Libraさん 煩悩と涅槃 小論《『ゴータマ・ブッダ考』を読んで》を読んで 他 2007,8,20,

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 曽我さん、こんばんは。Libra です。

 ここのところ時間的に少し余裕があったので、仏教のことを考えたりしておりました(もっとも、それも今日で一区切りで、また頭を通常モードに切り替えなければなりませんが)。

1.「『ゴータマ・ブッダ考』を読んで」を読んで
 曽我さんの「『ゴータマ・ブッダ考』を読んで。私とはそのつどの煩悩」(http://www.dia.janis.or.jp/~soga/budd-kou.html)を読み返しました。『ゴータマ・ブッダ考』を読みたいと思いつつもまだ読めていない状態にあるわたしにとっては、とてもありがたく、勉強になります。

 「煩悩を内に捉え、しっかりと覆いをして制御すべきものと考えることは、<戒>や<いつも気をつけておれ>という教えに直結する」という曽我さんのお考えにわたしも賛成です。釈尊が「煩悩を内に捉え、しっかりと覆いをして制御すべきものと考え」ていたことは、『スッタニパータ』の第1034詩および第1035詩にもっともよくあらわれているようにおもいます(おそらく、並川先生もこの詩については指摘されているだろうと想像しますが)。ここに出てくる「せき止める」という表現は、「しっかりと覆いをして制御す」るという意味にぴったり対応するとおもいます。

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一〇三四 アジタさんがいった、
 「煩悩の流れはあらゆるところに向って流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎまもるものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

一〇三五 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、pp. 217-218)
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 あと、【涅槃】については、【スタティック】なものではなく、【ダイナミック】なものとして捉えるべきであるという主張が、すでに、中村先生や三枝先生によってなされており、わたしも両先生のご主張に大筋で賛成なのですが、これら両先生のお考えについても並川先生は言及しておられますでしょうか。また、曽我さんのお考えはいかがでしょうか。

○スッタニパータ第1061詩〜第1062詩と中村先生の註
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一〇六一 ドータカさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

一〇六二 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 223)
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一〇六一 ここでは、「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう」(sikkhe nibbAnam attano)という。この文章から見るかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。ブッダゴーサの註(pj. p.592)によると、「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い(attano rAgAdInaM nibbAnatthAya adhisIlAdIni sikkheyaM)、ニルヴァーナを目的と見なし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義学はみなこういう見解をとっている。しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実現されないであろう。この詩の原文によって見る限り、学び実践することがニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう。

一〇六二 ここでも、「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ」というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。

(同上、p. 420)
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○スッタニパータ第1070詩と中村先生の註
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一〇七〇 師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 225)
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 妄執の消滅──taNhakkhaya(=nibbAna. pj. p. 593).
 ニルヴァーナというものは、固定した境地ではなくて、〈動くもの〉である。前掲の「妄執の消滅を昼夜に観ぜよ」(taNhakkhayaM nattamahAbhipassa)という文章を解釈して、ブッダゴーサは「昼夜にニルヴァーナを盛んならしめて、観ぜよ」(rattindivaM nibbAnaM vibhUtaM katvA passa. pj. p. 593)という(あるいは「ニルヴァーナを消滅せるものとなして」とも訳し得る)。われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。それと同様にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少くとも作り出すことのできるものだと解していたのである。

(同上、p. 420)
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○三枝先生の動的な「ニルヴァーナ」観

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 ちなみに、『法華経』にも、以下のような記述があります。

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これと同じように、すべての声聞たちは(自分たちが)涅槃を得たものであると思う。しかし、そのとき勝利者は彼に説くであろう。「これは静止であって、(真の)涅槃ではない」と。

(「第五章 薬草喩品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経T』〔中公文庫〕、中央公論
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2.『法華経』関連
 「《凡夫が仏になるには…法華経を再読して》」(http://www.dia.janis.or.jp/~soga/hokekyou.html)において曽我さんが提起して下さった諸問題については、まだ、じっくりと考える時間を作れないでいます。曽我さんの問題提起は、法華経信者としてきちんと受け止めなければならないと思っていますが、もうしばらく猶予を下さい。

 わたしの場合、『法華経』の中の肯定できる思想についての考察に、もうしばらく時間がかかるようにおもいます。最近は、以下のようなものを書きました。

  縁起と一念三千
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-11.html

  「縁起と一念三千」の付録
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-12.html

3.前回のメールに添付したファイルの件
 前回のメールには、「Libraさん 日蓮の思想と釈尊の教え 2006,7,7,」(http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha297.html)に含まれている古いURLを新しいものに置き換えたファイル(html形式)を添付させていただきました。しかし、残念ながら、まだ貴サイト上のファイルは元のファイルのままになっているようです。もしもお忘れなのであれば、次回更新される際にでも、新しいものに差し替えていただければさいわいです。
 すみません。先日修正しました。(07,9,3,曽我)

               2007.08.20  Libra
 

再び Libraさんから 「滅諦の「滅」の原語「ニローダ(nirodha)」の意味」 2007,9,18,

 曽我さん、こんにちは。Libra です。返事が遅くなってすみません。

1.URLの修正の件
 URLの修正、ありがとうございました。お手数をおかけしました。勝手なお願いでまことに申し訳ないのですが、前回とは別の3つのファイルについてもURLの修正をおねがいできないでしょうか。(一部略)(URL修正しました。曽我)

2.滅諦の「滅」の原語「ニローダ(nirodha)」の意味
 「煩悩と涅槃」に関連する話題としましては、滅諦の「滅」の原語「ニローダ(nirodha)」の意味をどうとらえるかという問題も重要かもしれません。わたしは、「せき止める、制止する」(『岩波 仏教辞典』)という意味でこの語を理解していますが、曽我さんはどのようにお考えでしょうか。

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なお、四諦の説においては、修行者の理想のあり方を〈滅諦〉といい、単に〈滅〉とのみいうことがある。その場合の〈滅〉の原語 nirodha は、せき止める、制止する、の意味である。

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 793)
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               2007.09.22  Libra

 

曽我から Libraさんへ   2007,9,29,

拝啓

 返事が遅くて申し訳ありません。

 煩悩と涅槃、あるいは執着と涅槃については、かつて安泰寺のネルケ無方さんから「執着を滅尽することが可能か?」との問題提起を頂いたり、私もこのところずっとぼんやりしたわだかまりになっております。どっちつかずのあやふやな内容になると思いますが、いい機会を頂いたので、今時点の整理を試みてみます。

 涅槃はスタティックかダイナミックか、『ゴータマ・ブッダ考』にそういう問題設定があるかというと、残念ながらそういう捉え方での議論はなかったと思います。

 私自身はどう考えるか、スタティック・ダイナミックという言葉でおっしゃっているところを共有できているか、自信がありませんので、的外れになるかもしれませんが、両面から考えてみます。

◆ まず、スタティックに捉えてみると・・・。

 仏教は智の教えだと思います。無常=無我=縁起を自分のこととして真に納得できたとき、すなわち無明が破られたとき、それまでの執着の反応パターンの愚かさが痛感され、反応パターンが変わる。執着のない反応パターンになって、苦を作り出すことがなくなった状態が涅槃である。
 智は、一旦獲得されれば、その維持に努力は必要ない。無常=無我=縁起を腑に落ちて納得し、無明が破られたら、それ以降の反応は、自然に執着の混ざらないものとなり、努力もなく、自分という反応に気をつけることもなく、自動的に平穏・軽安になる。その時その時の縁に、automaticに平穏・軽安、無執着に反応する。
 「心の欲する所に従いて、矩をこえず」と言ったのは孔子でしたか、不勉強で孔子の本意を誤解しているかもしれませんが、この言葉に近いあり方を涅槃と考えることも可能かもしれません。

◆ ダイナミックなように思える面は・・・

 先に一寸触れたネルケ無方さんのお考えは、木が死んでしまうほど無茶な剪定で要約するなら、「凡夫が凡夫なりに一所懸命執着と戦い続けること、それがそのまま涅槃である」ということではないかと思います。

 私自身の考えでも、執着の反応は、生命が生命であることに根ざしており、果たしてそう簡単に一挙になくなるものか、という思いもあります。原始的な微生物でも、与えられた環境の中で、なんとか生き延びようともがき足掻く。このもがき足掻き反応が長い時間をかけて進化して、執着の反応に発展した。執着の反応には、数十億年の歴史の重みがあるともいえます。
 釈尊とて、人間として生きておられた限り、そういう生物としての条件は共有しておられたはずです。水分が不足すれば渇きを覚える。死を目前にした釈尊は、背中の痛みに苦しみ、疲れた、休みたい、とおっしゃっています。生きている以上、第一の矢から逃れる術はない。では、第二の矢で自分を射ることは微塵もなかったのか? たとえば、どこかのバラモン司祭に闇雲に妨害されたり攻撃されたりして、鬱陶しいとお感じになることはなかったのか。子供が理不尽に苦しめられているのを見ても、慈悲の気持ちだけで、憤りを感じることはまったくなかったか。親しいものが亡くなっても、形あるものは必ず滅びると、少しも気持ちを動かされなかったか。
 そうは思いたくないし、おそらく実際にもそういった人間らしい(=凡夫らしい)気持ちの動きは感じておられたであろうと想像します。

 このような気持ちの動きは執着ではない、という人もおられるでしょうが、執着と同じメカニズムで発動していると思います。執着か執着でないかの判断は、主観的なものでしかない。だとすれば、仏にも、執着の反応パターンはかすかなりとも残っていることになります。仏も、自分という反応の反応の仕方に気をつけている必要がある。執着の反応になりかけたと気づいたら、すぐそれに蓋をして流れを制する必要がある。
 成道後も、釈尊は、しばしばひとり座しておられたようです。もし、無常=無我=縁起を納得して無明を破ることで、その瞬間完全に反応パターンが修正されるのなら、それ以降は座る必要はなかったでしょう。でも実際はそうではなかったのだろうと想像します。

◆ なんとなくの収斂

 書いているうちに、少しだけ考えがまとまってきました。

 仏においても執着の反応の名残りはわずかながらも残っているのでしょう。それは、もはや執着と呼べるレベルのものではないのかもしれませんが、執着の反応と同じメカニズムで発生してくるものだと思います。そして、仏といえど、それに気をつけており、万一執着の反応が生じかけたらすばやく制するのであろうと思います。

 しかし、だからといって、仏と凡夫とは大差ない、とも思いません。自分がそのつどそのつどの縁によって起こされているそのつどそのつどの反応だと腑に落ちて納得することは、やはり非常に大きな出来事だろうと思います。執着の反応を繰り返してきた愚かさを痛感すること。それは、決定的な経験であるはずです。

 凡夫は、縁に応じて怒りや妬みや恨みやその他もろもろの苦を生む反応となり、さらにそのことを縁にして、苦を生む反応を反響させ共鳴させ増幅していきます。時として、その連鎖反応は、核爆発並みに一挙に拡大する。また、執拗なまでに持続的な執着の反応もあります。しかし、仏においてはそんなことは起こりようがない。執着してもできないものに執着して苦をつくってきた愚かさを痛感したのですから。

 譬えるなら、一定の周波数の音を完全に吸音する特殊な実験室のようなものでしょうか。穏やかな音、軽やかな音は普通に響くけれど、苦を生む音は、縁によって起こされても、吸いとられて響くことがない。

 ついでながらもうひとつ、仏と凡夫の違いは、仏には、他の人の反応が、その人がはぐくんできた執着の反応パターンによる縁への反応として、よく見える、という点があるかと思います。凡夫はそこが分からないので、他の人の言動に腹を立てたりストレスをためたり、すぐさま単純に反応して、よけいに苦を増やしてしまう。仏には了解できるので、自分を害しようとする人にでも慈悲喜捨で接し、相手の発散する苦を吸収して無害化してしまう。世の中の苦を、増やすのか、減らすのか、この点が凡夫と仏の大きな違いだと思います。

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 滅については、「何かがまずあってそれが滅する」(英文法でいうなら、SV)とするのも、「誰かがまず先にいて、何かあらかじめあるものを滅する」(SVO)というのも、どちらも実体論的な傾向があり、私としては、「なにか現象・反応がひとりでに沈静化し、終結する」と考えたい。無常=無我=縁起という教えの論理を突き詰めると、そうなるかと思います。

 しかし、論理ではなく実践上から考えると、「ひとりでに沈静化・終結」とすると、放任・放縦・無反省に陥り、精進をしないようになってしまうので、「私が、自分の執着を制する」という言い方になります。ただ、これは、上のとおり実体論的な誤解を生みかねない表現ですので、もう少し厳密に気をつけて言い換えれば、「縁への反応である私が、自分という反応にいつもよく気をつけている反応パターンを養い、苦を生む悪しき執着の反応となったらすぐに気づいてそれを制する反応パターンを養う」ということになるかと思います。これはおかしな日本語ですが、なかなか工夫しても、言葉として矛盾を払拭しきるのは難しい。言葉は、<先に主語が存在して、それが述語する>という実体論的構造を宿しているので、無常=無我=縁起に徹しつつ矛盾のない言葉を紡ぐのはほとんど不可能のように思えます。努力・精進も、縁による automatic な反応であり、無常=無我=縁起と矛盾しないと考えますが、自然な言葉でそれを表現するのは困難です。

 少し話がそれました。

 『ゴータマ・ブッダ考』では、nirodha という言葉そのものからの検討はおこなわれていません。「煩悩の滅」がどのような言葉で表現されているかに着目し、3種類に分けています。小論に要約したとおりですが、次の3つです。
1)抑止・制御・遮断による滅
2)煩悩を分離することによる滅
3)煩悩からの離脱・超越による滅
 そこからさらに、著者・並川さんは、「煩悩は覆われるものか、覆うものか」、「内か、外か」という視点を提起し、経典の最古層・古層においても、「内にあって覆われるもの」に分類される例は、「外にあって覆うもの」とする例より少ないとしながらも、「両者の違いはその後の仏教思想の基本的構造を決定づける重要な分岐点だ」という趣旨を主張しておられます。(同書P90)

 Libraさんのお考えである「せき止める、制止する」は、勿論、煩悩を内にあって覆われるべきものとして捉える方に分類されています。並川さんのお考えも、明言はされていませんが、「内にあってしっかりと覆われるべきもの」と捉えるのが本来の仏教だ、と考えておられるように行間からは感じられます。

 私は、「外にあって覆うもの」とするのは梵我一如系であり、反仏教である、と考えます。当然、「煩悩は内にあって覆われるべきもの」派です。
 ただ、もう少し拘って言うと、私は煩悩をさらに拡大解釈して、内でも外でもなく、そのつどの煩悩そのものが私だ、と思っています。
 煩悩の定義の問題なのかもしれません。座禅をしていると、後から思い出すこともできない下らない物思いも、仕事の反省や計画立案も、仏教理論の検討も、すべて煩悩です。であるなら、生活のすべては結局煩悩なのではないでしょうか。ゴミだしや買い物など一日の段取りを考えることも、ビルマの状況を心配して何ができるかと悩むことも、こうして煩悩について考えることも、みんな煩悩だと思っています。「私」とは脈絡のない煩悩の連なり。その中に、立派な自分があると前提して怒ったり妬んだり恨んだり思い上がったり自己嫌悪したりして苦を撒き散らす執着の反応がある。執着⊂煩悩のように考えています。執着の反応を制しようとするのも煩悩です。煩悩を整えて、執着の反応が静まるような煩悩となっていくのが仏教かと・・・。

 ひとりよがりな自問自答を書きつらねました。Libraさんの問題意識と交わっていなかったら、すみません。

 またご意見・ご批判頂戴できれば幸甚です。

                             敬具
Libra様
      2007,9,29,              曽我逸郎
 

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