イチシュフさん 「本当にそうなんですか? それで人は救われるのか」 2007,5,23,

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曽我様

こんにちは。
一度メールさせて頂いたことのある○○といいます。
お忙しい中、お返事をありがとうございました。

あれからも読ませて頂いているのですが、
なにしろ膨大な量なので、なかなかまだ全部は読みきれずにいますが(すぐに時間がたってしまい、夜の睡魔には勝てません。)
少しずつですが毎日のように読ませて頂いています。

輪廻転生に関して、意見交換がおもしろい?(語弊があったらすみません。)ですね。
輪廻転生があろうとなかろうと、前世を覚えている人なんていないし、
「魂じゃない、こころのエネルギー、因縁なんだ」を引き継いだとしても、
どのみち後世引継ぎ、生まれてくるのは、
今執着している「この私」ではないのだから、
結局生への執着、死への恐怖には、関係ないことなんだろう、と思いながら、
興味半分もあってか、その話題についての意見交換のページはだいぶ読ませて頂きました。

曽我さんは、無価値、無目的な生を、人にも自分にも
なるべく苦を生み出さず、いかに軽安に生きるか、と
書いていらっしゃいました。ご意見に納得できます。
そして、無常=無我=縁起が腑におちることこそが、その道だ、
涅槃に至る道だということですよね?
本当にそうなんですか?
本当にそうか、なんて失礼な書き方をしていますが、(以下の文も)
ひとえに教えを請いたい、という気持ちで書いています。

お釈迦さまが真実何を悟り説かれたかについて、後世加わった余分なものをそぎ落とすと、曽我さんが言われていることこそ、
論文の中のブッダダーサ比丘がおっしゃっていることこそが真実のように、感じます。
ただわからなくなるのは、それで人は救われるのか、ということです。
無常=無我=縁起が腑におちるところまで行く人なんて
本当に数少なく、とても難しいことですよね、きっと??
多くの凡夫はどうしたらいいんですか?
そして「そうか、自分は執着しても仕方のないものに執着してたんだ」
と、腑に落ちると、本当に「私」への執着が消えるんですか?
死を前にしても、こわくないんでしょうか?

今、「千の風になって」が流行っていますよね。
あの歌によって愛する人を亡くした人たちが沢山癒されていると聞きます。
理不尽な死を前にした時、愛する人はあの世で幸せにしている、
あの世で愛する人たちにまた会える(歌のニュアンスと違うかな?)
と思っていた方が
別れの悲しみ、死への恐怖から人を救ってくれるのではないでしょうか?
(科学が発達した現代、心の奥底では、
脳が機能しなくなったら、私というものは消えて無くなるのだ、と
多くの人は思っていたとしても)

<一部略>

燃え尽きた蝋燭のように消え去るのみ、という覚悟で人生に臨む時、
与えられたこの一瞬に集中、軽安に生きていくことを積み重ねていくこと、
そして、慈悲を持った人間になることができますか?

すみません、それと、腑に落ちるために、自己を観察するとは
瞑想をすることが必要なんですか?
(仏教についてよくわかってなくて初歩的な質問ばかりですみません。
実はHP読んでても、難しい言葉等はついつい飛ばし読みしてしまっています。。)

個人的なことまでたくさん書いてしまってすみません。
お忙しいことと思いますので、お返事頂けたらうれしいですが、
ご無理のない範囲で、本当に結構です。
またずーっと後日でも構いません。

もし万が一、このメールがHPに載るようなことがある場合は、
<一部略>、また匿名(「イチシュフ」とでも)にてお願いします。

 

曽我から イチシュフさんへ  2007,6,1,

拝啓

 メール頂戴し、ありがとうございます。熱心に読んで下さっているそうで、大変嬉しいです。少し怖いような気もしますが、、。

 では、早速に。

> 腑に落ちるために、自己を観察するとは瞑想をすることが必要なんですか?

 おそらく必要だと思います。定における自己観察なしに腑に落ちることは、幸運であれば起こり得るかもしれませんが、精進して腑に落ちるためには、それ以外の方法は、今の私には思い浮かびません。少なくとも、間違いなく有効な方法だと思います。釈尊も薦めておられますし…。

 正見、つまり言葉・理屈で学んで正しい見解を持つことは、まず第一に必要なことですが、それだけでは自分のこととして納得できない。ちょうど「人は皆死ぬ」と理屈では分かっていても、自分が刻々と死につつあることはなかなか実感できないように。

 無常=無我=縁起を自分のこととして実感するためには、定における自己観察が必要だと思います。定における自己観察というのは、普段の私達は荒れ狂う海のごときカオス状態にあり、観察しようにも一体なにがなんだか分からない混乱状態にあり、変化が激しすぎて観察不可能なわけです。それをなんとか鎮めて、観察可能な静謐な状態にして、無常=無我=縁起を自分において確認する。

 ただ、しかし、気をつけなければいけないのは、瞑想というと、「妄想を滅して、その奥にある本当の自分を見出す」というような発想に陥りがちなことです。こういう発想は、梵我一如に他なりません。釈尊は、無我と教えられた。すなわち、本当の自分なんてない。普段日常の執着し妄想している私、それだけが縁起している。その中にはなんの実体もない。薄っぺらい妄想の泡、それが私です。空(シューンヤ)の原義は、void、empty、まさに空っぽということです。妄想を取り除いても、何も出てこない。定における自己観察とは、妄想をなくすことではありません。勿論、普段のままでは沸騰したお湯のような状態ですから、とても観察などはできません。まず鎮めなければなりませんが、その上で静謐な中にぷつぷつと妄想の湧いてくる様を観察するのです。

 比喩を思いつきました。子供のシャボン玉遊び。ストローの先にコイルのようなもじゃもじゃがついていて、いきおいよくプーッと吹くと、小さなシャボン玉が無数に飛び出す。ひとつひとつのシャボン玉が、そのつどの煩悩・執着の反応で、それはvoid、中身のない空っぽの泡。ストローはさしずめ色身で、そこで次々と湧き上る無数の泡、執着・煩悩の反応が私です。

 実は、先日、東京近郊に行ってきたのですが、伊那谷の村と違い、本当にたくさん人がいます。携帯で仕事の報告をする人、たわいもないおしゃべりに興じる女性達、安っぽいけれど小ぎれいに身なりを整えた男の子が女の子にビラを渡しながら話しかけたりしていました。
 街に溢れる人々は、皆、身体がストローで、それぞれが絶え間なくいろいろな色・艶の無数の細かなシャボン玉を吹き出し、シャボン玉は生まれるそばから消えていく。儲けを皮算用しながら歩いているおじさんのシャボン玉は、濁った金色だったけれど、若者にぶつかられた瞬間、赤くて角が生えたシャボン玉がどっと湧き出す。駅前の交差点をそんなふうに、さまざまにシャボン玉を吹き出しながらストローが行き交っている。そんなふうにながめるのもおもしろいと思いませんか? 勿論、身体がその人たちではなく、吐き出されてはたちまち消えていく無数の泡が、その人たちなのです。

 泡というと、それもまた実体的なイメージを喚起してしまうかもしれません。そのつどそのつど縁に応じて起こされる執着・煩悩の反応、それが私達です。それが私達の如です。
 「真如」などといわれると、「現象界を超えた、あるいは現象界の底にある真実のなにか」、を想像してしまいがちです。それは、私達が自然に陥る梵我一如的発想です。本当は、そうではなくて、縁によって現象が現象によって起こされていること、すなわち、私達の普段のあり様、それこそが「如」なのです。
 見えている表面の他はない、表面以上はない。表面の内奥もない。見えている表面がすべて。執着・煩悩という皮しかない。執着・煩悩という皮をむいても、なにもない。無常=無我=縁起を観察するということは、泡の発生を観察するということです。にもかかわらず、私達は、なにか「本当の私」(我)を妄想し、瞑想でそれを見つけようとしてしまう。一生懸命瞑想に励んで妄想を「滅した」挙句、お望みどおり、崇高な光の固まりだとか、そんなものを発見して、はしゃいでしまう。しかし、それもまたひとつの妄想なのです。そして、無常=無我=縁起とは正反対の梵我一如に転落し、なんとかそこに安住しようとじたばたし続けることになるのです。

 凡夫は、内実のない、そのつどの煩悩・執着の反応の連続です。では、仏はどう違うのか? 仏には、内実(我)があるのか? そんな筈はありません。仏とて、無我なるそのつどの縁による現象。凡夫と同じです。根本的・構造的に違う生命体になるわけではない。空腹感も覚えるし、疲れたり病気のときは、休みたいとも思う。
 「アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」。(大パリニッバーナ経、中村元訳)
 ただ、ひとつ異なる点は、仏は、自分が、煩悩・執着の反応だということを知っています。凡夫は、自分が煩悩・執着の反応であることを自覚しないから、煩悩・執着のままに突っ走り、怒り、憎しみ、殺し、奪い、妬み、嘆き、、、人と自分をとんでもなく苦しめています。それに対して、仏の煩悩・執着は、苦しめるところまで燃え立たない。第二の矢がつがえられることもなく、目的といった考えに縛られることもなく、軽安で穏やかな反応となる。先ほどの比喩で言えば、透き通った細かな泡が穏やかに生まれては消えるだけ。

 これは、立派な救済ではないでしょうか? 私は、これ以外の救いは、思いつきません。

 永遠の生命を得る? 神の子として神の国に迎え入れられる? 宇宙と一体となる? そんなのは皆、ねじれた煩悩の発露です。大きく膨らんだ歪で濁ったシャボン玉です。自分を何かひとかどの、意義ある「存在」だと思いたいのです。自分が縁によるそのつどの反応だと納得できれば、「ひとかどの存在であるはずだ」というような思い上がりも焦りも、解消されます。

> 無常=無我=縁起が腑におちるところまで行く人なんて
> 本当に数少なく、とても難しいことですよね、きっと??

 確かに「とても難しいこと」だと思います。釈尊が、「説法しても無駄ではないのか」と考えられたくらいですから、、。
 しかし、本当に難しいのは、無常=無我=縁起が腑におちるところまで行くこと、ではなくて、無常=無我=縁起の教え・釈尊の教えに関心を抱くこと、です。ほとんどの人は、執着の楽しみに耽り、禁断症状に陥り、ますます執着を深め、自分と人を苦しめ、その結果ますます執着を深めるばかりなのですから。
 無常ってどういうこと? 無我ってどういうこと? 縁起ってどういうこと? こんなふうに疑問を持つことができれば、既に方向は変わっています。そして権威に頼らず、自分で注意深く検討していけば、少しずつでも着実に釈尊の教えににじり寄っていける筈です。

> 多くの凡夫はどうしたらいいんですか?

 幸運にも疑問を持つことのできた凡夫は、精進・努力するだけです。途切れ途切れ、さぼりながらでも、続けることです。

> 「そうか、自分は執着しても仕方のないものに執着してたんだ」
> と、腑に落ちると、本当に「私」への執着が消えるんですか?

 腑に落ちるところまで行かなくとも、無常=無我=縁起を理屈で考えているだけでも、執着は結構薄まるように感じます。執着のまま無自覚に反応しているのとは、ずいぶん違います。
 三学の最初である「戒」を、完全に守れなくても、意識するだけでもずいぶん違う。今の自分のありように気をかけ、よくない反応をしている時に気づくこと。執着のまま突き動かされ欲のまま突っ走っているのとは、雲泥の差です。

> 死を前にしても、こわくないんでしょうか?

 実際にピストルや刀を突きつけられて、まったく動じないという自信はありませんが、案外ひょっとすると、「あぁ、私は、こういう最期なんだ」と他人事のように思うかもしれません。
 高齢のおばあさん方の中には、将に迫りつつある自分の死を、実に冷静に淡々と客観的に語る方がおられ、おそらくは凡夫なのでしょが、そういう場面に出くわすと、凡夫もなかなか大したものだ、立派なものだ、と感じさせられます。

> 燃え尽きた蝋燭のように消え去るのみ、という覚悟で人生に臨む

 「、という覚悟で人生に臨む」といった大袈裟な力の入った感じではないです。淡々としみじみとほのぼのと、縁のまま消えていく、、。

・・・・・・
 イチシュフさんからのメールへの返事を上のように書いてきて、書き方が変ったことに自分で気づきました。これまでは、イチシェフさんも書いておられるとおり、「執着がなくなる」と言ってきました。しかし、そうすると、執着のなくなった後の反応をどう考えるべきか? 執着の代わりに、なにか「仏の反応パターン」が現れるのか?
 言い方の問題に過ぎないのかもしれませんが、言い方によってミスリードすることもあります。「仏教」の歴史は、誤解による逸脱の積み重ねです。なるべく誤解を生まない言い方をしなければいけない。
 「仏の反応パターン」という言い方をすると、目指すべきなにかとして受け取られ、やがて「真実のあり方」といった梵我一如に転落していきかねません。
 仏といえど、空腹感や疲労感はある。それは、執着とまで呼ぶのはふさわしくないかもしれませんが、生命の普通の反応です。生命の基本的反応と執着・煩悩とをかっちり分けることは不可能でしょう。仏も凡夫と同じ反応を共有しているのです。
 かつて、安泰寺堂頭でいらっしゃるネルケ無方さんから、「執着を滅する、などということが可能か?」との問題提起を頂戴しました。もっともな疑問で、今日、おそらくは仏も凡夫と同じ反応パターンを共有している、と思うに至りました。飢えや渇きといった生命の基本的なホメオスタシス維持の反応は勿論、執着や煩悩も、そして勿論慈悲の反応も、凡夫と仏に共通です。

 ただ、仏は、自分が縁によるところの無常にして無我なるそのつどの反応(湧き出す泡)だと承知しているから、執着が縁となって新たな執着を起こし、執着が拡大再生産されていくことがない。第二の矢、第三の矢、・・・と次々と太く鋭い矢がつがえられていくことがない。執着が拡大再生産されていくのが凡夫であり、最初の一つ目か二つ目ですぐ終わるのが仏だと言ってもいいでしょう。後に続かないなら執着とはいえない、という考えもあるかもしれませんが、それは言葉の定義の問題で、要は、仏も凡夫も、反応のパターンは共通であるが、仏は無情=無我=縁起を納得しているために、その現れ方に違いが生じる、ということだと思います。

> 今、「千の風になって」が流行っていますよね。

 この歌は、二、三度耳にしたことがあり、一度は歌詞カードを配られて唄わされたこともありますが、きちんと詩を覚えている訳ではありません。ですからいい加減で勝手な印象ですが、私はなんとなく、「墓にも仏壇にもおらん。死んで世界に雲散霧消する≒薪の尽きた火のように消える」と言っているように思っておりました。そんな歌が流行るなんて結構すごいな、とも思っていたのですが、なるほど、皆それぞれ違う読み方をしているのでしょうね。

<一部略>

 また是非ご意見や疑問をお聞かせください。
                               敬具

イチシェフ様 (ひょっとすると料理のプロでいらっしゃいますか?)
イチシュフ様 (私の眼も悪くなっている。形あるものは、やがて… 07,6,24,)

         2007,6,1,                曽我逸郎
 

 

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