genさん 「一切皆苦」そして「森田療法」 2007,5,10,

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こんばんは
ホームページ興味深く拝見しました。

BRAIN

私は精神科医をしております。
徒然なるままに思っていることを述べます。

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「一切皆苦」そして「森田療法」

仏教ではこの世の中は「一切皆苦」(すべてのものは苦しみである)といっています。ここで大切な点は、仏教でいう「苦」とは、「苦しみ」ではなくて「自分の思い通りにならない」ということだと思います。

文字通りにとらえられていて、誤解されている概念でだと思います。

くりかえすと「苦」とは苦しみではなく、「自分の思い通りにならないこと」です。

人生は「諸行無常」であるがゆえに、「思い通りにならない」。したがって子どもが親より先に死ぬような人生で最悪の不条理がおこるのです。

そもそも、生まれてきたこと。これは選択の余地はありません。老いること。これもどうしようもありません。病むこと。好きで病気になる人はいません。死ぬこと。すべての人に必ずおとずれます。以上の生老病死を四苦といいます。

[苦」をうけいれること
苦は自分ではどうにもならないことなのです。それなのに、どうにかしたい、どうにかしよう、逃げたい、のがれたい、消し去りたい、と思うと文字通りの「苦」になってしまいます。それにしてもどうして世の中これほどまでに思い通りにならないことばかりなのでしょうか。
それは、すべてのものは移ろいゆく、諸行無常であるがゆえなのです。すべての存在、そしてあらゆる現象は生じて、そして滅してゆく、私達もその流れのなかにあります。ですから自分ではどうしようもないことばかりなのです。「諸行無常」を正しく理解して、「何事も自分の思い通りにはならない」ということを受け入れることが大切なのです。すべてのものは生じ、変化し、そして滅するというのに、私達は目の前のものに執着したり、また「自分」にとらわれたりしてしまいがちです。

しかしこれは理屈では分かっても、実際に我が身のこととして実行することはたいへんむずかしいと思います。自力で血のにじむような努力をするか、専門の医師にかかる必要があるかと思います。

ここで「森田療法」についてお伝えします。
東京大学出身で東京慈恵医大の精神科・教授の「森田正馬」(もりたまさたけ)博士があみだした治療法です。大正から昭和初期に完成され、実質上「仏教」の教えが基礎になっています。基本的に「うつ病」は投薬で治療を要します。しかし症状が改善しても、ある程度症状が長引いて、いわゆる「抑うつ神経症」となっているときに効果があると思います。
つまり「不安」「抑うつ」といった感情を治そう治そうとするから、かえってその症状に「とれわれ」そこに絶えず意識が集中して悪循環におちいっているという説です。「外相整えば内相自ずから熟す」と言います。まず形を作れば、心は後からついてくるというのです。
「うつ」で悩む人は、「うつ」がなくなり精神が集中したら勉強を始めようと考えます。一心不乱に集中してやらなければ能率が上がらないと思うからです。しかしそれではいつまでたっても勉強することはできません。やる気がなくても何でもいいから、ともかく机に座ってノートと教科書を開くのです。気持ちが落ち込んでいても、とにかく仕事に手をつけることです。そうすればいつのまにか「うつ」から離れている自分に気がつきます。

徒然なるままに

宜しければお返事いただければ幸いです。

 

曽我から genさんへ  2007,5,11,

拝啓

 メールありがとうございます。

 苦とは、「思い通りにならないこと」であり、それを受け入れることが大切だ、とのご意見を頂戴しました。

 同感です。私のいつもの言い方とは異なりますが、おそらくは同じことを言っておられるのだと感じます。

 私は、「ほとんどの苦は人が作っている。人は苦を生み出し、自分と周囲の人に与え、互いに苦しめあっている。」と思っています。いわゆる「第一の矢、第二の矢」です。第二の矢は、第一の矢や第二の矢をきっかけ(縁)にして、連鎖反応的に拡大再生産されていきます。第一の矢に比べて、第二の矢のほうがはるかに多く、かつ深く刺さる。第二の矢の原因は、執着です。執着とは、genさんの言い方に倣えば、「思い通りを求めること」でありましょう。

 第二の矢をなくす方法は、執着をなくすことだと考えます。執着をなくすには、自分をはじめとする執着の対象が、無常=無我=縁起であり、執着することができないことを腑に落ちて納得することだと思います。このことを、genさんは、「思い通りにならないことを受け入れること」と言っておられるのでしょう。

 しかし、このように考えながらも、「思い通りにならないことを受け入れる」と言われると、どうもニュアンス的に私の感じるところと少しズレがあるような気もします。無常=無我=縁起の納得は、けして我慢とか忍従とか諦観といったものに尽きるのではありません。
 「なーんだ、そうだったのか、なるほど確かにそのとおり、私は、無常にして無我なる縁起の現象だ。これに執着しようとするほうがおかしい。不可能だ。こんな無駄なことに私は血道を上げていたのか。なんと愚かであったことか!」
 つまり、馬鹿馬鹿しさの認知であり、厚い雲間から日が差したような開放感でもあると思います。

 偉そうなことを申しましたが、その一方で、他の人の苦に対して、自分があまりにも無力であることも自覚しています。大乗風に言えば、方便力がない、ということです。
 最初に頂いた、公開しないお約束のメールに、前のお仕事での重い出来事を書いて下さいました。そのことに苦しんでおられる genさんやお相手の方に掛けられる言葉を、私は持っていません。相手の方の苦しみは、理屈で言えば執着なのでしょうが、そんなことを申し上げてもかえって怒りを呼ぶだけで、苦を減らすことにならないのは分かりきっています。genさんの苦しみは、並外れた責任感の故でありましょうし、もし genさんが私のように「なーんだ、無常=無我=縁起だ。馬鹿馬鹿しい」と無責任に開き直ってしまわれたら、それも間違っていると思います。自分や人の苦しみや悲しみをしっかりと受け止め、流されず、きちんとたたんで、自分の中にしまっておけるようになりたいものです。genさんのおっしゃる「受け入れる」というのは、このことでしょうか。

 森田療法については、名前は聞いたことがありますが、内容は何も知りません。「とにかく手をつけること」というのは、「自分によい癖をつけて、自分という反応の反応の仕方を整えていくこと」につながるのかもしれないと思いました。

 またご意見・ご批判お聞かせください。

                            敬具
gen様
      2007,5,11,             曽我逸郎
 

 

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