kataさん ブッダって本当にいたんですか? 2007,4,25,

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はじめまして。

ばかばかしい質問とお思いでしょう。

実際、テーラワーダ仏教協会の掲示板に質問したところ、「お前は中学校を出たのか?」なんていわれました。
彼らは、信者なので、そんなこといわれて腹をたてたでしょう。
しかし、腹を立てるなんて、慈悲の心がないなーと思いました(笑)。

しかし、これは、重要な点だと思うんですよね。
だって、正直、キリストだって本当にいたのかよくわからない。
まして復活したなんて信じられない。

ブッダだって、生まれた瞬間に「天上天下唯我独尊」といったなんて、とても信じられない。
もしかして、教え(考え方)だけがあって、あとは作り事なんじゃないのか、と思ってしまいます。
真理のわりには、脚色があまりにも多いのではないか思います。

2500年も前の話です。とても信じられない。
正直、お隣の立派な自治会長さんのほうが信じられる。
完全ではないけれど、立派な先生のほうが信じられる。

仏教はよいことをたくさんいっていると思います。
仏教徒からすれば真理を説いているのでしょう。

しかし、真理に近づきたい人っていうのは、ある意味現実から逃げている人も多いと思うんです。
もちろん、真剣な人もいるとは思います。
でも、数は極めて少ないでしょう。

つまり、現実から逃げるために仏教を利用してるだけで、実は、余計に苦しんでいる人も多いと思うんですよね。
宗教というのは、本当に人間としてやるべきことをきっちりとやって、それでもなお余裕のある人が、人間としてよりも、生命としての完成を成し遂げたい、というような人が行き着くところ、だと思うんです。
でも、実際は、現実生活に適応できない人が、安易に宗教の世界へ行って、現実世界を攻撃するための武器にしている、という状況も多いと思います。
つまり、お前は仏教が分かってない!ブッダは存在したに決まってんだろーが!と我々一般人を攻撃するわけです。
これは、慈悲の心じゃないですよね。
こういう輩に出会うと、フツーに生きるのが一番だな、とつくづく思います。

正直、無常だとか無我だとかいってる暇があったら、ちゃんと子供育てろよー、ちゃんと仕事しろよー、という人も多いんです。
人生をうまく生きていけない人が、仏教なんて無理だと思うんですよね。
でも、多くの人は、仏教を人生に生かそう、なんて考えてる。
それは、まったく間違っていると思います。
仏教は完成への道だと思います。
人生は途中なんですよ、きっと。

だから、仏教って現実にはそれほど役に立ってないんじゃないかと思うわけです。
いや、そもそも仏教というのは、人生に役立てるものではない、ということでしょう。
そう、仏教なんて、役立たないんですよ。役立つはずもない。
それは、仏教だけじゃなくて、宗教一般でもそうですね。

質問からずれて、愚痴になっちゃいましたが、仏教は、人生に役立てるものじゃなくて、完成のためのものだ、と本当の意味で仏教に携わる人々は、声を上げていうべきだと思います。
あなたは、まともな仏教徒だと思いましたので、提言させていただきました。

 

曽我から kataさんへ  2007,4,30,

拝啓

 メール頂戴いたしました。ありがとうございます。

 釈尊が本当におられたかどうか・・・。「本当に」と力を込められると、私も直接お会いした訳ではなし、言いよどんでしまいます。しかし、実在の人物であるに違いないと思います。勿論「天上天下唯我独尊」をはじめとして、たくさんの神話で脚色されていますが、そういうものを取り除いたところに、それらの物語が付加されるもと(タネ)になった歴史上の釈尊がおられた筈です。詳細には文献学や歴史学の先生方がいろいろな研究をされているでしょうが、私はその方面に疎いので、そちらはkataさんご自身であたって下さい。

 私が釈尊の実在を信じる理由は、無常=無我=縁起という信じられないほど深く単純な気づきが、凡庸な人々の集団から自然発生的に生まれてくるとは思えないからです。ひとりの極めて非凡な人間が、もがき苦しみながら徹底的に突き詰め、既定の発想のすべてを突き抜けて、ついに到達した気づきに違いありません。
 釈尊についての物語は数々あり、そのうちのどれが事実でどれが神話か、学者の先生方の研究に期待しますが、ともかく無常=無我=縁起に気づいたひとりの天才がいた筈で、その人を釈尊と呼べばいいと思います。(極端に言えば、仮にその人が釈迦族でなかったとしても)

 少し横道にそれますが、縁起に関して補足・・・。仏教か仏教でないかを見分ける基準とされてきた法印では、三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)でも、四法印(諸行無常・一切皆苦・諸法無我・涅槃寂静)でも、「縁起」という言葉は入っていません。どなただったか学者の先生が、「経典において縁起が言及される箇所ではサーリプッタとの関連が強く、縁起は釈尊ではなくサーリプッタの考えだったのかもしれない」と書いておられました。縁起は、パーリ語では paticcasamuppAda という長たらしい言葉で、確かにあまりこなれていないように思え、智恵第一のサーリプッタが考え出した用語かもしれません。しかし、そうだとしても、四聖諦(苦・集・滅・道)がすでに縁起説ですし、縁起は、無常=無我と表裏一体の考えです。縁起という考えは、釈尊の教えの中に既にあり、それをサーリプッタが言葉にした。偉大なる釈尊が、無常=無我(=縁起)に気づき、それを人々に説き、サーリプッタがその教えを深く理解し、別の角度からそれを縁起という言葉であらわし、釈尊もそのとおりと承認された。そうなふうに想像します。

 次に、仏教と真理について。
 「仏教」には、梵我一如思想や輪廻転生など、さまざまな反仏教思想が混ざりこんでおり、「仏教」のすべてが真理などとはけして言えませんが、仏教は真理だと思っています。
 私の考える仏教とは、こういう教えです。「人々はみずから苦を作り(第二の矢)、自分を苦しめ、人を苦しめている。その理由は、無常=無我=縁起を知らず、自分をはじめとする執着の対象が不変の価値を持って存在し続けると誤解しているからだ。自分をはじめとする執着の対象が、無常=無我=縁起であり、執着のしようがないことを納得せよ。そうすれば、苦の生産は止まり、涅槃に安らぐことができる。」
 これは真理です。しかし、仏教は真理だから追求するというものではありません。仏教は、知的好奇心による科学とは異なります。苦(自分の苦、世の中の苦)にどう対処するか、という教えです。このことに実効を上げるためには、勿論真理でなければなりません。間違っていれば、苦を減らすどころか、かえって苦を増やすことにもなるでしょう。そして、おっしゃるとおり、現代の世の中の「仏教」には、真理でもなく、かえって苦を増やすものがとても多いことは残念なことです。

 ちゃんと子供を育て、ちゃんと仕事して、普通に生きることに安住できれば、それでもいいのかもしれません。しかし、ほころびは必ず生じます。何不自由ない満ち足りた生活の方が、かえって深刻な問題に直面せざるを得なくなるようにも思えます。若かりし頃の釈尊のように(これも神話的脚色でしょうか?)・・・。
 子育てや仕事に適度に忙殺されて一生を終えるのが一番幸せかもしれません。しかし、ずうっとちょうどいいまま、という訳にはなかなかいかないでしょう。解決できない問題に直面したとき、人は宗教に救いを求めます。宗教は、超越的なものを立てて、問題を棚上げにします。仏教は、「無常=無我=縁起をしっかりと納得できるまで見よ」と言います。苦に対処するのが宗教であるなら、仏教は宗教ですし、超越者を立てるのが宗教であるなら、仏教は宗教ではありません。無常=無我=縁起は、あらゆる超越者を否定します。

 仏教が何かの役に立つのかどうか? 役に立つというのは、「何かの目的があって、そのための手段になる」ということですよね。私は、仏教(無常=無我=縁起)は、一切の価値を無効にする、瓦解させる、と考えます。だから、仏教は何の役にも立たない。
 理屈の上ではそうなのですが、執着がなくなっていけば、その分慈悲が働き出します。人々が無常=無我=縁起を知らないまま、執着しても甲斐のないものに必死になって執着し、自分を苦しめ、人を苦しめ、互いに苦しめあっていることに心が痛みます。人々に無常=無我=縁起を知ってもらい、執着を薄めて、世の中の苦が減って欲しい、苦しむ人が減って欲しい、と思います。無常=無我=縁起が広まれば、世の中の苦は少しは減らせる、仏教はそういう役に立つ、と思うのですが、道は絶望的なほどはるかに遠い。でも、諦めてはいけませんね。細々とでも頑張っていく他ないと思います。

 またご意見ご批判お聞かせください。
                                  敬具
kata 様
       2007,4,30,                   曽我逸郎
 

kataさんから  2007,4,30,

曽我様

 お返事ありがとうございます。

 あなたのように、まともな仏教徒がいることを確認できて安心しました。

 ただ、あなたは、きっと、まともに現実生活を送れる人なんでしょうね。
 宗教は、現実生活をある程度まともに送ることができる人にとって、はじめて意味を持つものだと考えるようになりました。

 しかし、多くの人は、現実逃避や現世利益のために宗教を使っています。

 つまり、異性や世間とうまく付き合えない人が、欲望からの解脱と称し、宗教に逃げ込んでいる人も多いと思います。
 実は、仕事や家庭の責任から逃れるために、宗教に逃げている人も多いです。
 だって、まじめな話をされたら、こちらも批判しにくくなるのです。
 「ブッダ」の名を表に出されると、一般人は、なかなか批判できません。
 地獄に落ちるぞ、なんて批判されそうでね。
 しかし、「ブッダ」を隠れ蓑にしている人は、多いですね。
  「キリスト」でもいいのですけど。
 いや、「真理」を隠れ蓑にしている、といってもいい。
 でも、「まじめ」というのはカモフラージュで、単純に逃げているだけのことも多いですね。

 本当に、「まじめ」なのか、「ただ逃げているだけ」なのか、なかなか判別が難しいです。

 現実の世界で、ある程度仕事をして、結婚して、子育てして、社会貢献して・・・そういう、普通にやるべきことをやった人が、宗教の意味を、体系的というか、本質的に分かることができるんじゃないでしょうか。

 そういう意味では、多くの人には、害になることも多いと思います。
 とくに、最近のスピリチュアルブームは、単なる現実逃避だと思います。
 スピリチュアルブームは、「仏教」を害するものですよね。
 だって、「私はブッダです」なんて公言してる人はいっぱいいますし。
 あれじゃ、仏教の威厳というか、信頼は落ちますよ。

 仏教は慈悲をモットーとしていますから、ああいう自称ブッダを取り締まりませんもの。
 「真理」の濫用もはなはだしいですよね。
 「無常」「悟り」「解脱」などなど。
 あれでは、仏教の濫用状態ですね。

 いやいや、テーラワーダの仏教徒でも、現実から逃げてる人はいっぱいいますし。

 仏教の敵は、仏教を利用する人たちではないでしょうか。
 いや、真の敵は、偽仏教徒ではないでしょうか。
 こういう問題点について、真の仏教徒の方々はどう考えているのか、すこしお聞かせください。
 野放し状態は続くのでしょうか。

 僕は、まだ、まともな人生さへ送っておりませんので、まともな人生を送るようにがんばります。
 仏教は、ちょっと難しすぎる、というか、高度すぎます。
 年をとってから、やるべきことはやったかなー、と思えてから、そのときにもう一度仏教に触れたいな、と思います。

 それでは失礼します。

kataさんから再び  2007,4,30,

申し訳ありません。
もうひとつだけお聞かせください。

在家と出家の話です。

僕は、一度出家を考えたことがあるんです。
天台宗なんですけどね。あるお坊さんに、比叡山にいかないか、とすすめられました。

しかし、勇気がなく、そのまま返事を保留していました。

そんな中、テーラワーダに出会ったんです。
きっかけは、手塚治虫の「ブッダ」という漫画や、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」でした。

そして、テーラワーダの長老の本を読み漁りました。
日本の仏教は、「真の」仏教ではないことや、般若心経のうそや、いろいろ目からうろこでした。
しかし、以前から、空の理論や、大日如来にや、護摩供養など、うそっぽいなーと疑っていたので、もう、のめりこみました。

ただ、のめりこんだものの、結局「無常」についてはよく分かりませんでした。
理屈では分かりますよ。
しかし、本質的には分かりません。
といいますか、分かれば、それが「悟り」であり、「解脱」なのでしょう。

正直、在家では、「悟り」は不可能ではないか、と、思うのです。
本当の「悟り」とは、出家が最低条件ではないか、と思うのです。
もちろん、経典には、出家しても、いつまでたっても悟れない比丘の話がありますね。

在家者でも、出家者にたいして、布施をすることで、功徳になる、なんていいますが、あれは、ほとんどご愛嬌でしょう。
実際は、在家では、ほとんどなんの意味もないのではないでしょうか。
もちろん、出家者とつながりを持つことで、俗世の愚かさを多少は回避できる確率が高まるかもしれませんが。

つまり、解釈では限界があります。
なんといいますか、実践が必要なのです。
実際にすべて捨てる必要があるのではないでしょう。
すなわち、言葉もすてるし、パソコンも捨てる。
全部捨てきらないと、意味ないのではないか、ということです。

テーラワーダの長老が「解脱」しているとは、到底思えません。
すぐ怒りますし・・・。
しかし、ずいぶん悟りに近い方だと思うのです。

というのも、12,3歳から、出家しているわけです。
これは、ものすごいことです。
あの年頃から、俗世を捨てているわけです。
これは、日本人には理解できないほどすごいことです。
日本じゃ、幼児虐待になりますね。
義務教育も放棄ですし。

母親も捨て、恋人も捨てる。
彼は、セックスもしらないでしょうし、子育てもしません。
セックスしなければ、夢精するでしょう。
精子は生産されますから。しかし、そんなことにも頓着しないのでしょう。
生物学的なことは、食事以外は、すべて捨てています。
ただ、「食欲」は捨て切れていないようです。
だから、悟ってはいないと思いますが・・・。

しかし、正直、これはまねできないな、と思いました。
僕は、捨てることができません。
これは執着です。

「食欲」以外はすべて捨てた出家者と、「食欲」「性欲」「睡眠欲」など、数々の欲を捨てていない在家者では、やはり、世の中は違って見えてしまうのは、当たり前ではないか、と思うようになったのです。
つまり、「無常」の理解だって、天と地の開きがある。

僕は、最初、在家でも、理屈の解釈で結構いいところまでいけるのではないか、と甘く考えていました。
しかし、やっぱり壁にぶつかりました。
言語の解釈では、あるレベルまでしか到達しません。
仏教学者が悟れないのはこのためでしょう。
彼らは、実践はなにもしていないのです。
欲を捨てるどころか、仏教の研究で地位や名声を得ています。
言語から離れないといけないのに、言語に執着しています。
言語の解釈で悟れるならば、万巻の書を読破し研究した偉大な仏教学者は、次々に悟りをひらけるはずなのです。
しかし、多くの仏教学者は、悟れずに苦しんでいることを、自身の書で告白しています。

まじめな仏教学者は、かえって苦しんでいます。

最新の脳科学では、いわゆる解脱という状態・主客未分の状態では、ある脳神経が特殊な状態になっているそうです。
立花隆の「僕の血となり肉になった500冊・・・」という本にありました。

その状態に持っていくには、どうしても、言語的解釈では限界があり、実践が伴わないと、無理なのではないでしょうか。
つまり、出家状態で、「ヴィパッサナー瞑想」をしないと、ほとんど意味がないのではないでしょうか。

だいたい、それでも無理なのでしょう。
だって、もし可能ならば、今頃スリランカは、仏教王国はなざかりで、争いのない、平和な国のはずですから。

しかし、実際は、スリランカは、シンハラ・タミル両民族の間で、争っています。
そして、貧困に苦しみ、日本旅行者に、「日本に連れて行ってくれ」と、スリランカ人が懇願することも少なくないそうです。

ミャンマーは軍事政権。
ブータンはただの辺境でしょう。ブータンが平和なのは、仏教の力というより、気候や地形、つまり、地理的条件の力が大きい。

正直、だれも、仏教国に移住したいとは思わない。
世俗まみれですが、やっぱり日本のほうがいい。
聖徳太子の「和の思想」は、なかなか優れものだと思います。
あれで、結構うまくいく。

これが現実です。
悟りまでの道のりはあまりに遠い。
悟りの道へ入ったために、かえって悲劇に陥る人もいる。
悟りの誤用・悪用の問題。
麻原とかね。

仏陀という、超天才だったから、悟れたのではないでしょうか。
モッガラーナやサーりプッタも上に同じ。

凡人が天才に従っても、かえって消化不良で、害になることも多いような気がします。

幼稚園児が大学で授業を受けても、意味があるでしょうか。
部分的な真理を得ても、かえって害になる。
真理はすべてを会得しないと。

だから、仏教は、出家者だけのものでしょう。
建前としては、みなに隠さずすべて公開する、となってますが、事実上は違う。
一般人に、相対性理論の論文を公開したところで、なんの意味もないでしょう。
あれは、大学・大学院で、物理学を専攻した人だけが読める代物です。

仏教も同じ。
出家者となってはじめて、ブッダの教えの一端がなんとか分かるようになる。
所詮在家では、耳垢程度しか分かっていない。どんなに理屈をならべても。
そういうことではないでしょうか?

曽我さんはどうお考えですか?

 

曽我から kataさんへ 現実生活への逃避 2006,5,3,

拝啓

 「仏教」は、現世利益や現実逃避の手段として使われているのではないか、との問題提起をいただきました。

 確かにそういう面は多分にあると思います。

 我々凡夫は、執着の反応です。現世利益を求めるのは、紛うことなき執着の反応ですし、現実逃避も、困難な状況の中でなんとか自分を守ろうとする我執の反応です。そういった、執着心におもねてつけこもうとする「仏教」は、非常に多いと感じます。

 ただ、ちょっとややこしい言い方になりますが、発心や精進も、実は執着心と根本では同じものではないかと思っています。それらはどれも、生物すべてに共通な、なんとか生き延びようとする「もがき足掻き反応」の発展したものです。執着は、うまく狡猾に生きようとする反応であり、それに対して発心は、<執着は短期的に利益をもたらしても長期的にはかえって苦を生んでいることに気づいてさらによい生き方を求める反応>だと思います。精進は、その「さらによい生き方」を求めて、もがき足掻き、努力することです。執着が昇華して、発心・精進に変わると言っても良いかもしれません。

 執着は利得を求め、精進はよりよい生き方を求める。求める対象は違っても、基本構造は同じです。そのため、kataさんのおっしゃるとおり、当の本人には区別がつきにくく、精進のつもりでいるが、実態は執着の反応ということがままあります。例えば、善行が実は世間体のためだったり、教団内部の地位のためだったり・・・。激しい修行が、自己肯定・優越感のためだったり・・・。
 他人の眼にはそれがはっきりと見えることもありますが、自分ではなかなか気づくことはできない。それぞれが自分で反省し、気をつけるしかないのかもしれません。

 次に、現実生活、まともな生活と仏教についてですが、まともな現実生活を完成してから仏教を、というのは、ちょっと違うのではないかなと思います。我々の頭はぼうぼうと燃えていて、刻々と死につつあります。生きるとは着々と死を完成していくこと。つい先日、古い友人が交通事故でなくなり、葬儀に参列しました。我々は縁起の現象です。いつ何があるか分からない。

 生きることの根本的矛盾、有限性、無意味さに気づいてしまえば、まともな現実生活を「健康」に持続することは困難です。仕事や遊びに必死にのめりこんで問題から逃避し、時々問題に向き合ってもがき足掻く。つまり、現実から逃避するために「宗教」にのめりこむ場合もあるけれど、反対に、宗教的な問いから眼をそむけるために現実生活に逃避することもあるのではないでしょうか。私には、ほとんどの人の人生は、根本的な問題に視野の隅で気づきながら、それを見ないように仕事や遊びに適度に没入し、そういう気散じを続けて、時に問題に直面させられてもがき足掻き、そんなふうに右往左往しながら問題をごまかし先送りにして、遂に死を完成して終わるのだ、とも思えます。

 そう考えると、出家というのは、雑用を離れて修行に集中できる環境に入るというよりも、雑事に逃避できない、問題に四六時中直面せざるを得ない状況に入るということかもしれません。そうであれば、出家には大いに意味がありそうですが、問題は、信頼のできる出家先はどこなのか、という点です。以前メールのお相手をしていただいた Pannyadhikaさんという方が、2005年の1月からビルマに行っておられて、そろそろ一時的に帰国される時期かもしれません。現地の事情も機会があれば聞いておきます。

 出家というものが、もし問題から逃げずに向き合い続けるための方便だとしたら、その努力は世俗の生活を続けながらでもある程度はできるのではないかと思います。当面は、世俗の雑事にも「仏教」にも逃避せず、問題に取り組み続ける努力を続けたいと思います。

 それから、ここから先は余談ですが、「解脱という状態・主客未分の状態」と書いておられますが、私は、解脱も主客未分も、梵我一如的考えであり、釈尊のお考えにそぐわないと考えています。一種の変性意識体験に過ぎず、一時的なものであり、再び主客が対生成すれば元の木阿弥です。
 自分自身が、そのつどそのつど縁によって起こされる無常にして無我なる反応であることを、「あぁ、なんだ、そうだった、私は確かに無常=無我=縁起であった。であるのに、守るべき自分があると思い込み、苦を生む反応を繰り返してきた。なんと愚かであったことか」と腑に落ちて納得する。それが覚りだと思います。そのためには、おっしゃるとおり理論的学習だけでは不十分で、(理論的学習が不要とか、無益という意味ではなく、しっかりと学習・理解した上で、それに加えて)、自分の身において無常=無我=縁起を検証・確認する必要があると考えています。ヴィパッサナーもそのための方法だろうと思います。

 またご意見お聞かせください。
                           敬具
kata様
        2007,5,3,             曽我逸郎
 

 

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