ニブリックさん 「検証科学としての仏教 超常現象をどう判断する?」 2007,6,18,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曽我さん、はじめまして。ニブリックと申します。

私は過去にキリスト教を学んでいましたが今は無宗教です。そして仏教に関しては素人です。
只今少しずつではありますが曽我さんのこのHPを見させていただいております。
今までに持っていた仏教のイメージとしては、輪廻を肯定(キリスト教的に言うと「霊魂」を肯定)し、その輪廻の輪(苦)から離れられた事を解脱・悟りとする・・・・という印象を持っていました。
しかしこの曽我さんのHPや佐倉哲さんなどのHPなどを見て、仏教に対するイメージが全く変わってきている次第です。
まず「釈迦は形而上学的なことには無記とした」「方便として神を出演させる事はあっても教えの中に神と言う概念は無い」「あたりまえのことを説く」「自分の目で確かめるまでは私(釈迦)の言う事でも信じるな という言葉」などの事柄を考えるとまるで仏教は宗教では無く科学だとさえ思えます。
(もちろん定義として「苦からの解放」と言う意味では宗教と言えるのかも知れませんが、私が過去にキリスト教を学んでいたという意味で予備知識・先入観?があるため宗教と捉えられないのかも知れません)
だからと言って仏教が見劣りがするとか学ぶ価値が無いという事でなく、むしろ逆にその淡々とした冷静な姿勢に奥深さ(真理?)を感じたりもします。
方や奇跡を起こしたり死んでも復活するイエスキリストと、方や派手な事も一切無くあたりまえのことを説く釈迦、まさに西洋と東洋と言いましょうか、非常に感慨深い人種的地域的文化圏の綾を感じます。

さて、ここで仏教を検証科学(自分で見るまでは信じるな)と仮定して質問させてください。
昨今のオカルトブーム・スピリチュアルブームのせいでしょうかTV番組などでゲストの本人しか知らない過去の出来事を言い当てたり、本人しか知らない病気を遠目で見るだけで言い当てる人、俗に言う「霊能者」がよく出ています。
霊能者は「あなたの後ろに見える守護霊が教えてくれる」などと言います。
もちろん「あなたの前世はある国の王様だった」というような内容は当たっているかどうか検証のしようが無い事ですので意味がありませんし、未来のことを提言しても「当たるも八卦当たらぬも八卦」と言う占いの世界になります。
しかし、少なくとも起こってしまった当人しか知らない過去の事を言い当てたならそれは検証の対象になります。
本当に言い当てたのか?本当に守護霊はいるのか?と。
TV番組以外でも身近に不思議な能力を持った人がいるという話や不思議な体験(車ごと高い崖から落ちてもかすり傷ひとつ無かった・・など)をしたという話も聞くことがあります。
そういった場合に、仏教的な立場ではどういう解釈をするのでしょう?
あくまで自分自身の身に起きたことではないので「どちらか分からない」で通すのでしょうか?
そうだとすれば、仮に、枕元に死んだお婆さんでも現れて「あした交通事故にあうから気をつけなさい」といわれて本当に事故にあうという「実体験」をしても「どちらか分からない」で通すのでしょうか?
あるいは先ほどのような霊能者に、あなたしか知らない預金通帳の保管場所を言い当てられたらどうでしょう?
当然2500年前の時代にも何かしらオカルトの類はあったと思います。
もし、それらの超常現象について「どちらか分からない」とするならば、形而上学的な事柄は無記とする姿勢は「検証科学」とは言えないような気がします。
逆に言うと、無記とする(あるいは否定する?)為には、それらが本当に超常現象では無いという証拠を積極的に見つけなければなりません。
「積極的にそんな検証をする必要は無い」というのであれば、むしろ今の思想・教義が自分にとって心地よいので動きたくないという独断でしかないという気がします。
(と言う私も、オカルト・超常現象のほとんどがイカサマあるいは脳が見せる幻覚だと思ってはいるのですが・・・・どうしても100%全てがイカサマだとは思えない気持ちもあるのです。また私がキリスト教を捨てたのも自ら積極的にキリスト教の矛盾点を見つけ出した私なりの結果であるという側面もあります)
どうでしょうか?実体験をすればその瞬間から今までの教義や思想を捨てるのでしょうか?
過去ログを見ていると何やら難しい仏教用語や理屈のやり取りが書かれており、それに比べると私の質問は甚だ低レベルな内容で恥ずかしい限りですが、暇な時間があるときで結構ですのでご返答いただければ幸いです。
尚、このHPの趣旨に合わないようでしたら無視してください。

 

曽我から ニブリックさんへ  2007,7,14,

拝啓

 メール頂戴しながら、返事が遅くて申し訳ありません。

 まず申し上げなければいけないと感じるのは、「仏教」でもさまざまなまじないが行われていますし、輪廻転生についても信じる「仏教徒」のほうが圧倒的に多いことです。  それは、密教とか大乗だけではなく、南伝のテーラワーダでもそうです。某長老が輪廻転生を説かれたので、懐疑的な質問をしたら、ご立腹なさいました。パーリ第4の恐怖経では、ブッダが三明を証得して無明を滅ぼし解脱した顛末が語られていますが、三明の第一は、自分の数多の過去生を思い出すこと、第二は生けるものたちの輪廻転生を見ることです。他にも輪廻転生が言及されている経典は枚挙に暇がありません。また、宝経(ラタナ・スッタ)という有名なお経も、その由来は、ヴェーサーリーという町が飢饉や病気や悪霊に苦しめられた時、それらを鎮めるためにアーナンダが唱えた言葉なのだそうです。反対に、どのお経か今すぐに思い出せませんが、占いやまじないをしてはならない、という戒めもあります。

 つまり、今に残されている経典群の中には、いろいろと矛盾する内容が含まれているということです。
 この矛盾を解決するには、二つの方法があります。ひとつは、「凡夫が賢しらに矛盾などと考えるべきでない。経典に書かれていることはすべて正しい」、として、判断停止する、あるいはなんとか矛盾の辻褄を合わせる理屈を考え出すという立場です。
 他方は、「釈尊の元の教えには矛盾はなかったのに、経典が伝えられていく間に釈尊にはない要素が混入した」とする考えです。この立場でも、矛盾しあううちのどれを採るかで、まったく違う見解に立つことになります。

 佐倉さんのお考えは、佐倉さんにお尋ね頂くとして、私の考えは後者です。「他にはないユニークな考えを釈尊の教えと捉え、それと矛盾するものは混入物として排除すべきだ」と考えています。そして、他には見ることのできない釈尊だけの考えは、無常、無我、縁起だと思います。輪廻転生は、それに矛盾するとしか考えられないので、後からの混入だと考えます。

 無常・無我・縁起を私なりに突き詰めていくと、それら三つはひとつのことの三つの側面であり、同じことを言っていると考えるに至りました。そして、この考えは、現在数多ある「仏教」のほとんどすべてとそれぞれ何かしらの部分で相容れないと感じつつ、一方で、進化論や脳科学や認知科学といった科学の知見とは一致する部分が多いと感じています。

 ニブリックさんが、私のHPから「まるで仏教は宗教では無く科学だとさえ思えます」とお感じになったとしたら、上記のような見方によるもので、一般的ではなく特殊な解釈でありますから、どうか眉毛に唾をつけながら批判的に検証していただきたいと思います。

 で、不思議な現象をどう解釈するか、というご質問ですが、仏教の考えというより、私の考えを書きます。

 おそらくは、確率の問題ではないかと思います。交通事故はたくさん起こっていますから、中には奇跡的に無傷ということもあるでしょう。某宗教団体に加入している人が、「心配していたら、ちょうど始まるときに突然雨が止んで日が差してきたり、池の波がぴたっと納まったり、大会のたびに必ず不思議なことがある」と力説していました。雨は降ったり止んだりしますから、ちょうどいいこともあれば、そうでないこともあります。「きっと不思議なことが起こる」と思い込めば、そういう事象を無意識のうちに探しまわり、それを見つけて「やっぱり、今度も!」となるのだと思います。雨男にしても、そういうことになったときだけ、「やっぱりあいつは雨男だ」と印象に残るのです。

 当人しか知らない過去の事を言い当てるというのも、当たった場合だけ騒がれるのではないでしょうか? (一部略)

 それに、本当に秘密の過去や未来に起こることを見通してしまうという霊能者がいたとしても、私は困りません。すごいと思うでしょうし、解明すべき科学の課題が増えた、とは思うでしょうが、無常=無我=縁起に矛盾することではないからです。

 ただ、色身の滅びた後も存在し続ける魂の実在が証明されれば、私は無常=無我=縁起に基づく考えのすべてを放棄せねばなりません。もしそれが事実なら、早く証明して欲しいと思います。間違った考えに固執する気はありませんので・・・。しかし、おそらくそういう証明はけしてなされることはなく、逆に、無常=無我=縁起の確実性が科学によっても積み上げられていくだろう、と思います。

 またご意見お聞かせください。
                                   敬具
ニブリック様
        2007,7,14,                   曽我逸郎

【 07,7,16, HP 掲出に当たって加筆 】

 肝心の質問に答えていないと気づいた。

 仏教は、単に「自分で見るまでは信じるな」と説くものではありません。ですから、ニブリックさんの仰るような「検証科学」ではありません。

 釈尊の教えのテーマは、無用な苦の生産を停止するにはどうすればよいか、という点であって、それに関係しない問題には拘わりあいません。これが無記ということです。
 無記は、一般に十四無記といわれ、苦の解決に関係のない放置すべき問いとして、世界が時間的・空間的に有限か・無限か、などが挙げられています。

 「権威による教えだからといって盲従せず、自分自身でよく検討せよ」というのは、あくまで仏教の教えに関してです。苦の解決に資することのない疑問には近づかないのが、正しい仏教の態度です。

 ところで、十四無記の中には、死後の問いも含まれます。つまり、死後について問うことを、釈尊は禁じておられる。にも拘らず、私、曽我は、この問題に拘り、輪廻転生を否定している。これは、釈尊に逆らう行為ではないか?

 死後の問いへの無記について、私は、一般的でない独りよがりな解釈をしています。
 @ 無常=無我=縁起であるから、色身における反応が停止した後、個として独立して存続し続けるなにかを想定することはできない。薪の尽きた火のように消えるのみである。
 A しかし、無常=無我=縁起を腑に落ちて納得できないうちは、つまり、執着の反応の連鎖であるうちは、「輪廻転生はない」と聞けば、それに対する執着の反応となり、「生きていてもしょうがない。自殺すべきだ」とか「欲望のままなんでも好きなことをすべきだ」とか、短絡的な反応となってしまう。
 B それ故、釈尊は、死後については無記とし、明言を避け、ひたすら無常=無我=縁起を自分のこととして検証・納得することを教えられた。無常=無我=縁起を納得すれば、死後生という考えが執着による妄想であることも分かり、執着の連鎖反応は停止し、平安のうちに慈悲が執着の制約なく働き出すのだから。

 「そうであれば、釈尊に従って無記とすべきではないか。なぜ曽我は死後生を殊更に否定するのか?」そう問われるかもしれません。
 私も、上記@ABのとおり、無記が正しい態度だと考えます。しかしながら、釈尊から2500年を経て、釈尊は無記と教えられたにも拘らず、「釈尊は輪廻転生を説いた」と主張する勢力が多いからです。輪廻転生は、釈尊の教え(無常=無我=縁起)を否定します。釈尊の教えを正しく守り引き継いでいくためには、そういった主張に反対していかねばなりません。もし、すべての「仏教」徒が、「死後の問いについては無記としよう」と合意するなら、私も喜んでそうします。

 最後に、「無記とするためには、積極的にその証拠を見つけねばならない」というご意見に対しては、無記というのは、上に書いたとおり「拘わらないこと」ですので、そういうことはしません。
 また、「輪廻転生を否定する曽我は、その証拠を提示せねばならない」ということであれば、「輪廻転生は無常=無我=縁起と矛盾するし、無常=無我=縁起はかなりの確度で確からしい」と申し上げるほかありません。一般的に言って、ないことを端的に証明することは困難だと思います。例えば、角の生えたウサギが今もかつても地球上に存在しなかったことを明示するのは、不可能です。
 もし、人が輪廻転生することを確実に示す事例が発見されれば、私は私の仏教理解の仮設を根底から解体します。
 

 

ニブリックさんから   2007,7,16,

有難うございます。
2度にわたる御丁寧な返答に感謝しております。

検証科学としての仏教という考え方は勘違いしていたようです。

 釈尊の教えのテーマは、無用な苦の生産を停止するにはどうすればよいか、という点であって、それに関係しない問題には拘わりあいません。これが無記ということです。
大事なテーマを拡大解釈していたようです。
また、
もし、人が輪廻転生することを確実に示す事例が発見されれば、私は私の仏教理解の仮設を根底から解体します。
この言葉を聞いて安心しました。
過去に私が接していたクリスチャンなどは「教理に反する事例が発見されても信じない」という人が結構いました。
ある意味で敬虔なクリスチャンとも言えるのでしょうが、まさに「盲信」です。
昔、地動説を唱えた学者を投獄したり進化論を頭ごなしに否定したり、都合の悪いことは封殺した思想と一緒だと思います。

また疑問があればご意見させていただきます。

有難うございました。

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ