天野聡さん ドゥッカ 執着 2007,7,21,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前略  はじめまして。天野と申します。テーラワーダを数年間学んでいます。曽我さんの小論を面白く読ませていただきました。
ところで、疑問が一つあります。曽我さんはドゥッカを苦しみという意味でのみ捉えておられるようですが、釈尊がおっしゃた意味はそれだけで尽きるのでしょうか?もっともっと広く、不満・苦しいという感覚ももちろん含めて、価値がない・執着に値しない・大切ではない、という意味で使っておられたのではないかと思います。釈尊が、無常=苦=無我(=縁起)とおっしゃるからには、ドゥッカにはそれだけ深い意味が込められているのでは?一切皆苦とは、いかなる現象にも価値がないという釈尊の大胆な言明ではないかと思います。はっきりした根拠はないので、もし違っていれば文献など教えて下されば幸いです。
不尽
天野聡

 

曽我から 天野聡さんへ  2007,7,22,

拝啓

 ドゥッカは単なる苦しみに止まらず、「価値のないこと」ではないか、とのご意見を頂きました。共感します。

 普通、仏教で苦というと、四苦八苦が言われます。正直に申し上げて、私はこれは単なる苦の分類のように感じられて、あまり身につまされません。四門出遊も同様です。それよりも、もうひとつの発心の伝説、「宴の後の夜更け、踊り子や楽器弾きの娘達がだらしなく眠りこけている姿に、屍のようだと思い、宮殿も墳墓のように見えた」という話は、釈尊の気持ちがありありと想像できます。生の無意味さ、むなしさ、くだらなさに鬱々としておられたのだと思います。

 私自身、仏教に首を突っ込んでいった原因は、意味のない生を如何に生きるか、という疑問を解決するためでした。当時の私は、世の中のすべての人は、生のむなしさを心のどこかでうすうす感じながら、それに気づかないふりをし、そこから目をそむけるために、仕事だ、学問だ、ノルマだ、気晴らしだと、お互いに駆り立てあっている。社会は、生のむなしさを隠すための壮大なごまかしである。そんなふうに考えて、仕事や遊びにまぎれている周囲の人々を見下し、その一方で、同様に価値のない生をうろついているだけの自分に腹を立てていました。「あたりまえ・・・般若経」の「町からきた娘」に、そのようなことを言わせましたが、あれは私自身のことで、実際はもっともっとどろどろの深刻な状態でした。

 四苦八苦も、怒りや妬みや恨みや思い上がりや蔑みといった悪い感情も、それから仰っている「生に意味を求めること」も、すべて苦と言っていいのではないかと思います。

 苦には、病や死のように我々が縁起の現象である以上避けられない苦(第一の矢)と、我々が自分で作り出す苦(第二の矢)とがあります。上記の「悪い感情」や「生に意味を求めること」は、第二の矢でありましょう。第二の矢は、無常=無我=縁起を自分のこととして納得することによって、起こらなくすることができる。これが釈尊の教えだと思います。

 文献につきましては、私の手に余ります。専門の学者の先生にお尋ねください。

                                  敬具
天野聡様
      2007,7,22,                   曽我逸郎
 

 

天野聡さんから  2007,7,22,

前略
ご返信ありがとうございます。

おっしゃる通り、無常を自分のこととして納得することで第二の矢から逃れられるというのが仏教だと思います。

私が申し上げたかったのは、苦聖諦の苦とは凡夫の苦しみだけを指すのではないということです。釈尊が悟りの境地から生を観察した結果、生きることにはこれっぽっちも価値がないことを発見され、それを一言でドゥッカと結論づけられたのではないかと思います。

無常を自分のこととして納得することが釈尊の教えであることに異論はありません。しかしそれだけに止まらず、渇愛によって生命が第二の矢から逃れている瞬間は皆無に等しく、ゆえに生は苦であり、空しいものであり、執着を捨てるべきであるということも、無常・無我と並ぶ釈尊の教えの中心だと考えています。

不尽

天野聡

 

曽我から 天野聡さんへ  2007,7,25,

前略

 二通目を頂き、ありがとうございます。

 ざっと一読したときには、戸惑いました。おっしゃっていることは、私の考えと同じように思われ、天野さんの論点がどこにあるのか分からなかったのです。

 じっくりと読み直し、私の考えと違うポイントはここか、と思い当たりました。でも、読みに自信がないので、誤解していたらまたご指摘ください。

 >苦聖諦の苦とは凡夫の苦しみだけを指すのではない
 >釈尊が悟りの境地から生を観察した結果、生きることにはこれっぽっちも価値がないことを発見され、それを一言でドゥッカと結論づけられた

 上記から推察すると、天野さんは、成道後の釈尊も凡夫と同様に生の無価値に苦しんでおられた、と考えておられるのでしょうか?

 もしそうなら、私の考えは異なります。生の無価値に苦しむのは、「自分の生にはなんらかの意味・価値がある筈だ、あって欲しい」という願望が背景にあるのではないでしょうか。無常=無我=縁起が自分のこととして納得できたとき、つまり、「私とはそのつどの縁によって起こされるそのつどの現象であって、持続的な存在ではない」と腑に落ちた時、意味・価値へ願望は霧消します。意味・価値の束縛から解放されます。生が意味・価値をもち得ないだけではなく、自分をいくら守り育てようとしても(執着しても)、そんなことはできないと分かり、できないことに懸命になっていた愚かさ・馬鹿馬鹿しさに気づきます。その結果、自分を守り育てようとする反応(我執)によって自動的に怒ったり悔しがったり妬んだり思い上がったりするといったもろもろの悪い反応が起こらなくなります。無用に苦を作ることがなくなります。

 生の無価値に苦しむことは、第二の矢であり、無常=無我=縁起を納得することによって我執が枯れれば、滅せられると思います。

 >執着を捨てるべきであるということも、無常・無我と並ぶ釈尊の教えの中心

 どんなに執着を捨てようと力んでも、そういう努力では執着はなくせない、と思います。おそらくしばしば言われるように、「執着を捨てることに執着する」といった結果にしかならないでしょう。

 戒は執着をなくすことではないのか、とおっしゃるかもしれません。確かに釈尊は戒を説かれました。しかし、戒は、自分という反応に気をつけ、苦の生産を途中段階で止めて完成させず、自分という反応の荒々しさをなだめることであって、無常=無我=縁起を納得するための準備であり、直接に執着の根絶を目指すものではない、と思います。

 執着をなくすべく努めるのではなく、自分自身において無常=無我=縁起を観察し、「ああ、なるほど、私はそのつどの縁によって起こされているそのつどの現象だ。自分への執着は、執着できないものへの執着だ。なんと愚かであったことか」と気づく。それによって、執着の反応が枯渇する。そういうことではないかと思います。執着が枯れることは、無常=無我=縁起を納得できた結果であり、両者は別々の教えではなく、一続き一体です。

 凡夫の苦は、仏にはないと思います。そうでなければ、一体なんの仏でしょう? 仏にとって、生の無意味・無価値はあたりまえのことだと思います。そんなことは、もはや問題ではありません。そんなことに仏は苦しみません。かえって解放だと思います。

 どうも価値や意味のことになると、少し主観的になってしまいます。経典などに基づかない主張で、申し訳ありません。

 またご意見お聞かせください。
                                 草々
天野聡様
       2007,7,25,                   曽我逸郎
 

 

天野聡さんから 「執着を捨てるべき」 2007,7,25,

前略  丁寧なお答えありがとうございます。

仏陀が生の無価値に苦しんでおられたかもしれないとは、いかに愚かな私でも微塵も考えません。渇愛を滅した覚者には、こころの悩み苦しみは存在しない、と仏教で言われていることは一応知っています。
というわけで、「もしそうなら、私の考えは異なります。」以下の文の内容は、私の考えと異なりません。

ただ、「執着を捨てるべきであるということも、無常・無我と並ぶ云々」という引用は、明らかに誤解です。苦(ドゥッカ)も無常・無我と並ぶ釈尊の教えの核心だと申し上げたかったのです。
また、執着を捨てる方法は力むこと、とも申し上げていません。
執着を根絶するには自己を観察するしかないと考えています。
曽我さんは、無常=縁起を観察するとおっしゃいますが、その思考も解脱には邪魔になるのではないでしょうか。

不一
天野聡

曽我逸郎様

 

曽我から 天野聡さんへ  解脱? 思考は邪魔?  2007,7,26,

前略

 だんだんと考えの同じ部分が多いことが判明してきました。

 今回頂いたメールでは、最後の一文が二つの点で気になります。

 >その思考も解脱には邪魔になるのではないでしょうか

 まず、解脱という言葉。この言葉は、なにか本質的なものを前提し、それがよくない場所から抜け出すという考えを含意しています。従って、本質的なもの、すなわち実体的な「我」を連想させる反仏教的な言葉だと思います。勿論、天野さんはそういうつもりでお使いになったのではないと思いますが、そういう危険性を内包した言葉として警戒し、使うべきではないと思います。

 もう一点は、思考は邪魔だと否定するのは、梵我一如系の「余計なことをせず、ありのままでおれば、本来の梵が働き出す」という考えではないでしょうか。大乗の中にも、無念無想など思考の否定がしばしば見られます。

 八正道の第一は、正見、正しい見解です。正見の縁は、他からの声(言葉によって人から教えられること)と正しい思惟です。まずはじめに、言葉によって正しい見解を学ばねばなりません。それなくしていきなり自己観察に励めば、人は、何でも経験したいこと、大抵は我執を満足させる梵我一如的な体験を実現し、我執をますます強固にする結果に終わります。

 「それでは、友よ、正見が起こるためには、どれだけの縁がありましょうか」
 「友よ、正見が起こるためには二の縁があります。すなわち、他からの声、および正しい思惟です。友よ、正見が起こるためにはこれら二の縁があります」 中部第43大有明経(片山一良訳 大蔵出版)

 釈尊が発見された無常=無我=縁起を、言葉によって学び思惟し、自分を観察することによって確認し、納得し、その結果、執着し得ない自分に執着して自他を無益に苦しめてきた愚かさを痛感し、執着による苦の生産が停止する。それが仏教だと思います。

 ご意見お聞かせください。
                                  草々
天野聡様
      2007,7,26,                    曽我逸郎
 

 

天野聡さんから 「思考を超える」 2007,7,28,

前略
勉強になります。

解脱とは、ヒンドゥー教においては個我が真我と一体化することを意味するようですが、釈尊は「煩悩から自由になること、自我意識は幻覚であると知ること、主観的な知の次元を超えること」などの意味で堂々と使っておられます。
解脱(mokkha)が反仏教的な言葉だという御意見を持つことは曽我さんの自由ですが、私には受け入れられません。

 〉思考は邪魔だと否定するのは、梵我一如系の「余計なことをせず、ありのままでおれば、本来の梵が働き出す」という考えではないでしょうか。

釈尊によれば、生命はその構造上、情報を誤認・誤解するようになっていて、世界をありのままに認識することはできないそうです。
このような主観・自分の都合による情報の捏造を乗り越えて、『ありのままに見た時、世界はどう見られるのか』ということを説いたものが仏教だそうです(A .スマナサーラ「パパンチャ 〜ヴィパッサナーで破るもの」23頁)。

そして、情報の捏造という問題を乗り越えるための方法として、考えることを止めること、思考を停止することが説かれています。考えずに、現象をありのままに見ることによって、今まであった幻覚の世界が跡形もなく崩れ落ちるのだそうです。
これは言うだけなら簡単ですが、いざ実践しようとするととてつもなく難しいことはよくご存知でしょう。
無常=縁起を見てやろうと期待して自己を観察しても、概念や思考が回転して観察を邪魔する可能性が高いのではないですか。
知識人であればあるほど、思考に対する執着を捨てるプロセスは大変な困難を伴うであろうと推測します。インテリでなくて助かりました。

強調しますが、釈尊は決して思考を否定されているわけではありません。「一切の思考に対する“執着”を完全に捨てなさい」と戒めておられるのであって、「一切の思考は正しくない、否定すべきものである」などの極論は述べられていません。仏教について考察することなどは、善思考として推奨しておられるのです。
しかし、たとえ善思考であっても、あまりにも考え過ぎると解脱の妨げになるそうです(前掲書33頁)。

不一
天野聡

曽我逸郎様

 

曽我から 天野聡さんへ    2007,8,4,

前略

 お返事遅くなり、申し訳ありません。

 う〜ん、正直ちょっとがっかりしております。思考を停止してありのままに見る、ですか・・・。一部大乗の「無念無想で真如を見る」と同じではないでしょうか?

 実際のところは、我々はほとんど同じようなことを考えているのかもしれませんが、言い表し方、考え方に微妙な違いがあり、この違いはやがて大きなものに発展して、正反対の立場に行き着く可能性を宿しているように感じます。時代を経るに従って、「仏教」が反仏教になっていったように。ですので、微妙な違いにこだわって考えてみたいと思います。また水掛け論に陥るかもしれませんが・・・。

 まず、解脱について。

 > 解脱とは、ヒンドゥー教においては・・・ですが、釈尊は・・・堂々と使っておられます。

 先のメールで私が解脱という言葉を問題視したのは、正直に申し上げますと、mokkha という原語(?)までは遡らず、「解脱」という漢語の意味からの反応でした。「なにか存在するものがあって、それが悪い場所から抜け出す。環境は変わるけれど、存在するもの自体に変化はなく持続している。」そういう実体論的ニュアンスが、「解脱」という漢語には含意されていると考えます。
 可能性とすれば、mokkha にはそんなニュアンスはないのに、「解脱」という漢訳によってそんな意味が混ざりこんだのかもしれません。そう思ってあらためて mokkha を調べてみたら、release, freedom from とか deliverance, salvation といった訳語がでてきました。どうやらもともとの mokkha にも、「解脱」と同様のニュアンスがあるようです。

 では、釈尊は、「何か存在するものあって、それが悪い状況を抜け出して解放される」というような考え方を持っておられたのでしょうか。
 パーリ経典には、mokkha があちこちで登場するのでしょう。しかし、だからといって、「釈尊が堂々と使っておられ」たかどうかは分かりません。釈尊の当時から経典が文字にされるまでには500年近い隔たりがあります。文字にされてからも付け加えがあったり、散逸があったりしました。悪意をもって捻じ曲げられたとは思いませんが、今に至る2500年の間、引き継がれていく中で、例えば誰かが親切に分かりやすい(少しだけ注意深さに欠ける)解説をつけ、やがてそれが釈尊ご自身の言葉の一部としてとらえられていった、というようなことは十分あったと思います。そうした親切な伝承者は、はたして正しく完璧に釈尊のお考えを共有できていたのか? 伝統的に有力であるヴェーダ的発想から完全に無縁であったのか?
 mokkha という言葉が、仏教だけのものではなく、インドの伝統思想でも使われることは天野さんも書いておられます。私は、mokkha はもともとはヴェーダの用語であったのではないか、と思います。mokkha の実体論的ニュアンスは、梵我一如思想と親和性が高い、と感じるからです。無常=無我=縁起を説かれた釈尊が、「何か私の核心部分があって、それがよくない場所・状況からよい場所・状況へ移動する」というような考えを持っておられたとは考えられません。天野さん、あるいはテーラワーダは、そのようにお考えなのでしょうか?
 mokkha は、釈尊の無常=無我=縁起という教えと相容れない言葉であり、釈尊は使っておられなかったけれど、釈尊の本意をきちんと引き継げないままインド古来の伝統思想を引き摺った後の時代の弟子が呼び込んでしまった言葉だと思います。

 > “執着”を完全に捨てなさい」と戒めておられる

 前のメールにも書きましたが、執着が萎えしぼむのは、無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得できたことにより、執着の愚かしさが痛感された結果です。無常=無我=縁起を納得して執着の因であるところの「守り育てるべき立派な自分がある」という思い込みを解消しないままに、「執着を捨てよう」といくら努めても、空回りに終わり、「執着を捨てることに執着する」ことにしかなりません。いくら果を摘み取っても、因は健在で果を生じ続けるからです。執着は、「守り育てるべき立派な自分がある」という思い込みから発しているのですから、無常=無我=縁起によって原因であるところの思い込みを霧消してしまわぬ限り、際限なく生じ続け、その状態でいくら努力しても、「執着を捨てること」自体が執着になります。

 > 無常=縁起を見てやろうと期待して自己を観察しても、概念や思考が回転して観察を邪魔する可能性が高いのではないですか。

 それをおっしゃるなら、「考えてはならない。考えてはならないと考えてもならない。と考えてもならない・・・・・と考えても・・・」となる可能性も高いのではないですか。「よし、今から思考を停止しよう、パチン」とスイッチを切るようには、経験上なかなかいかないと感じます。そしてまた、ある程度実践すると、反応の停止した状態は現れますが、それは「私」が縁起していない状態であって、要は熟睡状態や全身麻酔と同じにすぎず、執着の反応を萎えさせるところの、無常=無我=縁起の納得には、何の効果もありません。ブッダダーサ比丘の言われる「慧の修行に対する主要な障害のひとつである深すぎる定」です。

 ただし、勿論、私が「定における自己観察」と申し上げているのは、あれこれ考えることではありません。「他からの声、および正しい思惟」によって、無常=無我=縁起の理解を深めた上で、静謐な状態で徹底的に集中してリアルタイムで自分という反応の反応の様を観察する。そして、ある時「ああ、なるほどそうか。そういうことか」と無常=無我=縁起が、自分のこととして腑に落ちて納得されるのです。

 なにより、無常=無我=縁起は、釈尊が残してくださった教えではありませんか? それが邪魔だとおっしゃるなら、釈尊をないがしろにすることだと思います。

 目指すべきは、「思考の停止」ではなく「静謐な状態で観察の集中度を上げること」です。納得すべきは、「ありのまま」ではなく、「自分が無常=無我=縁起であること」です。自分が無常=無我=縁起であることを納得することによって、執着の愚かしさが痛感され、執着の反応が萎えるのです。

 冒頭の繰り返しになりますが、「思考を停止してありのままに見る」であるならば、一部大乗の「無念無想で真如を見る」と変わるところがありません。「ありのまま」とは、一体何なのでしょうか? 虫には虫の見え方があり、ヒトデにはヒトデの感じ方があります。その人にはその人の見方が。そういった個々の観察者を捨象して、超越的絶対的な「ありのまま」があると考え、瞑想すれば人間の見方を超えて「ありのまま」を感応できる、と考えるなら、それは、まさしく梵我一如の発想ではないでしょうか? 天野さんは「そんなことは言っていない!」と反発しておられることでしょう。しかし、「ありのまま」を強調すれば、やがてそういう発想に引き込まれることになると思います。「ありのまま」などといった抽象的な概念を目指しても、堂々巡りに陥るか、執着に適う梵我一如的「ありのまま」を自ら妄想して「ありのままを見た」とはしゃぐか、どちらかが落ちです。あるいは、執着を「ありのままに」肯定することになるかもしれません。

 > 生命はその構造上、情報を誤認・誤解するようになっていて、世界をありのままに認識することはできない

 このことには同意します。おっしゃるとおり、クオリアによって条件反射が可能になった動物は、そのつどの現象を自分の利害に基づくカテゴリーで捉え、同じ価値を持って存在し続ける存在としていつも化し、いつもどおりの反応をします。それが執着です。  「なんと愚かであったことか! 必死に執着してきた対象は、存在ではなく、そのつど縁によって起こされている現象だ。執着することなどもともと不可能だ。なにより私自身がそういう現象だった。」そう納得することで執着は枯渇していきます。それが釈尊の教えです。

 観察し、納得すべきは、抽象的で無内容な、言葉によって妄想された、形而上学的な「ありのまま」などではなく、「私は無常=無我=縁起であって、執着の対象たり得ない現象である」ということです。

 人間の自然なものの見方に基づく「ものあり、我あり」の発想はまことに根深いことを、成道直後の釈尊は見通しておられました。釈尊が予想されたとおり、釈尊のせっかくの教えも「自然な発想」による変形をこうむり、執着に適うさまざまな「仏教」に展開していきました。それらの中から、今もう一度、釈尊の教えを抽出しようとすることは、本当に難しいことだと痛感しております。

                            草々
天野聡様
      2007,8,4,              曽我逸郎
 

 

天野聡さんから  2007,8,6,

曽我逸郎様

長文の御返信ありがとうございます。

〉 mokkha を調べてみたら、release, freedom from とか deliverance, salvation といった訳語がでてきました。どうやらもともとの mokkha にも、「解脱」と同様のニュアンスがあるようです。

mokkhaという言葉に曽我さんが実体論的ニュアンスを感じるから、仏陀がそんな言葉を使われたはずがなく、だから経典は信頼できないとおっしゃるのですか。

release, freedom from,deliverance, salvationというニュアンスを持つmokkhaという、当時既に存在したであろう言葉を『煩悩からの自由』という定義で使うことは、客観的に見て何ら不自然ではありません。
言葉自体から無常・苦・無我の教えと相容れないと判断するのは明らかに不可能です。

では、仏陀の言葉ではないとおっしゃるだけの客観的な証拠は何かあるのでしょうか。
何の証拠もなく、「ただ言葉自体からそう思う」というだけなら、申し上げることはありません。ダメな議論、に陥りますので。

そもそも第一に重要なことは真の無常を知ることですから、パーリ経典に従って悟りに達することができるなら、いちいち単語にこだわる理由がありません。時間の無駄です。
そして、長老方の言動を目の当たりにし、自らも実践してみた経験から、パーリ経典は仏陀の言葉を忠実に伝えており、悟りに至ることは可能だと確信します。

曽我さんの論法によれば、経典を完全に信頼して真剣に修業された長老方に覚者はいないことになりますが、サンガを否定しながら仏教の核心を体得するのは無理ではないでしょうか。
余計なお世話ですけど、釈尊の教えを抽出する前に、まずテーラワーダで何が語られてきたのか学ばれてはいかがですか。抽出の基礎にお薦めです。

例えば最初のメールで、
〉普通、仏教で苦というと、四苦八苦が言われます。正直に申し上げて、私はこれは単なる苦の分類のように感じられて、あまり身につまされません。

と述べておられますが、スマナサーラ長老の「苦しみをなくすこと」(サンガ新書)に四苦八苦の論理的な解説があります。
私も先日知りました。目から鱗ですよ。

〉「守り育てるべき立派な自分がある」という思い込みを解消しないままに、「執着を捨てよう」といくら努めても、空回りに終わり、「執着を捨てることに執着する」ことにしかなりません。

執着を捨てようとボランティアに励んだり、贅沢を控えて無駄を省くことを心掛けたり、嫌な出来事にもキレずに忍耐したりすれば、努力した分だけ自我意識は弱まるでしょう。

もちろん根本的な解決にはなりませんが、自我意識を捨て去る条件(縁)を作ることができるので、決して空回りには終わりません。

執着を完全に捨て去ることと、その為の条件を揃えることを混同しておられるようです。

八正道に三段階あることはご存知ですか?

自我がある限り執着を捨てる努力は無駄であるならば、人格を完成に導く八正道も成り立たないことになるのではないでしょうか。

〉「考えてはならない。考えてはならないと考えてもならない。と考えてもならない・・・・・と考えても・・・」となる可能性も高いのではないですか。

このような奇妙な現象をヴィパッサナーで経験することは、残念ながら極めて稀だと思われます。
妄想・雑念に気付いたらその都度確認して、感覚を感じることに戻るだけですので。

〉無常=無我=縁起は、釈尊が残してくださった教えではありませんか? それが邪魔だとおっしゃるなら、釈尊をないがしろにすることだと思います。

これも八正道のレベルを混同されているのではないかと思います。
悟りを開く段階で唯一必要なのは、サティという機能だけだそうです。
その段階においても、前回も申し上げた通り、釈尊の教えが邪魔なのではなく、「私の考え・私の知識」などの思考に対する執着が智恵を妨害するそうです。

〉目指すべきは、「思考の停止」ではなく「静謐な状態で観察の集中度を上げること」です。

「思考を停止せよ」とは、「私という反応を停止せよ」という意味ではなく、おっしゃるように「観察の集中度を上げよ」ということだと思います。
観察と思考とは水と油の関係で、観察の集中度を上げようとすれば、必然的に思考の停止を目指すことになるのでしょう。
「妄想や希望を捨てて、只ひたすら観察せよ」ということですから、「無念無想」を目指すのではありません。
究極的な集中力で観察する状態とは、つまりは全く何も考えずに観察する状態だと思います。

曽我さんは「あれこれ考える」のではないとおっしゃいますが、観察と思考との関係をどのように捉えておられるのでしょうか。

〉個々の観察者を捨象して、超越的絶対的な「ありのまま」があると考え、瞑想すれば人間の見方を超えて「ありのまま」を感応できる、と考えるなら、それは、まさしく梵我一如の発想… 

これも前回申し上げた通り、自我という殻を破り、主観的な知の次元を超えて、存在の「ありのまま」を説明するのが仏教だそうです。
存在の「ありのまま」とは結局、無常・苦・無我のことですから、抽象的、無内容、妄想、形而上学とは言えません。
しかし人間の知識レベルを超えた真理ですから、ありのままを認識することは人間の見方を超えることだとは言えるでしょう。

当然ながら、永遠不滅の魂との一体化を説く梵我一如の発想や、現象以外に超越的実在たる真如を想定する大乗思想とは全く異なります。

天野聡

 

曽我から 天野聡さんへ   解脱 執着 思考 梵我一如 2007,8,12,

拝啓

 予想どおり、言葉尻の水掛け論に入ってきました。基本的な立場はそんなに違わないと思いますが、どうしてこうこじれるのでしょうか?

 しかし、微妙な言葉尻のズレをきっかけにして「仏教」は、釈尊の教えの対極へと変質してしまったと考えます。あるいは、考え方の違いが微妙な言葉尻に現れる、と考えます。ですから、言葉尻にこだわることは大切なことでしょう。

◆言葉尻 その1 「解脱」

 解脱という言葉は、前にも書きましたとおり、「なにか私の核心部分があって、それが悪い場所・状況にあったのが、その場所・状況を脱する」という意味ではないでしょうか。その「核心部分」は、脱出の前も後も変化せずに存在し続け、環境が変わるだけ、というニュアンスがあります。これは、仏教の問題ではなく、国語の問題です。mokkha も、辞書を引いた限りでは、同様のニュアンスを含んでいるようです。

 ここからは仏教の問題ですが、釈尊はそういうふうに考えておられたのでしょうか? 何かが悪い場所を脱出することを目指すというような発想を? この発想における「何か」こそ、アートマン(アッター)と呼ばれてきたものではないでしょうか? テーラワーダは、そうなふうには考えておられないでしょう? 釈尊の教えの核心は、そのような、「何か私の核心(アートマン、アッター)がある」という発想を否定するものです。解脱という言葉が内包する構造と、釈尊の無我の教えとは、正反対です。このことには同意いただけると思いますが、如何でしょうか?
 もし同意いただけなかったら、現代テーラワーダに失望せざるを得ないのですが、同意いただけると思います。であれば、釈尊の教えとは正反対の言葉で釈尊の教えを説くことは、混乱を生むのではありませんか。「何か核心部分が私にはあって、それを悪い場所・状況から脱出させるのが仏教だ」と。実際このようにして、「仏教」は、釈尊の教えの対極へ変質していったと考えます。そういう隙をつくって、反仏教思想を釈尊の教えに紛れ込ませるような言葉を使うことは、慎むべきだと考えます。

 と、偉そうに書きましたが、気がついてみると、前のメールで私自身が、「生の無意味・無価値は、かえって解放だ」と書いていました。「解放」は、まさに release, freedom from です。言葉は、我々が持って生まれた実体論的な思い込みの上に成り立っているので、実体論的な言葉尻に陥ってしまいがちです。徹底してそれを排除しようとすれば、非常にギクシャクしたほとんど読めない文章になるでしょう。しかし、それでも、実体視を蔓延らせることに加担しないよう、できる限り注意して言葉を使うべきだと思います。さもないと、自覚のないまま知らないうちに釈尊の教えを変質させることになりかねません。

◆言葉尻 その2 「執着を捨てること」

> 執着を完全に捨て去ることと、その為の条件を揃えることを混同しておられるようです。
 申し訳ありませんが、これは天野さんに当てはまるのではないでしょうか?

 「守り育てるべき大切な私がいる」という間違った思い込み(無明)のため、執着の反応はそのつどの縁に応じて次々と立ち起こってきます。執着の反応を枯渇させるためには、「守り育てるべき自分などなかった。私はそのつどの縁に応じてそのつど起こる反応であって、執着などもともとできないことだった。できないことに懸命になっていた私はなんと愚かであったことか」と腑に落ちて実感することが必要です(慧)。慧によって執着の原因である無明が滅せられるのです。
 そのためには、徹底的にクローズアップ・リアルタイムでそのつどの自分という反応を「観」察することが必要です。
 そのための準備として、自分を観察可能な静謐な状態にすること(止 or 定)が必要です。
 その為の条件として、ありのままでは荒れ狂う反応である自分を、穏やかな反応に整えるべく、毎日の生活において努めねばなりません(戒)。戒は、自分という反応に気をつけていることでもあり、先の段階の観の練習にもなります。発生しつつある悪い反応になるべく早く気づいて途中で止め、自他に苦を生まないという大きな効果もあります。

 「ボランティアに励んだり、贅沢を控えて無駄を省くことを心掛けたり、嫌な出来事にもキレずに忍耐したり」とおっしゃるのは、おそらく戒のレベルのことを言っておられるのではないでしょうか? 天野さんは、慧も戒も両方「執着を捨てる」という同じ言葉で扱い、混同しておられるように感じます。

 ちなみに、くどいようですが、「執着を捨てる」というより、「執着の反応が自然に沈静化していく」という捉え方のほうが適切かと思います。無常=無我=縁起を自分のこととして納得することで、自然にそうなるのです。戒は、その為に揃えるべき条件のひとつです。

◆言葉尻 その3 「思考の停止」 「思考は邪魔」

 上に書いた戒から慧に至るステップのさらに前の段階に、正見が必要で、正見には、「他からの声、および正しい思惟」という縁が必要です。正しく学び、正しく考えることが根本になければなりません。

> 観察の集中度を上げようとすれば、必然的に思考の停止を目指すことになる
> 究極的な集中力で観察する状態とは、つまりは全く何も考えずに観察する状態
 集中して自分という反応を観察することと、思考を停止することと、一体どちらを目指すのでしょうか?
 もし思考の停止が本当の目的であれば、前に書いたように麻酔をかけてもらうとか、なにかのドラッグを使うとかの方法もありますが、そんなことを言っておられるのではないですよね。集中度の高い観察こそが目標であって、思考の停止は付随的なものとしてお考えなのでは? もしそうなら、ひねらずストレートに「徹底して集中して観察せよ」と言えばいいのでありませんか?

 「思考の停止」という言葉を私が警戒するのは、「自己観察する際の心がけ」といった限定的意味をすぐにはみ出して、釈尊の教えを学び考えることを否定することに容易に発展するからです。そうなると、釈尊の教えをないがしろにして、瞑想中の体験ばかりを過剰に重視することになります。釈尊の教えをしっかりと学ばないまま瞑想に励めば、執着に適う、体験したい体験をして、抜け出せない深みに嵌っていきます。よくあるケースです。
 だいたい、「思考を停止せよ」、「考えるな」という人物、特に「宗教」関係者には警戒すべきです。思考を停止させれば、人を無批判にさせ、盲従させ、コントロールすることができるからです。

 前々回のメールでとりあげた大有明経も含め、「よく考えよ」と説いているパーリ経典を私の気づいた範囲でいくつか挙げておきます。

 わが修行僧であるわが弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師からおしえられたことをたもって解説し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。
*大パリニッバーナ経 第三章 35 (中村元訳 岩波文庫)

 かれらはその法を学び、それらの法の意味を慧によって考察します。それらの意味を慧によって考察する者たちには、それらの法が現れます。
*パーリ仏典中部 第22 蛇喩経 (片山一良訳 大蔵出版)

 「友よ、正見が起こるためには二の縁があります。すなわち、他からの声、および正しい思惟です。友よ、正見が起こるためにはこれら二の縁があります」
 「それでは、友よ、正見はどれだけの部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなるのでしょうか」
 「友よ、正見は、五の部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなります。友よ、ここに、正見は戒に支えられています。また聞に支えられています。また、議論に支えられています。また、止に支えられています。また、観に支えられています。友よ、正見は、これら五の部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなります」
*パーリ中部 第43大有明経(片山一良訳 大蔵出版)
 (「解脱」が頻出していますね。ともあれ主張されていることは、「正見は、人から教えてもらうこととみずから考えることとを縁とし、さらに戒と聞と議論と止と観に支えられて、無常=無我=縁起の腑に落ちた納得になる」だと考えます。思惟や議論が必要とされているのです。)

 天野さんが「思考は邪魔」とおっしゃるのは、「自己観察している間に関しては思考は邪魔」と限定的に考えておられるのか、それとも「あまりにも考え過ぎることは『解脱』の妨げになる」ともっと広く一般的に思考を否定しておられるのでしょうか?
 どちらともとれるようで判然としませんが、後者に対して申し上げるべきことは、釈尊の教えを学ぶには、深く考える必要がある、ということです。経典にも引き当て、他の人の意見とも引き比べ、徹底的に考えることで、自分の理解の問題点が見つかり、徹底的に考えることで、理解を改め、問題点に納得のできる解決が見出され、釈尊の教えのすごさが少しずつ見えてきます。「考えてはいかん」と仰る方は大勢おられますが、そういう方々は、現在の自分の理解に執着し、欠陥(改善点)を見つけるのを怖がっておられるのかもしれません。

 前者、限定的な意味の、自己観察中の思考をどう捉えるか、という質問に対しては、私も、「ああでもない、こうでもない」と考えるのではなく、ひたすら観察に集中すべきだと思います。しかし、まれに集中度が高まって、刻々めくるめく現象している自分の一面を息をのんで見つめるような場合でも、それを「思考の停止」と表現するのは、なんだか違うように感じます。引き込まれ、息を呑む vivid な反応はあります。世間で言われるような静まりかえった「無我の境地」ではまったくない。
 ただ、これは、「思考の停止」という言葉をどういうニュアンスで捉えるかの問題であって、「ああでもない、こうでもない」だけを思考だとするなら、「思考が停止している」という言い方でも構いません。ただし、その場合でも、観察の集中が高まった結果自然に「思考が停止」するのであって、「思考を停止」したわけではありませんが、、、。

 ともあれ、「思考を停止せよ」とか、「思考は邪魔」とか、なぜそれほどに思考にこだわるのでしょうか。学び考えるときは、一所懸命に学び考える。自己観察するときは、徹底して集中して自己観察する。それでいいのではないですか?

> 曽我さんは「あれこれ考える」のではないとおっしゃいますが、観察と思考との関係をどのように捉えておられるのでしょうか。
 よく学び、よく考え、無常=無我=縁起の理解を深めた上で(正見)、高い集中度で自分を観察すべきだと考えます。

◆言葉尻 その4 梵我一如を髣髴とさせる言葉尻

 上で取り上げた「思考の停止」も、「無念無想で計らいを停止すれば、おのずからありのままとなる」を彷彿とさせます。少なくともそういう解釈につなげていく人が現れかねません。

> 自我という殻を破り、主観的な知の次元を超えて、存在の「ありのまま」を説明する
 天野さんのこの表現は、大抵の人が梵我一如だと感じるのではないでしょうか? そもそも「自我という殻」などないのではありませんか? 釈尊は、無我だと教えてくださいました。
 「主観的な知の次元を超えて」・・・超主観的な知の次元があるとお考えでしょうか?
 『存在の「ありのまま」』・・・これも、まさに真如の定義そのままです。「真我を閉じ込めている自我の殻を突破して真我を梵へと解放する」という梵我一如思想を髣髴とさせる表現だと感じます。

 釈尊が教えてくださったのは、『存在の「ありのまま」』などではなく、「このわたしは、そのつどそのつど縁によって起こされている無我なる反応であるのに、それを知らないが故にいたずらに執着し、自他を苦しめていること」であると思います。

 天野さんは、『存在の「ありのまま」とは結局、無常・苦・無我のこと』と仰り、最終的に無常・苦・無我に落とし込めば梵我一如にならないと考えておられるのかもしれませんが、そこまでの考え方は梵我一如っぽいと感じます。「仏教」に変身した梵我一如は、「仏教」を僭称していますから、梵などという言葉は使わず、心(チッタ)、識とか、真如、空、法、実相など仏教的な用語を転用します。「この私の無常=無我=縁起」ではなく、世界、自然、宇宙、真理、存在など、なんであれ「私を超えたもの」を語り始めたら、梵我一如帰りはすでに始まっています。梵我一如型発想のもうひとつの徴候は、日常のあり方とは別に、「本来」とか「ありのまま」を想定することです。

 実体論的発想(先にものがあって、それがどうこうする、どうこうなる、という捉え方)は、人間の自然な発想であり、梵我一如型の考えは、その自然な発展です。いわば、凡夫のありのままの見方です。それに対して釈尊は、無常=無我=縁起に気づかれた。そのつどの縁によってそのつど反応・現象が起こるだけで、実体はない、と。
 これは、執着のこだわりを楽しんでいる凡夫にとっては極めて不自然な、思いもよらない考えです。せっかく釈尊が教えてくださったのに、大抵の凡夫の腑には落ちず、従来どおりの自然な見方を引き摺り続けた。凡夫が無常=無我=縁起を納得できなかったがゆえに、釈尊の教えは、執着に適う「仏教」、つまりもともと本来ありのままの凡夫の発想である梵我一如パターンにまたすぐ後戻りさせられていったのです。

 かくいう私自身、梵我一如型の解釈をしていました。今もまだ自覚できていない部分でそうかもしれません。そして、申し訳ありませんが、天野さんもそうだと感じます。
 幸いにしてそうではなく、天野さんが釈尊の教えを正しく引き継いでおられたとしても、読んだ人が梵我一如的・実体論的な誤解をすることがないように、言葉尻には十分気をつけねばなりません。

 おそらく天野さんのお師匠様も、「自己観察中の心がけ」という限定的な意味での「思考の停止」は説いておられても、「存在のありのまま」とまではいくらなんでも仰ってはおられないのではありませんか? 是非、お師匠様に確認してみて下さい。

                            敬具
天野聡様
            2007,8,12,            曽我逸郎

 

 

天野聡さんから 「ありのままに観る」 2007,8,25,

曽我逸郎様

返信が遅れて申し訳ありません。

私はスマナサーラ長老を師と仰いでおりますので、少し長いですが、著作(ブッダの実践心理学・第三巻)の要約を御紹介させて頂きます。

☆☆☆☆☆☆☆☆

智恵とは、ありのままにものを見られるということ。我々は自分の主観で、偏見で物事を見ている。情報を自分の都合にあわせて捏造している。外の情報は何であろうとも、それに関係なく自分の好き勝手に認識する。
智恵とは、この主観・偏見を破ることによって、データの捏造をやめることによって現れる認識。情報を合成しないで観る努力(satiの実践)をすることによって、起こる認識。
そこで初めて、ありのままに観た、ということになる。「現象は因縁によって現れるもので、独立して存在しない」ことを発見する。ありのままに観た人が、次の瞬間で解脱に達する。

…………

妄想があると、こころに余裕がない。妄想する人には、花が花として見える。変わらないもの、在るものとして見える。無常は見えない。
ヴィパッサナー瞑想は、我々が本来持っている主観(データの捏造)という構造的な問題を解決する。
satiの実践で、思考の停止に挑戦する。こころが思考・妄想することを妨害する作業を続けると、情報を捏造する作業が出来なくなってしまう。その瞬間で、「ありのままに観る」しかしようがなくなる。その時は、花が花として見えない。目に実際に触れた情報をそのままに観る。頭の中で花という現象を捏造せずに、目に入る「色」という情報を見る。「色」は瞬間に生滅していく実体のない波であると、そのように見え始めたら、実体があるという今までの幻覚が全て消えてしまう。

………

全ての現象は生滅している。現象とこころが共に「生」の状態にあり、この二つの間でコンタクトが起きたら、認識が生まれる。現象とこころのいずれかが「滅」の状態のときには、認識は生まれない。ゆえに認識は必然的に「有」である。全ての現象は「生」と「滅」という二つの状態に入れ替わっているが、我々は「生」の状態しか知らず、「現象が有る」としか認識できないから、我々の認識は必然的に実体論になる。
しかし、高いレベルの集中力をもって対象を観察すると、この実体論を作りだす働きを発見できる。

☆☆☆☆☆☆☆☆

存在のありのまま、という言葉使いは梵我一如の発想に基づいているとは必ずしも言えないと思いますが、いかがですか。
天野聡

 

曽我から 天野聡さんへ  花が花に見えない。外の対象の観察。梵我一如的 2007,8,22,

前略

 お返事を頂いていたのに、そのままになっておりました。大変申し訳ありません。

 ずいぶん煮つまってまいりましたので、簡単に・・・。といっても、書き始めると、自問自答してまた長くなるかもしれませんが・・・。

 >我々は自分の主観で、偏見で物事を見ている。情報を自分の都合にあわせて捏造している。外の情報は何であろうとも、それに関係なく自分の好き勝手に認識する。
 これは、多分私の考えていることとおおむね同じことをおっしゃっているのではないかと思います。私の言い方では、「それまでの経験によって形成され、好悪の染み付いたクオリアが、縁によって起動され、クオリアにふさわしい情動が起こり、さらに引き続いて意識も起こる」ということになります。(小論「ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え」を参照ください。)

 そして、おっしゃるとおり、「データの捏造」がストップすると、「花が花として見えない」事態になります。ものは、クオリアを被せられ、何につけ、自分にとってのなんらかの意味をもつものとして立ち現れてくるのですが、例外的にクオリアの働きが低下する状態があり得ます。その場合、花が花として見えない、茶碗が茶碗の意味を失う、話をしていても相手の顔が顔でなくなる、ということになります。
 しかし、これは、世界のすべてがよそよそしくなるというか、きわめて異常な状態であって、医学的にはおそらく病気と診断されると思います(離人症?)。(『あたりまえ・・・般若経』の目次から「見つめる練習」と「町からきた娘の報告」を参照ください。)

 成道後の釈尊がそういう病的な状態におられたとは思えません。では、何が違うのか?

 クオリアによって好悪の情動が自動的に起動されることが、執着に密接に関係していることは間違いないでしょう。それが執着の反応である、と言ってしまってもいいかもしれません。では、仏において執着が枯渇することは、クオリアが機能を停止することなのでしょうか? 上に書いたとおり、そうではないと思います。クオリアの機能なしには、生活は営めない。

 であれば、クオリアは機能していながら、執着は枯渇している状態があり得る筈です。おそらくは、クオリアによって起動される情動が変わるのでしょうか。情動が、好悪を含まない反応になるのか? このあたり、もう少しじっくりと考えてみなければならないようです。検討すべきテーマに気づかせて下さったこと、感謝します。

・・・・

 >satiの実践で、思考の停止に挑戦する。こころが思考・妄想することを妨害する作業を続けると、情報を捏造する作業が出来なくなってしまう。その瞬間で、「ありのままに観る」しかしようがなくなる。その時は、花が花として見えない。目に実際に触れた情報をそのままに観る。頭の中で花という現象を捏造せずに、目に入る「色」という情報を見る。「色」は瞬間に生滅していく実体のない波であると、そのように見え始めたら、実体があるという今までの幻覚が全て消えてしまう。
 現在の私(曽我)は、観察すべき対象は、そのつどそのつど自分が反応している様である、と考えています。自分以外の外在物(たとえば花とか)を観察しても、無常=無我=縁起を自分のこととして納得することには関係しない、役立たない、と思っています。そればかりか、時として、間違った解釈への入り口にもなりかねない。

 しかし、先ほどひさしぶりに『あたりまえ・・・般若経』の「見つめる練習」を読み返して、かつて私は自分以外の外在物を観察対象にしていたことを思い出しました。言い回しも似ています。

 「もの」の無我を見る練習だ。・・・細部を見つめるあなたたちの目は、慣れ親しんだ「もの」に被せられた厚い皮をはがす。見つめるうちに、あなたたちは驚くだろう。あなたたちの見たことのない異様な姿が、突然現われる。もはやそれをなんと呼んでいいか分からない。茶碗が茶碗でなくなる。・・・現象の一つの形としての、ありのままの姿だ。・・・すぐにあなたたちは知る。あなたたちのそれまでの見方が、どれほど自分勝手だったか。茶碗と呼び、手と呼ぶことが、なにをもたらしてきたか。自分勝手に名前をつけ、自分勝手に用途を決め、「もの」が自分のためにいつもあると思っていた。わたしの茶碗、わたしの手。こうして執着が始まったと。
 スマナサーラ長老は、同じことを言っておられるのでしょうか? 『あたりまえ・・・般若経』の「見つめる練習」は、そこそこいいところを衝いていたのか? 自分を観察する前に、準備段階として、自分ではない他のものを対象にしてクオリアを剥がす練習をすることは、有効なのでしょうか?

 頂いたメールをつらつらと読み返して、スマナサーラ長老の言っておられることは、二段階のプロセスになっているのではないか、と思い至りました。

  1. まず、satiによって思考の停止=データの捏造の妨害をして、外在物(花とか)がありのままに観えてくると、ものには実体がない、と分かる。
  2. 次に、(今度は自分において)認識が生まれる過程を観察し、実体がない筈のところに実体論を作りだす働きを発見する。

 これは、伝統風な言い方をすると、法無我(花とかは無我)から入って、人無我(私は無我)に至るプロセスなのでしょうか? 振り返ってみると、私自身、たまたまそういう過程を経ておりますが、それには意味があったのか? 大乗では、人無我から法無我へ、が順番だったはずで、とするとおっしゃっていることは逆になりますが、そのあたりは・・・?
 しかし、パーリの経典を少しのぞき見た範囲にすぎませんが、外在物を観察対象にするというのは、あまり例がなかったような気がします。墓地で遺体の崩れていく様を観察するというのはあったかもしれませんが、それとて、気持ちの上では自分のこととして見ていたと思います。やはり、観察すべき対象はあくまで自分であって、納得すべきは自分の無常=無我=縁起である、外にあるものは観察対象ではない、と考えるのですが・・・。

 煮詰まりすぎて、鍋の隅のコゲツキをつつくような議論になりました。私自身の反省として、外在物を観察対象にすべきではない、という思いがありますので、気にかかった次第です。お許しください。

・・・・

>存在のありのまま、という言葉使いは梵我一如の発想に基づいているとは必ずしも言えないと思いますが、いかがですか。
 私が心配したのは、発言の意図ではなく、発言の影響です。

 「思考を停止してありのままに見る」。「自我という殻を破り、主観的な知の次元を超えて、存在の「ありのまま」を説明する」。「存在の「ありのまま」とは、・・・人間の知識レベルを超えた真理ですから、ありのままを認識することは人間の見方を超えることだ」。

 こういった言い方は、発言者本人の意図はどうであれ、梵我一如的に聞こえます。言葉は、意図とは関係なく、一人歩きを始めます。梵我一如的見方に人は自然に陥りやすく、ただでさえ釈尊の教えは歴史の中で梵我一如的発想に蚕食され、梵我一如的思想に置き換えられていっています。無常=無我=縁起を中心とする釈尊の教えは、正しく維持されるのが大変難しく、簡単に変質してしまう。その危険を認識して、そういう隙を与えないよう、特に言葉には十分に注意すべきだと考えております。
 言葉そのものが梵我一如的見方を前提にしていますから、徹底的に梵我一如を排除して語ることは大変困難です。しかし、それでも、できる限りの注意をしていかねばならないと思います。
 この警戒心が希薄であると、いつのまにか自分自身まで梵我一如に取り込まれかねません。

 思考の停止、存在のありのまま、自我という殻を破る、主知的な次元を超える、人間の知識レベルを超えた真理、人間の見方を超える・・・
 すべてに危うい響きを感じます。意見交換 04,6,24, 和バアさんもご一読いただければ幸いです。

 書き始めると、瞑想中の妄想のごとく、いろいろな考えが湧いてきてしまいます。
 心配したとおり長くなってしまいました。ご容赦ください。

                             草々
天野聡様
       2007,9,22,              曽我逸郎
 

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