてブッダの教えが後世に伝えられることにはなりますが、布施する者には関係のない話です。それともブッダのほうでは忸怩?として解脱するのでしょうか)

Bブッダも布施する者も存在基底=有性(仏性というのでしょうか)を同じくしており、ひと連なりの同胞だから。(岩田慶治がいう、左手のひとにご飯をさしあげたら、右手のひとがありがとうという関係。・・・・誤読なら岩田さんに申訳ないです。)
  曽我様が排斥する梵我一如の考え方になるでしょうが、人類は自己の有限性を救い出すため己を超えた在りように憧憬し、これを確信してあらゆる宗教が発生することになったのだという考えに同感です。
  ブッダも、現象(私)が無常=無我=縁起であるからこそ、確固たる存在基底にたどり着くべく解脱をめざし解脱を重ねて(解脱してなお解脱する=玉城説)生涯をまっとうされたのだと思います。
  (井筒俊彦著「意識と本質」では東洋思想、特に禅を説明して存在の無分節体に言及していますが、そこではあくまで「体」であって、存在そのものは、玉城説にいう、ダンマ=形のないいのちそのもの、説明できないもの、ではないかと思ったりしています。)

曽我様はどのように考えられますか。それともCがあるのでしょうか。
 

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