自然さん プッタタート比丘は輪廻転生をどう説いているか? 2006,11,17,

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曽我逸郎様

8月21日のkunioさんのメールに関して、タイ仏教書翻訳家として言わせてください。

人は無から生まれて現在があり、死後は無に還るというのは仏法から見ると誤りです。輪廻転生に関して言えば、あるというのもないというのも正しくないと思います。
このことに関して、タムマタート パーニット(プッタタートの弟。俗人)の著書から紹介します。大悟した日の前夜のことです。

「 初更には、これまでの経過を順に逆行して考えた。難行苦行をしたこと、宮殿をでたこと、老人や病人、死人を見たこと、宮殿での幸福な生活、前世でヴェッサンダラとして生きたこと等々を。
 中更には原因が結果を生み、結果がまた原因になるというように、鎖のように次々に連なって生じてくるという因縁生起について次のように考えた。
    老いて死ぬことの原因は何か。   誕生である。(生)
    生まれることの原因は何か。    生存である。(界)
    生存の原因は何か。        執着である。(集)
    執着の原因は何か。        欲である。
 そして最終的な原因まで遡及し、真実である状態を明確に見られないこと、つまり無明に行きついた。」
死ぬことの原因が誕生であることは誰でも認めるでしょう。生まれることの原因が生存というのは、前回の生のことです。前回の生、つまり(無明で生きた)前世があったから生まれてきたのです。もし前世で無明でなくなっていれば、真実の状態が明確に見られる阿羅漢になっていれば、現世には生まれてきません。輪廻転生の輪が断ち切られ、二度と生まれることはありません。
しかし人間を含む生きとし生きるものは欲望や執着で行動(考えも含む)しているので、界(心の住む世界という意味)を生み、次の世に生まれる原因を作っているのです。

簡単に言えば、前世で欲望や執着で生きたことが、この世に生まれてきた原因です。欲望や執着は苦の原因でもあるので、この世に生まれて来た人はみんな、何らかの苦があるのです。この世に苦しみの無い人が一人もいないのは、苦の原因を作らなかった人は生まれてこない決まりになっているからです。
人が生まれながらにして考えも感じ方も境遇も違うのは、何千回もの世でみんな違う原因を作ったことが、複雑な差異を生むからです。
ですから輪廻転生は一般の人にはあります。しかし阿羅漢といわれるすべての真実が見える人にはありません。阿羅漢の死はすべての輪廻が終わることを意味します。

この人にはあってこの人にはない、というのは法則とは言えません。
その意味から言えば、プッタタートが言っているように、輪廻転生はない、あるのは因果律だけだ、となるわけです。

死後はすべてが消滅するという考え方は、真実を見えなくするばかりでなく、社会を荒廃させる原因になります。死んで消滅するのは肉体で、作ったまま結果の現れていない原因は残っています。その結果を受け取るためにまた生まれてきます。(誤解しないでいただきたいのは、死後も残っているのは魂ではありません。作られたまま結果のでていない原因です)
だから現世だけ見ていると理不尽な出来事がたくさんあります。原因がないのに結果があったり、原因だけで結果がなかったり。
しかし、因果律は法則ですから、理不尽などということは存在しません。

このことを理解するためには、他人の生涯、できるだけ身近でよく生き様を知っている人をみると良いでしょう。何度生まれ変わっても性分というのは変わらないものですから、同じような生を繰り返すので、晩年と幼年期が繋がることが多いのです。
子供のころ極貧だった人は成長して豊かになると放蕩、無駄遣いをします。
子供のころ虐げられた人は、自分が強い立場になると誰かを虐げます。
子供のころ愛された人は、親になると我が子を慈しみます。
誰かの詩のようですが、人は同じことを繰り返すからです。しかし子供のころの負の経験から学んで、同じことを繰り返さない人もいます。
俗人にとって人生は今回限りではないということを観察し、検証してみてください。

自然

 

曽我から 自然さんへ  2006,11,18,

拝啓

 メールありがとうございます。

 階空さんのメールに関連して頂いたご意見の中に、「解脱というのは煩悩や欲望の世界である俗世から(心が)脱け出すこと」という表現がありました。まずそれについて少し私の思うとことを述べます。

 解脱を「心がなにか汚れから脱け出すこと」と定義するのは、梵我一如的であり、誤解を生じやすい言い方だと思っています。

 勿論、自然さんはそういうつもりでおっしゃっているのではなく、単なる表現の綾であろうと思います。ですから、これは、本当は自然さんにではなく、ホームページを読んで下さる方にむけて書いています。

 「心がなにか汚れから脱け出す」と考えるのは、「何か心というものが空間の内にある」と考え、さらには「それは本来清浄で良きもの」と考えることであり、実体論、梵我一如的発想にたやすく陥りかねない、と危惧します。実際、「仏教」の歴史では、そういう種類の「仏教」がどんどん増えていきました。それは、プッタタート比丘に倣って言うと、釈尊の教えを蚕食する「腫瘍」です。
 「解脱」という言葉自体が既に、「なにかがあって、それが悪しき状況を抜け出す」というニュアンスを含んでおり、問題含みだと考えます。

 そうではなく、もともとの釈尊の教えは、「私たちは縁によって起こる現象であるのだが、その反応パターンはありのままでは執着のパターンとなっており、その結果、自分と周囲を苦しめている。無常=無我=縁起をしっかりと見極め、惜しむべき何ものもないと納得せよ。そうすれば、執着の反応パターンは消え、慈悲の反応パターンが働き出す」ということだと思います。

 ですから、「解脱」よりは、「覚り」という表現の方がマシかとも感じますが、「覚り」にしても、「なにか覚る主体があらかじめある」と感じさせるなら、五十歩百歩です。あらかじめ有る主体を前提としない動詞、例えば「起こる」とか「発生する」といった、動詞によって主語が喚起されるような動詞によって、「解脱」や「覚り」という言葉で言わんとすることが表せればいいのでしょうが、未だそういう動詞には思い至りません。

 次に、ここからはHPに掲載しませんが、輪廻転生についてです。どうかご気分を害されず、考えてみていただければ幸甚です。その結果、私を論破していただければ、ありがたいです。(自然さんにご連絡して、やっぱり掲載することにしました。)

 ご存知のとおり、私は、「輪廻転生は無常=無我=縁起に矛盾する」と考えています。反対の意見の方々からもたくさんの意見を頂き、様々に議論してきました。しかしながら、残念なことに、私の考えを改めさせてくれるような説得力のある主張には未だに出会うことができません。(HP参照ください。)
 経典の一部に輪廻転生が言及されていることは、私も認めます。しかし、それを無常=無我=縁起と矛盾なく一体化することは私にはできません。輪廻転生があると主張する人々は、「今に伝えられている経典に記載されているから」という理由でなんとかつじつまを合わせようとしていますが、成功していません。理解に苦しむ主張ばかりです。

 自然さんのおっしゃっていることは、「阿羅漢になれば輪廻転生しないが、凡夫の内は輪廻転生する」ということで、申し訳ありませんが、極々一般的な輪廻転生肯定論です。

>俗人にとって人生は今回限りではないということを観察し、検証してみてください。
 一体どのようにして?
>死んで消滅するのは肉体で、作ったまま結果の現れていない原因は残っています。その結果を受け取るためにまた生まれてきます。(誤解しないでいただきたいのは、死後も残っているのは魂ではありません。作られたまま結果のでていない原因です)
 我々は、そのつどの縁によるそのつどの反応であり、反応のたびに様々な縁を撒き散らしています。周囲にも、その後に起こる自分という反応にも縁は及ぶ。例えば、誰かを傷つければ、その結果、その人にも自分にもなんらかの影響が出る。そのことに異論はありません。私もそう考えます。

 しかし、死んだ後、残した縁(原因)の結果を受け取るためにまた生まれてくる、とおっしゃるのは、どのようなメカニズムによるのでしょうか? 「作られたまま結果のでていない原因」は、どのようにしてしばらく保存されるのか? 「死後も残っているのは魂ではありません」とおっしゃるのは、無我の教えに抵触しないように、との予防線でしょうけれど、では原因はどのようにして人を生み出すのか? 原因を作った人とその結果を受け取る人は、同じ人なのか、別の人なのか?

 ちょっと考えても、輪廻転生説は、このような関わるに値しない疑問に満ちています。「仏教」から輪廻転生(と梵我一如)に関わる概念を一切抜き去ってみれば、釈尊の教えのシンプル明快にして奥深いことが見えてくると思います。輪廻転生説は、「仏教」に巣食う「腫瘍」のひとつだと思います。

 失礼な物言いに聞こえたかもしれませんが、そういうつもりはありません。みんなで釈尊の教えを模索したいとの思いからです。どうかご寛恕ください。

                          敬具
自然様
    2006,11,18,              曽我逸郎
 

自然さんから  2006,11,19,

曽我逸郎様

メールありがとうございます。それに関して少し説明します。

心が俗世から抜け出すという「俗世」または「世俗」に、穢れたという意味はありません。真実を知らない「愚かさ」を「俗」と言います。プッタタートの「ハンドブック フォー マンカインド」(このタイトルも原語の意味を掬いきれてないので、原語で「クー ムー マヌット」と呼びますが)の最終章の一つ前の章は、「世俗から抜け出す」あるいは「俗世から解脱する」です。[心」がどのように「世俗」あるいは「俗世」から「抜け出す」「解脱する」のかが具体的に解説されています。最終章は「まとめ」ですから一つ前のこの章が、この本の中でも仏教の中でももっとも重要な部分です。

「心というものが空間の内にあると考えているのではないか」というご指摘ですが、「心」とはものではなく、五蘊から身体である「色蘊」を除いた残りの四蘊の働きを言います。

それから、無常=無我=縁起というのはちょっと理解できません。
無常と無我はこの世のありのままの状態「三相」のうちの2項で、これに「苦(すべてのものは現状を維持できないということが解ると、何を見ても苦を感じるということ)」が加わればこの世を正しく見た状態三相です。
これと「因→縁→果」の縁起がどうして=なのでしょう。

「私たちは縁によって起こる現象であるのだが」とおっしゃっていますが、それは大乗の考え方でしょうか。
タイ語にも「縁」という言葉はありますが、仏法でいう「縁」とは「原因に作用して結果をもたらすもの」と認識しています。
大乗の言葉しかない日本語でブッダの世界を話すには、それぞれの言葉の定義を確認し合わないといけないのかもしれません。
「釈尊」という呼び方も大乗的で、4月8日生に生まれ、生まれてすぐに立ち上がり三歩(10歩?)歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説の方ではありませんか。
あまり呼び方にこだわるつもりはありませんが、大乗(伝説的神格的人物)と区別するためにブッダと呼んだほうが良いと思いますがいかがでしょうか。
私も初期に訳したものは、何も考えずにブッダ=釈迦、釈尊と訳していましたが、いまは大乗と区別を明らかにするためブッダと呼んでいます。

曽我さんは『「輪廻転生は無常=無我=縁起に矛盾する」と考えて』いらっしゃいます。
「考え」は行蘊であり、実体がなく、つねに変わるものですから、「考え」を議論するつもりはありません。仏教者(祭り拝む仏教徒ではなく、タンマを実践するものという意味)は議論を好みませんし。
しかし心で「観た」ことはふさわしい機会に発言したいと心掛けています。

ブッダの教え、あるいは仏法、タンマ、ダルマ、どれも同じですが、それを検証する方法は、一部でも全部でも同じです。智慧を生じさせ、心眼をもつことです。正確にはプッタタートの「 クー ムー マヌット 」の原書かできるだけ忠実な訳を読まれるのがいいのですが、簡単に言えば、この世のあらゆる物事に「無常」「苦」「無我」の三相を観ることです。この三つが見えれば執着や欲望が減っていきます。執着や欲望が減ればその分だけ心が鎮まり、集中します。心が集中すれば真実を観る智慧がより研ぎ澄まされます。これを繰り返していくことです。
「考え」たのでは何も解りませんし、考えて分かったことを仏教では分かったといいません。どうぞご自分の「考え」を離れて「観」るよう努めてください。

ブッダの教えは「論」ではありません。良いと思われないなら何も申しませんが、良いと思われるなら、議論するより、実践すること、いろんなものの本当の姿、つまり三相ですが、いろなもの(考えも含めて)に無常と苦と無我を観ることをお勧めします。

自然

 

曽我から 自然さんへ  2006,11,20,

拝啓

 メールありがとうございます。

 うーん、どう申し上げればいいか、怒らないで聞いていただきたいのですが・・・

 自然さんがおっしゃっていることは、既に何人もの方からお聞きしています。凡夫は輪廻転生する、という主張。考えてはいけない(実践せよ)、という主張。後者については、これまでは大乗系の方がほとんどでしたが、、、。

 心に関しては、おそらく考えていることはそう違わないと思います。ただ、私の言いたかったことは、「心が何かを脱け出す」という言い方は、分かりやすく、イメージしやすいが故に、読んだ人は「心というものがある」という実体論的な誤解をしてしまう恐れが高いので、できる限り避けたほうがよい、という点です。更には、心という単語も、アッタンの代用になる可能性があるので、警戒すべきだと考えています。

 輪廻転生と思考については、たくさんの方々と「議論」を致しました。ただ念のため申し添えますと、私は、議論や思考だけで釈尊の教えが納得できるなどとは思っておりません。勿論、一所懸命に考え検討することなしに、釈尊の教えを学ぶことができるとも思いませんが・・・。経典をはじめとする文献から学ぶこと。他の人の見解から学ぶこと。自分自身で考え、掘り下げること。さらに自分自身において学んだことを観察し確かめ自分のこととして腑に落ちて納得すること。要は、できることはなんでもありの総力戦の努力が必要だと思っています。このところ世俗の用事にかまけて、偉そうに言えるほどの努力はできておりませんが、、、。
 (思考や検討の重要性に言及するパーリ経典で、私が気づいたものを 04,10,9, の高橋哲夫さんとの意見交換に列挙しています。)

 本当はこんな断片的なメールではなく、体系的に私の考えをお伝えしなければならないのでしょうが、そのゆとりがありません。HPの「総括:現時点の私の仏教理解」に概略をまとめています。そこでは論点毎に関連する意見交換や小論にリンクを張っていますので、疑念を感じられた部分は、そちらにも目を通していただければ幸いです。

 ともあれ、輪廻転生と思考・検討については、私なりに今一応の判断を持っています。そして、誰かのご指摘でそれが揺すぶられ粉砕されて、その結果、より深い理解に行き着くことを願ってもいます。上記を見ていただいた上で、またご意見・ご批判をお聞かせ頂ければ幸甚です。

                           敬具
自然様
    2006,11,20,              曽我逸郎
 

自然さんから  2006,11,25,

曽我逸郎様

輪廻転生と因果律に関してプッタタートの著書や法話の中から関連する部分をご紹介します。

「古いカルマを解消することに関して、まったく知らない人もあれば、間違って知っている人もいます。カルマに関しては非常に多くの誤解があります。しかしブッダは、幸不幸は古いカルマの結果ではないと言っています。幸不幸は古いカルマの結果ではなく、因果律に対して正しい行為、間違った行為であると。因果律に対して間違った行為ならば、今ここで苦があります。因果律に対して正しい行為ならば、今ここで苦はありません。たとえ古いカルマが本当に出るなら出るにまかせ、因果律で受け止めましょう。いつでも因果律に対して正しい行為にしましょう。何らかの感情が、目、耳、鼻、舌、体、心を通してあるとき触があり、触と一緒に英知があり明があれば、苦はありません。たとえ古いカルマがあっても苦しむことにはなりません。
 この問題は何でもかんでも古いカルマだとして、カルマに降参しているように見えます。しかしブッダは古いカルマの所為だとは言っていません。幸不幸は古いカルマの結果ではない。今現在の因果律に対して正しい行為、間違った行為の結果であると言っています。古いカルマの力の及ばないような行動をすれば、古いカルマが手出しできない生き方ができます。あるのは良いカルマ、より良くなっていくカルマだけ。このような行為が素晴らしいのです。」
以上の文章は「正しい生き方」と題された法話の一部です。輪廻転生という言葉は出てきませんが、「古いカルマ」という言葉は通常過去世でのカルマという意味です。ここでは古くても新しくても良いのですが、カルマがあると言っています。
カルマという語には当然次の五種類のカルマが含まれます。
  サッカサルマ(所有業)自分のもっている業
  タヤターカルマ(帰着業)結果をもたらす業
  ヨーニカルマ(帯同業)連れて生まれる業
  パントゥカルマ(愛憎業)愛着で結ぶ業。両親などを選ぶ業のこと。
  パティサラナカルマ(資産業)寄る辺としての業
この中のヨーニカルマとパントゥカルマは誕生に関してですから前世からの古い業でなければならないことになります。

もうひとつ、曽我さんのおっしゃる「12縁起」とは向こうで言う「因縁生起」ではないかと思うのですが、相違点があるかどうかご確認ください。
これは直接ブッダの言葉を引用します。パーリー語経典の中からプッタタートが選び出し翻訳した「ブッダの言葉によるブッダの生涯」大悟前夜の場面、つまり因縁生起に関する言葉です。

「僧たちよ。私がまだ悟る前、ボーディサッタであったとき、次のような感情が生じた。あまねくこの世の生き物は苦である。生まれ老い死んで、また生まれなければならない。この世の生き物が苦、つまり老死から解脱する方法を知らなければ、どうして老死の苦から解脱できようと。
僧たちよ。私に次のような疑問が生じた。何があって老と死があるのだろう。何が老死の要因なのだろうと。
僧たちよ。的確な思索の結果、私に次のような智慧による思いが生じた。
生があるから老死があるのだ。生が要因としてあるから老死があるのだと。
界があるから生がある。生があるのは界が要因としてあるからである。
煩悩があるから界がある。界があるのは煩悩が要因としてあるからである。
欲があるから煩悩がある。煩悩があるのは欲が要因としてあるからである。
受があるから欲がある。欲があるのは受が要因としてあるからである。
触があるから受がある。受があるのは触が要因としてあるからである。
六処があるから触がある。触があるのは六処が要因としてあるからである。
名色があるから六処がある。六処があるのは名色が要因としてあるからである。
識があるから名色がある。名色があるのは識が要因としてあるからである。
行があるから識がある。識があるのは行が要因としてあるからである。
無明があるから行がある。行があるのは無明が要因としてあるからである。

行蘊があるのは無明があるからで、無明が要因となって行蘊が生じる。行蘊が要因となって識蘊が生じる。識蘊が要因となって名色が生じる。名色が要因となって六処が生じる。六処が要因となって触が生じる。触が要因となって受蘊が生じる。受蘊が要因となって欲が生じる。欲が要因となって煩悩が生じる。煩悩が要因となって界が生じる。界が要因となって生が生じる。生が要因になって老死、悲しみ、苦等が生じる。あらゆる苦悩はこのように生じるのであると。
僧たちよ。苦はこのように生じる、苦はこのように生じるという、今まで私が聞いたことのない眼、見識、明、光明が生じた」(タマサスートラ、ブッダ部)

つまり初めの因は無明(1)真実を知らないことが因で行蘊(2)を生じ、行蘊が因となって識(3)受胎の初一念を生じ、識が因となって名色(4)胎内で心身が発育することを生じ、名色が因となって六処(5)眼、耳、鼻、舌、身、意が備わり、六処が因となって触(6)触れるだけで識別できないことが生じ、触が因となって受(7)識別が生じ、受が因となって欲(8)が生じ、欲が因となって取(9)執着が生じ、取が因となって界(10)(または有、生存)が生じ、界が因となって生(11)再び生まれることが生じ、生が因となって老死(12)が生じるということです。

1から2までが一つの生、3から10までが二つめの生、11と12が三つめの生です。界または有というのはごく簡単にいえば生き方、生きよう、生きる態度というような意味です。いろんな生き方が11の次の生の因になります。パーリー語経典の中からプッタタートが選んだブッダの言葉には、生と死が繰り返されることが語られています。

「12縁起」とただの「縁起」は同じなのですか。違うのですか。

「因果律」とは原因があって結果がある、原因がなければ結果もない、という法則ですが、結果を幸か不幸かという捉え方をすれば(この場合の幸というのは日本語の意味するような大それた幸福ではなく、嬉しい、ハッピーといった意味であり、不幸というのも、苦痛という意味ですが)感情としての結果は行為と同時に結果があります。
行為者の感情または受け止めかたとは別に、原因に要因あるいは縁が作用して結果をもたらす時間を経た因果もあります。原因とは意、口、身による行為で、農耕に例えれば種を蒔くのが原因で、収穫が結果、日照や降雨などが縁です。原因があって縁があれば結果があり、原因があっても縁がなければ結果はなく、縁だけあって原因がなくても結果はない。
同じ原因でも作用する縁または要因が違えば結果は同じではありません。

縁に当たるタイ語のパッチャイは、要因、誘引といった普通の語句で、「縁」のような仏教用語ではありません。

「縁起」と「因果律」は違いますか。

 

曽我から 自然さんへ  2006,11,26,

前略

 輪廻転生がパーリ経典におびただしく登場することは存じ上げております。たとえば、中部4恐怖経とか。
 ですが、私には、輪廻転生と無常=無我=縁起とを矛盾なく一体化することができないし、無常=無我=縁起こそが釈尊の教えだと考えているので、輪廻転生説は「仏教」のなかに忍び込み蔓延った腫瘍だと思っています。

・・・・・
 まず、十二支縁起について。
 ご紹介くださった十二支縁起の解釈は、説一切有部が主張した三世両重の縁起といわれるものですね。三世両重はひとつの解釈法に過ぎません。プッタタート比丘が、十二支縁起を説いたからといって、三世両重として理解していたことにはならないと思います。もし、プッタタート比丘が三世両重説で十二支縁起を解説している資料があれば、ご紹介ください。

 私は、縁起(=無常=無我)という考えは極めて斬新かつ深い洞察だと思いますが、十二支縁起という定式化され限定された説は、あまり重視していません。もっと言うと、十二支縁起における識の位置は早すぎる、「あらかじめ識があって、それが感受する」という我論的傾向が既に現れている、と考えています。

 この点で、パーリ中部第38大愛尽経は、興味深い経典です。

 まず、サーティという比丘の邪見が語られます。サーティ比丘は、「識は語るもの、感受するものであり、それぞれの処においてもろもろの善悪業の果報を受けるものです。識は流転し、輪廻し、同一不変である。そのように世尊は説かれた」と主張します。彼にとっては、識はあらかじめ存在するもの、アッタン(我、アートマン)の代用品であり、輪廻転生の主体である訳です。
 それに対して釈尊は、「愚人よ、私は多くの根拠をもって、縁より生じる識について述べてきたではありませんか。<縁がなければ、識の生起はない>」と厳しく叱責されます。

 次の段ではこのように説かれます。
 「眼(耳、鼻、舌、身、意)ともろもろの色(声、香、味、触、法)とによって識が生起すれば、それは眼(耳、鼻、舌、身、意)識と呼ばれます。」
 つまり、感覚器官とその対象とを縁にして識は生まれる、と説いています。

 さらにその次の次の段では、一般的な十二支縁起が説かれますが、ここでは前述のとおり識が名色や六処の前に位置づけられており、「先に識あり」の構図で、そこまでの段と一致しません。
 一方、この段では、「過去生や未来の生を問うか」と釈尊に尋ねられて、比丘たちが「いいえ、尊師よ」と答えています。
 さらに、「受胎は、三者、すなわち、母と父との交合、母の月経、ガンダッパ(子宮の中の産地?)の和合によって起こる」という極めて医学的(唯物論的?)な記述があります。ここには、「行」とか「界」とかあるいは過去生の業とか因縁とかが要因となって生まれてくる、とは書かれていません。

 以上のとおり、この経には、識が縁起してくる順序について内部矛盾があるものの、十二支縁起以外の部分は、私の考えに近く、私を勇気付けてくれるものです。勿論以上に尽きるものではありませんので、ご興味ありましたらご一読頂ければ幸甚です。片山一良訳 大蔵出版(ASIN: 4804312021)は、ビルマ第6結集版を定本としていますので、自然さんにもなじみやすいのではないかと思います。上記の要約も、これによっています。

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 プッタタート比丘の「正しい生き方」というのは読んでおりませんが、私の読んだものの中では、以下のように言っておられます。(私のHPの小論「タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘」を参照ください。)

> 「この言葉、サンサーラは、ひとつの色身が別の色身の後に続く終わりのないサイクルとして受け取られてはならない。本当は、三つの事の悪しき円環のことを言っている。すなわち、欲、欲に伴う業、業から結果する果報、欲を止められずもう一度欲を抱き、業、また別の果報、欲の更なる増大、、、こうしてどこまでも続く。」(Handbook for Mankind の第3章 THREE UNIVERSAL CHARACTERISTICS)

> 「行為(業)せんとする欲望は、行動を起こさせ、行動の果報を受けさせる。そして、行為せんとする欲望は繰り返し終わりなく起ってくる。だから、生とは業(カンマ)のパターンに過ぎない。正しく業を理解する事ができれば、生を平安へ、障害も苦もないあり方へ導くことができる。」(Kamma in Buddhism)

> 「再生は行為(業)をするたびに起こり、その再生は、行為(業)の瞬間に自動的に起こる。世間で一般に考えられているように死後にやってくる再生(生まれ変わり)を待つ必要はない。人が考え行動する時、心は、欲望と執着の力によって自動的に変化し、縁起の法則に従ってすぐさま生まれることになる。再生するために肉体の死を待つ必要はない。この真理は、仏教の真の教えとして、(すなわち)生まれ変わるべき我(attA)は無いと説く本来の初期仏教の核心の原理として、認識されねばならない。死後の再生という考えがどのようにして仏教に忍び込んだのか、説明することはむずかしいし、我々はそんなことに拘らう必要はない。」(Kamma in Buddhism)

 プッタタート比丘は、そのつどそのつど縁によって起こる私の起こり様が次の私の起こり様の縁となる、それが業によるサンサーラだと言っている、と考えます。色身の死後の輪廻転生は否定されていると思いますが、如何でしょうか?

 それから、ヨーニカルマとかパントゥカルマとかいうものを、プッタタート比丘が肯定的に述べている資料があれば教えてください。私自身は、そういった概念は、「仏教」のなかに忍び込んだ腫瘍だと感じます。

 ただし、プッタタート比丘であれ、誰であれ、誰かの説はすべて正しく、すべて無批判に受け入れよう、と考えているわけではありません。勿論釈尊は別ですが、残念ながら、釈尊の教えはひどくおぼろになってしまっています。タイムマシンに乗って釈尊から直接教えを聞くのでもなければ、どのような権威であれ、プッタタート比丘であれ、自分なりに吟味する必要があると考えます。勿論私の考えは浅い考えですが、そういう努力を続けることで、少しずつ深まっていけるし、釈尊のお考えにゆっくりとでもにじり寄って行ける、それしか方法がない、と考えています。

・・・・・
 縁は、パーリ語では、pacchaya です。タイ語と似ていますね。日本語でも、「縁」は日常で普通の使われ方もされているかと思います。

 難しく言い出せばいろいろあるのでしょうが、私は、縁とは、現象を起こす原因・条件として広く考えています。縁起とは、縁によって引き起こされること、を意味します。すなわち、現象であること、と同義です。もともとあらかじめ実体的に存在したわけではありませんから、無我です。そのつどそのつど縁によって起こされ、持続的に存在するわけではありませんので、無常でもあります。
 無常=無我=縁起は、なんであれ当てはまりますが、特に自分自身がそうであることを見て納得することが大切です。その時その時の縁で、怒ったり、発心したり、眠たくなったり、腹が減ったり、痒くなったり、照れたり、次々といろいろと脈絡のない(無常な)反応となる。私(我)があってそれが反応するのではなく(無我)、そういう縁によって引き起こされる反応が私だということです。それによって、執着の対象などなかったと気づく。ないものに執着して苦を作ってきた、なんと愚かだったことかと気づく。惜しむべき何ものもないと腑に落ちる。

 因果律というのは、おっしゃるとおり原因と結果の法則ということでしょう。縁起も、おおよそ似通ったことかもしれませんが、私の感じ方では、縁は多くのものが複雑に関わりあっており、カオス的で、簡単に単純な規則性を見出せるものではないと思っています。例えば、悪行が発心の縁になる場合もありますから。それに、無我や無常と本質的に連結している点で、縁起は、単なる因果律よりもずっと深い言葉だと思っています。

・・・・・
 前にお尋ねしたこと、

 一体どのようにして、人生は今回限りではないということを観察し、検証してみるのでしょうか?
 死んだ後、残した縁(原因)の結果を受け取るためにまた生まれてくる、とおっしゃるのは、どのようなメカニズムによるのでしょうか? 「作られたまま結果のでていない原因」は、どのようにしてしばらく保存されるのか? 「死後も残っているのは魂ではありません」とおっしゃるのは、無我の教えに抵触しないように、との予防線でしょうけれど、では残された原因はどのようにして人を生み出すのか? 原因を作った人とその結果を受け取る人は、同じ人なのか、別の人なのか?

 是非とも教えて頂きたく。

 ずいぶん意地悪な質問ですね。しかし、プッタタート比丘は、"Essential points of Buddhist teachings" の冒頭に近い部分で、次のように言っておられます。このことを考えていただきたいのです。

> 「釈尊は、苦の滅尽につながらないことにかかわり合うことを拒絶されました。転生 rebirth があるかないかという問を取り上げましょう。何が転生するのか? どのように転生するのか? 相続する業はなにか?( 業とは身、口、意による意識的行為です。kamma-is volitional action by means of body, speech or mind )このような問は、苦の滅尽を目指していません。そうであるなら、これらは仏教の教えではないし、仏教に関わりはありません。仏教の世界にはないのです。それにまた、このような事柄を尋ねる人は、与えられた答えを見境なく信じるしかありません。何故なら、答える人はいかなる証明もできず、ただ記憶と感覚を頼りにしゃべっているからです。聞き手は自分自身で確かめることはできないし、相手の言葉を盲目的に信じなければなりません。徐々に問題は法から迷い出て、苦の滅尽とは関係のない何かすっかり別のものになってしまいます。」
                             草々
自然さま
    2006,11,26,                曽我逸郎
 

自然さんから  2006,11,29,

曽我逸郎様

メールありがとうございました。
いまスアンモーク系の方の法話の翻訳の仕事を頼まれているので長いメールを書いている時間がありません。

ただ気になることは、あなたはご「自分の」考えを非常に強く捉えていらっしゃって、新しい考えや知識に出合うと、ご「自分の」(古い)考えと合っているかどうかが最大のご関心のように見うけられます。
自分の考えに合っている権威あるものを探し、自分の考えを高く評価なさりたい、それが目的なのでしょうか。

仏教の道はヒマラヤのような山に螺旋状に作られた登山道のようなものなので、高さや方向によって見えるものが違うのは仕方ないのです。
人の数だけ、理解している仏教の数はあるのかもしれません。
しかし頂に近付くほど違いは少なくなります。
そして遅いか早いかはあってもいずれ同じ頂に到着します。

自然

再び自然さんから  2006,11,30,

曽我逸郎様

昨日のメールは言葉を選ぶ配慮とサティに欠けていました。
適切な表現でなかったことをお詫びします。

要は、考えを自分のものと強く捉え、また考えに囚われている自分が見えますか、ということです。
自分の考えと違うものを許せないと感じ、攻撃したいと思われるなら、強く捉え過ぎです。
強く捉えすぎれば次々と怒りの感情が生じます。

お互いに仏教者の美徳である「穏やかさ(冷静さ)と明るさと智慧」を生じさせるよう努めていきましょう。

自然

 

曽我から 自然さんへ  2006,12,1,

前略

 書き方が悪かったようです。誤解を生んでしまいました。怒りの感情は微塵もありません。文章だけでやりとりすることの難しさを改めて感じます。

 私の方法について、説明をします。2004,3,25,の江口聖市さんとのやり取りなどでも書きましたが、私は、釈尊の教えを考えるにあたって、まず自分なりに内部に矛盾のない体系的な仮説をたてました。その上で、様々な本を読んだり、いろいろな意見を頂いたり、体験したことから、自分の仮説の弱点・問題点に気づき、新たな視点を教えられ、仮説を組み立てなおしてきました。幾度かポケモン・バトルに喩えましたが、自分の仮説と他の人の考えを、ぶつけ合わせ、こすり合わせて、どちらがしっかりしているか検証しつつ、仮説を「進化形」にさせ鍛え上げてきた訳です。

 自分と同じ考えの人との会話は、退屈です。違う考えの人とこそ話をしたい。そこから新しいヒントが頂けるからです。そのためには、ある程度突っ込んだところまで語り合わねばなりません。

 こういう交流試合を経て、私の考えは、ずいぶん変わってきました。初めは、梵我一如的傾向が強く、主客未分的な宗教体験を夢見ていました。今ではそういった考えを否定しています。
 また、例えばA・Hさんという方からは、「無我=縁起であれば、決定論に陥り、主体性は否定される」との鋭い問題提起を頂き、ずいぶん悪戦苦闘しました。釈尊の最期のお言葉は、「怠ることなく励みなさい」です。無我=縁起であるのに、なぜ努力が可能なのか? 一応の解決の方向性は出せたつもりですが、この問題はまだ私の中でくすぶり続けています。

 ともあれ、厳しく攻撃していただくことによって、私の理解は深まっていきます。鋭いパッシング・ショットや意表をついたロブでもっともっと攻めていただきたいと思います(マゾみたいな言い方・・)。そして、自然さんにもこの方法は有効かと思いますので、お勧めします。自分の考えの中の矛盾点や説得力の弱い部分を突き詰めていくのです。きっと成果があると思います。お試しあれ。

                       草々
自然様
    2006,12,1,           曽我逸郎
 

 

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