岡 孝さん 「瞑想。真如。」 2007,7,10,

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曽我から 岡 孝さんへ  アンケートご協力への御礼  2007,7,10,

拝啓

 アンケートにご協力頂き、ありがとうございます。正統的と評価いただいてうれしいです。世間一般からすれば、「ひねくれた訳の分からんことを言っている」という評価だろうと思っていますので。

 お時間ありましたら、メールでもご意見・ご批判お聞かせ頂ければ幸甚です。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
                            敬具
岡 孝様
     2007,7,10,               曽我逸郎
 

 

岡 孝さんからの返事  2007,7,10,

 曽我様

> 早速、ご返信下さいまして、有難うございます。
私は、実は曹洞宗の者でして、(家はお寺ではありませんが)恩師がたまたま、袴谷 憲昭教授であるものですから、あなたのサイトを拝見致した次第です。

 ご連絡下さり嬉しく存じます。私の考え等は、岡 孝順(私の僧名です)で、グーグル検索下されば、おおむねご理解いただけるかとも思いますので、自己紹介として、お知らせ致します。

 私は、教化畑でして。本来は唯識なのですが。

 今後とも、宜しくお願い申し上げます。松本 史朗博士は、こわい人ですね。
>
> 岡 孝(孝順)

再び 岡 孝さんから  2007,7,11,

これを良い機会として、曽我さんとの意見交換の最初としたい。

松本博士は、ここで言うdhyanaを、おそらく禅とは考えてはいないと、私は思います。禅は、ご承知の様に、中国土着の思想であり、その後は、正に松本博士の言う様に、思考停止のための方法論となったものと、私もまた考えます。

 松本博士は、瞑想を、無常の道理を明らかに知るためのものと捉えているのではありませんか?その点から見るならば、松本博士の言われる、一連の存在と非存在に関する考え方は、一貫性を持つものと思います。

 唯識の言うヨーガやその後の頓悟なる概念を、同博士は仏教ではないし、勿論、dhyanaでもないと、概ねそのようにお考えだったと記憶しています。

 

曽我から 岡 孝さんへ  2007,7,13,

前略

 メール拝受。

>松本博士は、瞑想を、無常の道理を明らかに知るためのものと

 実のところ、私は、「瞑想」という言葉はあまり好きではありません。瞑想というと、なにか見通しも内容もない形だけの習俗的行いのようで、それ故「無念無想」にすぐ直結してしまうように感じられるからです。

 「無常の道理を知る」というのも、確かにそうかもしれませんが、「(必ずしもこの私のことではない、実存的でない)一般的客観的真実を知る」というようなニュアンスを感じます。「道理」よりも、「他ならぬ自分自身が、無常=無我=縁起」であることを納得することが肝要だと思います。

 釈尊の教えは、突き詰めれば、戒定慧の三学だと考えます。

 戒 : 執着のままに縁に起こされ、自分と人を苦しめていることを自覚し、いつも自分という反応の反応の仕方に気をつけ、苦を作る悪い反応をした時、すぐに気づき、その反応を停止し、自分の反応パターンによい癖をつけていくこと。
 定 : そのつどの執着の反応で荒れ狂う海のような状態を、戒によって大まかに鎮めた後、さらに自分という反応をリアルタイムで凝視し、その集中度を上げる事で、反応の極めて少ない静謐な状態にし、反応・変化を精緻にみつめること。
 慧 : その結果、自分にはいかなる実体もなく、そのつどそのつど縁によって起こされている反応であると腑に落ちて納得し、実体的な自分を妄想してそれを守り育てようと執着していた愚かさに気づき、惜しむべきものはなにもなかったと知ること。

 瞑想とよばれているものは、定にあたり、そうであるならば、無常=無我=縁起を自分のこととして納得するという目的があり、そのためのメソッドだと思います。

 岡さんは、どうお考えでしょうか? 松本先生のお考えはどうでしょうか?

>松本 史朗博士は、こわい人ですね。

 機会があれば、いつか是非一度お目にかかってみたいと思っています。
 ずいぶん昔、ぶしつけな質問の手紙をお送りしたところ、丁寧なお返事と論文のコピーを送って下さいました。
 「馴れ合いとか遠慮とか権威への配慮とかが、日本の仏教と仏教学をつまらくしており、救う力も失わせている。伝統的作法に則ってパターン化した発想ではなく、自分の解釈や疑問を遠慮なくぶつけ合わなければ、一体何の学問か!?」という、激越な姿勢に大いに刺激され、勇気付けられました。松本先生と交流がおありでしたら、どうかよろしくお伝えくださいませ。

 今後とも、宜しくお願い申し上げます。
                                  草々
岡 孝様
        2007,7,13,                   曽我逸郎
 

 

再び 岡 孝さんから  2007,7,14,

拝復                 曽我 逸朗様
>  貴方の言われる定と、松本先生の言う瞑想とは、同じものだと思います。
 私もまた、無常を実感として明らかに知るための手法として、瞑想が仏教思想に説かれたものと思っております。

 松本先生は、当時禅定なる表現を避けたかったのではないかと、無論、同氏は実態的な何者かを背景にした「さとり」に賛同する筈もなく、チベット学の山口瑞鵬博士や、袴谷教授とその点において、立場を同じくなさっておられます。

 本覚思想と言われるものに対して、松本博士が批判を展開したのは、もう既に20年近く前のことでしたね。東京大学において行われた同博士の講義は、大きな話題を呼びましたし、論文としても現存します。

 松本博士にとって、その言葉が例えサンスクリットであっても、それを仏教の上において捉えたいと言う意図が、おそらくあるように思いますが・・いかがでしょうか?

 『金剛般若経』のいう真如は、両義ですが、これを、曽我さんは、いかがお考えになりますか?「永遠性」を含む筈の真如に対し、「究極的に存在しないと言うことの 別名(adhivacchanam)だと、『金剛般若』は言います。
 袴谷教授は、これがあるために『金剛般若』はだめだ、と仰るが、本当にadhivacchanamは、だめ なのでしょうか?

 お考えをお聞かせ下されば、幸いです。

 宜しくお付き合いくださいませ。
                 草々

              岡  孝(孝順)拝

再び 岡 孝さんから    2007,7,14,

追伸                 曽我 逸朗様

 真如について、唐突に申し上げたかもしれません。果たして、仏教はそもそも、中観派のような空を説いていたのかどうか、甚だ疑問なのです。
 釈迦の入滅後、すぐにも、実体は部派仏教によって説かれたし、いわゆる原始経典の中にも、しばしば、実体論とおぼしき記述が見えますように、若しかしたら、仏教とは、範囲を限定した空を説いていたのかも知れない、などと いらぬ事を考えてしまうのです。

 真如が実体と不生とを、同時に意味するものであると言う事は、何を意味したかったのか?
 仏教はその最初から、実は両義の空や真如を内含していたのか?
 adhivacchanamは、だめ だと、袴谷 憲昭教授は言いますが、勿論松本先生も、この点同じだと思いますが、縁起と空、無常 無我 の概念には、言語領域において初めから、限定付だったとしたら?

 その方が、説明しやすい仏教史になる事は、どうも認めなければならないのではないか、とも思えるのです。

 私は、今も、仏教とは無常を説いたものと、人にも言い、また、ものにも書いていますが、現実的に見た場合、確信を持ってそのように断言はできないのではないかと・・・・。

 涅槃とは、現象世界の実は、最初から実在しない事を、明らかに知る事だと、そう思っていますが、同時に涅槃とは、しばしば、そのようなある状態に入る対象としても描かれています。

 私は、これらの点から考えて、今一度、「インド仏教史」が見直される必要性を考えざるをえないとも、思っています。

 長くなってしまい、失礼いたしました。貴重な意見交換の機会を得、とても嬉しく思っております。

 追伸まで。
>                              敬具
>                    岡 孝

 

曽我から 岡 孝さんへ  2007,7,16,

前略

 『金剛般若経』は読んだかと思いますが、仰っているような問題意識はありませんでした。頓珍漢な内容になるかもしれませんが、真如について考えるところを書きます。

 「真如」は、仏教を台無しにしかねない警戒すべき言葉だと思っています。

 真如(tathatA)は、「そのように」という副詞 tathA に抽象名詞をつくる接尾語 tA がついたものと理解しています。従って、意味するところは、「そのようであること」、すなわち、仏教本来の文脈では、「無常=無我=縁起であること」です。元々は、そういう、述語的というべきか、そういったニュアンスを含んだ言葉だったはずです。

 にも拘らず、真如は、瞬く間に述語的ルーツを失い、純粋な名詞として対象化され実体視され、梵の代用品とされるに至りました。永遠性を含意し実体視される「真如」とは、人間の自然なものの見方に無自覚に導かれるまま、本来の意味から逸脱してしまった概念、妄想です。

 仰っている dhivacchanam が、「究極的に存在しないこと」を含意しているのであれば、むしろ、それこそ本来の正しい真如の意味、「無常=無我=縁起であること」に立ち返ろうとしているのではないか、と思います。

 釈尊の無常=無我=縁起の教えは、両義的でも、限定付きでもないと思います。
 永遠性や実体論といったものは、人間の持って生まれた自然の無自覚・無反省な(=執着に直結した)ものの見方に導かれた結果で、そのような見方に囚われることが苦を生んでいるのです。釈尊は、無常=無我=縁起の教えによって、そういう「変らぬ価値を持ってものは存在している」という自然な思い込みを解体することを教えてくださいました。

 04年1月11日、26日の清水さんとの意見交換も、是非ご一読ください。特に、<「仏教」徒のありがちな思考の展開>の部分。

 よろしくお願いいたします。

                               草々
岡 孝様
       2007,7,16,                  曽我逸郎

 

 

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