nagareさん 小論《凡夫が仏になるには…法華経を再読して》の感想 2007,8,17,

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前略
《凡夫が仏になるには…法華経を再読して》を拝読させて頂きました。
凡夫の位置を超人的な仏の位置に高めたのは、失敗というお考えよく解りました。
しかし、逆に超人的な仏を下げて行うには他宗教との関係性の中では、その方法をとれなかったのではないかと考えます。
恐らく、ヒンドゥ教などとの対比の中で人々への布教を考えた場合、どちらが魅力的なのか、当時では曽我様の方法をとる事はできなかったのではないかと‥。
それを含め法華経は中国、日本と多くの人に愛読され、仏教への大いなる縁になっている事実もあります。

(1)  人無我が希薄
(2)  久遠仏
問題点 3  凡夫の自覚が希薄になるのでは?
問題点 4  感官の喜びに無警戒

納得できるお話でした。
ただ、法華経について弁護するならば、大乗精神である利他を中心にまとめられた結果ではなかったかと考えます。
当時の常識(単なる妄想だったとしても)を無視する事なく、布教を第一義に考えた末の結典だったと感じるのです。

更に、一つ「感官の喜びに無警戒」については、少々別な思いがあります。
世俗的な価値観を比喩として身近な化城を建てる事すらも仏道に向かわしめる知恵と考えてもよいのではないでしょうか。
さらには、この大乗教典には、まさに大乗の根本として、利他行為の中に真実のニルヴァーナがあることを伝えていると考えます。
この思想はあきらかに、上座部の方向性とは反対でしょう。
まず自らがニルヴァーナを得、その後他に施すと考える方向と、自らのニルヴァーナをまず他者への救済の行為の中に見いだすものの違いではないでしょうか。

それが、
「生あるものたちを安穏にさせんがために、この世に現れたのである。
 なんじ、舎利弗よ、わたくしのこの真実であることを示す法の実相の印は、世界に利益をあたえようと、欲するためのゆえに説くのである。」
この宣言につながるのだと考えます。
そして、この釈迦の精神を受け継ぐものが、釈迦の認めるニルヴァーナを得た菩薩であると‥。

nagareより

 

曽我から nagareさんへ  2007,9,14,

拝啓

 メール頂戴しながら、返事が遅くなり、申し訳ありません。ちょっとばたばたしております。

 法華経について、成立した当時の時代状況を背負っているというご指摘、また、後の「仏教」の拡大に大きな役割を果たしたということ、私もまったく同意します。  なにごともすべては縁起の現象なのですから、法華経とて、過去のいきさつや時代の状況によって生み出されており、時代背景の反映であることは当然のことだと思います。そして、法華経が、その後、特に東アジアにおいて大きな縁となったことも歴史上の事実です。

 それらは当然の前提とした上で、釈尊の教えを私なりに解釈する視点から、法華経の説くところを批判的に読んでみたのが、あの小論です。

 法華経も、釈尊に発する「仏教」の歴史・展開の中にありますから、当然釈尊の教えを引き継いでいる部分もあり、また同時に、歴史的展開の過程で、釈尊以外の縁も受けた結果、釈尊の教えにそぐわない要素も含んでいます。そのそぐわないと思う部分を列挙しました。

 もっとも、そぐわない、とか、そぐう?とか言っている私自身が、法華経以上にはるか遠く釈尊から隔たり、釈尊以外の縁を膨大に受けている訳ですから、偉そうなことは言えないのかもしれません。私にとってあの小論は、けして法華経を否定するつもりではなく、釈尊の教えの私なりの解釈と法華経とを向き合わせ、その間で光を反射させることによって、釈尊の教えをよりくっきりした陰影で見ようとする試みです。

****
 一点、利他行について、やっぱり批判的になってしまうかもしれませんが、書き添えておきます。「法華経の利他行は必ずこうだ」と言うつもりではなく、「法華経の説くところが変に展開すると、利他行もこういう傾向を持ってしまう可能性がある」という指摘に過ぎません。ちゃんとした利他行を実践しておられる方も大勢おられるでしょうが、以下のような可能性もあり、また一部現実にあったのではないかと思います。

 小論で書いたとおり、法華経は、「法華経を奉ずる者は、過去生において既に無量の功徳を積んでおり、やがて仏となることが決定している」と説いています。それを受けて、「自分も菩薩にふさわしい行いをしなければいけない」と身をを正す人がほとんどでしょう。しかし、一部の人は曲解して慢心し、自分が本質的に執着の反応である、という認識が希薄になってしまうという可能性もあるのではないでしょうか。ありがちなケースを想像すれば、「私は行いを正している、人々のために働いている」と慢心する場合が、少なからずありそうです。本当は、「自分はいつも自分に都合のいいように無自覚自動的に反応している」と認識し、「ちょっと気を抜くとすぐそうなる」と警戒し、いつも自分という反応の反応の仕方に気をつけていなければいけない(戒)のですが・・・。そういう警戒心が不足したまま、利他行に励めば、ひとりよがりで押しつけがましい、反省のない「善行」が暴走する可能性があります。利他行は、執着心を満足させ自己肯定に酔わせる甘美な阿片ともなり得ます。ブッシュ政権の「民主主義」を「布教」する戦争のように。

 全然勉強できていないのに印象だけでこんなことを書くのは冒険ですが、アジアを欧米列強から「解放」するためだとする戦争正当化の理屈付けの種として、法華思想は利用されたような気がします。法華経信者が戦争を引き起こしたとは言いませんが、法華経信者の「利他」の思想が、悪用されていった。そして実際に行われたのは、解放よりも蹂躙でした。執着に悪用され得るような弱点が、法華経の利他の思想にはあるのではないかと感じます。

****
 もう一点。自分が先か、衆生が先か、という問いは、意味のない問いだと思います。「仏教」内部の勢力争い、イデオロギー闘争の政治的争点にすぎない。どちらかを先にして、もう片方を後回しにしなければならないという設定が、そもそもおかしいと思います。それぞれの凡夫が、釈尊の教えとはどういうことか、自分という執着の反応にどうよいパターンを形成していくか、苦の生産をいかに抑えるか、声を掛け合い、教えあい、批判しあい、導きあって、それぞれがともに進んでいく他ありません。そして、事実これまでいつもそのようにされてきたと思います。利他行を主張している人たちにしても、実際はそうではないでしょうか?

 またご意見お聞かせください。
                                  敬具
nagare様
        2007,9,14,                曽我逸郎
 

 

nagareさんから  2007,9,15,

拝啓

お忙しい中ご返事を頂きありがとうございます。とり急ぎ返信させていただきます。
  小論の主旨再度確認し、問題提起の意味を再認識して、更に納得しております。他意はありません。

--------少々、今の私が反応します。-------

>一部の人は曲解して慢心し、自分が本質的に執着の反応である、という認識が希薄になってしまうという可能性もあるのではないでしょうか。
曽我様のご指摘どおり、法華経の意図を曲解して政治などに利用される事はあり得るのではないかと思います。またそうした歴史を見いだせるかもしれません。
法華経の内容に感動するだけでなく、それをドグマにしてしまうと、そこにはやはり何らかの弊害が出てくるようにも思います。法華経を中心とした信仰も多く、気をつけていかなければならないのかもしれません。

但し、利他行が果して押し付けなどで成立するかもしれないとのお考えには疑問が残ります。
利他行というものを行為としての側面で考えるのであれば、それも成り立つのでしょうが‥。
やはり、利他行を結果として成り立たせるものは、慈悲であるといえるのではないでしょうか。
なぜなら、本人の思い込みで押し付けに過ぎないものは、やはり結果として他者の救いには成らず、利他行として成立しないのではないかと思うのです。

話は少し変わりますが、曽我様は地方の行政に携わっていると知りました。
仏道修行とは、果して出家し世間と隔絶した場所でしか、行えないものとお考えでしょうか。
私には、曽我様の営みがまさに利他行として行われているのではと想像しております。
世相を感じ、人々の為に慈悲の政治を行っていく、これもまた菩薩道と捉える事ができるのではと思っているからです。

>もう一点。自分が先か、衆生が先か、という問いは、意味のない問いだと思います。「仏教」内部の勢力争い、イデオロギー闘争の政治的争点にすぎない。
この点は、意見を異にすることになるかもしれません。
具体的に「仏教」内部の勢力争い、イデオロギー闘争の政治的争点というのが、どういう事象をさして言われているのかがハッキリしないので、確かな事は言えないのですが、もし大乗仏教運動の興隆という点をいわれているのであれば、少々こうした近年語られてきた仏教史にも疑問を持っています。
大衆部仏教VS上座部仏教=在家信徒VS出家僧という図式自体が、一面的な上卿分析の安易な推論ではないかと思っています。
大乗教典は仏教の教義に疎かった大衆が作り上げた仏教物語というよりむしろ、仏教の教義に通達した専門家が利他行を怠ってきた自己反省によって生み出されてきたものではないか、そしてその反省から知恵を絞って当時の大衆に釈迦の教えを解りやすい比喩を用いて伝える為に結集された経典だったのではないか と思えるからです。

なぜなら法華経に限らず、大乗仏典の中に原始仏典と称される経典の中にも見られる思想には多くの高度な理論が一貫してあると見られる部分(無常=無我=縁起など)が数多くあるからです。翻って見ると原始仏教を今日に伝える上座仏教ですら、部派仏教の時代を経てきたように、現在のアビダルマを形成するまでに多くの所見が生まれたようにも見受けられます。(法有など)

釈迦在世の教えが正しく受け疲れているのがどれであるか今となっては何も断定的な事はなにも言えなくなっていますが、無常=無我=縁起という流れを中心に考察されている曽我様のお考えには、大変共感しております。(ただ「名色」自体の滅は曽我様はどうお考えなのでしょうか。)

>どちらかを先にして、もう片方を後回しにしなければならないという設定が、そもそもおかしいと思います。それぞれの凡夫が、釈尊の教えとはどういうことか、自分という執着の反応にどうよいパターンを形成していくか、苦の生産をいかに抑えるか、
自分という執着の反応にどうよいパターンを形成するのか、まさにこの方法論ではないでしょうか。恐らく、苦を生みださない方向を小さな個の内面に向かうと、社会や文化から離れる傾向に、最終的には本当の意味での出家をする。そして逆に外に向かうと他者への慈悲により小さな個を破り菩薩の方向へ多いに社会に関わっていく。大乗の小我から大我という表現も結局はそこにあるのでは‥。
>声を掛け合い、教えあい、批判しあい、導きあって、それぞれがともに進んでいく他ありません。そして、事実これまでいつもそのようにされてきたと思います。利他行を主張している人たちにしても、実際はそうではないでしょうか?
釈迦の布教はどう位置づけられるのでしょうか、または弟子たちへ布教を奨励した釈迦の教えはどのように位置づけられておられるのかが疑問です。釈迦の教えが無い所で釈迦は教えを説きました。またその弟子たちもです。仏門に入ったもの同志仲良くそして厳しく釈迦の教えを学びましょうというのが、釈迦や弟子たちが行ってきた利他行なのでしょうか?
現在の私たちには想像もできない弛まない利他の実践があったのではないかと想像します。
またそうした精神を仏教に復興することを法華経は語っているように感じています。

しかしながら、もしかすると曽我様が本来仰りたい事は、両輪が回るが如く進まなければ、両方が完了しないと言う事なのではないかとも想像します。
もしそうであれば、二乗(声聞、縁覚)も三乗(+菩薩)も一乗(仏)に帰するということがまさに法華経の主題ではなかったのかと考えています。

                                                          敬具
曽我逸郎様
                   nagare
        2007,9,15,

 

曽我から nagareさんへ  2007,9,17,

前略

 メールありがとうございます。何点か、思うところを書きます。

> やはり、利他行を結果として成り立たせるものは、慈悲であるといえるのではないでしょうか。
> なぜなら、本人の思い込みで押し付けに過ぎないものは、やはり結果として他者の救いには成らず、利他行として成立しないのではないかと思うのです。
 本当の利他行は、慈悲に根ざすものであろうことは、私もまったく同感です。問題は、本人は利他行のつもりでいながら、実は慈悲ではなく執着に根ざす「利他行」があるのではないか、ということです。本人は慈悲のつもりで高揚しているのですから、自分ではなかなか間違いに気づけない。こういった「利他行」によって、おびただしい苦が撒き散らされることになります。
 人間とは執着の反応である。そのことをしっかりと認識しないまま、利他行を鼓舞すれば、執着心による「利他行」が暴走する危険があるのではないか、と危惧します。
> 仏道修行とは、果して出家し世間と隔絶した場所でしか、行えないものとお考えでしょうか。
 凡夫とは、縁によって起動される執着の反応です。それに止まらず、反応は反応を呼び、反響し共鳴し増幅する。だから、次々と様々な縁の押し寄せる状況では、暴風雨の海のような状態になります。とても自分を観察できる状態ではない。ですから、なるべく静かな刺激の少ない環境のほうが、自分において無常=無我=縁起を確かめるには都合がいいと思います。といって、なかなかそう簡単に出家できるものでもありません。また、今どきは出家しても出家者の世間があって、それなりのうるさい雑事が自己観察の邪魔をするでしょう。
 ですから、可能なことは、日々雑事にまみれながらも、早朝とか夜とか、片付けた部屋とか、時間と場所を工夫して、刺激の少ない状況をつくり、反応を鎮めて観察可能にし、よく観察するしかないだろうと思います。(私もこのところできていないので、自戒です。)
> 私には、曽我様の営みがまさに利他行として行われているのではと想像しております
> 世相を感じ、人々の為に慈悲の政治を行っていく、これもまた菩薩道と捉える事ができるのではと思っているからです。
 村長選にでることになった時は、世の中のことや人のことを学び、様々な状況下で自分を観察しコントロールする修行でもあるという考えも若干はありました。しかし、村民の福祉・利益を向上させることは、仕事であって、利他行をしているとは感じません。

 頂いたメールの後半は、ちょっとよくご趣旨が分かりませんでした。というより、おそらく先の私のメールが、不明瞭だったのだと思います。直接の返事ではなく、こういうことかなという目星で、思うところを書いてみます。的外れならご容赦ください。

 大乗仏教が興隆してきた背景には、当時の部派仏教が、教団の中に閉じこもり、一般の民衆とは、布施を上納させる以上の関係をあまり持たずに隔絶し、その上、自分たち出家修行者だけがようやく阿羅漢になれ、在家者は、仏どころか阿羅漢にもなれないとし、一般民衆の願うところに答えられなくなっていた、という状況があったのではないかと想像します。

 それに対して、大乗は、部派の出家者よりも大乗の菩薩の方が上だと主張し、仏にもなれる、と考えました。そして、部派との違いを際立たせるために、釈尊の慈悲の教えを発展させ、利他行を説いたと想像します。その考え方は、おそらく、当時経済的に力をつけ社会的にも自信を持った新興層に支持されたのでしょう。

 しかし、大乗の考えは、歪になった部派仏教の否定・反転であったために、歪を裏返しに写し取ってしまったのではないでしょうか。「法華経に触れ得たものは皆、過去生で既に無量の功徳を積み、仏となることが決定した菩薩である」という主張は、その典型のように思います。

 では、釈尊はどう考えておられたのでしょうか?

 仏になれるかどうか、という点については、一人でも多くの凡夫を仏にしようと考えておられたに違いありません。つまり、凡夫も仏になれるのです。凡夫を仏にするために、無常や無我や縁起といった理論だけではなく、八正道や三学といった実践的カリキュラムまで、工夫を凝らして残してくださいました。

 (但し、誰でも皆必ず仏になれる、とは考えておられなかったような気がします。無常=無我=縁起は、自然に培われたものの見方、「何かがまずあってそれがどうこうする、どうにかなる」という見方とはまったく異なる見方であり、おいそれとは了解できません。それを了解して仏になるためには、縁を得て、正しい見解を得ることから始める八正道が必要です。
 そして、仏とはどういうことかというと、けして超能力があることなどではなく、無常=無我=縁起が自分のこととして納得されたことによって、執着の反応パターンが力を失った状態のことであり、苦を作らず、執着が衰えた分、慈悲の反応パターンがのびのびと働き出すありかただと考えます。)

 次に、出家については、出家したほうがはるかに修行に集中できる、という理由で、奨励しておられたと考えます。しかし、だからといって、在家を切り捨てておられたわけではありません。王族にも遊女にも連続殺人犯にも教えを説いておられます。在家でも、修行の成果は上がりにくいが、仏となることは不可能ではない、と考えておられたと思います。
 しかし、あるいは、ひょっとして、在家に熱心に教えを説かれたのは、出家に誘うためだったのか? やはり、出家して修行に集中することが必要なのでしょうか? 無常=無我=縁起を自分のこととして納得することの困難さを思うと、一生か数年かもっと短くてもいいのか分かりませんが、他の事を打ち捨てて没頭することが必要かもしれません。
 今の私にはなんとも言えません。ただ、出家と在家との違いは、修行第一の生活を宣言するかどうか、集中の度合いの違いだけであって、それ以上の本質的な違いはないと思います。出家者は特別な戒を受けると言っても、グループ構成員が集中して修行に取り組める状態を保つためのルールではないでしょうか。
 出家者にも出家した先の世間があり雑事があります。出家さえすれば、修行に励める訳ではない。釈尊のもとに出家できるならともかく、現代において、ちゃんとした出家先はどこか、ちゃんとした師は誰か? 選び損なえば大変なことになります。
 在家であれ、与えられた環境の中で工夫してできることに精進することが大事かと思います。それしかありません。そして、いつか、ここならば、という場所が見つかって、自分も没頭できる状況にあれば、出家するのもいいことかもしれません。

 利他行については、例えば、療養所を建てたり、井戸を掘ったり、そうしたやり方で個別の苦を対症療法的に解決しようとすることは、釈尊はなさらなかったと思います。個別対症療法的苦の解決を否定するつもりはありませんが、第一義的には、そういった不満を解消してあげることは、釈尊の利他行ではなかった。私の見た経典はほんの少しですから、他のところにそういう事跡の記述があるかもしれませんが・・。
 釈尊の利他行は、利他行というより慈悲といった方がおさまりがいいので、慈悲と言い換えますが、釈尊の慈悲は、苦を作って苦しんでいる人に、苦の原因は執着であり、執着を鎮めて苦を止める方法を教えられたことに尽きると思います。倦むことなく、工夫を重ね、繰り返し、苦の解決を模索する者には誰にでも、バラモンの徒であれ、他の師を奉ずる者であれ、在家の者であれ、教えを説かれました。
 われわれにおいても、利他行は、まず第一に、釈尊の教えを問いかけあい、互いの理解を批判しあい、教えあい、深め合って、一人でも多くの人が、それぞれに自分の執着を見つめ、無常=無我=縁起を自分のこととして納得できるようになり、その結果、世を覆う苦が少しでも減るように努めることだと思います。その相手は、出家者であろうと、在家であろうと、何宗であろうと、何教徒であろうと関係ありません。この利他行は、教え、問いかけることであり、同時に、教えられ、問いかけられることでもあります。利他行は、利自行でもある。
 まず自分が仏になるとか、先に人を救うとか、意味のない問題設定です。互いによい縁を与え合い、よい縁をもらいあって、それぞれに自分の執着と向き合い、その原因を突き止め、苦を作らないようになることが重要かと思います。

                               草々
nagare様
        2007,9,17,             曽我逸郎
 

 

nagareさんから  2007,9,18,

前略

  再度ご返事ありがとうございます。
  曽我様とメールのやり取りをしながら、私は次の事を思い知らされます。
  それは、法華経の成立の背景を読み取ったり、その思想を分析してみても、
  やはり過去の事は全て私の抱く妄想に過ぎないということです。
  同様に曽我様の法華経観も曽我様のお考えからみた法華経であり、その面を理解して使うものでしかない。
  これも一つの妄想とも言えるのでしょう。
  しかしながら、いかなる妄想でも同じ訳ではない。より苦の連鎖を引き起こさないという視点から
  良い妄想、悪い妄想があると考えてもいいかもしれません。   その意味でもう少し法華経について私の妄想を述べてみたいと思
います。

> >問題は、本人は利他行のつもりでいながら、実は慈悲ではなく執着に根ざす「利他行」があるのではないか、ということです。
<発心が真実でないにしても>

縁起によって、行は作られます。利自行であろうと、利他行であろうとです。
自らが成仏しようという発想の動機は、凡夫である以上、所詮、成仏への執着から始められるものです。
利他行だとしても、動機などはどうのようなものであっても、現実に行がおこるのであれば、問題ではありません。
煩悩即菩提という大乗の理論から言えば、まさに執着をいかに利用して瞬間瞬間起こり続く意識を無我の境地へと縁起をおこしていくかが問題となるからです。
慈悲も所詮は他の命への執着といえば、執着なのです。

動機などというものは、所詮次の瞬間には唯過去の妄想となるものにすぎません。
しかし、過去(過去世の話ではありません)から継続する因果を、私たちは自由にはできないのです。
生まれた時から決定された遺伝子を変えずに引きずりながら、本能と呼ばれてきた生存欲を引きずりながら、過去に経験した様々な思いをひきずりなら、私たちは生きているのです。
どんなにあがいても、人間は人間でしかありません。
煩悩を滅しようとしても生きているならば、やはりいくばくかの煩悩に縛られ続けるのです。
瞑想は煩悩の連鎖を時に断ち切ってはくれますが、瞑想から解かれれば、現実の諸問題がまた縁になり苦の連鎖を始めていくのです。
であれば、執着をどうコントロールし利用していくかが、問題になり、それがなければ自由意思の問題は解決できないのではないかと思います。

> >本人は慈悲のつもりで高揚しているのですから、自分ではなかなか間違いに気づけない。こういった「利他行」によって、おびただしい苦が撒き散らされることになります。
>  人間とは執着の反応である。そのことをしっかりと認識しないまま、利他行を鼓舞すれば、執着心による「利他行」が暴走する危険があるのではないか、と危惧します。
<利他行は修業であり難しい>

利他行は、自分の高揚した慈悲のつもりの意識があろうが無かろうが、もし自分の執着の反応に気がつかず、その認識ができないならば、慢心と傲りが他者に不快感を与えるだけで利他を何も完遂することはできないでしょう。そして、どのようなものであっても、行為としてなされたものは必ず自分に返ってくるものです。
その過程の中で自らの心が見えてこなければ、利他行の実践の意味はなにもないでしょう。
利他行を行えば、必ず利己心との絶え間ない戦いが始まります。
そして、その戦いの実践者が菩薩であり、法華経によれば、釈迦自らが「我本行菩薩道」と言わしめたとされるところだと思われます。
もし、曽我様の言われるような暴走があるならば、それはおよそそのような利他行では誰も釈迦の教えからは苦を除く事はできないでしょう。利他とはまさに他者への抜苦与楽なのですから。
それを利他行と呼ぶことはできないでしょう。
そして、利他行は、かなりの勇気がなくてはできないものです。人間にとって一番の強敵となる苦の連鎖を引き起こす縁は人間だからです。
その人間に多く関わっていく事を強いる利他行にはかなりの決意が必要だと思われます。
法華経では、過去世からの因縁という方便を利用してその勇気を読者に与えることに成功しているように思います。
「私、(釈尊の)ように怖がらずに挑戦するのです弟子たちよ。」と釈迦自らが語る形式をとって利他の実践を進めているのではないでしょうか。

> >今どきは出家しても出家者の世間があって、それなりのうるさい雑事が自己観察の邪魔をするでしょう。
> >出家者にも出家した先の世間があり雑事があります。出家さえすれば、修行に励める訳ではない。釈尊のもとに出家できるならともかく、現代において、ちゃんとした出家先はどこか、ちゃんとした師は誰か? 選び損なえば大変なことになります。
<現代の出家?>(ちょっと脱線)

今の日本の仏教界が出家という無意味な言葉が未だに存在している事が不思議です。出家が、だた職業としての僧侶になると言う意味でしかない今の日本の出家制度などは出家という言葉を使う事が自体がおこがましいとすら思えます。
妻帯を許し、世襲を許し、個人の財産を許し、そんなものが出家と呼べる筈がありません。葬式仏教と化した現在の日本の仏教が大乗仏教とすら呼べるのかどうかそれすらも疑問です。
逆に他文化ではあるが南方系の上座部仏教の出家の方がまだ、釈迦の時代の出家の本来の意味をとどめているように思います。

> >しかし、大乗の考えは、歪になった部派仏教の否定・反転であったために、歪を裏返しに写し取ってしまったのではないでしょうか。「法華経に触れ得たものは皆、過去生で既に無量の功徳を積み、仏となることが決定した菩薩である」という主張は、その典型のように思います。
<法華経の対告衆は二乗の代表舎利弗>

私は逆に部派仏教の完全否定ではなく、部派仏教が本来の釈迦仏教から逸脱していった利己的な修業観をもう一度、釈迦の時代の仏教に戻そうとするルネッサンス運動の様な運動が大乗仏教運動だったのではないかと思っております。「法華経に触れ得たものは皆、過去生で既に無量の功徳を積み、仏となることが決定した菩薩である」との主張も法華経の対告衆が舎利弗を代表とする二乗、つまり部派の代表ともいえる存在にしたことも在家信徒というより、むしろ出家僧侶に向けられた主張だったのではないでしょうか。そう考えると、法華経にあえて、八正道などの基本の教えがあえて取上げられていない意味が解るような気がします。

> >利他行については、例えば、療養所を建てたり、井戸を掘ったり、そうしたやり方で個別の苦を対症療法的に解決しようとすることは、釈尊はなさらなかったと思います。個別対症療法的苦の解決を否定するつもりはありませんが、第一義的には、そういった不満を解消してあげることは、釈尊の利他行ではなかった。私の見た経典はほんの少しですから、他のところにそういう事跡の記述があるかもしれませんが・・。
<利他行とは布教ではないか?>

いわいる慈善事業が利他行であるとは、私も思えません。苦の滅を主張した釈迦がその方向を勧めるとは考えにくい事です。しかし、水争いの仲裁に釈迦が説法したなどの経典もあるようですから、世法を全く無視して、独自の主張をし続けたわけでもないのでしょう。むしろ様々な衆生の苦を一つ一つにも対応しながら釈迦の教えを解りやすく、状況に合わせて伝えていったのではないでしょうか。個別対処療法的苦の解決といえば、原始仏典の多くが個別の一個人に与えられた一つ一つの教えでもあります。

> >釈尊の利他行は、利他行というより慈悲といった方がおさまりがいいので、慈悲と言い換えますが、釈尊の慈悲は、苦を作って苦しんでいる人に、苦の原因は執着であり、執着を鎮めて苦を止める方法を教えられたことに尽きると思います。倦むことなく、工夫を重ね、繰り返し、苦の解決を模索する者には誰にでも、バラモンの徒であれ、他の師を奉ずる者であれ、在家の者であれ、教えを説かれました。
>  われわれにおいても、利他行は、まず第一に、釈尊の教えを問いかけあい、互いの理解を批判しあい、教えあい、深め合って、一人でも多くの人が、それぞれに自分の執着を見つめ、無常=無我=縁起を自分のこととして納得できるようになり、その結果、世を覆う苦が少しでも減るように努めることだと思います。その相手は、出家者であろうと、在家であろうと、何宗であろうと、何教徒であろうと関係ありません。この利他行は、教え、問いかけることであり、同時に、教えられ、問いかけられることでもあります。利他行は、利自行でもある。
全く同感です。慈悲という言葉は簡単ですが、実際には難しい。我を肯定する慢心は常に気をつけていないとすぐに頭をもたげてかみつこうとする蛇のようです。舎利弗ですら目を踏みつけられ理不尽な要求に怒りを覚えると説かれるのです。他の悩みに真摯に耳を傾け、全力でその問題に苦の滅という方向に取り組んでいく事は並大抵の事ではできません。その意味で曽我様の偽経典やこうした問答は広く不特定多数の人が目にする事のできる環境に一石を投じた訳ですから、まさに利他行の実践の一つと考えても言いように思います。

> >まず自分が仏になるとか、先に人を救うとか、意味のない問題設定です。互いによい縁を与え合い、よい縁をもらいあって、それぞれに自分の執着と向き合い、その原因を突き止め、苦を作らないようになることが重要かと思います。
<本来は大乗の精神>

菩薩の請願の一つには、自らが仏になるのを止めて、衆生を先に仏にするというのがあります。
意味云々の問題よりも精神、思いの問題なのでしょう。

                                 草々
曽我逸郎様
nagare

2007,9,18,

 

曽我から nagareさんへ 凡夫最良の利他行 2007,10,6,

前略

 いつもながら遅い返事で申し訳ありません。

 問題がだんだんとくっきりしてきたように感じます。

 釈尊の教えは、世を満たす苦に対する抜本的対策として、無常=無我=縁起を自分のこととして納得し、執着の反応を鎮めることによって、第二の矢を自分にも他の人にも発散しないことを教えるものです。

 この教えを学ぶことができた人は、自分自身第二の矢で苦しむことはないでしょうし、人を苦しめることもないでしょう。しかし、そうなったとしても、周囲の凡夫が凡夫であることによって、すなわち執着の反応であることによって、第二の矢を撒き散らし、自分と人を苦しめていることをどうするのか、という問題は残ります。人を苦しめ、自らも苦しんでいる凡夫に対して、どのような対処ができるのか?

 釈尊には、類まれな人間力・方便力がありました。第二の矢で自分を苦しめていたキサーゴータミーも、人を苦しめていたアングリマーラも、釈尊との出会いによって燃え上がる苦をすぐに鎮められ、その後教えに従って精進することによって平安に達しました。
 釈尊のこの人間力・方便力は、持って生まれた釈尊だけの資質であったのか。それとも、無常=無我=縁起を深く深く納得したことによってもたらされるものなのでしょうか?

 ともかく、釈尊以後のサンガは、中には例外もおられたでしょうが、人間力・方便力を失い、現に苦しんでいる凡夫の苦を鎮めることはできなくなりました。しなくなりました。世の凡夫の苦に背を向けて、自分の無常=無我=縁起を納得することに専念したのです。

 そういうサンガのあり方への不満が、大乗誕生の背景にあったと思います。(とはいえ、現代の大乗「仏教」が、世の凡夫の苦の解消にどれほど取り組んでいるかというと、お寒い限りですが・・・)

 では、世の凡夫の苦に対して、我々はどう向き合うべきか?
 理想は、釈尊のような対応ができることでしょう。しかし、それは不可能です。
 ならば、まずは自分が仏になることを優先して、それを実現した後、世の凡夫に向かうのか。いわゆる「小乗」の考え方でしょうが、それでは今眼前で展開する苦から目をそむけることになる。

 凡夫は凡夫なりに、眼前に展開する苦に立ち向かうべきです。しかし、「自分はautomaticに反応して苦を発する凡夫だ」という自覚・自省が必要です。それがなければ、仏教ではない。ただの凡夫です。

 仏教徒でなくとも、凡夫は凡夫なりに世の矛盾と戦います。凡夫なりに善を行おうとする。100%私利私欲で自覚的に動いている人はめったにいません。欲得でも動くけれど、人のために良かれと思って働きもする。そして、自分では良かれと思ってなすことによって作り出される苦のほうが、欲得による苦よりも実は多いのではないかと思っています。

 唐突ですが、凡夫の代表として、仏教とは縁のない Bob Marley を例にしてみます。(変かもしれませんが、大乗菩薩というと、私は、Bob Marley と Che Guevara の優しくも力強い笑顔を思い浮かべてしまいます。)
 Bob Marley は、歌の中で "Never let the children cry!" と叫んでいます。何か具体的な背景・事件を踏まえているのかもしれませんが、一般化して「子供たちを泣かせるな」というテーゼは、世界中の政治家がこれだけを指針にして個々の判断を行えば、世界はすばらしくなり、すべてがうまくいくに違いない普遍的な判断基準だと思っています。
 しかし、アフリカや貧しい人々に覆いかぶさる圧政、支配、搾取に憤って、Bob Marley が、"Get up! Stand up! Don't give up the fight!"とアジると、危うさに不安も感じてしまいます。自爆「テロ犯」達の最期のビデオメッセージに残された義憤の表情を思い起こしてしまう。

 米国副大統領のチェイニーはひょっとすると100%自覚的に欲得づくで動いているのかもしれませんが、ジョージ・ブッシュは、ひょっとすると自分では本気で、「私の進める世界の「民主化」は神に命じられた崇高なる務めであり、人々を救うことだ」と思っているのかもしれません。凡夫の中で、執着と利他行とは、渾然一体となっています。

 「ミャンマー」のタン・シュエ国家平和発展評議会議長にしても、単に権力欲だけであのような悪逆非道を行っているのではなく、本人の自覚の上では、国家の危機に際して国民のために犠牲的に働いているつもりであろうと想像します。「国家を不安定にして国民生活を危険に陥れる輩に対しては、私が厳正に対処するのだ。どれほど世界の非難を浴びようとも」といった具合に・・・。実のところは権力欲・執着心であることは明瞭ですが、本人はそうは思っていない。想像力が欠如しているのです。

 最近『化城の昭和史』(寺内大吉、毎日新聞社)という本を読みました。日蓮主義者たちが、世の中を正すため、義憤に満ちて自己犠牲の精神で、次々と暗殺・テロに走る様が描かれていました。名誉欲や自己陶酔の思い上がりだったに違いありませんが、本人達においては、純粋に義憤であり自己犠牲であり世直しだったのです。東亜新秩序建設も八紘一宇も、欲得ではなく、亜細亜民衆の為を謳っています。崇高な理想のもと、現実には何が行われたのか・・・。

 自分の執着に善行・利他の化粧カバーを被せておいて、そのことに気づかないのが凡夫です。そういう凡夫に単純に「恐れず勇気を持って利他行に邁進せよ」と奨励すれば、自己陶酔の思い上がりを量産することになりかねません。同時に、その結果の苦も。

 結論として、我々は、利他行に取り組む前に、「私は、不完全であるのに自己肯定に走りすぐに思いあがる凡夫である」という自覚を、まずしっかりと持たねばならないと思います。それとて所詮は凡夫、どれだけ維持できるか分かりませんが、、、。

 ついでに、もう少し思ったところを書きます。

 凡夫の自覚を前提としつつ、現前の世間の苦に対処する方法は、(多数決ではなく)冷静な議論によるところの民主主義ではないかと思います。衆知によって多面的に深く検討することによって、凡夫の不完全性を補うことが可能になる。(一方、多数決は、凡夫である有権者の執着におもねて自動的反応を操るポピュリズムにしばしば陥ります。)
 絶対にいけないのは、暴力です。凡夫は、すぐに思い上がり、自分こそが正しいと思い込む。暴力を手にした凡夫は、考えの深さ・正しさによってではなく、暴力によって反対者を排除し、自分の考えを押しとおそうとする。その結果、考えは偏り、ますます不完全さを増してしまう。米国の「テロ」との戦争、イスラエルのパレスチナ政策、北朝鮮、ビルマの状況などが示すとおりです。(もっと身近にはどうでしょうか?)

 本来の釈尊の教えは、民主主義をも基礎づけるものだと思います。釈尊ご自身、よく考え議論し正しい判断をするように教えておられます。そう考えてくると、利他行は、行動することよりも、考えを表明し批判に耳を傾け議論しあうことのほうが、苦を撒き散らす恐れも少ないし、苦の解決にもかえって効果が大きいのではないでしょうか。行動は、議論の後でも遅くはない。ひとりよがりの行動は、かえって苦を増やしかねない。

 凡夫最良の利他行は、釈尊の教えについても、世俗の問題に関しても、自分の考えを表明し、批判に耳を傾け、議論しあうことではないか、と思い至りました。

 考えるよい刺激・きっかけを頂いたこと、感謝いたします。

                                草々
nagare様
     2007,10,6,                 曽我逸郎
 

 

nagareさんから  2007,10,6,

前略

>  いつもながら遅い返事で申し訳ありません。
いえいえ、お忙しい中のご返事に感謝致します。
>  凡夫は凡夫なりに、眼前に展開する苦に立ち向かうべきです。しかし、「自分はautomaticに反応して苦を発する凡夫だ」という自覚・自省が必要です。それがなければ、仏教ではない。ただの凡夫です。
そう思います。
>  仏教徒でなくとも、凡夫は凡夫なりに世の矛盾と戦います。凡夫なりに善を行おうとする。100%私利私欲で自覚的に動いている人はめったにいません。欲得でも動くけれど、人のために良かれと思って働きもする。そして、自分では良かれと思ってなすことによって作り出される苦のほうが、欲得による苦よりも実は多いのではないかと思っています。
むしろ、仏教徒でない場合の方が多いかもしれませんね。十字軍の遠征にしても正義の戦いだったのです。
>  唐突ですが、凡夫の代表として、仏教とは縁のない Bob Marley を例にしてみます。(変かもしれませんが、大乗菩薩というと、私は、Bob Marley と Che Guevara の優しくも力強い笑顔を思い浮 かべてしまいます。)
        |
         略
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>  結論として、我々は、利他行に取り組む前に、「私は、不完全であるのに自己肯定に走りすぐに思いあがる凡夫である」という自覚を、まずしっかりと持たねばならないと思います。それとて所詮は凡夫、どれだけ維持できるか分かりませんが、、、。
ほぼ同感です。
但し利他と自利を仏教徒以外の行為に考察すると少し、カテゴリーオーバーになっているようにも思います。
一般的に社会運動のスローガンも同様に正義や利他を謳っていると言えるでしょうが、そこまで含めると全ての悲惨、戦争の原因までも正義や利他のせいになってしまうのではないでしょうか。日蓮主義についても、田中智学を始めとする国柱会なるものの思想は法華経理解においては異端な運動で縁起を中心に捉えた仏教からみれば、仏教から逸脱したものですから。似たようなことは阿含経典を宣揚しつつテロ集団化したオウム真理教にもいえることでしょう。宗教にしてもアメリカ民主主義にしてもドクマ化された状態、深い執着の中での眉唾物の正義や利他を本来の利他行為と重ねて考察する事は法華経に生まれた利他の精神という赤子を水に流すようなものなってしまわないでしょうか。
>  ついでに、もう少し思ったところを書きます。

>  凡夫の自覚を前提としつつ、現前の世間の苦に対処する方法は、(多数決ではなく)冷静な議論によるところの民主主義ではないかと思います。衆知によって多面的に深く検討することによって、凡夫の不完全性を補うことが可能になる。(一方、多数決は、凡夫である有権者の執着におもねて自動的反応を操るポピュリズムにしばしば陥ります。)

そして、冷静な論議を行える為には、自らの執着自信と戦う仏教の精神が必要とされるのではないかと考えています。
>  絶対にいけないのは、暴力です。凡夫は、すぐに思い上がり、自分こそが正しいと思い込む。暴力を手にした凡夫は、考えの深さ・正しさによってではなく、暴力によって反対者を排除し、自分の考えを押しとおそうとする。その結果、考えは偏り、ますます不完全さを増してしまう。米国の「テロ」との戦争、イスラエルのパレスチナ政策、北朝鮮、ビルマの状況などが示すとおりです。(もっと身近にはどうでしょうか?)
暴力で全てを解決しようとする事はすべきことではありません。
反面、現代は警察や軍隊などの暴力によって、社会は守られているとも言えます。
社会を構成する一人一人が、自ら抑止できる方向に進まないかぎりは、この世から暴力はなくならないのでしょう。
永遠につきまとうテーマでもあります。
>  本来の釈尊の教えは、民主主義をも基礎づけるものだと思います。釈尊ご自身、よく考え議論し正しい判断をするように教えておられます。そう考えてくると、利他行は、行動することよりも、考えを表明し批判に耳を傾け議論しあうことのほうが、苦を撒き散らす恐れも少ないし、苦の解決にもかえって効果が大きいのではないでしょうか。行動は、議論の後でも遅くはない。ひとりよがりの行動は、かえって苦を増やしかねない。
仏教徒の行動は対話であるともいえます。
ガンジーの「塩の行進」などの行動もありますが、どちらにしても暴力で人は変わらないという思想が大切です。
そして、一人の人に焦点をいつも当てているのが仏教です。
>  凡夫最良の利他行は、釈尊の教えについても、世俗の問題に関しても、自分の考えを表明し、批判に耳を傾け、議論しあうことではないか、と思い至りました。
全く同感です。結論が共感できたこと嬉しく思います。ありがとうございました。

                                 草々
曽我逸郎様
    2007.10.6                         nagare

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